暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
慶長二十年、春先。
吹き抜ける風にはまだ冷たさが混じっているが、日差しの温もりに、わずかな春の気配を感じる季節となった。
江戸城内の御異物改方の一室で、俺は筆を置き、凝り固まった肩を回して、深々と息を吐き出した。
「田んぼが本格的に動く前の、この束の間の静けさ……。今なら、少しはこの山積みの帳面を整理できるかもしれない」
水土御用の中心である「田法」の現場は、今の時期、まだ本格稼働には入っていない。
農村では苗代作りや種籾の選別といった細かな準備は始まっているものの、あの息つく暇もない田植えや、地獄のような稲刈りの時期に比べれば、いくらか心穏やかに過ごせる閑散期だ。
だが、机の上にそびえ立つ紙の塔が、俺の淡い現実逃避を無慈悲に打ち砕く。
『千歯扱き試作記録および安全運用手順』
『街道整備・補助金給付申請台帳』
『江戸近郊・蔵点検報告書』
『火薬遊技器具(花火筒)使用許可台帳』
『生きた奇物(八百比丘尼)対応・茶菓子支給記録』
「……いくらなんでも、最後の帳面は絶対におかしいだろ。なんで公儀の予算で千年ニートのオヤツ代を管理しなきゃいけないんだよ」
『でも必要でしょ? いつ機嫌を損ねるか分からない管理不能の上位存在なんだから、茶菓子一つでご機嫌取りができるなら安い投資よ』
「御異物改方の仕事が、完全に何でも屋の総務部みたいになってるんですけど……」
俺が机に突っ伏して現実逃避を試みようとした、まさにその時だった。
「若君。大御所様より、評定の間へお召しにございます」
新六郎の声が、俺を冷酷な実務の世界へと引き戻したのだった。
*
江戸城、評定の間。
上座には家康、秀忠、竹千代。
下座には本多正純をはじめとする幕閣の重臣たち、そして土木や普請に関わる実務の役人たちが、ずらりと顔を揃えていた。
俺は竹千代兄上の斜め後ろ、水土御用の説明役という定位置に控えている。
「田の本格的な時期に入る前に、大急ぎで片付けておくべきことがある」
家康が、居並ぶ面々を見渡して静かに切り出した。
「治水じゃ。……そして、道の整備じゃ」
俺は小さく頷いた。
「治水と、街道の整備ですか」
「うむ。田法を広げ、米をかつてないほど増やすというならば、ただ田ばかりを見ていてはならぬと、お前が言うたからな」
家康は、まるで将棋の盤面を眺めるような目で俺を見た。
「ならば。水が暴れて田を呑み込まぬよう、川の筋を整える。そして、余るほどの米が滑らかに運べるよう、道を平らかに整える」
「蔵をいくら増やしたところで、そこまで米を運べねば何の意味もない。道が泥濘んでおれば、人も、銭も、米も、そこで動きが止まる」
竹千代が、次期将軍としての冷徹な視点で補足する。
「江戸は、これからさらに人が増え、膨れ上がる。水路、堀、橋、道、そして水はけのための排水溝。いずれも今のうちに整えねば、町が立ち行かなくなる」
秀忠もまた、都市基盤の脆弱さに強い危機感を抱いていた。
俺は、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「……ええと。それ、今年の春だけで全部やるおつもりですか?」
「今やらねば、後で必ず詰む」
「大御所様の口から出る言葉が、完全にシステムの保守運用担当者のそれになってる……!」
*
その時、俺の視界の端で端末がピコンと光り、KAMI様からの補足情報がテキストで流れてきた。
『KAMI補足:いいこと、国松。この時代の道路整備や治水、堤防の普請、橋の架け替えといった大規模な土木工事は、しばしば近隣の民草に課される「賦役」や「夫役」として行われるのが常識よ』
(賦役……要するに、税としての労働提供か)
『そう。現代の感覚だと「えっ、賃金なしで公共工事に強制動員するの?」ってドン引きするだろうけど、この時代ではかなり当たり前の仕組みなの』
俺は、こっそりとため息をついた。
(もちろん、完全に無償とは限らない。現場での飯の支給があったり、年貢の減免措置があったりはする。でも、基本的には「お上からの命令だから、農作業を休んででも出ろ」という、強制力を持った負担だ。道も堤防も、誰かが作らないと生活が成り立たない以上、必要な仕組みではある。……でも、無理やり動員されたら、そりゃ民はしんどいよな)
『でも今回は、ちょっと事情が違うわね』
(違う?)
『あんたが作り出した「米の余剰」が、ここで効いてくるのよ』
*
「これまで、道普請や川普請は、近隣の村々に夫役として課すことが多かった」
家康が、重々しい口調で本題に入った。
「だが、此度は変える」
評定衆の間に、微かなざわめきが走った。
「働く者に、公儀から直接『米』を出す」
俺は、ハッと顔を上げた。
「……!」
「田法を推し進めれば、今年はさらに米が増える。蔵を大急ぎで増やさせておるが、それでもなお、江戸周辺の公儀の蔵には莫大な米の余裕が出る見込みじゃ」
家康は、楽しげに目を細めた。
「ならば、その米をただ蔵の奥で眠らせておくより、道と堤を作るために惜しみなく使う。……額に汗して働いた者には、その日のうちに、きちんとした量の米を渡してやるのじゃ」
「税としての強制的な労働ではなく、働きに応じて正当に報いる、ということですね」
竹千代が、その政策の意図を正確に言語化する。
「そうじゃ。扶持米、手間米、普請米。名は何でもよいわ」
家康は豪快に笑った。
「民草にとっては、力仕事に出れば確実に家族を食わせる米が得られる。公儀にとっては、余っている米を、新たな道と強固な堤へと変えることができる。……互いに損のない話であろう」
(余剰生産物である米を、公共事業の報酬へと直接変換する……)
『この時代にしては、かなり強烈なインセンティブ設計ね』
(インセンティブで労働力を大規模に集める公共事業……。これ、完全に米を使ったニューディール政策みたいになってきたな)
『言葉が時代違いすぎるけど、発想の根源は極めて近いわね』
*
「大御所様。この方針は、凄まじい効果が出ると思います」
俺は、現代の労働価値観を知る者として、力強く進言した。
「ほう。なぜそう言い切れる」
「税として、お上から無理やり働かされるのと。自分の意志で働きに行けば、その分だけ家族が食える米がもらえるのとでは……民の『やる気』が、根本から全く違ってくるからです」
評定衆の古参の役人たちが、微妙な顔を見合わせた。
この時代の武士階級には、「民草は、お上が厳しく命じれば当然のように働くものだ」という固定観念が根強い。
俺は、その感覚のズレを埋めるために言葉を尽くした。
「もちろん、公儀が命じれば民は恐れて集まります。……でも、嫌々やらされている者は、見えないところで必ず手を抜きます。隙あらば逃げようとします。注意力が散漫になるので、現場での怪我も増えます。結果として、作業の質は驚くほど雑になります」
役人たちが、思い当たる節があるのか、苦い顔で押し黙る。
「一方で。今日一日しっかり働いた分だけ、確実に米が出るとなれば、民は自分から進んで現場へ来ます。真面目に働けば、その日のうちに家の飯になるんです。ならば、必死になって手を動かす明確な『理由』があります」
俺は、さらに付け加えた。
「それに……銭の値打ちは変動しますが、米ならば、腹を空かせた銭を持たぬ者でも、その価値が一瞬で分かります」
「米ほど、誰もが理解しやすい分かりやすい報酬はないな」
竹千代が深く納得する。
「江戸周辺の民草だけでなく、噂を聞きつけて、近国の者たちまで押し寄せて来るやもしれぬな」
秀忠が、人の移動の活発化を予測する。
「間違いなく来ると思います。むしろ、現場の管理が追いつかないほど、来すぎるかもしれません」
俺が懸念を口にすると、家康の目が野心的に光った。
「よい。飯を求めて人が集まる町は、強い。……江戸は、もっと太らせねばならぬ」
*
そこから、大急ぎで具体的な制度設計が始まった。
家康の鶴の一声で、この報酬米は『普請米』と名付けられた。
「治水、道路、橋の架け替え、堀の浚渫、排水溝の整備。これらに従事する者へ、公儀の蔵から米を支給する。支給量は一日単位、あるいは切り出した土の量などの作業単位とする」
「石工や木工、鍛冶、測量ができる『腕のある熟練者』には、当然多めに米を出す。だが、技術のない単純な土運びの人足にも、その日の命を繋ぐ最低限の米は必ず出すこと」
「作業中の怪我人には、手当として一部を扶助する。雨天で作業が中止になった際の、待機中の飯の扱いも明確に決めておくべし」
俺は、現場の混乱を未然に防ぐために口を挟んだ。
「ただ米を配るだけでは駄目です。絶対に『人足札』を作って管理してください。誰が、どこの現場で、何日働いたか。それを帳面に記録しないと、ものすごい数の不正が出ます」
「幽霊人足か」
竹千代が鋭く反応する。
「はい。現場の監督役と結託して、実際には働いていないのに、名前だけ登録して普請米を掠め取る連中が、絶対に発生します」
「出るな。人間というものは、そういうずる賢い生き物じゃ」
家康が、呆れるどころか深く納得して笑う。
「大御所様の、人間の悪意に対する理解が早すぎる!」
*
「米は、ただ闇雲に蔵に積み上げておけばよいというものではない」
家康は、評定を締めくくるにあたり、自らの統治哲学を語った。
「世に余れば、米の値が崩れて武家が困窮する。長く置けば腐って大損じゃ。鼠に食われれば、それこそ完全な無駄となる」
「ならば。その米が最も価値を持つうちに、人の腹へ入れ、その人間の力で道と堤を作らせる」
家康は、力強く言い切った。
「米を強固な道に変え、米を暴れぬ堤に変え。……余剰の米を、これからの江戸の『骨』に変えるのじゃ」
「米を、物理的なインフラに変換する……」
俺が前世の言葉で呟くと、竹千代が小声で応じた。
「言い方は妙だが、大御所様の狙いは正しくそれだ」
『農業の生産余剰を、都市の公共資本へと直接ダイナミックに変換する。……いいじゃない。いよいよ本格的な国家運営っぽくなってきたわね』
(KAMI様、今のセリフ、絶対にこの時代の人間の前でうっかり口走れないやつです)
*
数日後。
江戸およびその近郊の村々、街道の宿場に、公儀からの高札が立てられた。
『江戸近郊の道普請、および川普請に出る者には、公儀より直接米を支給する』
『働きに応じ、その日の夕刻に普請米を渡すものなり』
『腕のある職人、石を運べる者、木を組める者、土を掘れる者。身分を問わず、広く集まるべし』
最初、高札を見た民草の反応は、極めて半信半疑だった。
「普請の力仕事に出たら、お上から米がもらえるだと?」
「どうせ、名目を変えたただの夫役だんべ?」
「後になって『やっぱり年貢から引いとくわ』とか言われて、結局ただ働きになるに決まってる」
だが、恐る恐る最初に参加した者たちが、夕暮れ時に、ずっしりと重い米袋を抱えて村へ帰ってきたことで、空気は一変した。
「ほ、本当に出たぞ!!」
泥まみれになった男が、興奮して叫ぶ。
「一日、汗水垂らして働いただけで、家の女房子供が数日腹いっぱい食えるだけの真っ白な米がもらえたんだ!」
「しかも、現場の役人に理不尽に殴られなかったぞ! 『もっと早く土を運べば、明日は少し色をつけてやる』って言われた!」
この「働けば、その日のうちに確実に米になる」という噂は、まるで乾いた草に火が放たれたかのように、爆速で関東一円へと広まっていった。
近隣の農村の次男坊や三男坊、仕事にあぶれていた日雇い人足、大坂の陣で行き場を失っていた牢人たち、そして明日の飯にも困っていた食い詰め者たちが。
生きるための米を求めて、怒涛の勢いで江戸へと向かい始めたのである。
*
道普請の現場は、これまでの重苦しい強制労働の空気とは、全く異なっていた。
街道の酷い泥濘に、一列に並んだ人足たちが掛け声を合わせて砂利を運び入れる。
雨水が溜まる場所に、大急ぎで深い排水溝が掘られていく。
小川には真新しい丈夫な木橋が架けられ、崩れやすい土手には、竹と石で強固なしがらみが組まれていく。
俺は、馬に乗って現場の視察に訪れ、その異様な熱気に目を見張った。
「……うわ、作業の進みが尋常じゃなく早い……」
「普請米の効果か。皆、目が血走っておるな」
同行していた竹千代が、呆れたように呟く。
「税として、鞭で叩かれながら嫌々やらされるのと。働いた分だけ、自分と家族の命を繋ぐ米が手に入るのでは、人間の出力が全然違いますね」
現場からは、活気に満ちた怒号が飛び交っている。
「おい! 今日はもう一刻粘って働けば、もう一升米が追加で出るってよ!」
「なら、日が落ちるまでもう少しやるか! 俺が土を運ぶから、お前は固めろ!」
「おいコラ、そっちの排水溝、雑にやるな! 雨で崩れて役人の検分に引っかかったら、やり直しだぞ!」
「やり直しになったら、明日の分の米が減らされるからな! きっちり踏み固めろ!」
「……すごい。インセンティブの力で、現場の自主的な相互監視が働いて、作業品質まで劇的に上がってる……!」
『労働に対する正当な報酬が即時で出ると、人間はここまで本気になれるのよ』
*
だが、事態は「道が早くできる」という単純な結果だけには留まらなかった。
公儀の予想を遥かに超える数の人間が、凄まじい勢いで江戸の周辺に集まり始めたのだ。
近隣農村からの余剰労働力。
流れてきた牢人。
職人の見習い。
荷運びの馬子。
彼らを頼ってついてきた女房子供たち。
そして、その『集まった人間たち』を目当てに、抜け目ない商人たちが群がってきた。
江戸の普請現場の近くには、葦簀張りの臨時の『人足小屋』や『飯場』が、雨後の筍のように立ち並び始めた。
「……これ、完全に公共事業による急激な人口流入ですね」
俺が青ざめて呟くと、竹千代も厳しい顔で周囲を見渡した。
「人が一箇所に集まれば、当然、彼らを食わせねばならぬ」
「そうです。そして、人が集まるところには、必ず新しい『商売』が自然発生します」
実際、普請現場の周辺には、あっという間に無数の屋台や露店が立ち並んでいた。
塩気の効いた巨大な握り飯。
具沢山の熱い味噌汁。
串に刺した焼き魚。
塩漬けの大根。
湯気を立てる芋の煮物。
さらに、過酷な労働で擦り切れた草鞋を売る者。
泥を落とすための簡易な湯屋。
髪結い。
疲れを癒やすための怪しげな酒売りまで。
過酷な土仕事を終えた人足たちが、その日受け取った普請米の一部を銭や別の品に交換し、屋台に群がって飯を食い、酒を呷っている。
「公儀の普請様々だぜ! 人が山ほど集まるところに、温かい飯を出しゃあ飛ぶように売れる!」
屋台の親父が、汗だくになりながら笑う。
「……飲食街が、完全に自然発生している……」
俺は、目の前で一つの都市経済圏がボコボコと生まれ育っていく様を、恐ろしさすら覚えながら見つめていた。
『おめでとう。巨大な公共事業の予算投下が、都市経済をダイナミックに刺激し始めたわね』
「だから、また現代経済学っぽい言葉でまとめるのやめてください!」
*
当然ながら、急激な人口流入は良いことばかりではない。
俺の文机には、毎日大量のトラブル報告が舞い込むようになった。
『人足札の巧妙な偽造と、幽霊人足による米の不正受給』
『口入れ屋による、法外な中抜きと暴力支配』
『普請米の裏流しと、不当な安値での買い叩き』
『酒気帯びによる人足同士の流血の喧嘩』
『食い詰めた牢人同士の派閥争い』
『違法な賭博の横行』
『密集した葦簀張りの屋台による、深刻な火災リスク』
『糞尿の垂れ流しによる水質汚染と、衛生状態の悪化』
『寝床不足による野宿者の増加』
『夕刻の米支給所における大暴動寸前の混雑』
「……やっぱり、予想通り問題だらけじゃないか!」
俺が頭を抱えて絶叫すると、竹千代が冷たく言い放った。
「人が集まれば、欲が集まる。欲が集まれば、当然問題も集まる」
「当然じゃな」
家康は、報告書を見ても全く動じていなかった。
「だが。これほど面倒な問題が次々と吹き出すほど、江戸に大量の人が集まったということでもある」
「大御所様、いくらなんでも前向きに捉えすぎでは!?」
「問題の形がはっきりと見えているのならば、一つずつ公儀の力で潰せばよいだけのことじゃ」
*
俺は、大急ぎで『飯場・屋台・衛生管理マニュアル』を策定し、現場の役人たちを怒鳴り散らして回った。
「人足札は、ただの木札じゃ駄目です! 毎日、日替わりで複雑な焼印を押してください! 支給所では、名前と出身村を名簿と突き合わせて記録! 監督役は必ず複数配置して、癒着を防ぎます!」
「米の支給所が一箇所だからパニックになるんです! 現場ごとに細かく分散させてください!」
「屋台が勝手に密集すると、火が出た時に一発で全焼します! 屋台を出す区画を厳密に指定して、火を使う屋台の横には、必ず水桶と砂を常備させてください! 油を使う揚げ物は、まだ早いので当面禁止です!」
「人が増えたら一番怖いのは疫病です! 飯場ごとに、水場から離れた風下に深い便所を掘らせてください! 水路の上流で用を足した奴は、普請米没収の上で追放です!」
さらに、竹千代と相談し、集まってきた厄介な牢人たちの扱いも決めた。
「腕っぷしが強く、字が読める牢人は、ただ土を掘らせるのではなく、現場の『監督役』や『警備役』として日雇いで採用します。彼らに少し色をつけた米を出し、無法者の取り締まりや、口入れ屋の暴力から小百姓を守らせるんです」
「大坂の陣で浮いて流れてきた牢人たちの、不満の吸収にもなるな」
竹千代が頷く。
「はい。働けば確実に飯が食えて、少しは武士としての誇りも保てる場所があるだけで、江戸の治安は劇的に変わりますからね」
*
数週間後。
家康は、再び自ら馬に乗り、江戸近郊の普請現場を視察して回った。
広々とした新しい街道がどこまでも続き、無数の人足たちが活気のある声を上げながら働き、区画整理された屋台には香ばしい匂いが漂い、日暮れには膨大な米が滑らかに人々の手へと渡っていく。
「なるほどのう」
家康は、その光景を眩しそうに見渡した。
「米を出せば、人が集まる」
「人が集まれば、腹を空かせて飯屋が出る」
「飯屋が出れば、そこから銭が回り始める」
「銭が回れば……新しい町が、勝手に育っていく」
「はい」
俺は、馬上で頷いた。
「ただの公共事業が、土を動かすだけでなく、都市経済そのものをダイナミックに育て始めています」
「江戸は……今の数倍、いや数十倍、途方もなく大きな町になるな」
「ただし、無秩序に膨れ上がらせれば、いずれ必ず大火事と疫病と治安の悪化を招き、町は自壊します」
竹千代が、為政者としての厳しい目を向ける。
「兄上の言う通りです。だからこそ、今から本格的な『都市計画』が必要になります」
「都市計画、とな」
家康が問う。
「町をただ広げるのではなく。大名屋敷、主要な街道、水路、火の手を止める火除地、清潔な井戸、共有の便所、職人の町、商人の町、そして米や材木を置く蔵地。……それらを全部計算して、意図的に配置していくことです」
「また、聞いたこともない後の世の言葉か」
「はい。ですが、今ここから真剣に考えないと、江戸が数十万の巨大都市になった時に、完全に詰みます」
『おめでとう。戦国の終わりから、いよいよ「江戸大都市計画編」が始まりそうね』
(やめてください、聞かなかったことにしますから!)
*
この「労役から賃仕事への転換」は、周囲の武士たちに少なからぬ戸惑いを与えていた。
「民草に、わざわざ公儀の米を出して働かせるなど、無用の甘やかしではないか」
古参の武士が、不満げに口にするのを、俺は真っ向から否定した。
「甘やかしではありません。これは、完全な『効率化』です」
「効率?」
「はい。鞭で打って嫌々働く者を十人集めるより、明日の家族の飯が欲しくて本気で働く者を五人集めた方が、作業は圧倒的に早く、そして綺麗に仕上がります。結果として、公儀の負担は減るんです」
竹千代が、俺の言葉を理論で援護する。
「さらに、民が働くことで米を得れば、誰も飢えぬ。飢えぬ民は、決して一揆や盗賊にはならぬ。そして、彼らが作った道が整えば、年貢も商いもより滑らかに江戸へ流れ込む。……これは、ただの施しなどではない。国を根底から太らせるための『投資』なのだ」
「投資、か」
家康が、ニヤリと笑った。
「『補助金』に続いて、また政の理として面白く使えそうな言葉じゃな」
(また私の何気ない現代語が、幕府の公式コンセプトに採用されてしまった!)
*
だが、俺は有頂天にはならず、冷水を浴びせることも忘れなかった。
「大御所様。ただし、注意点も山ほどあります。米を市場に出しすぎれば、米価が暴落して武家が困ります。逆に、江戸に人が集まりすぎれば、味噌や塩、薪といった生活必需品が不足し、値が跳ね上がるかもしれません」
「うむ」
「屋台が増えれば火事のリスクが跳ね上がり、酒が増えれば刃傷沙汰が増え、宿が足りなければ野宿者が凍死するか病に倒れます。……つまり、米を出せば全てが魔法のように解決する、というわけではないのです」
「米は、人を動かす強烈な燃料じゃ。……だが、燃料をくべれば、当然凄まじい『熱』も出る。その熱を上手く逃がす仕組みがなければ、竈そのものが爆発して大火事になる、ということか」
家康の理解力は、恐ろしいほど早かった。
「道普請の進み具合だけでなく、江戸市中の市場の物価と、治安と、衛生状況も、同時に厳密に見張る必要があるな」
竹千代が、新たな監視体制の構築を思考する。
「そうです。公共事業というものは、一つの歯車を回し始めると、周囲の経済と社会の歯車が全部連動して回り始めてしまうんです」
「面白い」
家康が、またしても楽しそうに笑う。
「大御所様が面白がる時、だいたい私の睡眠時間が削られて、新しい仕事が増えるんですよ……」
俺の悲痛な訴えは、吹き抜ける春の風に流されていった。
*
朝。
各地から集まった人足たちが、支給所で日替わりの焼印が押された木札を受け取り、それぞれの現場へと散っていく。
堀の黒い泥をさらい、道に砂利を敷き詰め、巨大な木のハンマーで掛け声とともに橋の杭を打ち込む。
昼。
汗だくになった彼らは、区画された安全な屋台村で、温かい汁と握り飯をかき込む。
夕方。
一日の労働を終え、ずっしりとした『普請米』を受け取った彼らの顔には、疲労以上の確かな充実感があった。
その米の一部を銭に換え、帰りに味噌や塩、新しい草鞋を買い求める。
商人は在庫を補充するため、さらに遠くから品を仕入れる。
江戸という町が、「殺伐とした武士の政治都市」から、巨大な「労働と消費のエネルギーが渦巻く経済都市」へと、ものすごい音を立てて変貌し始めていた。
「……江戸が、完全に動き始めてる」
俺は、土埃と飯の匂いが混じる町の喧騒を見下ろしながら呟いた。
『徳川の首都が、ようやく本当の意味で『都市』らしくなってきたわね』
*
農村の田んぼは、まだ本格的には動いていない。
苗代の稲は、まだ青くすらない。
だが、この江戸ではすでに、莫大な量の米が動き、無数の人が動き、そして国を支える巨大な道が動き始めていた。
かつて、道普請や川普請は、民に一方的に課される重く苦しい『労役』だった。
お上に命じられ、嫌々家を出て、鞭で急かされ、疲れ果てて村へ帰るものだった。
だが今、俺の目の前の江戸では、少しだけ違うことが起きている。
働けば、米が出る。
米が出れば、家族が腹いっぱい食える。
家族が食えれば、また明日も力強く働ける。
そうして泥にまみれて掘られた水路が、道が、橋が。
これからの数百年を支える、巨大な江戸という町の『骨格』になっていくのだ。
泰平の世とは、ただ戦がないだけの静かな世の中ではない。
人が働き、食い、商いをし、安全に移動し、そしてまた明日も働ける。
……そういう血の通った『仕組み』が動いている世の中のことなのだ。
俺は、その巨大な仕組みが、まさに目の前でダイナミックに産声を上げていくのを見ていた。
ただし、もちろん。
その仕組みが暴走せずに機能し続けるための、山のような『帳面』も、同時に俺の机の上に発生し続けていたわけだが。
『普請米・日別支給台帳』
『人足札・偽造防止管理帳』
『屋台村・火災防止および区画規定』
『臨時飯場・便所および衛生環境確認帳』
『江戸近郊・道路整備進捗および物価影響表』
「……田んぼが閑散期なのに、なんでこっちの部署が、目の回るような繁忙期になってるんだよ……!」
俺は、机の上の書類の山に頭を打ち付けた。
江戸の町では、今日も力強く土を掘る音と、屋台から立ち昇る温かな湯気と、人足たちの野太い笑い声が響いていた。
血で血を洗う戦国の世は、確かに終わった。
だが。
泰平の世の巨大な『工事現場』は、まだ始まったばかりだった。
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