暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第54話 片桐且元、大坂を去る

 慶長十九年、九月。

 

 京の大仏殿に掲げられた一張の梵鐘。

 

 そこに刻まれたわずか数文字の歪みが、日ノ本の空気を急速に、そして決定的に変えつつあった。

 

 *

 

 駿府城の一角。

 

 大坂からの使者たちをそれぞれ引き取らせた後、大御所・徳川家康は、本多正純と金地院崇伝の二人を静かに呼び寄せていた。

 

「豊臣方は、徳川を深く疑うておる。それこそが、この世の秩序を揺るがす最大の不条理じゃ」

 

 家康の低い声には、怒りよりもむしろ、冷徹な現実の重みがあった。

 

「鐘の銘文がどうあれ、公儀に対する不信そのものを不敬として扱う。……そういうことにございますな」

 

 本多正純が、大御所の意図を正確に汲み取って言葉を返す。

 

 崇伝は、広げられた帳面を見つめたまま、冷ややかに言った。

 

「なれば、もはや言葉の申し開きをいくら重ねたところで足りませぬ。豊臣家が、これからの日ノ本において徳川の秩序に従う意志があるのかどうか。それを天下の目の前で、はっきりと示してもらう必要がございます」

 

「且元と大蔵卿局を、大坂で同席させよ」

 

 家康は、乾いた声で命じた。

 

「その上で、両家が完全に融和するための『確かな方策』を豊臣自身に出させよ。さらに、秀頼を江戸へ赴かせ、将軍へ直接の申し開きをさせねばならぬ」

 

 それは、表向きにはまだ「和睦の手続き」を探るための、寛大な要求に見えた。

 

 しかし、その実質は、豊臣家に対して「徳川への完全な服従の姿勢を天下へ晒せ」という、極めて過酷な踏み絵であった。

 

 座敷の隅で静かに二人のやり取りを聞いていた天海僧正が、目を閉じたままぽつりと言った。

 

「大御所様。これは……豊臣の家格からすれば、耐え難き屈辱にございましょうな」

 

「分かっておる」

 

 家康は短く答えた。

 

「それでも、それを求められるのですな」

 

「天下に、二つの柱は要らぬ。ただ、それだけのことじゃ」

 

 天下人としての家康のその言葉は、誰の反論も許さぬ冷徹さに満ちていた。

 

 *

 

 同じ頃、江戸城。

 

 将軍・秀忠のもとには、西国の大名たちが次々と呼び集められていた。

 

 江戸に在府している西国大名五十余名に対し、公儀への絶対の忠誠と、もし不穏な動きをする者が現れても決してこれに与せぬことを誓わせる『起請文』の徴収が、淡々と進められていた。

 

「大御所様が大坂の申し開きを待たれている一方で、こちらでは西国の大名たちの心をあらかじめ縛る。……これは、決して矛盾ではございませぬな」

 

 側近の重臣が、差し出された血判の並ぶ紙を見つめて呟く。

 

「大坂に味方する可能性のある者を、戦が始まる前に根こそぎ断つためだ」

 

 秀忠の顔には、一切の迷いがなかった。

 

「戦にならぬのなら、この起請文はただの『万が一の備え』として蔵に眠るだけで済む。……だが、もし戦になるのなら、これは彼らを徳川へ縛り付ける強固な鎖となる。天下を二分するような迷いを、大名たちに持たせてはならぬ」

 

 徳川は、表では外交の言葉を交わしながら、その裏では戦争の準備を、一分の隙もなく着々と進めていた。

 

 しかし、そこに個人的な憎しみや感情の昂ぶりはない。

 

 ただ、天下の秩序を維持するための巨大な仕組みが、静かに動き始めているだけだった。

 

 *

 

 一方、大坂城。

 

 駿府から先に戻っていた大蔵卿局は、淀殿や大野治長らの前で、安堵の笑みを浮かべて報告を終えていた。

 

「大御所様は、決して我らを怒鳴りつけるようなことはなさいませんでした。『心配はいらぬ』『筋を通せばよい』と、誠に穏やかにお迎えくださったのです」

 

 その言葉を聞いた淀殿は、胸のつかえが下りたように小さく息を吐いた。

 

「……ならば、片桐が大げさに騒ぎすぎているのではないか。あの男は昔から、少しのことでも狼狽える癖がある」

 

 大野治長も、嘲るような笑みを浮かべて頷いた。

 

「鐘の銘文の件も、本多正純や崇伝ら、徳川の周りの者どもが手柄欲しさに騒ぎ立てているだけにございましょう。大御所様ご本人は、我らと事を構える気など毛頭ない。……そう見るのが、至当にございますな」

 

 大坂城の奥深くには、甘く、温かい楽観論が満ち始めていた。

 

 そこへ。

 

 駿府での過酷な詰問に身も心もすり減らした宿老──片桐且元が、ようやく大坂へ戻ってきた。

 

 且元の顔は、まるですべての血が抜けたかのように青ざめていた。

 

 座敷に入るなり、且元は淀殿と秀頼の前に深く平伏し、悲痛な声で訴えた。

 

「……楽観してはなりませぬ。事態は、我らが考えているよりも遥かに、最悪のところまで進んでおります」

 

 その一言で、座敷の空気が一瞬で凍りついた。

 

「どういうことです、片桐」

 

 淀殿の声に、不快感が混じる。

 

「此度の件は、もはや鐘の文字の良し悪しなどという、小さな問題ではございませぬ。豊臣家が、これからの日ノ本において『徳川の秩序に逆らう気はない』という不信なき証を、天下の目の前で示さねば、徳川の怒りは決して収まりませぬ」

 

「不信なき証、とは……具体的に何をせよというのです」

 

 大野治長が、且元を睨みつける。

 

 且元は、震える唇を噛み締めながら、豊臣家を生き残らせるために己の頭の中で絞り出した、あまりにも過酷な『三つの道』を口にした。

 

 *

 

「……一つ。秀頼公が、大坂を離れ、江戸へ定期的に『参勤』なされること」

 

 座敷に、ざわめきが広がった。

 

「二つ。淀殿様が、江戸へ『御滞在』なされること」

 

 淀殿の顔から、完全に笑みが消えた。

 

「そして、三つ。秀頼公が、この大坂城を公儀へ明け渡し、別の国へと『国替え』を受け入れること。……このいずれか、あるいは全てを受け入れねば、公儀との和睦はございませぬ」

 

 完璧な、静寂が座敷を支配した。

 

 そして次の瞬間、その静寂は激しい怒号へと変わった。

 

「片桐!! そなたは、豊臣家に『死ね』と言うておるのか!!」

 

 強硬派の家臣が、畳を叩いて立ち上がる。

 

「大坂城を出るだと!? 太閤殿下が我らのために残してくださった、この難攻不落の御遺産を、徳川にただで差し出せと申すか!!」

 

 大野治長の目が、怒りで血走る。

 

「私を、江戸へ人質に出せ、と……」

 

 淀殿の声は、怒りのあまりに低く震えていた。

 

「片桐。そなたは、一体『誰の』家臣じゃ。徳川の犬に成り下がって、我らを脅しに来たのか!」

 

「豊臣家を、豊臣の血筋を後世へ残すためでございます!!」

 

 且元は、畳に額をこすりつけるようにして叫んだ。

 

「今ならば、まだ……面子を捨てて屈辱を呑み込めば、家そのものを滅ぼさずに済む道が残されているのです! どうか、どうかお聞き入れを……!」

 

 しかし、その必死の忠義の言葉は、誰の耳にも届かなかった。

 

 後ろから、大蔵卿局が冷ややかな声を放った。

 

「……おかしいではございませんか。私が駿府でお会いした大御所様は、そこまで厳しい御様子ではございませんでしたよ。……片桐殿。そなた、徳川の正純あたりに、何かおかしな言葉を吹き込まれて、騙されているのではありませぬか?」

 

 その一言が、且元にとって致命傷となった。

 

 座敷にいる者たちの目が、一斉に変わった。

 

 こいつは、徳川と内通しているのではないか。

 

 徳川の手先となって、我らをおびき寄せ、豊臣を無血で屈服させようとしているのではないか。

 

 その疑惑の炎が、淀殿たちの胸の内で一気に燃え広がった。

 

 *

 

 重苦しい沈黙の中、これまでじっと座っていた豊臣秀頼が、静かに口を開いた。

 

 弱冠二十一歳。

 

 父親譲りの大柄な体躯と、生まれながらの貴種としての威厳を持つ若き主君は、城内を包む巨大な疑心暗鬼の力学に、静かに呑み込まれようとしていた。

 

「且元。……そなたの言うことは、まことに豊臣を救うためのことか」

 

「その通りにございます! 秀頼公、どうか……!」

 

「だが」

 

 秀頼は、我が子を庇うように且元を睨みつける母・淀殿の姿を視界に入れ、苦しげに目を伏せた。

 

「だが、母上も、家中の多くの者たちも……そなたの持ってきた案は、豊臣をそっくりそのまま徳川へ売り渡す『裏切りの案』であると言うておる」

 

「今、豊臣の誇りという目に見えぬものに拘れば、家そのものが跡形もなく滅び去ります! 大御所様の恐ろしさは、私が一番よく知っております!」

 

「……主君に向かって、なんたる不敬を!」

 

 大野治長が割って入る。

 

 秀頼は、且元のこれまでの忠義を完全に否定することはできなかった。

 

 だが、城内を支配する強硬派の声と、実の母の狂おしいほどの拒絶を押し切るだけの、圧倒的な政治的力を持っていなかった。

 

「……しばし、沙汰を待て。此度の件、今一度家中にてよく吟味する」

 

 秀頼のその裁定は、実質的な「棚上げ」であった。

 

 しかし、戦前の極限状態における棚上げは、状況をただひたすらに悪化させるだけの劇薬でしかなかった。

 

 *

 

 数日後。

 

 大坂城内では、且元への疑念が完全に「確信」へと変わりつつあった。

 

 城内に続々と集まり始めていた強硬派の武頭たちが、密かに集まって囁き合う。

 

「片桐は、徳川の意向をそのまま我が物顔で持ち帰ってきた」

 

「いや、もはやただの徳川の手先、間者と見るべきだ」

 

「あの男は、豊臣の蔵の勘定も、軍資金の出入りも、全てを握っておる宿老だ。あの男が大坂城のすべてを握ったまま徳川に通じているとなれば、我らの内情は全て駿府に筒抜けではないか」

 

 且元が持つ『優秀な実務能力』そのものが、今や彼をスパイと断定するための最悪の材料にされていた。

 

「秀頼公を江戸へ出せ、淀殿を人質にせよ、この城を捨てよ……。豊臣に尽くしてきたはずの男が、どうしてそんな言葉を吐き散らせようか。やはり、腹の底では徳川から莫大な褒美を約束されているに違いない」

 

 淀殿の周囲の女房たちも、感情的な言葉で火に油を注ぐ。

 

「片桐を除け」

 

「除けるとは……隠居か?」

 

「いや。隠居させたところで、あの男が生きて徳川の元へ走れば、城の弱みを全て話してしまう。……生かして城の外へ出してはならぬ」

 

 それは、暗殺の計画の芽が、城内で音もなく膨らんだ瞬間だった。

 

 *

 

 旧暦九月二十三日。

 

 且元のもとに、一人の意外な人物が密かに訪れた。

 

 織田信雄。

 

 かつて天下を争い、今は豊臣と徳川の双方の間に漂う空気を、誰よりも敏感に読み取ってきた古い貴種であった。

 

「……片桐。お主、命を狙われておるぞ」

 

 信雄は、周囲を警戒しながら、極めて低い声で告げた。

 

 且元は、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに自嘲気味に笑った。

 

「……まさか。私は、太閤殿下よりこの家を託された身。いくら意見が合わぬとはいえ、身内から刃を向けられるような筋合いはございませぬ」

 

「『まさか』で済むほど、今のこの城内は正気ではない」

 

 信雄は、且元の肩を強く掴んだ。

 

「そなたの出した三案は、豊臣の誇りを根底から踏み潰す『大罪』として受け取られたのだ。お主がどれほど豊臣の命脈を繋ぐために泥を被ったかなど、頭に血の上った者どもは誰も聞いてはおらぬ。……城とは、そういう『真っ当な忠義の者』から順番に死んでいく場所よ」

 

 且元は、信雄の言葉の裏にある確かな死の匂いを察知した。

 

「私は……ただ、豊臣を、秀頼公を残したかっただけなのです……」

 

「生きねば、残すこともできぬぞ。早く備えをせよ」

 

 且元は、その夜のうちに己の屋敷へ戻り、引き連れてきた私兵たちに命じて、周囲に柵を巡らせ、鉄砲を構えさせ、厳重な防備を固めた。

 

 それは、主君を守るための備えではなく、我が身を主君の城から守るための、悲しい武装であった。

 

 *

 

 だが、且元が屋敷の防備を固めたという事実が、大坂城内をさらに狂わせた。

 

「見よ! 片桐が屋敷に兵を集めて籠城の構えをとっておるぞ!」

 

「やはり謀反だ! 徳川の手兵を城内に引き入れるための、内応の準備に違いない!」

 

 強硬派の家臣たちが、大騒ぎで秀頼の元へ詰めかける。

 

 秀頼は、これ以上の城内の破滅を防ぐため、且元に向かって最後の使者を送った。

 

「且元。……ただちに、その屋敷の武装を解け」

 

 使者を前に、且元は静かに首を振った。

 

「お言葉ながら、周囲の他の屋敷がすでに兵を集め、私の命を狙って武装を始めております。今、私だけが武装を解けば、今夜のうちに私は理不尽に討たれましょう。……主君の御命令とはいえ、無駄死にをするわけには参りませぬ」

 

 豊臣のためにすべてを捧げてきた宿老が、主君の命令を拒絶せざるを得ないところまで、両者の距離は完全に引き裂かれていた。

 

「片桐殿が、豊臣を売るようなお方ではないはずです! 何か、何かの間違いにございます!」

 

 木村重成のような若い側近が、必死になって淀殿や大野治長の間を走り回り、調停を試みようとした。

 

 だが、狂気にも似た不信の渦の前に、若者の真っ当な正論などは、木葉のように虚しく吹き飛ばされるだけだった。

 

 *

 

 九月二十七日。

 

 秀頼は、城内の騒ぎを完全に鎮静化させるため、ついに最後の、そして最悪の決断を下した。

 

 且元を呼び出した秀頼は、その威厳ある顔をひどく悲しげに歪めながら言った。

 

「且元。……そなたには、しばらくの間、大坂の政から完全に離れてもらう」

 

 且元は、微動だにせずその言葉を受け止めた。

 

「……それは。私の『執政』の任を、解くということでございますか」

 

「……城内の騒ぎを鎮めるためだ。一度城を出て、然るべき寺へ入り、隠居せよ」

 

 且元は、深く、深く頭を下げた。

 

 畳についた己の手が、かすかに震えているのを、必死に隠しながら。

 

「……主君の仰せ、謹んで承知仕りました」

 

 且元は、心の中で静かに悟っていた。

 

 これで、豊臣家は、徳川と対話できる『最後の窓口』を自らの手で完全に叩き潰したのだ。

 

 秀頼のこの決断は、且元の命を城内の過激派から救うための、彼なりの不器用な優しさだったのかもしれない。

 

 だが、政治的には、それは豊臣家が自ら退路を断つ『破滅の決定』でしかなかった。

 

 *

 

 十月一日。

 

 且元は、大坂城を退去することを決めた。

 

 だが彼は、城を去るその直前まで、豊臣の『蔵』に入り、帳面をめくっていた。

 

 米の残高。

 

 金銀の保有量。

 

 武具の数。

 

 方広寺の大仏普請に関わった支出の帳尻。

 

 且元は、恐ろしいほどの几帳面さで、それらの引き継ぎの帳面を整え、文字を書き込んでいた。

 

「……殿。もはや城を追われる身にございますぞ。いまさら、なぜそこまで丁寧に徳川への言い訳のような帳面を整えられるのですか」

 

 荷物をまとめていた部下が、耐えかねたように涙を浮かべて尋ねる。

 

 且元は、筆を置き、優しく帳面を閉じながら言った。

 

「私が、この勘定の帳面を乱したまま去れば、豊臣の蔵の仕組みが完全に狂う。蔵が狂えば、次に困るのは、ここで戦をせねばならぬ兵たちであり、巻き込まれる大坂の民草だ。……私は、去るその瞬間まで、豊臣の宿老でいたいのだ」

 

「ですが、豊臣は殿を疑ったのですぞ! あれほど尽くした淀殿様も、お前は裏切り者だと罵ったのですぞ!」

 

「それでも、だ」

 

 且元は、静かに笑った。

 

「それでも……私は、太閤殿下にこの家を頼むと言われた、豊臣の家臣なのだよ」

 

 且元は、弟の片桐貞隆と、彼を慕ってついていく少数の兵たちを連れ、大坂城の巨大な門をくぐった。

 

 秋の冷たい風が、且元の白髪交じりの髪を揺らす。

 

 城門の外に出た且元は、一度だけ、あの聳え立つ壮麗な大坂城の天守を見上げた。

 

「太閤殿下。……お守りすることが、できませんでした」

 

 且元のその呟きは、誰の耳にも届くことなく、秋の空へと消え去っていった。

 

 城内では、強硬派の武頭たちが「ついに裏切り者の片桐を追い出したぞ!」と、まるで大きな戦に勝ったかのように気勢を上げていた。

 

 だが、その喧騒から離れた一角で、豊臣の行く末を冷静に見据えていた古参の重臣は、城を去っていく且元の小さな背中を見つめながら、ガタガタと全身を震わせて呟いた。

 

「違う……。これは、我らの勝ちなどではない。……豊臣と徳川を繋いでいた『最後の橋』が、今、完全に焼け落ちた音だ」

 

 *

 

 京都所司代。

 

 板倉勝重は、大坂からの急報を受け取った瞬間、持っていた筆をバサリと畳に落とした。

 

『片桐且元、大坂城を完全退去。城内は強硬派が完全に主導権を握り、浪人たちの招集を始めつつあり──』

 

 勝重は、即座にすべてを理解した。

 

「……これは、もう戦じゃ」

 

 勝重は、すぐに駿府の家康へ向けて、一刻を争う書状を書き始めた。

 

 且元の退去。

 

 大坂城内の過激化。

 

 交渉窓口の完全な喪失。

 

 豊臣側は「これは敵対の意図ではない」と弁明する使者を送ってくるだろうが、もはやその言葉を信じるための調停役が誰もいないこと。

 

 これ以上の平和的な交渉は、完全に不可能であること。

 

 勝重は、震える手で墨をすりながら、胸の内で呟いた。

 

(……少し前までは、筆先一つ、言葉一つの扱いで戦が起こるかもしれないと思うていた。だが、実際には違った。筆先で開いた小さな傷口へ、人間の『疑心暗鬼』という名の泥水が止めどなく流れ込み……最後に、取り返しのつかぬ形で橋が落ちたのだ。もう、言葉の入る余地などどこにもない)

 

 *

 

 駿府城。

 

 勝重からの緊急の書状が、家康のもとへ届けられた。

 

 座敷には、本多正純、金地院崇伝、天海が再び顔を揃えていた。

 

 家康は、届けられた書状の文字を静かに追った。

 

「片桐且元、大坂城を退去、か……」

 

 座敷に、重い静寂が落ちる。

 

「これで……大坂の城内に、徳川とまともに話ができる実務の者は、ほぼ一人もおりませぬ」

 

 本多正純が、冷徹に現状を告げる。

 

「豊臣方は、且元の退去を敵対の意志ではないと、必死の言葉で弁じてくるでしょう。しかし、もはやその言葉の真偽を確かめるための窓口そのものが、大坂の手によって叩き潰されたのです。これ以上の猶予は、公儀の威信を損ないます」

 

 崇伝の言葉には、戦争への明確なゴーサインが含まれていた。

 

 天海が、静かに家康を見つめる。

 

「大御所様……」

 

 家康は、しばらくの沈黙の後、深く、深く息を吐き出した。

 

「豊臣は、己の手で、最後の橋を落としたな」

 

「……諸大名へ、出陣の命を?」

 

 正純の問いに、家康はしばらく答えなかった。

 

 家康の胸の内には、秀頼への個人的な憎悪などなかったのかもしれない。

 

 だが、天下泰平の世を盤石にするために、徳川の秩序に従わぬ巨大な「不確定の勢力」を、このまま日ノ本に残しておくわけにはいかないのだ。

 

「秀頼が彼処にいる限り、豊臣の名は必ず徳川を覆すための『旗』になる。淀殿が狂おしく太閤の遺産に縋る限り、大坂は決して折れぬ。……そして、且元が去った今、もはや話をする相手すらおらぬのだ」

 

「戦に、なりますな」

 

 天海の言葉に、家康は氷のように冷たい目を向けて、言い切った。

 

「戦にするのではない。……戦に、なったのだ」

 

 それは、天下の力学が完全に決したことを示す、絶対の宣言だった。

 

「諸大名へ触れよ。……ただちに、大坂へ出陣の用意をさせよ」

 

 本多正純が、深く、深く平伏した。

 

「はっ!!」

 

 崇伝は静かに合掌し、天海は悲しげに目を閉じた。

 

 徳川の巨大な軍事組織が、ついに大坂という一点に向かって、完全に牙を剥いた瞬間だった。

 

 *

 

 江戸城。

 

 将軍・秀忠のもとへ、駿府からの大御所命令が届いた。

 

 秀忠は、差し出された書状を読み終えても、その表情を一切変えなかった。

 

「……大坂出陣である」

 

 その一言に、座敷にいた重臣たちが一斉に息を呑んだ。

 

「諸大名の動員、兵糧の差配、街道の整備、宿駅の人馬継立。……直ちに、一分の隙もなく整えよ」

 

 秀忠の迅速な命令に、重臣の一人がハッとして答えた。

 

「はっ! ……幸いにして、今年は国松様の『田法』の拡大により、東国一帯の米の収穫量が桁違いに増えております。兵糧の手当てに関しては、これまでにないほど容易にございます!」

 

「……幸い、か」

 

 秀忠の口元に、一瞬だけ、極めて苦い皮肉の笑みが浮かんだ。

 

「民草が『吉兆じゃ』と無邪気に笑いながら収穫したあの黄金の米を、我らは戦の燃料として、城を焼き尽くすために動かすのだな。……だが、天下の乱を完全に断つためには、必要なことだ。進めよ」

 

 民の命を繋ぐはずだった豊作の米が、今や巨大な軍隊を動かすための、最も頼もしい兵糧へと姿を変えていた。

 

 *

 

 その頃、大坂城。

 

 且元を追い出した強硬派の面々は、自分たちの勝利を確信し、お祭り騒ぎのような熱気に包まれていた。

 

「これで、徳川に媚びを売る裏切り者は消えた!」

 

「豊臣を侮るなら、受けて立つまでよ! 我らにはこの大坂城がある!」

 

 城内には、天下の不満分子である牢人たちが、不気味な地鳴りのように続々と集まり始め、不穏な活気を生み出していた。

 

 淀殿もまた、我が子・秀頼の引き締まった顔を見つめながら、豊臣の誇りを守り抜く覚悟を固めていた。

 

 だが、城の静かな一角で、豊臣の行く末を憂う古参の武士は、城外の遠い空を見つめながら、ガタガタと全身の震えを止めることができなかった。

 

「違う……。これは勝ちなどではない。……戦が、完全に決まってしまった音だ」

 

 彼らの無邪気な歓声が届かぬはるか遠く、駿府から、江戸から、諸国の城から。

 

 大坂の灯火を完全に揉み消すための、途方もない数の早馬が、日ノ本の街道を狂ったように駆け抜け始めていた。

 

 片桐且元が大坂城を去った。

 

 それは、一人の家臣が職を解かれたというだけの出来事ではなかった。

 

 豊臣と徳川の間に残されていた、最後の細い、細い橋が、音もなく焼け落ちた瞬間だった。

 

 鐘の銘文は、ただの文字ではなく、完璧な火薬だった。

 

 そして且元の退去は、その火薬に、誰の手によっても消せぬ火が完全に移った証だった。

 

 大坂城は、徳川に従う道を失った。

 

 徳川は、大坂をそのまま生かしておく道を完全に捨てた。

 

 慶長十九年、秋。

 

 大御所・徳川家康の冷徹な一言が、天下の隅々へと響き渡る。

 

「大坂へ、出陣せよ」

 

 もはや、誰もこの流れを止めることはできない。

 

 戦は、決まった。

 

 




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