暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第3話 まっすぐ植えれば強い、たぶん

 

 塩水選という奇妙な儀式を終えてから、さらに幾日もの時が流れた。

 

 季節は歩みを進め、春の温もりは次第にその深さを増している。

 

 江戸城の奥深くにあっても、風が運んでくる空気には、冬の鋭い冷たさが消え去り、代わりにどこか湿り気を帯びた土の匂いが混じり始めていた。

 

 江戸近郊に位置する幕府の御料地では、田に水が引かれ、水面が春の陽光を反射してきらきらと輝いている。

 

 風が吹き抜けるたびに、独特の泥と青草の入り混じった、むせ返るような命の匂いが立ち上ってきた。

 

 俺は、土で汚れることもいとわず、何度もこの苗代へと足を運んでいた。

 

 足元には、先日いくつもの区画に分けて蒔いた種籾が、細く頼りないながらも青々とした芽を吹き出している。

 

「若君、ご報告申し上げます。こちらの『戊』の区画、幾度も丁寧に塩を洗い流した種籾の苗は、まこと見事に背丈が揃っております。一方で、洗いが足りなかった『己』の区画は、どうにも育ちが遅く、色が悪いものが目立ちますな」

 

 背後で、小栗半兵衛が几帳面な声で帳面を読み上げた。

 

 以前は「若君の気まぐれに付き合わされる退屈なお役目」とでも言いたげだった彼の瞳には、今や明確な熱が宿っている。

 

 彼が腕に抱える帳面には、日付、天候、水の量から苗の背丈に至るまで、びっしりと細かな文字が書き込まれていた。

 

「やはり、薄い塩水で選んだ『乙』と比べても、『戊』の揃い具合は群を抜いております。逆に、浮いた籾を集めた『丁』の区画は、芽が出たこと自体は僥倖なれど、やはり全体に貧弱でございます」

 

「ご苦労。半兵衛、その見立ての違いこそが肝要だ。忘れぬよう、しっかりと書き留めておけ」

 

 俺は鷹揚に頷いてみせたが、内心では手放しで喜べる心境ではなかった。

 

(塩水選による発芽の均一化。ここまでは概ね狙い通りだ。……だが、これだけで勝ったと思うのは早計すぎる)

 

 発芽段階で苗が揃ったからといって、秋に黄金色の稲穂が頭を垂れる保証などどこにもない。

 

 農作業における最初のチェックポイントを通過したに過ぎないのだ。

 

 ゲームの画面であれば、「農業スキル+1」「収穫量見込み上昇」などと親切なメッセージが表示されるところだろう。

 

 しかし現実は非情である。

 

 目の前にあるのは、どこまでも続く泥の海と、頼りない緑の線、そして半兵衛が書き込む墨の匂いだけだ。

 

「そろそろ、田植えの時期が参りますな」

 

 日焼けした顔に深い皺を刻んだ与平が、土の様子を見ながらぽつりと呟いた。

 

「うむ。いよいよ本番だな」

 

 俺が気を引き締めたその時、遠くから土埃を上げて近づいてくる一団があった。

 

 先触れの武士が駆け寄り、ひざまずいて大声を張り上げる。

 

「竹千代様、お成りでございます!」

 

 その声に、田にいた百姓たちの動きが一斉に止まり、次々と泥の中に平伏していった。

 

 俺もまた、慌てて居住まいを正す。

 

 大仰な行列というほどではないが、厳重な警護の武士たちに囲まれて、一人の少年が姿を現した。

 

 のちの三代将軍、徳川家光こと、竹千代。

 

 俺の実の兄である。

 

 先日、彼が「私にも見せよ」と言った約束を、律儀に果たしに来たのだ。

 

(周囲の空気が一気に張り詰めたな。……そりゃそうか。次期将軍候補の若君が、こんな泥まみれの現場に直接足を運ぶなんて、前代未聞だろうし)

 

 供回りの武士たちは、大切な若君の着物の裾が汚れないかと気が気でない様子で、周囲を警戒している。

 

 百姓たちは、雲の上の存在の登場に震え上がり、顔を上げることもできない。

 

 竹千代は、慣れない畦道を慎重な足取りで進み、俺の横に並んだ。

 

 彼は無言のまま、目の前に広がる水田を見渡した。

 

 城の奥深く、見事な襖絵と磨き上げられた廊下しか知らない彼にとって、この剥き出しの自然は異質そのものだろう。

 

 風に乗ってくる強烈な土の匂いに、微かに眉をひそめている。

 

「……ここが、田か」

 

 竹千代が、ぽつりとこぼした。

 

「はい。兄上」

 

「ここで、米が作られるのだな。私たちが毎日食しているものが、この泥の中から」

 

「その通りにございます。この泥と、百姓たちの汗こそが、徳川の……いや、兄上が治められる天下を根底から支えるものにございます」

 

 俺がはっきりとそう告げると、竹千代はしばらくの間、黙り込んだ。

 

 彼の中で、ただの「汚れた泥水」だった景色が、「天下の礎」という具体的な重みを持った景色へと変貌していくのを感じた。

 

     *

 

「さて、与平よ」

 

 俺は、平伏したままの百姓の長に声をかけた。

 

「は、ははっ!」

 

「此度の田植えだが、少しばかりやり方を変える。苗を、等間隔に、まっすぐ一直線に植えていくのだ」

 

 正条植え。

 

 俺が持ち出した次なる知識チートだ。

 

 現代の田んぼを見れば当たり前のように苗が綺麗に並んでいるが、この時代の田植えはそうではない。

 

 適当な間隔で、手の届く範囲に乱雑に植え付けていくのが一般的だった。

 

 俺の指示を聞いた与平は、恐る恐る顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべた。

 

「……まっすぐ、にございますか?」

 

「そうだ。縦横ともに、乱れなく線を引くように苗を並べる」

 

「恐れながら、国松様……」

 

 与平は、竹千代の御前であることを意識してか、言葉を極端に選びながら反論を試みた。

 

「田植えというものは、一刻も早く済ませるのが肝要にございます。泥の中でわざわざ列を揃えようなどと気を回していては、手元が狂い、時ばかりが過ぎてしまいまする。それに……」

 

「それに?」

 

「苗と苗の間を広く空けては、その分、田に植えられる苗の数が減ってしまいます。収穫が減ってしまうのではないかと、我ら百姓は恐ろしく存じます」

 

 周囲の百姓たちも、口にこそ出さないが、与平の言葉に深く同意しているようだった。

 

(なるほど。現場の意見としてはごもっともだ)

 

 俺は、準備していた理屈を並べ立てた。

 

「苗が混み合いすぎれば、互いに影を作り、根元まで陽の光が届かなくなる。風の通りも悪くなり、病が広がりやすくなるだろう。一定の間隔を保ち、まっすぐ並べれば、そうした患いを減らし、稲はより健やかに育つはずだ……たぶん」

 

 最後の一言が、どうしても弱気になってしまう。

 

 案の定、与平の額の皺がさらに深くなった。

 

「……たぶん、で、代々受け継いできた田の流儀を変えろと仰せでございますか」

 

 その声には、微かな怒りすら滲んでいた。

 

 現場の責任者として、若君の思いつきで今年の収穫をふいにするわけにはいかないという強い矜持だ。

 

 俺はすぐに身を乗り出し、彼の不安を断ち切るように言った。

 

「案ずるな。全ての田をそうしろとは言わん。前回と同じだ。この小さな一区画だけで試す。私のやり方が正しいか、それともお前たちのやり方が勝るか……また、田に教えてもらうだけだ」

 

 その言葉に、与平は大きなため息を一つこぼした。

 

「……若君様は、まこと田に教えを請うのがお好きでいらっしゃる。相分かり申した。お心のままに」

 

     *

 

 とはいえ、「まっすぐ植える」という行為は、口で言うほど簡単なものではなかった。

 

 俺は、あらかじめ用意させておいた長い縄と、等間隔に印をつけるための細い紐、そして縄を固定するための竹棒を取り出した。

 

「この縄を田の両端に張り渡し、目印の紐のところに苗を植えていくのだ」

 

 意気揚々と指示を出した俺だったが、実作業は開始早々から暗礁に乗り上げた。

 

「若君! 縄が泥を吸って沈んでしまいまする!」

 

「張ったつもりでも、真ん中あたりがたるんで、見事な弓なりになっておりますぞ!」

 

 百姓たちの悲鳴のような声が上がる。

 

 田に張られた縄は、泥水に触れた途端に重みを増し、見事にぐにゃりと曲がっていた。

 

 目印の紐も泥にまみれてしまい、どこに植えればいいのか全く見えない。

 

「ええい、ならば浮き代わりの木片を噛ませろ! もっと強く引っ張れ!」

 

 俺自身も裸足になり、袴の裾を高くまくり上げて泥田の中に足を踏み入れた。

 

「うわっ……冷たっ! そして、深っ!」

 

 現代の整備された水田とは違う。

 

 底の深さが均一ではなく、泥の粘度も場所によって全く異なるのだ。

 

 六歳の子供の体では、大人の膝下まである泥の海を歩くのは至難の業だった。

 

 縄を直そうと一歩踏み出した瞬間、ぐらりと足元が崩れた。

 

「あっ」

 

 バランスを崩し、俺の体が泥水に向かって傾く。

 

「国松、危ない!」

 

 畔に立っていた竹千代が、思わず声を張り上げた。

 

「だ、大丈夫です兄上! 天下の根に負けるわけには……おわっ!」

 

 踏ん張ろうとした足がさらに滑り、俺は無様な姿勢で泥の中に手をついてしまった。

 

 顔面からのダイブだけは免れたが、上等な小袖の袖口から泥水がべっとりと染み込んでいく。

 

「若君様!!」

 

 慌てて駆け寄ろうとする半兵衛や百姓たち。

 

 だが、その光景があまりにも滑稽だったのか、竹千代が口元を手で覆い、肩を小刻みに震わせているのが見えた。

 

(くそっ……! 江戸時代の田んぼ、足場が悪すぎる! 現代知識チートで無双する以前に、俺の体幹パラメータが圧倒的に足りてない!)

 

 俺は泥だらけの手を洗いながら、内心で悪態をついた。

 

     *

 

 どうにか縄を張り終え、今度は「苗の間隔」について激しい議論が巻き起こった。

 

「このくらいの間隔か? いや、これでは広すぎるか?」

 

 俺が泥に目印をつけながら悩んでいると、与平がたまらず口を挟んだ。

 

「若君様。そのように間を空けては、やはり田が寂しゅうございます。隙間だらけでは、米が獲れる気がいたしませぬ」

 

「だが、狭すぎれば正条に植える意味が薄れる」

 

「それに……」

 

 与平はさらに渋い顔をした。

 

「そのように苗の間に大きな隙間を作れば、そこから雑草がわんさと生い茂りましょう。草引きの手間が、かえって増えるのではございませぬか?」

 

 その指摘に、俺はハッとした。

 

(あ……確かに。日当たりが良くなるってことは、稲だけじゃなくて雑草にとっても絶好の環境になるってことか!)

 

 正条植えは、ただまっすぐ植えればいいというものではない。

 

 その後の除草作業を効率化するための農具――現代でいう田車など――とセットになって初めて真価を発揮する技術なのだ。

 

 今の俺には、そんな便利な道具を作る技術も時間もない。

 

(知識が中途半端すぎる。これだから付け焼き刃は怖いんだ)

 

 俺は内心の冷や汗を拭い、誤魔化すように咳払いをした。

 

「……草引きの手間が増えるやもしれぬというのは、誠に理にかなった懸念だ。ならば、間隔も比べることとしよう」

 

 俺は半兵衛に向かって指を鳴らした。

 

「半兵衛! 区画をさらに細かく分けよ。苗の間隔が広いもの、中くらいのもの、狭いもの。そして与平たちが普段通りに植えたもの。それぞれを記録しろ」

 

「はっ! 承知仕りました!」

 

 半兵衛はすでに筆を舐め、嬉々として帳面に線を引いている。

 

 与平は呆れ果てたように首を振った。

 

「若君様は、誠に田を疑ってかかるのがお好きですな。長年の百姓の勘よりも、ご自身の引いた線がお信じになられると?」

 

 俺は泥だらけの顔で、与平を真っ直ぐに見返した。

 

「いいや。人の浅知恵で凝り固まるより、この泥が、そして秋に実る稲穂が示す結果こそが何よりも誠であろう、と言っているのだ。私は自分の知恵すらも疑っている。だから、試すのだ」

 

 俺の言葉に、与平の皮肉めいた笑みがスッと消えた。

 

 そして、少し離れた場所に立つ竹千代もまた、俺の言葉を聞き逃さず、じっとこちらを見つめ込んでいた。

 

     *

 

 ようやく本格的な田植えが始まった。

 

 しかし、予想通りというべきか、作業の進み具合は絶望的なまでに遅かった。

 

 ただでさえ不安定な泥の中で、張られた縄の目印に合わせて一本一本苗を植え付けていく。

 

 普段の何倍も神経を使う作業に、百姓たちの間に苛立ちの空気が蔓延し始めた。

 

「これでは、いつまで経っても終わりませぬ」

 

「普段のやり方ならば、とうにあの畦の向こうまで進んでおりますぞ」

 

「目印ばかり気にして、腰が痛うてたまらんわ」

 

 若い百姓は珍しい作業を半ば面白がっていたが、熟練の年配者ほど不満の声を隠そうとしなかった。

 

 畔で線香の燃え具合と作業の進みを見比べていた半兵衛が、声を潜めて報告してくる。

 

「若君……。一列を植え終えるのにかかる時が、通常の三倍はかかっております。このままでは、日が暮れてしまいますぞ」

 

 俺の背中を、嫌な汗が伝い落ちた。

 

(やばい。管理を楽にするための正条植えが、田植えの労力を激増させてる。これじゃあ本末転倒だ。絶対に普及しない失敗プロジェクトの典型例じゃないか)

 

 与平が、泥の中から重々しい声で告げた。

 

「若君様。田植えというものは、時を逃せばそれだけで田に響き、秋の収穫を減らす原因となります。遅い植え方は、百姓にとってそれだけで罪にござる」

 

 その言葉は、俺の胸に重く突き刺さった。

 

 正しい。

 

 彼の言う通りだ。

 

 いくら植え付けた後の管理が楽になると頭で分かっていても、田植えの適期を逃してしまっては元も子もない。

 

 理論上の最善が、現場での最善とは限らないのだ。

 

「……相分かった。私の考えが浅かった」

 

 俺は潔く非を認め、すぐさま指示を変更した。

 

「縄を張るのは、最初の三列だけでよい! 残りは、その三列の苗を目安にして、お前たちの目でだいたいの位置を合わせながら植えていけ! 完璧に一直線にならなくとも構わん。少し曲がったとしても、これまでのように乱雑に植えるよりは揃うはずだ。今は速度を優先しろ!」

 

 俺が方針を転換したことで、百姓たちの動きが見違えるように早くなった。

 

 完全に等間隔とはいかないが、それでも彼らの熟練の技術は、最初の基準線さえあれば、ある程度整った列を作り出していく。

 

(現代の機械植えみたいな完璧さを求めるのは間違っていたんだ。現場で使える水準に落とし込む。それが今の俺にできる精一杯だ)

 

     *

 

「お前は、最初に自分が定めた理屈を、あっさりと捨てたな」

 

 畦道に戻り、足の泥を落としていた俺の背中に、竹千代が静かに語りかけてきた。

 

 一瞬、その方針のブレを咎められたのかと身構えたが、彼の声音に怒りはなかった。

 

「違うと思えば、すぐに己の非を認め、やり方を変える。上の者として、それは容易なことではあるまい」

 

「……田は、こちらの勝手な都合など聞いてはくれませぬゆえ」

 

 俺は手ぬぐいで顔を拭いながら、素直に答えた。

 

「理屈が泥に合わぬのであれば、こちらが変わるしかありません。意地を張って時を逃し、米が減っては本末転倒にございます」

 

 竹千代は、小さく頷いた。

 

 のちに徳川幕府の基礎を盤石なものにする男の片鱗なのだろうか。

 

 彼は、六歳の弟が行っている泥遊びめいた実験の中に、何か政治的な本質のようなものを見出しているようだった。

 

 彼は、横で忙しく筆を動かす半兵衛の元へと歩み寄った。

 

「そなた。先ほどから何やら細かく書き留めているようだが、何を書いている」

 

 突然声をかけられた半兵衛は、ひっくり返りそうになりながら平伏し、帳面を頭上に掲げた。

 

「はっ! 恐れながら、苗の間隔、作業にかかった刻、携わった人数、そして誰がどの列を植えたか、苗の数に至るまで、全てを記しておりまする!」

 

「……ほう」

 

 竹千代は帳面を受け取り、そこに並ぶ緻密な数字の羅列に目を通した。

 

「まるで、戦の陣立てのようだな。兵の数、配置、兵糧の算段……。田植えを、このように差配するとは」

 

(兄上、感心するポイントが鋭すぎる。そう、記録があれば次の行動が予測できる。それは農業も、戦争も、政治も同じだ)

 

 俺が内心で冷や汗をかいていると、竹千代は帳面を半兵衛に返し、俺に向かって言った。

 

「国松。私にも、後ほどその帳面の写しを見せよ。お前がどのような陣立てでこの泥と戦っているのか、知っておきたい」

 

 俺は深く頭を下げた。

 

「ははっ。喜んでお持ちいたします、兄上」

 

     *

 

 西の空が赤く染まり始める頃。

 

 作業は遅れに遅れたが、予定していた小さな実験区画だけは、どうにか全ての苗を植え終えることができた。

 

 泥だらけになった手足を洗い終えた俺たちが、改めてその区画を見下ろした時。

 

 そこに広がっていたのは、他の田とは明らかに異なる、異質な光景だった。

 

「おお……」

 

 思わず、俺の口から感嘆の吐息が漏れた。

 

 夕陽の赤い光を反射する水面の上を、青々とした苗の列が、縦に、横にと規則正しく交差している。

 

 完璧な直線ではないにせよ、これまでの無作為に植えられた区画と比べれば、その整然とした姿は一目瞭然だった。

 

 泥臭い自然の中に、突如として持ち込まれた「秩序」。

 

 それは、なんというか、ひどく「文明」を感じさせる美しさだった。

 

「……美しいな」

 

 竹千代もまた、その整った水面の幾何学模様に見入っていた。

 

「美しいだけでは駄目にございます、兄上」

 

 俺はあえて厳しい口調で言った。

 

「この並びの美しさが、秋にどれほどの米の増産をもたらすか。それが証明されねば、単なるお武家の道楽に過ぎませぬ」

 

「だが、美しいものは、人の目を惹く。そして、人の記憶に残りやすいものだ」

 

 竹千代のその言葉は、ある意味で的を射ていた。

 

 成果が出るよりも先に、この「見た目の異質さ」が、良くも悪くも城内で話題になるだろうことは想像に難くない。

 

 ふと見ると、与平が黙ってその整然とした田の中を、畔伝いに歩き回っていた。

 

 彼は苗の列と列の間をじっと見つめ、やがて何かを確かめるように頷いた。

 

「……なるほど。これは、歩きやすうございます」

 

「えっ?」

 

「無闇に苗が植わっていないゆえ、足を入れる隙間がはっきりと分かります。これならば、後で草を引きに入る時、誤って大事な苗を踏み折ってしまうことが少なくなりましょう」

 

 与平はさらに続けた。

 

「水の流れの道筋もよく見えまする。そして、もし病が出たとしても、どの列から広がり始めたのか、見分けがつきやすいかもしれませぬ」

 

(そう! それ! 俺が最初に言いたかったメリットはそれだよ!)

 

 理屈でこねくり回した俺の説明よりも、現場で生きる与平の眼力の方が、正条植えの実用性をはるかに正確に見抜いていた。

 

「ならば、次は夏前の草引きの時期に比べるとしよう」

 

 俺は声を弾ませた。

 

「正条に植えた田と、いつもの田。どれだけ手間が違い、どれだけ草が生えるか。半兵衛、しっかりと記録の準備をしておけ!」

 

「ははっ!」

 

 与平は、まだ完全に疑いを解いたわけではないような顔で、俺を見た。

 

「まだ、これで秋の米が増えるとは断言できませぬぞ」

 

 だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。

 

「……しかし、夏の草引きの折に、また見に来る値打ちは、十分にございますな」

 

 「試す値打ち」から、「見に来る値打ち」への昇格。

 

 現場の長からのその評価は、今日の泥まみれの苦労を報いてくれるものだった。

 

     *

 

 江戸城への帰路。

 

 俺は竹千代の駕籠の隣に、自分の駕籠を並べさせ、供回りに囲まれながら進んでいた。

 

 道中、周囲の者たちがヒソヒソと囁き合っているのが耳に入る。

 

「竹千代様と国松様が、揃って田をご覧になられたそうだ」

 

「国松様の考案された田法を、竹千代様が直々に見届けられたとか」

 

「まこと、ご兄弟揃って民草の暮らしをお案じになられるとは、徳川の御代は安泰にございますな」

 

 兄弟仲良く民を思う、という文脈で語られるのは、俺の「兄上支援ルート」としては非常に良い兆候だ。

 

 しかし、その好意的な噂の裏には、

 

「だが、実際に知恵を絞り、差配をしておられるのは国松様ではないか」

 

「やはり国松様の方が、ご器量が……」

 

 という、いつもの危険な火種が確実に混ざっていた。

 

 それを聞き取るたびに、俺の胃の腑がきりきりと痛み出す。

 

 竹千代もまた、その微妙な空気を感じ取っているようだった。

 

 竹千代は、駕籠の簾越しに静かに問いかけてきた。

 

「国松。……お前は、己の名が上がることを、恐れているのか」

 

 心臓が跳ねた。

 

 俺は一瞬言葉に詰まったが、ここで誤魔化すのは下策だと判断した。

 

「……はい」

 

「なぜだ。武門に生まれた者ならば、名声こそが身を立てる礎であろう」

 

「某の名だけが徒に上がれば、いずれ必ず、兄上のお立場を脅かす邪魔となります」

 

 俺は、震えそうになる声を必死に抑え込み、言った。

 

「兄上のお邪魔になるような名声は、某にとっても、ただの厄介な『邪魔』でしかありませぬ。某が欲しいのは、徳川の安泰と、兄上が治められる世の豊かさだけです」

 

 竹千代は黙り込んだ。

 

 幼い兄弟の間で交わされるには、あまりにも政治的で、重すぎる忠誠の誓い。

 

 竹千代が俺の真意をどこまで信じたかはわからない。

 

 だが、この言葉が彼の心に深い楔を打ち込んだことだけは確かだった。

 

 やがて、竹千代は低く、しかし力強い声で言った。

 

「……ならば、私の名で進めよ」

 

「え……? よろしいのですか?」

 

「お前が、私の世のため、徳川のためだと言うのならば、私も共に泥を被ろう。お前の行う奇妙な田法は、私が見届ける」

 

(よっしゃあああああ!!)

 

 俺は心の中で、渾身のガッツポーズを決めた。

 

 次期将軍候補である兄上からの、完全なる公認獲得。

 

 これで、周囲の大人たちも俺の行動を簡単に咎め立てることはできなくなる。

 

 俺の生存フラグが、また一つ強固に立ち上がった瞬間だった。

 

     *

 

 夜。

 

 自室に戻った俺は、行灯の明かりの下で、半兵衛から預かった帳面の写しをめくっていた。

 

 塩水選の濃度による発芽の違い。

 

 正条植えの苗の間隔ごとの作業時間。

 

 百姓たちの不満の声。

 

 そして、竹千代の反応。

 

 半兵衛の記録は、俺の想像以上に緻密で、客観的なデータとして仕上がっていた。

 

「半兵衛のやつ、完全にデータアナリストとして覚醒しちゃってるな……」

 

 苦笑した、その時だった。

 

『植付配置の規則性上昇を確認』

 

『水流観測精度、微増』

 

『雑草発生予測、演算準備中』

 

『追加データ不足』

 

 暗闇に、三度目の青白い文字列が浮かび上がった。

 

「……は? 雑草の予測まで演算するのかよ」

 

 さらに、俺の目の前に、あの田んぼを見下ろしたような薄い格子状の光のマップが展開された。

 

 前回はノイズだらけで何も見えなかったが、今回は、あの正条植えを行った区画だけが、うっすらとだが明確な緑色のラインとして表示されているではないか。

 

(あ、なるほど……。苗を規則正しく一直線に植えたから、システム側のセンサーが田んぼの状態を読み取りやすくなったのか?)

 

 つまり、俺が現実の農業を「管理しやすい形」に整えれば整えるほど、この江戸の地下に眠る巨大なSFノードもまた、その機能を回復させていくということらしい。

 

『推奨:追加観測』

 

『推奨:除草工程比較』

 

『推奨:水位記録』

 

「……また推奨タスクが増えてる」

 

 空中に浮かぶ無機質な要求を前に、俺は深々と頭を抱えた。

 

 ただ、まっすぐ植えれば後の作業が楽になる。

 

 そう思っていただけなのに。

 

 現実は違った。

 

 まっすぐ植えたせいで、雑草のリスクに気づき、兄上の名声を利用する政治的な立ち回りを強いられ、さらには謎のSFシステムから要求されるデータ収集任務まで増えてしまった。

 

 田んぼ、奥が深すぎるだろ……。




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