暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
江戸城の奥、御異物改方の一室。
夜の静寂が包み込む中、俺はただ一人、蝋燭の揺れる灯りを頼りに机へ向かっていた。
周囲には、今日一日で処理しきれなかった膨大な書類が、雪山のように崩れかけている。
『外国船入港札の書式』
『港別登録制度の港別分類表』
『外国御用屋敷の建設案』
『永冷石氷室箱・海外売却契約の控え』
『永冷石箱貸与台帳』
『海外商人が差し出した品々の目録』
『通詞不足による増員要請の報告』
『宗教物検分の覚書』
俺は、擦り減った筆を置き、両手で顔を覆って深々と息を吐き出した。
「……永冷石の箱、やっぱり海外へ出しちゃまずかったんじゃないか?」
表向きは、まだ何も起きてはいない。
あの理外の冷気を発する木箱は、たった一台だけ、厳重な梱包のもとに江戸を出発し、平戸や長崎、マカオ、マニラ、あるいは明国や遥か欧州へと、その波紋を広げ始めたばかりだ。
大御所様の老獪な考えは、痛いほど理解できる。
相手を強烈な欲で釣り上げ、日ノ本の港別登録制度に従わせ、江戸に彼らの金で館を建てさせ、最先端の技術者を派遣させる。禁教令も完璧に守らせる。二台目以降をチラつかせることで、世界の欲望を丸ごと徳川の法の中へ引きずり込む。
……外交戦術としては、これ以上ないほど完璧で恐ろしい一手だ。
だが、戸に彼らの金で館を建てさせ、最先端の技術者を派遣させる。禁教令も完璧に守らせる。二台目以降をチラつかせることで、世界の欲望を丸ごと徳現代の科学知識を持つ俺の頭は、その先にある『別の恐ろしさ』を想像してしまうのだ。
「あれ、ただの便利な『冷蔵箱』なんかじゃないんだよな……」
俺は、無人の部屋で独り言をこぼした。
「現代科学の目で真面目に観測したら、絶対に物理法則がおかしいやつだ。冷たい石じゃない。周囲の熱を延々と奪い続けているのに、石そのものは全く温まらないし、熱をどこかに捨てている様子もない。排熱先不明の熱ポンプ。局所的なエントロピー低下装置。……神仏ノード結合型の熱操作端末」
「……うん。これ、完全に『世界史の概念をぶっ壊す爆弾』だ」
俺は、自分の放った一手が、江戸時代の農政や幕府の制度だけでなく、遠い未来の人類文明の方向性すら捻じ曲げてしまうのではないかと、胃の痛くなるような恐怖に襲われていた。
「大丈夫なのか、これ。もし現代まであの箱が残ったら、調べた科学者が物理法則の崩壊に直面して発狂するぞ……」
その時。
ふっと、俺の視界の端の空間が歪み、黒いゴスロリ風のドレスを着たKAMI様が、音もなく空中に現れた。
『やっほー。案の定、胃を抱えて悶え苦しんでるわね』
「うわ、出た。深夜残業の幻覚」
『失礼ね。せっかく、あんたの選択で歴史が少し面白く変わったから、わざわざ見に来てあげたのに』
「……歴史が、変わった? それって、どのくらいですか?」
KAMI様は、意地悪そうに目を細めて笑った。
『そうね。言葉で説明するより、直接『見た方』が早いわ』
*
KAMI様が、空中でパチンと指を鳴らした。
途端に、俺の机の上に置かれていた水差しの水が、ひとりでにフワリと宙へ浮き上がり、薄い円盤状に広がって、鏡のような美しい水面を形成した。
「……これ、外から見たら完全に怪奇現象のポルターガイストですよね」
俺が引き気味に言うと、KAMI様はケラケラと笑う。
『安心して。これはあんたの網膜に直接干渉してるだけだから、外の護衛からは、ただあんたが虚空を見つめてボケーッとしてるようにしか見えてないわ。システム支援画面みたいなものよ』
水鏡の表面が波立ち、そこに『未来の断片』と思われる映像が、次々と映し出され始めた。
『いいこと。あらかじめ前置きしておくけど、これは『確定した未来』じゃないわ』
「確定じゃない?」
『そう。あの永冷石箱が世界へ流通し、その存在が奇跡的に現代まで残り、さらに優秀な研究者たちがその『本質』へ辿り着くことができた場合の……極めて上手く繋がった世界線のシナリオよ』
「繋がらない場合は、どうなるんですか?」
『ただの謎の箱として歴史に埋もれる。王家の失われた秘宝として噂だけ残る。あるいは、無知な奴が壊してただの木っ端になる。戦争で焼失する。船と一緒に海底に沈む。……そういう、何の結果も生まない分岐の方が圧倒的に多いわ』
『でも。あんたが一番気にして怯えてるのは、『もし現代の科学の目に見つかって、上手く繋がってしまったらどうなるか』ってことでしょ?』
「……はい」
俺は、無言で頷き、水鏡の奥を覗き込んだ。
*
水鏡に映し出されたのは、近世から近代にかけての、西洋の歴史の断片だった。
永冷石箱は、各国の王侯貴族、巨大商会、宮廷、大商人たちの間で、世界の富を積んでも手に入らぬ『極めて希少な秘宝』として、暗闘の歴史とともに流通していく。
だが、その数は決して爆発的には増えない。
『永冷石の増殖は、神仏ノードのエネルギーを操作できる、あんただけの特権みたいなものだからね。彼らの技術では、絶対に増やせないわ』
「理屈の上では、不可能なんですか?」
『厳密に言えば、これを生み出した異星文明のエネルギー系基幹アーティファクトが手元にあれば、増やせなくはないわ。でも、それをまともに扱えるだけの認識とエネルギー変換能力が、人類にはほぼ存在しないの。……つまり、実質不可能ね』
「じゃあ、俺が作った分だけが、少しずつ世界を巡るのか」
『そう。だから、永冷石箱は世界中に『ごく少数』だけ残る。王家の宝物庫、古い修道院の地下、商会の秘密倉庫、沈没船、近代の博物館、軍の秘匿研究所。……そういう場所に、ひっそりとね』
水鏡には、様々な時代の永冷石箱の数奇な運命が映る。
ある王が真夏に氷を取り出して絶対の権威を示し、ある修道院が腐らない薬の箱として秘蔵し、ある商人が香辛料を運ぶ切り札として使い、ある箱は戦争の炎に巻かれて失われ、またある箱は海難事故で冷たい海底へと沈む。
そして近代。生き残った箱の一つが、博物館の奥で「由来不明の冷却効果を持つアンティーク木箱」として保管されている。
「……やっぱり、世界の謎のオーパーツとして残るのか」
『残るわね。だって、無電源で熱を奪うんだもの。便利で、神秘的で、しかも絶対に再現できない。……人類の知的好奇心を刺激するには、最高の代物でしょ』
*
水鏡の映像が、さらに進む。
近代の、埃っぽい研究所。白衣を着た研究者たちが、古い永冷石箱を囲み、メスを入れるように慎重に分解しようとしている。
「あ、やっぱり分解する奴は出るんだな」
『当たり前でしょ。人類の科学者が、未知の現象を前にして『中身を開けて調べない』わけがないじゃない』
だが。研究者の手によって、箱から剥がされた『永冷石化花崗岩の薄板』が、分析のために割られた瞬間。
その板から、魔法のような冷却効果が、急速に失われていくのが見えた。
割れた板は、ただの花崗岩に近い、ありふれた物性へと戻ってしまう。一部に異常な熱履歴の痕跡は残るものの、「熱を奪い続ける」という異常な能力は、完全に消え去った。
『永冷石は、単なる『冷たい成分でできた石』じゃないのよ』
「どういうことですか?」
『花崗岩という安定した物質の基材に、異星文明の思念由来の特性が『刻印』されているの。形状の連続性、刻印の安定状態、そしてノード由来の残留エネルギー……それらが全て揃って、初めて効果を発揮する』
『だから、乱暴に砕いて構造を破壊すれば、刻印が壊れて、ただの冷たい石ころに戻るわ』
「だから……流通した永冷石箱の持ち主は、薄い板として、箱のまま慎重に扱うしかなかったのか」
『その通り。そして、だからこそ研究者たちは死ぬほど困るのよ。『中を詳しく調べたい。でも、壊すと効果が完全に消える』。……ブラックボックスのまま、外側から観測して調べるしかないの』
*
水鏡の時代が、一気に俺たちの知る『現代』へと飛ぶ。
明るく、機材の唸る近代的な研究所。
そこには、巨大な真空断熱チャンバー、高精度の温度センサー、熱流計、質量測定器、赤外線サーモカメラ、そしてスーパーコンピューターの解析画面が並んでいた。
永冷石の薄板が、壊さぬように慎重にチャンバーの中へ固定されている。
白衣の科学者たちが、観測結果を見て頭を抱え、激しい議論を交わしている。
『初期観測:周囲の水や空気から継続的に熱が奪われている』
『石本体の温度は一定以下に下がらず、また温まってもいない』
『外部への排熱が一切観測できない』
『質量の変化は誤差の範囲内』
『電力等のエネルギー入力はゼロ』
『磁場、電場、放射線、真空による遮蔽を行っても、冷却効果が消えない』
『成分分析では地球上の花崗岩に極めて近い。同位体比も異常なし』
『……だが、熱力学的挙動だけが、完全に狂っている』
「これは冷たい石ではない! 排熱先が全く観測できない、未知の熱ポンプだ!」
「熱を延々と吸っているのに、石が温まらない! 吸い込んだ熱は、一体どこへ消えたんだ!?」
「局所的には、エネルギー保存の法則に真っ向から喧嘩を売っているぞ!」
「熱力学第二法則もだ! 周囲のエントロピーが確実に下がっているのに、対応する宇宙のどこかのエントロピー増大、排熱先が見つからない!」
学会では、無数の仮説が乱立し、大論争が巻き起こる。
石の内部に異常に大きな熱容量が隠されているとする『超高熱容量物質説』。しかし必要な熱容量が地球の質量を超えかねず破綻。
内部で未知の相転移が起きているとする『未知相転移説』。相転移の終端がなく、質量変化も説明できず破綻。
熱を観測不能な別次元へ捨てているとする『非局所排熱説』。最も有力視されるが証明不可。
そして、分子運動を選別する未知の情報処理機構があるとする『マクスウェルの悪魔説』。
最終的に、現代の科学者たちは、この説明不可能な現象に、とりあえずの仮名をつけるしかなかった。
『永冷効果(Eternal Cooling Effect)』
『非局所熱流出現象』
『局所エントロピー低下現象』
俺は、水鏡に映る現代科学界の大混乱を見ながら、完全に青ざめていた。
「うわあ……。これ、完全に科学史に投下された特大の爆弾になってるじゃないですか」
『でしょうね。物理学者にとっては、悪夢みたいなオーパーツよ』
『でも、この段階では、人類の科学力じゃまだ『解けない』わ』
*
『この異常性は、かなり長い間、「解明不能だが確実に実在する異常熱現象」として歴史に残るわ』
「成分的には花崗岩で、未知の極端な新元素が出るわけでもない。でも、熱の動きだけが絶対に説明できない。……科学者にとっては、地獄ですね」
『ええ。無数の論文、反論、再現不可能な追試、陰謀論、神の奇跡と崇める宗教団体、軍事的な秘匿研究、民間からの莫大な投資……ありとあらゆる欲望が渦巻くわ』
水鏡には、現代社会がこの石に振り回される断片が映る。
『永久冷却装置ついに実在か!』と騒ぐネットニュース。『熱力学第二法則、ついに崩壊!』と煽るメディア。博物館や王家の末裔が所有権を巡って泥沼の訴訟を起こす様子。
『でも、主流の科学界としては、2070年頃までずっと「原因不明の実在現象」扱いのままね』
「2070年……」
『そして。そこでようやく、人類はある致命的な『ブレイクスルー』を見つけるのよ』
*
水鏡の光が切り替わる。
時代は、2070年前後。疲れ切った科学者たちと、無数の測定器。
そしてそこに、少し雰囲気の違う『被験者』たちが並んでいた。
『ここで、ある研究者が、科学の常識から外れた馬鹿みたいな仮説を立てるのよ』
『永冷石が吸い込んでいるのは、物理的な熱エネルギーではなく。……人間の『意思』に反応して、因果律を書き換えているのではないか、と』
「……意思?」
『そう。強い思い込み、祈り、明確な認識、期待、確信。……人間の脳が発する単なる電気信号の束じゃなくて、世界の因果律へ微細に干渉する、情報的なエネルギーよ。あんたたちが、無意識に『神仏ノード』で扱っているものに非常に近いやつね』
研究者は、通常の物理実験を諦め、被験者を使った実験を行う。
強い祈りを持つ修行僧。異常な直感力を持つ人物。予知めいた能力を示す者。いわゆる超能力者と呼ばれる者。……のちに『因果律改変者』と分類される存在たち。
彼らが、限界を迎えて冷却力を失いかけていた永冷石に触れ、強く『冷えろ』と念じた瞬間。
永冷石の冷却能力が、観測データ上でわずかに回復した。
研究室の空気が、文字通り凍りついた。
「……再充填、した……?」
「あり得ない。物理的なエネルギー入力はゼロだ。熱でも電気でも放射線でもない。……これは、被験者の『意思の強さ』と完全に相関している!」
俺は、ゴクリと唾を呑んだ。
「うわ……。気づいちゃったのか」
『ええ。人類が、ついに『人間の思い込みが、現実に物理的な干渉をしている』という事実に、科学のメスを入れた瞬間よ』
*
2070年代。
永冷石の研究は、物性物理学の枠を完全に超え、情報科学、認知科学、そして『因果律理論』という新たな学問領域へと爆発的に広がっていく。
新しい仮説が、世界を覆う。
『永冷石とは、物質そのものが冷気を発しているのではない。花崗岩という安定した基材に、人間の意思エネルギーによって「冷却し続ける」という物理特性が『刻印』されただけの物体である』
つまり。
「思い込みが現実に干渉し、歪めた痕跡が、物質に固定されている」のだ。
「つまり……」
俺は震える声で言った。
「永冷石は『冷える石』じゃなくて……『私は冷え続けるものだ、と世界に思い込ませるようにプログラムされた石』だったってことですか……?」
『かなり雑な表現だけど、大筋としてはそうね。正確には、異星文明が高次の意思エネルギー制御で、物質に特定の性質を固定したものだけど』
「それを……人類が、科学の力で解明しちゃったのか」
『ええ。永冷石という、絶対に否定できない『物証』があったから、科学は逃げられなかったのよ。現象がある。消えない。再現性がある。物質に痕跡が残っている。……だから、科学のメスはそこへ向かうしかなかった』
*
水鏡の未来が、さらに加速する。
2075年。
人類は、この『意思エネルギー』を測定し、訓練によって増幅し、工学的に制御する方法を確立し始める。
最初は、ごく小さな現象からだ。
紙片をわずかに動かす。水温を0.1度変える。金属の疲労破壊を少しだけ遅らせる。傷の治癒をほんの少し促進する。機械の確率的な故障率を、微妙に下げる。
だが、それが『工学』として体系化されると、爆発的な進化を遂げる。
『人類は、思い込みの力で、因果律を微小に改変する技術へ辿り着いたの』
『もちろん最初は効率が悪いわ。でも、測定器ができる。訓練法が確立する。エネルギーの増幅器が作られる。……そして、それを教える『教育機関』ができる』
水鏡には、見たこともない近未来の社会が映し出された。
『意思エネルギー研究所』
『因果律干渉実験室』
『魔法工学部』
『魔法師養成学校』
『医療魔法技術者』
『産業魔法安全管理士』
『国家認定魔法師』
そして……。
『軍所属・因果律干渉官』
「……魔法師が……国家資格を持つ『職業』になってる……」
『ええ。人類は、科学を捨てたわけじゃないわ。科学という強固な枠組みの中に、『魔法』というバグを完全に組み込んで、新しい工学として運用し始めたのよ。……物質の限界を突破するためにね』
*
俺は、呆然として水鏡を見つめていた。
「俺……やっぱり、人類の歴史の根幹を、ものすごく大きく変えちゃったんじゃ……」
『変えたわよ』
「答えが軽い!!」
『事実だもの。……本来の人類史のルートでは、人類はもっと長く、もっと絶望的に『物質科学の壁』にぶつかり続けるの。エネルギーの枯渇、資源の限界、環境破壊、宇宙開発の停滞、生体寿命の限界、情報処理の熱問題。……いろんな壁にぶつかって、わりと詰んでる分岐も多いのよ』
「詰んでるの!?」
『ええ、わりとね。……でも、永冷石箱が現代まで残り、その永冷効果が真面目に研究され、意思エネルギーの存在へと見事に辿り着いたこの分岐では。人類は、ただの物質だけの文明から、『因果律干渉』を含めた、全く新しい文明のフェーズへと路線変更することに成功する』
『これは、種族の生存競争において、とてつもなく大きい変化よ』
水鏡には、息を呑むような未来都市が映る。
魔法工学の力で廃熱を完全にコントロールされた、美しく巨大なエコ都市。意思場の増幅器で補助され、物理法則の壁を越えて飛ぶ宇宙船。医療魔法とナノマシンで難病を抑え込む病院。魔法師と技術者が共同でインフラを管理する、調和の取れた社会。
「すごい……」
俺は、その圧倒的な光景に魅入られた。
だが、KAMI様は冷酷に言った。
『ただし。そこへ行き着くまでに、当然、血みどろの戦争も起きるわよ』
*
水鏡の美しい光景が、突然、どす黒く暗い色に染まった。
『永冷石から魔法の原理へ辿り着いたことで、本来ならこの世界線では起きなかったはずの大戦が、避けられない形で勃発するわ』
「……WW3、第三次世界大戦……?」
『そう。魔法の軍事転用、永冷石の所有権を巡る争い、因果律改変能力を持つ者の保護と拉致、そして意思エネルギー資源の国家的な独占。……そんな圧倒的な力を見せられて、国家が奪い合わないわけがないわ』
水鏡には、悲惨な戦争の記憶が映し出された。
魔法師を巡る各国のスパイ戦。永冷石由来の技術を使った、凄惨な軍事利用。因果律干渉兵器の開発競争。研究施設への爆撃。国際条約の破綻。……短く、しかし極めて激烈な戦争の炎。
俺は、息を呑んだ。
「……人類に、こんな魔法の力を与えて、本当に大丈夫なのか……?」
KAMI様は、珍しく真面目な、少し冷たい声で答えた。
『大丈夫ではないわ』
「……え?」
『人類は、何を手に入れても必ず争うのよ。鉄を手に入れても、火薬を手に入れても、蒸気でも、電気でも、核エネルギーでも……そして、魔法を手に入れてもね』
「じゃあ……俺が箱を渡したせいで、未来の人類は最悪の道を……」
『そうとも限らないわよ』
KAMI様の声が、少しだけ優しくなった。
『戦争は起きる。犠牲も確実に出る。……でも、その手痛い大戦を抜けた後。人類は、本来のルートよりもずっと、ずっと遠くへ行けるわ』
*
水鏡の暗い炎の景色が、少しずつ、穏やかな光を取り戻していく。
戦後。
人類は、魔法を戦争という破壊だけに使うことの恐ろしさを痛感し、国際的な規制と、強力な教育制度を整えることに成功する。
魔法師の厳格な登録制度。
因果律干渉の軍事利用禁止条約。
医療魔法の国際的な共有。
魔法工学の安全規格の統一。
意思エネルギー兵器の完全制限。
宇宙開発のための共同機関の設立。
そして、力を持つ者への徹底した倫理教育。
『WW3の痛みを抜ければ、かなり良い未来になるわ』
『人類は、物質としての限界を少しずつ、でも確実に超えられるようになる。宇宙の果てへ行くにも、不治の病を治すにも、壊れた環境を修復するにも……魔法という因果律干渉の力は、あまりにも大きいのよ』
『科学と魔法、その両方の理を使いこなせるようになった人類は……宇宙規模で見ても、かなり『しぶとい』わよ』
「しぶとい、って……」
『最高の褒め言葉よ。あんたたち人類の最大の強みはね、だいたいどんな危険な神の力を渡されても、最終的にはちゃんと『仕事のための道具』に落とし込んで、使いこなしちゃうところだから』
「……それ、本当に褒めてるのか……?」
*
ふっと、水鏡が光を失い、ただの水に戻って机の上に散った。
部屋は、元の蝋燭の揺れる静けさへと戻る。
俺は、机に手をついたまま、しばらく立ち上がることができなかった。
「……俺の、ただの仕事の行動一つで。……数百年先の人類の運命が、根本から変わってる……」
大御所様に命じられるまま、農政をした。水路を整えた。
その延長で、永冷石箱を作った。
そして先日、海外へ一台渡してしまった。
それが、数百年後の人類を『魔法使い文明』へと変えるかもしれないのだ。
俺は、震える声で呟いた。
「……責任が、重すぎるだろ……」
「俺……ただ、竹千代兄上のために、江戸時代という日本列島を無難にメンテして、安全に回そうとしてただけなんだけど……」
KAMI様は、俺の頭をポンと叩くようにして、少し呆れたように言った。
『あんた、まだ自分一人で歴史の全責任を背負い込む癖が抜けてないわね』
「でも、今見せられた未来は……! 俺のせいで大戦が起きて……!」
『だから言ったでしょ。『可能性』の一つよ』
KAMI様は、軽く肩をすくめた。
『確定じゃないわ。永冷石箱が誰にも気づかれず、ただのゴミとして失われる世界線も山ほどある。研究者が本質に気づかず、ただのオーパーツとして博物館の隅で埃を被る世界線もある。逆に、もっと早く悪用されて、人類が自滅して潰れる世界線だってある』
『今見せたのは、数ある分岐の中でも、極めて『上手く行った場合』のシナリオよ』
「……過信するな、ってことですか」
『そう。あんたのやった行動一つで、未来が100パーセント決まるわけじゃない』
『あんたができるのは、今のこの時代で、最善を尽くすことだけよ。……その先で、未来がどう咲くか、どんな地獄を見てどう乗り越えるかまでは、未来の人間たちの仕事よ。あんたが背負うものじゃないわ』
*
俺は、深く深呼吸をして、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「でも……上手く行けば。人類は、本来の歴史よりも、さらに繁栄できるんですよね」
『ええ。かなり危なっかしい綱渡りになるけどね。戦争もするし、失敗もするし、魔法を使って馬鹿なことも山ほどやらかすわ。でも……閉塞感の中で完全に詰むよりは、ずっと面白くて、可能性に満ちた未来よ』
「だから、面白いかどうかの基準で語らないでください」
『私の基準だもの。仕方ないでしょ』
俺は、KAMI様の悪びれない笑顔に、思わず苦笑した。
重すぎる。怖すぎる。
でも、少しだけ救いもある。
自分のやったことが、ただ歴史を壊すだけの呪いではない。未来の人類に、新しい困難と同時に、新しい生存の『道』を残す可能性もあるのだ。
「……分かりました」
俺は、机の上の書類に向き直った。
「過信はしない。全てを背負えるとも思わない。……でも、やれることはやります」
「今の時代で、目の前の人を救って、制度を整えて。……なるべく未来へ、変な爆弾だけじゃなく、『使える安全な道』も残すようにする。……それでいいんですよね」
KAMI様は、満足げに笑った。
『よろしい。水神様は、泥臭くそれでいいのよ』
*
俺は、再び筆を取り、机の上の帳面に向かった。
『永冷石氷室箱・海外売却契約の控え』。
永冷石箱は、ただの冷たい箱ではなかった。
それは、遠い未来で、人類に「人間の思い込みが現実を歪める」という禁断の扉を開かせるかもしれない、恐るべき種だった。
うまくいけば、人類は魔法という新しい工学を手に入れる。
失敗すれば、欲望のままに破滅の戦争を呼ぶ。
気づかれなければ、ただの謎の箱として歴史の闇に消える。
どれも、まだ確定していない。
ならば。今の俺にできることは一つだけだ。
今、この時代で、できる限り丁寧に扱うこと。
雑にばら撒かない。記録を残す。使い方を誤らせない。彼らの欲だけを暴走させず、公儀の制度という枠組みの中へきっちりと落とし込む。
未来の人類が、いつかこの箱の残骸を見つけた時。
それがただの野蛮な呪物でも、王の傲慢な玩具でもなく。
……「過去の誰かが、この理外の力を慎重に、安全に扱おうと苦心した痕跡」が、少しでも残っているように。
「……それにしても、一介の役人にかかる責任が重大すぎるだろ」
俺はそう愚痴をこぼしながら、永冷石箱の契約書の控えの末尾に、また一つ、細かい注記を書き足した。
『第一条・無断分解の厳禁。第二条・破損時は即時報告のこと。第三条・用途、保管状態、および周囲に起きた異常現象を、克明に記録すること』
たった数行の、堅苦しい役所言葉の注意書き。
だが、もしかするとその一文が、数百年後の研究者の命を救い、世界の破滅をわずかに遠ざけるかもしれないのだ。
KAMI様は、俺の背後で小さく笑った。
『そうそう。人類の未来を救うのはね、だいたい派手な英雄の奇跡なんかじゃなくて。現場の役人が徹夜で書いた、そういう地味な『注意書き』の方なのよ』
「……それ、今の俺にはすごく嫌な説得力がありますね……」
俺はため息をつき、再びカリカリと筆を走らせた。
江戸の夜は、深く、静かだった。
だが、その静けさの向こうの海の上で。あの冷たき箱はすでに、遠い遠い未来の人類史へ向けて、ゆっくりと、しかし確実な波紋を広げ始めていた。
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