暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第4話 草取り、地味に地獄

 泥まみれの田植えから、さらに幾日もの時が過ぎた。

 

 江戸の空は次第に高く青みを増し、吹き抜ける風には初夏の気配が混じり始めている。

 

 御料地の田に張られた水面には、頼りなく揺れていた苗がしっかりと根を張り、力強い緑色へと移り変わる様子が映し出されていた。

 

 だが、稲が命を育むのと同じように、この季節の泥の中からは、招かれざる客たちもまた遠慮なく顔を出し始める。

 

「若君、ご報告申し上げます。苗代から本田へ移した稲の育ちは概ね順調にございますが……同時に、雑草がひどく出始めております」

 

 朝の学問を終え、自室でくつろごうとしていた俺に、小栗半兵衛が帳面を開きながら生真面目な顔で告げた。

 

「雑草か。まあ、日差しも強くなってきたし、水もあれば生えるだろうな」

 

 俺は茶を啜りながら、さして重くも受け止めずに頷いた。

 

「ならば、草取りを手配せよ。正条に植えた田ならば、縦にも横にも整然と隙間がある。苗をかき分ける必要がない分、歩きやすくて作業も早いはずだ」

 

 現代の田んぼの知識――といっても、テレビの農業番組やネットの動画で見た程度の薄っぺらいものだが――からすれば、正条植え最大のメリットは「その後の管理のしやすさ」にある。

 

 田植えの時にあれだけ苦労して縄を張り、時間をかけてまっすぐに植えたのだ。

 

 その恩恵が、いよいよ目に見える形で返ってくる。

 

 俺は意気揚々と、半兵衛を連れて御料地へと向かった。

 

     *

 

「……うわっ、思ったより早いな」

 

 御料地に到着した俺は、目の前に広がる光景に思わず眉をひそめた。

 

 稲が育つ環境というのは、当然ながら他の植物にとっても絶好の環境である。

 

 前回見た時にはまだ泥の海だった水面から、数え切れないほどの細かい青草がツンツンと顔を出していた。

 

(現代知識チートを持ってしても、自然の生命力には容赦されないってことか)

 

 俺は、あらかじめ分けておいた「従来通りの植え方をした区画」と「正条植えをした区画」を見比べた。

 

 従来区画は、苗の配置が不規則だ。

 

 そこに草が生い茂り始めているため、どこまでが稲の苗で、どこからが雑草なのか、ぱっと見では非常に分かりにくい。

 

 草取りのために足を踏み入れようにも、どこに足を置けば苗を踏まずに済むのか見当もつかなかった。

 

 対して、正条区画は一目瞭然だった。

 

 縦横にまっすぐ並んだ苗の列。

 

 その列と列の間には、はっきりとした空間がある。

 

 確かに足を入れる場所には困らない。

 

 だが、その整った空間があるがゆえに、皮肉なことに、生えてきている雑草の存在がひどく悪目立ちしていた。

 

「若君様。正条に植えた田は、たしかに足を踏み入れやすうございます」

 

 畔に立っていた与平が、日焼けした顔に皺を寄せて言った。

 

「されど、苗の間に無闇に隙間がある分、陽の光がよく当たり、草もまた遠慮なく顔を出しておりますな。これでは、かえって草の数が増えているようにすら見えまする」

 

 与平の指摘に、俺は渋い顔で頷いた。

 

「メリットとデメリットが同時に顕在化したな……」

 

「めりっと……?」

 

「いや、なんでもない。つまり、良いところと悪いところが両方出たということだ」

 

 俺の言葉を受けて、背後の半兵衛がすかさず筆を走らせる。

 

「正条区画、草の発見は極めて容易。されど、草の発生量そのものは多く見える。従来区画、草の発見に刻を要す……と」

 

 与平はため息交じりに言った。

 

「結局のところ、草取りの手間が増えるのであれば、田植えの折にあれほど苦労してまっすぐ植えた意味が……」

 

「そうとも言い切れんぞ、与平」

 

 俺は水面を指差した。

 

「草が見えやすいということは、確実に抜けるということだ。従来のように苗と混ざっていれば、どうしても見落としが出る。見える草は取れるが、見えない草は取れずに残って、秋に米の養分を吸い取ってしまう」

 

 俺は、自分に言い聞かせるように言葉を続けた。

 

「なら、最初から全て丸見えになっている方が、まだマシというものだ」

 

 現代のビジネス風に言えば、「課題の可視化」である。

 

 隠れたバグより、顕在化しているバグの方がまだ対処のしようがある。

 

 俺の理屈を聞いた与平は、少しだけ面白そうに目を細めた。

 

「……若君様は、誠に物の見方が変わっておいでだ。見えない敵より、見える敵の方が御しやすかろうと仰せか」

 

     *

 

 そして、実際の草取り作業が始まった。

 

 百姓たちが筒袖の着物の裾をからげ、泥の中へと足を踏み入れる。

 

 腰を深くかがめ、泥水の中に両手を突っ込んで、一本一本根気よく草を抜いていく。

 

 端から見ているだけでも、その重労働ぶりは明らかだった。

 

 照りつける初夏の日差し。

 

 水面に反射する光が目を焼き、泥の冷たさと外気の暑さが体力を奪っていく。

 

 常に腰を曲げた姿勢は背骨に鈍い痛みを蓄積させ、顔の周りには泥の匂いに惹かれた小虫が鬱陶しく飛び回っている。

 

 さらに、抜いた草はそのまま捨てておくと再び根を張ってしまうため、ある程度まとめて畔に投げ上げなければならない。

 

「よし、俺も少しやってみるか」

 

「わ、若君様!? なりませぬ!」

 

「お武家様、ましてや将軍家のお血筋が、そのような泥の作業をなさるなど!」

 

 慌てて止めに入る半兵衛や侍女たちを制止し、俺は裸足になって田の端に入った。

 

「泥の上から見ているだけでは分からぬことがある。実態を知らずして、田法の善し悪しは語れまい」

 

 もっともらしいことを言って泥の中に手を入れたが、開始わずか数分で、俺は自分の浅はかさを呪うことになった。

 

(あっ……これ、マジでキツい……!)

 

 六歳の体には、泥の粘りが想像以上に重い。

 

 草と苗を見分けるのも一苦労だ。

 

 そして何より、中腰の姿勢を維持するのが地獄のように辛い。

 

 十本ほど草を抜いたところで、俺はたまらず畔に這い上がり、腰をさすりながら荒い息を吐いた。

 

「だめだ……腰が死ぬ……」

 

 情けない声を漏らす俺を見て、百姓たちは何とも言えない、微妙な顔を見合わせた。

 

 与平が、苦笑混じりに言う。

 

「我らはこれを、毎年、夏が終わるまで幾度も繰り返しておりまする」

 

 俺は泥だらけの手を膝に置き、真っ直ぐに頭を下げた。

 

「……すまん。俺が甘かった。米というものが、なぜあれほどまでに高く尊いのか、痛いほどよく分かった」

 

 お飾りの若君からの飾らない謝罪に、百姓たちの間に漂っていた張り詰めた空気が、少しだけふっと緩んだのを感じた。

 

     *

 

「半兵衛、刻の計りはどうなっている」

 

 畔に腰を下ろした俺が尋ねると、半兵衛は脇に置いていた線香と、水を入れた細い竹筒を示した。

 

「はっ。線香の燃え具合と日の傾き、それにこの竹筒の水の減り方を合わせて見ております。同じ広さの区画にて、従来通りの田と、正条に植えた田で、同数の者に草取りを行わせております」

 

 しばらくして、双方の区画の作業が一段落した。

 

 半兵衛は帳面に書き込んだ数字を素早く計算し、上ずった声で報告を上げた。

 

「若君! 出ましたぞ! 正条区画の方が、従来区画よりも一割半ほど早く作業を終えております! さらに……」

 

 半兵衛は興奮を抑えきれないように、帳面を指差す。

 

「誤って苗を踏み折ってしまった数でございますが、従来区画が十と数本あったのに対し、正条区画はわずか二本に留まっております!」

 

「よしっ!」

 

 俺は思わず拳を握りしめた。

 

 やはり正条植えの効果はあったのだ。

 

 列と列の間に明確な道があるため、百姓たちは足の置き場に迷う必要がない。

 

 草の位置も把握しやすく、終わった場所とまだ終わっていない場所の区別も一目瞭然だ。

 

「見たか、与平! やはり正条植えは草取りを楽にするのだ!」

 

 だが、与平の表情は、俺が期待したほど晴れやかではなかった。

 

 彼は土のついた手で顎を撫でながら、冷静な声で言った。

 

「確かに、草を抜く作業そのものは早うなりました。苗を損なう憂いも少ない。……されど若君様、田植えの折には、縄を張る手間で、正条区画の方が従来よりもはるかに余計な刻を食いましたな」

 

「うっ……」

 

「田植えで増えた手間と疲れを、この草取りのわずかな短縮で取り返せるのか。百姓の身からすれば、まだ喜ぶには早すぎるかと存じます」

 

 俺は押し黙った。

 

 半兵衛も帳面の数字を見比べ、口を閉ざす。

 

(くっ……現場の目は甘くない。総合的なコストパフォーマンスで考えれば、まだトントンか、下手すれば赤字かもしれないのか)

 

 ゲームなら新技術を導入した瞬間に効率が跳ね上がるが、現実の農業は、一つの工程の改善が全体の最適化に繋がるとは限らないのだ。

 

     *

 

「田植えの後にも、これほどまでに手を入れるのか」

 

 静かな声が響き、俺は振り返った。

 

 そこには、城での学問の合間を縫って、わずかな供回りだけを連れて御料地へやってきた竹千代の姿があった。

 

「兄上。ご足労いただき、恐悦至極に存じます」

 

 俺が平伏すると、竹千代は軽く手を上げてそれを制し、泥の中で腰を折る百姓たちの姿をじっと見つめた。

 

 彼は今回は泥には入らないよう、畔の少し高い位置に床几を置かせて座っている。

 

「はい。田に苗を植えれば終わり、というわけにはまいりませぬ。むしろ、これから秋の収穫に至るまでの道のりの方が、長く険しいようです」

 

「米とは……かくも手間と人の血の滲むような労力がかかるものなのだな。城の膳に上る白き飯からは、この泥の苦労は微塵も感じられぬが」

 

「だからこそ、少しでもその手間を減らし、確実な実りを得る術を見つけ出せれば、天下にとってどれほど大きな利となるか、計り知れませぬ」

 

 俺の言葉に、竹千代は小さく頷いた。

 

 彼は手招きをして半兵衛を呼び寄せ、その帳面を覗き込んだ。

 

「なるほど……。田植えの折には手間が増え、遅れをとった。だが、草取りにおいては時を縮め、苗を折る被害を減らした。しかし、秋に実る米の量がどうなるかは、まだ誰にも分からぬ」

 

 竹千代は帳面から目を上げ、俺を見た。

 

「そういうことだな、国松」

 

「……はい、仰る通りにございます」

 

(兄上、理解が早すぎる。たった数行のデータから、現在の進捗と課題を正確に把握してるじゃないか)

 

 俺が内心で感心していると、竹千代は静かな、しかし重みのある声で言った。

 

「勝った、負けたと急ぐでない。小さな理屈に一喜一憂せず、秋の刈り入れまで、その目で見届けよ」

 

 その言葉には、八歳やそこらの少年とは思えない、為政者としての器の大きさが滲み出ていた。

 

(この人、普通に将軍の器あるわ……。やっぱり俺は、絶対にこの人に逆らっちゃ駄目だ)

 

     *

 

 竹千代が城へと戻った後、俺は再び田の様子を観察していた。

 

 ふと、視界の端に違和感を覚えた。

 

『雑草発生予測、演算準備中』

 

『追加データ不足』

 

 昨夜、暗闇の中で見たあの青白いシステムメッセージが脳裏をよぎる。

 

 今、俺の視界には、あの文字は浮かんでいない。

 

 だが、目の前に広がる正条植えの区画の一角――わずか数坪ほどの範囲だけが、うっすらと赤い光の膜で覆われているように見えたのだ。

 

(なんだ、これ? AR表示みたいになってるけど……)

 

 目をこすっても、その赤いハイライトは消えない。

 

 俺は半信半疑のまま、与平を呼んだ。

 

「与平。あの辺り……右から三列目、少し奥のあたりだ。水が淀んでおらぬか?」

 

「は? あそこ、でございますか?」

 

 与平はいぶかしげな顔をしながらも、泥の中を進み、俺が指差した場所を覗き込んだ。

 

 そして、驚いたように声を上げた。

 

「こ、これは……。若君様の仰る通り、わずかに土地が凹んでおり、水が流れずに溜まっております。そのせいか、細かい水草が他の場所よりもひどく絡みついておりますな」

 

 与平は振り返り、信じられないという目つきで俺を見た。

 

「若君様……。畔から見ただけで、なぜあのような僅かな淀みがお分かりになられたので?」

 

「え、あー……。勘だ。風の吹き抜け方と、水面の色合いでな」

 

 俺は冷や汗をかきながら適当に誤魔化した。

 

 与平は全く信じていないようだったが、半兵衛は「若君の眼力、恐るべし!」と勝手に解釈して帳面に書き込んでいる。

 

(SFノード、ようやく少しだけ実用的な役に立ったな。でも、赤い場所が表示されるだけで、理由も解決策も教えてくれない。現代スマホの不親切な通知みたいだ)

 

 だが、この一件で、俺は草取りとは別の、もう一つの重大な問題に気づかされた。

 

「水、か……」

 

 正条植えにしたことで、苗の列の間の水の流れがはっきりと見えるようになった。

 

 だからこそ、淀んでいる場所や、深すぎる場所、逆に浅すぎる場所が如実に分かるのだ。

 

「与平。この淀みはどうすれば直る?」

 

「水尻を開けて水を一度抜き、土を平らにならすしかありませぬ。されど……」

 

 与平は険しい顔で周囲を見渡した。

 

「田の水というものは、深すぎれば苗の根が腐って弱ります。浅すぎれば、たちまち土に陽が当たり、今以上に草が猛威を振るいましょう」

 

 さらに与平は、声を潜めて付け加えた。

 

「それに、水を無闇に抜いたり入れたりすれば、すぐ下流の村の田に水が溢れたり、逆に水が足らなくなったりいたします。水加減を一つ間違えれば、村と村との血を流す争いになりかねませぬ」

 

 俺の背筋が冷たくなった。

 

(米チート、種籾の選別と植え方を変えるだけで済むと思ってた。でも、水管理こそが本丸かもしれない)

 

 農業は閉じたシステムではない。

 

 上流から下流へ、水は人々の生活と利権を繋いで流れているのだ。

 

     *

 

 草取りの惨状と水管理の難しさを痛感した俺は、畔に転がっていた手頃な木の枝を拾い上げた。

 

「手で抜くから時間がかかるし、腰が痛くなるんだ」

 

 俺は木の枝を泥に突き刺し、草の根元をえぐるようにしてかき回してみた。

 

 泥の表面をかき混ぜて、草の根を浮かせてしまえばいいのではないか。

 

 だが、結果は惨憺たるものだった。

 

「だめだ。泥が重すぎて枝がすぐ沈む。力任せにやると、大事な苗まで一緒に倒しそうになる」

 

 泥だらけになって格闘する俺を見て、百姓たちが苦笑している。

 

「若君様。色々とお考えになられるのは結構ですが、今のところは、手で泥をまさぐって抜いた方が確実で早うございます」

 

 与平の言葉に、俺は悔しさを噛み殺した。

 

「今は、な」

 

 俺は木の枝を投げ捨て、半兵衛の方を振り向いた。

 

「半兵衛。軽い木を使って、先端に歯のついたような道具を作れぬか? 正条植えの列と列の間にだけ押し込んで、泥をかき回すものだ」

 

「は? 歯のついた道具、でございますか?」

 

「そうだ。苗を倒さず、草だけをいじめて浮かせる道具だ。車輪のようなものがついていれば、なお良いかもしれん」

 

「草だけをいじめる道具……」

 

 半兵衛は完全に困惑した顔で、空中に筆を走らせる真似をした。

 

「名前はまだない。だが、これを作らねば、正条植えの真の価値は引き出せん」

 

 現代の除草機、あるいは田車。

 

 そのうろ覚えの設計図を、なんとか形にしなければならない。

 

 作業の終わり際、与平が泥を洗い落としながら俺に言った。

 

「若君様。正条植えは、田植えの折にはたしかに厄介でございました。されど、草取りにおいては、足を踏み入れやすく、苗を踏む憂いも少ない。水の淀みも見えやすい」

 

 与平はそこで言葉を切り、俺を真っ直ぐに見た。

 

「ただ広く植えれば草が増え、水加減を見誤れば他の村との諍いになる。……塩水選も、正条植えも、単独の思いつきだけでは、田を豊かにはしませぬ」

 

「その通りだ。全てが繋がっている」

 

「されど」

 

 与平の顔に、職人としての確かな光が宿った。

 

「合わせて考え、このように記録を残し、不具合があれば次に直そうとなさる。そのお覚悟がおありなら……この泥の海も、少しは変わるやもしれませぬな」

 

 初めて田に来た折の「試す値打ち」。

 

 その次の視察での「見に来る値打ち」。

 

 そして今、現場の長は俺のやり方を「変え得るもの」として認め始めていた。

 

     *

 

 城に戻り、一息ついた俺は、竹千代の部屋へと招かれていた。

 

「田は、植えて終わりではないのだな」

 

 竹千代は、運ばれてきた白湯を口に含みながら、静かに言った。

 

「はい。植えて終わりではなく、日々観察し、不具合を見つけては直し、また観察する。その果てしない繰り返しのようです」

 

「……政も、同じかもしれぬな」

 

 俺は内心で身震いした。

 

 八歳かそこらの少年が、田んぼの泥仕事から国家統治の要諦を悟り始めている。

 

 徳川の血の恐ろしさを垣間見た気がした。

 

「国松」

 

「はっ」

 

「お前の行っている奇妙な田法は、先ほども言った通り、秋まで見よ。性急に他の田に広めようとするな。まだ真の利が見えてはおらぬ」

 

 竹千代は、俺の目を見据えて告げた。

 

「そして、失敗があれば、決して私に隠すな。良い報告ばかりを上げる者は信用できぬ。泥にまみれた失敗こそが、次の政の種となるのだ」

 

「……ははっ。肝に銘じまする」

 

 俺は深く平伏した。

 

 兄はすでに、ただの庇護者ではなく、俺の行動を冷静に評価し、責任を負う覚悟を持った裁定者として立ち上がりつつあった。

 

     *

 

 夜更け。

 

 自室の行灯の灯りの下で、俺は半兵衛の残した帳面を読み返していた。

 

 草取り時間の短縮。

 

 苗踏み被害の減少。

 

 一方で、雑草自体の増加と、水管理の難しさ。

 

 そして、新たな除草道具開発の必要性。

 

 次から次へと湧いてくるタスクにため息をついた瞬間、ふっと部屋の空気が冷たくなり、あの青白い文字が空間に展開された。

 

『除草工程比較データを確認』

 

『雑草発生予測精度、微増』

 

『水位変動記録を要求』

 

『水流阻害箇所、複数検出』

 

『推奨:用水路点検』

 

「……次は水路かよ」

 

 俺のぼやきを無視して、空中に浮かんだ光のマップが、御料地の枠を超えて広がっていく。

 

 上流にある別の田。

 

 下流へと続く細い用水路。

 

 そして、村と村を隔てる目に見えない境界線。

 

 そこには、俺がまだ手を出していない、より複雑で巨大なネットワークの姿が描かれていた。

 

(これ、田んぼ一枚の問題で終わらないやつだ。水は村と村を、人と人を繋いでる。そして、間違いなく利権で揉める)

 

 米を増やすために始めた、ただの知識チートの実験。

 

 それは種籾から苗へ、苗から草へ、そして草から水へと、俺の意志とは無関係にじわじわとその影響範囲を広げていた。

 

 俺は重い帳面を閉じ、天井に向かって深く息を吐き出した。

 

「……兄上。次は、水の話になりそうです」

 

 その呟きは、誰に聞かれることもなく、江戸城の深い夜の闇へと溶けていった。




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