暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第64話 水神様、八百比丘尼に家康をビビらされる

 慶長二十年、春。

 

 江戸城内、『御異物改方』に割り当てられた薄暗い一室で、俺はうずたかく積まれた書類の山と格闘していた。

 

 大坂の陣が終わり、世が泰平へと舵を切ったことで、実務の波は容赦なく俺の文机に押し寄せている。

 

 机の上には、『火薬遊技器具・花火筒使用許可台帳』、『魔鏡十三枚・保管状況確認帳』、『千歯扱き・試作運用記録』、そして『街道整備・補助金給付案』と、およそ一人の童が抱え込むべきではない質と量の帳面が、今にも雪崩を起こしそうになっていた。

 

「……花火の打ち上げ場所の選定基準に、魔鏡の返却手続き、それに新しい農具の耐久試験。戦が終わった途端、やることが多すぎる……」

 

 俺が虚ろな目で墨を擦り直していると、部屋の襖がスッと開き、新六郎がひどく困惑した顔で入ってきた。

 

「若君。……大御所様への面会を強く願う『尼』が、城の門前へ参っております」

 

「尼さん? どこかの寺社からの、水路かお布施の陳情ですか?」

 

 俺が顔を上げると、新六郎は言い淀むように視線を泳がせた。

 

「それが……頑として、用件を申さぬのです」

 

「え?」

 

「身なりは決して粗末ではなく、年若い二十歳前後の尼僧に見えるのですが、どこの寺の使いかとも明言いたしませぬ。ただ、『家康殿に会いたい。用件は、会えば分かる』とだけ繰り返し……。門番や護衛の者がいくら厳しく追及しても、柳に風と申しますか、全く動じる気配がないのです。奇物を持ち込んだとも申しておりますが、中身は明かそうとしませぬ」

 

 俺は、筆を置いて深い溜め息をついた。

 

「……こういう『会えば分かる』系って、だいたい本当に面倒くさい案件なんですよね……」

 

 *

 

 新六郎からの報告は、当然ながら大御所・家康の耳にも即座に入れられた。

 

 通常であれば、身元も用件も明かさぬ不審者など、門前払いで終わる話だ。

 

 しかし、家康は報告を聞いて、すぐには追い返さなかった。

 

「若い尼が、用件も告げず、このわしに会いたいとな……」

 

「明らかに不審者にございます。直ちに追い返すか、捕縛して詮議すべきでは」

 

 将軍・秀忠が眉をひそめて進言するが、家康は静かに首を振った。

 

「いや。頑なに用件を明かせぬ、深い事情があるのやもしれぬ」

 

「危険ではありませぬか」

 

 竹千代兄上が、次期将軍としての警戒心を露わにする。

 

「危険だからこそ、国松と竹千代、お前たち二人も呼んだのじゃ。万が一、それが『御異物改方』に関わるような理外の話であったなら、この二人に立ち会わせるのが一番早い」

 

 そうして、俺は無理やり筆を取り上げられ、面会の場へと連行されたのだった。

 

「えっ、私も同席ですか? 護衛なら、もっと屈強な武士を置くべきでは……」

 

「お前が関わると、大体どんな厄介なものの正体も、早く分かるからな」

 

「完全に、便利な『奇物鑑定係』扱いじゃないですか!」

 

 *

 

 かくして、江戸城の奥まった、警固の武士たちが襖の裏に息を殺して潜む厳重な座敷にて、家康、竹千代、俺の三人で、その奇妙な尼を待つことになった。

 

「へー。でも、どんな奇物を持ってきたんでしょうかね。尼僧に伝わる仏舎利とか、呪われた仏具とかですかね?」

 

 俺が少しだけワクワクしながら言うと、竹千代が冷静に推測する。

 

「尼僧が一人で持ち込めるものなら、仏の秘宝の類かもしれぬな。あるいは、戦乱で寺社から流れたいわくつきの貴金属の可能性もある」

 

「それにしても、『会えば分かる』っていうのが不思議ですよね」

 

 俺は、上座で目を閉じている家康に向かって尋ねた。

 

「大御所様、何か心当たりはあるんですか?」

 

 家康は、閉じていた目をゆっくりと開け、呆れたように言った。

 

「若い女の尼じゃろう? ……そんなもの、四十年は抱いておらぬわ」

 

「言い方!」

 

 俺は思わず突っ込んだ。

 

 竹千代が、微塵も表情を崩さずに極めて真面目な顔で尋ねる。

 

「……では。実は『大御所様の隠し子である娘』です、と名乗り出てくる可能性は?」

 

「いやいやいや。いくら何でも、そのような覚えはないぞ」

 

 家康が軽く手を振る。

 

「では、巡り巡って『孫』です、とかは?」

 

 俺が重ねて聞くと、家康の動きがピタリと止まった。

 

「う──────ーん…………」

 

「……」

 

「ないことも…………ない、か……?」

 

「大御所様!? ここで今さら、全く見知らぬ御落胤の登場とか、後継争いの新たな火種になって洒落にならないですよ!?」

 

 俺が青ざめて叫ぶと、竹千代が額を押さえた。

 

「真面目に考えさせるな。また胃が痛くなってきた……」

 

「いや、長き戦国を生き抜いておれば、若い頃の話など、どこにどう転がっておるか分からぬものじゃ」

 

「変なところで開き直らないでください!」

 

 そんな、緊張感のない身内ノリの雑談を交わしていた、その時だった。

 

 *

 

 スッ、と。

 

 音もなく、座敷の襖が開いた。

 

 一人の若い尼が、静かに入ってきた。

 

 見た目は、報告通り二十歳前後。雪のように白い肌と、整った顔立ちをした、清楚な尼装束の女性だった。

 

 だが、一目見た瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。

 

 雰囲気が、明らかにどこか『おかしい』のだ。

 

 足運びが、天下人の御前であるにもかかわらず、やたらと軽い。

 

 隠れた武士たちが放つ殺気や緊張感を、まるで春のそよ風か何かのように完全に無視している。

 

 そして何より……家康を「恐れ多い大御所様」としてではなく、最初から『よく知っている相手』を見るような、ひどく親しげな目で見つめているのだ。

 

(若いのに……目だけが、妙に老成してる……?)

 

 俺は、違和感の正体を探ろうと目を凝らした。

 

 尼は、家康の正面に平然と腰を下ろすと、ふわりと微笑んだ。

 

「うん。久しぶり、家康殿」

 

 座敷の空気が、一瞬で凍りついた。

 

 もしここに秀忠父上がいれば、即座に「曲者!」と叫んで斬り捨てていただろう。

 

 今回は三人だけの面会だったため、竹千代が氷のような声で即座に反応した。

 

「……無礼であろう。大御所様の御前であるぞ」

 

 だが、尼は怒られることすら楽しむように、ケラケラと笑った。

 

「ごめんごめん。でも、昔からずっとこう呼んでたから、今さら変えられないんだよね」

 

 俺が横を見ると、家康の様子が明らかにおかしかった。

 

 いつもなら、不遜な輩には老獪な笑みを浮かべて威圧するはずの天下人が、完全に『硬直』していたのだ。

 

「……大御所様?」

 

 俺が声をかけても、家康は反応しない。

 

 尼は、ゆっくりと尼装束の頭巾を外し、その顔を完全にあらわにした。

 

 家康の顔色から、一気に血の気が引いた。

 

「ば…………馬鹿な……!」

 

 家康が、珍しく、いや俺が知る限り初めて、声をガタガタと震わせて後ずさった。

 

「ありえぬ……! なぜ、お主が……!」

 

 俺は、先ほどの雑談を思い出して慌てた。

 

「えーと……大御所様? やっぱり、昔深く思いを寄せた女性にそっくりな、隠し子の孫とかですか!?」

 

「ち、違う!!」

 

 家康は、目をひん剥いて叫んだ。

 

「こやつは……! わしがまだ、今川への人質として送られる前の『童』であった頃に会った尼に、寸分違わずそっくりなのじゃ!!」

 

「……童の、頃!?」

 

 俺の頭の中の計算が、一瞬で弾け飛んだ。

 

 家康が幼少期に会った尼なら、今はとうに老婆、いや、とっくに亡くなっているはずだ。

 

「つまり、娘や孫の類ではなく……『本人』、ということか?」

 

 竹千代も、己の理解を超えた事態に目を瞬かせる。

 

 尼が、ニコニコと無邪気に笑った。

 

「正解。やっほー、家康殿。ビビりすぎー。まあ、その見事な狼狽顔を見るために、わざわざ江戸まで足を運んだんだけどね」

 

「お主……! 本当に、あの時の……!」

 

 家康は、幽霊でも見るかのように震えている。

 

「どういうことですか!? この人、何者なんですか!」

 

 俺の叫びに、尼は軽い調子で自ら名乗った。

 

「気づかない? まあ、普通はこんなに若いままだと気づかないか」

 

 尼は、悪戯っぽくウインクをした。

 

「私、『八百比丘尼』って呼ばれてるんだー」

 

 *

 

「八百比丘尼!?」

 

 俺は、思わず立ち上がって叫んだ。

 

「なんだ、その尼の名は」

 

 竹千代が怪訝な顔で俺を見る。

 

「ええと……! 後の世に広く伝わる、伝説の尼の名前です! 人魚の肉を食べて不老不死になり、八百年の間、ずっと若い姿のまま諸国を巡って木を植えたり、人々を助けたりしたとか、そういうお伽話の……!」

 

「正解!」

 

 八百比丘尼は、パンッと手を叩いた。

 

「まあ、八百年どころか、かれこれ千年くらいは生きてるんだけどね」

 

 竹千代の思考が、完全に停止した。

 

「せん、ねん……?」

 

 家康は、まだ呼吸を荒げながら動揺を引きずっていた。

 

「わしが幼き頃に見た尼が……半世紀以上経って、そのままの姿で目の前に現れるなど……」

 

「そうそう。家康ちゃん、昔から驚いた時に面白い顔してたよ。今も全然変わってないね」

 

「わしを『ちゃん』付けで呼ぶな!!」

 

 天下人が、顔を真っ赤にして怒鳴った。

 

「あの大御所様が、完全にツッコミに回ってる……!」

 

 俺は、目の前の存在が『神仏ノード』や『異星文明』とはまた違う、強烈な理外のバグであることを理解し始めていた。

 

「それで。……そのような伝説の者が、なぜわざわざわしに会いに来た」

 

 家康が、どうにか天下人の威厳を取り戻そうと凄みを利かせる。

 

 しかし、八百比丘尼は全く意に介さず、お茶菓子を勝手につまみながら答えた。

 

「趣味」

 

「……趣味?」

 

「うん。才能ありそうな子の『若い頃』に一度会っておいて、その子がしわくちゃに年老いてから、もう一度『答え合わせ』に会いに行くのが好きなんだよねー」

 

 八百比丘尼は、楽しそうに笑う。

 

「信長ちゃんにも会ったし、秀吉ちゃんにも会ったよ。……だから、今度は家康ちゃんの番かなって思って」

 

「……歴史上の三英傑を、全員ちゃん付けで呼んでる……」

 

 俺は、めまいがしそうだった。

 

「信長公と、秀吉公にも……会ったのか」

 

 竹千代が、信じられないというように呟く。

 

「うん。信長ちゃんは面白かったよ。若い頃から、目がギラギラに燃えててさ、常識なんてぶっ壊す気満々だった。秀吉ちゃんは、若い頃は本当に猿みたいに身軽に動いてたなぁ。でも……年を取って、天下の頂点に立ってからは、誰も信じられなくなって、ちょっと寂しそうだったけど」

 

 その言葉には、千年の時を生きる者だけが持つ、さらっとした、しかし確かな『歴史の重み』があった。

 

 家康は、何も言わずに押し黙った。

 

「で、家康ちゃんは……ふふ」

 

 八百比丘尼は、家康の顔をまじまじと見つめた。

 

「私が思ったよりずっと長生きして、思ったよりずっと……立派な『狸』になったね」

 

「……お主に言われると、どうにも無性に腹が立つのう」

 

 家康が、忌々しそうにそっぽを向いた。

 

 *

 

 俺は、どうしても気になることを口にした。

 

「というか、八百比丘尼さん。……あなたの口調、妙に『後の世』っぽいというか、現代風なのはなんでですか?」

 

「あー、これ? 私、地味に『未来』も覗けるからね」

 

「予知能力!?」

 

「そんな大層なものじゃないよ。正確に言うと、未来の可能性をたまーに『夢』みたいに見る感じ。絶対当たるわけじゃないから、あんまり便利じゃないよ。……でも、その時に未来の言葉とか服とか、変な流行りの知識がちょいちょい頭に混ざるんだよねー」

 

「それで、そんなに口調が軽いんだ……」

 

 俺が納得していると、八百比丘尼が、スッと俺の方へ顔を近づけてきた。

 

「あ、でも。国松君も、私と似たようなものでしょ?」

 

 俺の心臓が、ドクンと跳ねた。

 

「……え?」

 

「君から、プンプン『未来の匂い』がするもん。未来を予知してるんじゃなくて……ああ、なるほど。前世が未来の人間なんだ」

 

 竹千代が、鋭い視線を俺へ向けた。

 

「……すみません、兄上。一瞬で見抜かれました」

 

「隠す気もないのか、お前は」

 

「へー。転生系か。まあ、千年も生きてりゃ、そういう変なバグみたいなことも、たまにはあるよね」

 

「受け入れ方が軽すぎる!?」

 

 その時。

 

 俺の視界の端に、KAMI様が静かに現れた。

 

『彼女の言ってることは、全部本当よ』

 

(KAMI様! この人、何者なんですか!?)

 

『生きた伝説ね。世界線によっては、私とも知り合いだったりするわ。……まあ、この世界では、今のところただの他人だけどね』

 

(KAMI様と知り合いの世界線がある存在!? 格が違いすぎる!)

 

 俺が内心で震えていると、八百比丘尼が俺の視線の先──KAMI様のいる空間を、じっと見つめた。

 

「……ねえ。国松君。今、君の横にいる『変な黒い子』と話してる?」

 

「えっ!?」

 

 俺は飛び上がった。

 

『へー。この世界でも、私の姿が薄く見えるんだ。……やっぱり面白いわね、この尼』

 

(怖い怖い怖い! KAMI様を認識できる現地の人間とか、絶対に関わっちゃ駄目なやつだ!!)

 

 *

 

 家康が、ようやく天下人の気力を取り戻し、重い口を開いた。

 

「……不老不死、か。つまりお主は、神仏の理外の理を、その身に取り込んだのだな」

 

「そうそう。まあ、世間じゃ『人魚の肉』って言われてるけど、正確には人魚じゃないんだよね」

 

「人魚じゃない?」

 

「あれを勝手に『人魚』って呼んだ人間がいただけ。実際は、海のずっと奥底にいた、ちょっと変わった存在の『肉の塊』だったの」

 

 八百比丘尼は、思い出すように空を見た。

 

「食べちゃったら、体の中身が作り変えられちゃった。老いが完全に止まって、病気で死ななくなったの。……まあ、死なないって言っても、首を落とされたりしたら多分普通に死ぬから、完全無敵ってほどじゃないよ。病気にならないだけ。ちょっと面倒くさい身体になったなって感じ」

 

 彼女の口調には、物語によくある「死ねない悲劇の不死者」の絶望感など微塵もなかった。

 

「でもね、私は不老不死って、けっこう『便利』だと思ってるよ」

 

「……便利?」

 

 竹千代が眉をひそめる。

 

「うん。だって、人間ってすぐ死ぬじゃん? せっかく覚えたことも、見た美しい景色も、愛した人も、あっという間に寿命で失くしちゃう。……でも、長く生きると、色んな時代の、色んな面白いものが、自分の目で見続けられる。それって、すごく得だと思わない?」

 

「不老不死になったことを、悔いている感じでは全くないのですね」

 

 俺が驚いて言うと、八百比丘尼はケラケラと笑った。

 

「悔いる? なんで? 便利じゃん。毎日楽しいよ?」

 

「あ、そういう価値観なんだ……」

 

「人の死生観とは、根本からかなり違うな」と竹千代も呆れる。

 

「だって、私は『死なない側』だもん」

 

 八百比丘尼は、俺の顔をまじまじと見つめた。

 

「国松君、本当に面白いね。水神っぽいけど、水神そのものじゃない。未来の匂いがするけど、未来を全部知ってるわけじゃない。……なんか、『神仏ノード』? みたいな見えない仕組みにも、こっそり触ってるし」

 

「めちゃくちゃ見抜いてくる……」

 

「私も、そこそこ長く生きて、色んな理外を見てきたからね。……不老不死の仲間が増えるかと思ったけど、君は違うか」

 

「いや、不死の仲間は増えなくていいです。私は寿命でちゃんと死にたいので」

 

「えー。日本人って、どうして不老不死をそんなに怖がるんだろうね。みんな、病気になったり寿命で死ぬ時、あんなに苦しそうで大変そうなのに」

 

「……その話、いつか倫理観を巡って、絶対に大問題になるやつですね」

 

 俺は、千年の時を生きる彼女との、決定的な『価値観のズレ』を感じていた。

 

 *

 

 八百比丘尼は、茶を飲み干すと、ふうと息を吐いた。

 

「まあ、久しぶりの顔合わせは済んだし。……私、しばらくこの江戸の町にいるからさ。時々、お茶でも誘ってよ」

 

「江戸に滞在するというなら、城内に立派な部屋を用意させるが」

 

 家康が、監視の意味も込めて申し出るが、彼女はあっさりと手を振った。

 

「あー、いいよいいよ。城とか、作法が窮屈で息が詰まるし」

 

「では、どこに住む気だ」

 

「適当に、下町の『長屋』でも借りて暮らすから」

 

「不老不死の伝説の尼が、長屋暮らし、か……」

 

 竹千代が、頭が痛そうに呟く。

 

「楽しいよ? 長屋って噂が回るのが早いし、庶民のご飯も意外と美味しいしね」

 

「千年を生きた存在の生活感が、あまりにも庶民的すぎる……」

 

「それにさ。お城の上から人間を見下ろしてるより、下に混ざって一緒にワイワイやってる方が、人間って面白くて可愛いんだよね」

 

「公儀として、密かに監視はつけるぞ」

 

 家康が凄むが、八百比丘尼は笑って返した。

 

「いいよー。どうせすぐに撒けるけど、つけたいならどうぞ」

 

「……堂々と言うでないわ」

 

 *

 

 八百比丘尼は、スッと立ち上がった。

 

「じゃ、挨拶も済んだから帰るねー。家康ちゃん、長生きしてね。またね」

 

「……二度と来るな」

 

「竹千代君も、真面目すぎて胃に穴を開けないように、いい将軍になりなよ」

 

「……承知した」

 

「国松君。君はやっぱり面白いから、近いうちにお茶しようね」

 

「あ、はい……お手柔らかにお願いします」

 

 最後に、八百比丘尼は何もない空間に向かって手を振った。

 

「あと、黒い子にもよろしくねー」

 

『ふふ。やっぱり見えてるじゃない。じゃあね』

 

「ひぇっ……」

 

 八百比丘尼は、軽い足取りで襖を開け、そのまま飄々と去っていった。

 

 襖が閉まり、足音が遠ざかる。

 

 しばらくの間、座敷には、三人とも言葉を発せないほどの重い無言が続いた。

 

 *

 

 家康が、ドッと疲れ果てたように深く息を吐き出し、肩を落とした。

 

「……心底、驚き疲れたわ」

 

「大御所様が、あそこまで本気で狼狽するの、初めて見ました」

 

「あれは卑怯じゃろう……。わしがまだ右も左も分からぬ幼き頃に見た尼が、そのままの若い姿で、突然目の前に現れるなど。いかなる知恵者でも予想できるはずがないわ」

 

「八百比丘尼。……ただの伝説や御伽話と思っていたものが、実在したか」

 

 竹千代も、まだ信じられないというようにため息をついた。

 

「八百比丘尼まで普通に歩いてるのかよ……。いや、神仏ノードが実在して機能してる世界なら、おかしくはないのか……?」

 

『おかしくないわよ。この世界の神仏レイヤー、けっこう本気で脈々と生きてるもの』

 

「やっぱりこの世界、俺が思ってたよりファンタジー濃度が異常に高い……」

 

「国松」

 

 竹千代が、実務の顔に戻って問うた。

 

「あの尼を、どう見る」

 

 俺は、少し考えてから答えた。

 

「敵ではないと思います。少なくとも、今は」

 

「……」

 

「ただし、持っている知識量が桁違いです。不老不死で千年生きてるなら、歴史の『生き証人』どころの騒ぎじゃありません。それに、予知っぽい力もあるし、神仏ノードやKAMI様の気配も薄く見えている。……はっきり言って、公儀の力でどうにかできるような存在じゃありません。完全に『管理不能の上位存在』です」

 

「管理不能、か」

 

 家康が渋い顔をする。

 

「はい。でも、敵対して追い詰めるより、美味しい茶菓子を出して『茶飲み友達』くらいの距離感で繋いでおく方が、絶対に安全です」

 

「なるほど。敵に回して探るより、茶に誘ってご機嫌を取れ、か」

 

「御異物改方の対象としては、どう扱う?」

 

 竹千代の問いに、俺は端末を開いた。

 

「分類に、ひどく困りますね……」

 

 端末のログが、新しい情報を保存する。

 

『対象:八百比丘尼』

 

『分類:生体奇物/神仏レイヤー接続存在/不老長命個体』

 

『危険度:測定不能』

 

『敵対度:低』

 

『管理方針:物理的な強制管理不可。友好的な接触を推奨』

 

『備考:本人が長生きを楽しそうにしているので、適当に放置するのが最適』

 

「備考欄がひどすぎる!」

 

 *

 

 花火は、人間が火薬で作った、夜空に咲く小さな星だった。

 

 魔鏡は、人の技が作った、光の不思議だった。

 

 だが今回、江戸城に現れたのは、「物」ではない。

 

 千年という途方もない時間を生きた、一人の「尼」だった。

 

 伝説だと思っていたものが、普通に歩いてやって来る。

 

 家康公の幼い頃を知り、信長公と秀吉公を「ちゃん」付けで語り、未来の言葉を軽く混ぜて笑う。

 

 しかも、本人は「死ねない悲劇」に酔いしれるどころか、長生きを心の底から面白がっているのだ。

 

 この世界には、俺が思っていたよりずっと古く、ずっと深いものが、まだまだ当たり前のように眠っている。

 

 御異物改方が扱うべきものは、危険な道具や鏡や火薬筒だけではない。

 

 生きた伝説そのものが、ふらりと長屋から茶を飲みに来ることもあるのだ。

 

「……八百比丘尼までいるのかよ……」

 

 俺は、頭を抱えた。

 

 だが、同時に思った。

 

 敵でないなら、まだいい。

 

 話が通じるなら、なおいい。

 

 お茶に誘えばニコニコと来るなら、かなりマシだ。

 

 そんな風に「危険度の高低」で割り切って考えてしまう時点で、俺もこの理不尽な世界に、だいぶ毒され、慣れてきたのかもしれない。

 

 端末のログには、新しい分類が一つ、確かに増えていた。

 

『生きた奇物:八百比丘尼』

 

『対応方針:定期的に、美味しい茶菓子を用意すること』

 

「……御異物改方って、結局なんの部署だったっけ?」

 

 俺の小さな問いに答える者は、江戸城の奥深い座敷には、誰もいなかった。

 

 




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