暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第73話 八百比丘尼、明の終わりを茶菓子に混ぜる

 江戸城の奥。

 

 大御所・家康の私的な茶室に、俺と竹千代兄上、そして秀忠父上が急遽呼び出されていた。

 

 歩きながら、俺は冷や汗を拭い、ひたすら最悪の事態を予想していた。

 

「……また何か、新しい仕事ですかね。港別登録の不備が見つかったとか、外国御用屋敷の設計図が直前で変わったとか、永冷石箱で海外商人が早速揉め事を起こしたとか、あるいは田んぼの取水権で村同士が……」

 

「国松。全部あり得るからこそ、口に出すな。余計に嫌な気分になる」

 

 竹千代が、呆れたように前を向いたまま言う。

 

「今日は少し違うようだぞ。評定の間ではなく、茶の席だからな」

 

 秀忠が、将軍らしからぬ足取りで少しだけ安堵の息を漏らす。

 

 だが、茶室の前に着き、襖が開かれた瞬間、俺の安堵は別の種類の緊張に変わった。

 

 そこには、上座に座る家康と。

 

 そして、どう見てもこの厳格な江戸城の奥には場違いな、若く美しい尼僧の姿があったのだ。

 

「来たか、秀忠。竹千代、国松も座れ」

 

 家康が鷹揚に手で促す。

 

「……八百比丘尼(やおびくに)さんも、いらっしゃっていたんですね」

 

 俺が少し身構えながら挨拶すると、千年を生きるという伝説の尼は、ペロリと舌を出して気さくに笑った。

 

「やっほー、国松君。竹千代君たちも。……最近、ちょくちょく家康ちゃんとここでお茶してるんだよねー」

 

(……『家康ちゃん』呼び、未だに誰も慣れてないから! 護衛の武士の顔が引き攣ってるから!)

 

 俺が内心で突っ込んでいると、竹千代が胡乱な目を家康へ向けた。

 

「大御所様と……茶を、でございますか」

 

「うむ。この尼は、わしが人質として送られる前の、三河での(わらべ)の頃の話まで、この目で見たように……いや、実際に見たのじゃな。ともかく、その当時の話を知っておるからのう。昔話をするには退屈せぬ」

 

 家康は、本当に楽しそうに笑っている。

 

「それは、退屈しないというより……公儀の権威に関わる、肝が冷えるような昔話が飛び出すのではありませぬか?」

 

 秀忠が、胃の辺りを押さえながら懸念を口にする。

 

「大丈夫大丈夫。家康ちゃんが池に落ちて泣いてた話とか、おねしょの話とか、恥ずかしい話はまだ誰にも言ってないから」

 

「まだ、とは何じゃ! 絶対に言うでないわ!」

 

 天下人が、顔を真っ赤にして茶碗を置いた。

 

 *

 

 茶室には、見慣れない菓子が用意されていた。

 

 米粉を蒸した柔らかく白い餅のような生地。その中には、小豆を極限まで丁寧に裏ごしした滑らかな餡が包まれており、表面には(くず)を引いて透明感を出し、ほんの少しだけ削った柑橘の皮が添えられている。

 

 そして、全体に艶やかな蜜がかかっていた。

 

 俺は一口食べ、思わず目を丸くした。

 

「……甘い! めちゃくちゃ美味しいですね、これ!」

 

 洗練された、現代の和菓子に匹敵するような完成度だ。

 

 竹千代も、一口食べて目を見開いた。

 

「これは……菓子なのか? 随分と甘みが強いな」

 

「南蛮渡りの砂糖を、ずいぶんと惜しげもなく使っておるな。まこと、極上の贅沢な品だ」

 

 秀忠も、その強烈な甘味に驚きながら慎重に味わっている。

 

 八百比丘尼は、えっへんと胸を張った。

 

「私が未来の夢で見た『和菓子』ってやつを、今この時代にある材料で、それっぽく再現して作ってみたやつだよ。私のお手製!」

 

「八百比丘尼さん、お菓子も作れるんですね」

 

「そりゃできるよー。伊達に千年近く生きてるわけじゃないからね。……美味しいものがある土地に長くいると、自然に見よう見まねで覚えちゃうんだよ。それに、未来の世の中じゃ砂糖なんてただの調味料だけど、今のこの時代じゃあ、砂糖は『薬』みたいな扱いだからね。甘い物ってだけで、すごいご馳走になるんだよ」

 

 家康が、満足げに菓子を飲み込み、茶をすすった。

 

「この菓子はよい。……ことさら甘い物は、重い『(いくさ)』の話の前に出すに限る」

 

 俺の背筋に、ピリッと冷たいものが走った。

 

「……大御所様。今、戦の話、とおっしゃいましたか?」

 

 嫌な予感しかしない。大坂の陣は終わったはずだ。

 

 *

 

 家康は、ゆっくりと姿勢を正し、本題に入った。

 

「実はな、国松。……八百比丘尼殿が、つい最近まで『(みん)』の国におったと聞いてな」

 

「明、ですか?」

 

「うむ。日ノ本は、これより海を完全に閉ざすような真似はせぬと決めた。唐船、琉球、長崎、平戸、紅毛人に南蛮人。……海の向こうの国々の情勢は、我ら公儀にとって、いよいよ重要なものとなる」

 

 家康の目は、先日の外国使節との会見から、さらに広く世界を見据えていた。

 

「ならば。長く世界中を巡り、その目で直接見てきた者から、大国・明の『今』を、しかと聞いておくべきだと思ってな」

 

 竹千代も、真剣な顔で頷く。

 

「明は、日ノ本から見れば、いまだ大陸を支配する大国中の大国だ。海を越えて商いをする以上、決して無視はできぬ」

 

「太閤殿下の、朝鮮への出兵の記憶もまだ新しい。あの戦で明の国力がどう傾き、日ノ本を今どう見ているか……それは、公儀としても確かに重要にございます」

 

 秀忠が、外交上の懸念を補足する。

 

「ああ、なるほど。八百比丘尼さん、明の国にも行っていたんですね」

 

 俺が尋ねると、彼女は菓子を放り込みながら頷いた。

 

「いたよー。けっこう長くね。私は時間だけは腐るほどあるから、世界中いろいろ回ったんだ。明の都も、朝鮮も、琉球の島も、南蛮の港も、ずっと遠くのローマの方も、だいたい自分の足で見てきたよ」

 

「世界中って、本当に文字通りの世界中ですね……」

 

「暇だからねー」

 

「……暇に飽かせて、一人で世界を巡るな。測り知れぬ尼だ」

 

 竹千代が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

 *

 

「今の明の皇帝って、誰でしたっけ?」

 

 俺は、素直な疑問を口にした。

 

「俺、正直、大陸の歴史はちょっと曖昧なんですよ。日本史なら仕事柄それなりに頭に入ってますけど、中国史は有名どころの王朝の移り変わり以外、細かい皇帝の名前とか怪しくて……」

 

「今は、『万暦帝(ばんれきてい)』だね」

 

 八百比丘尼が、さらっと答えた。

 

「ああ、万暦帝……」

 

 家康が、大国の主の素性に興味を示した。

 

「どのような帝じゃ。太閤殿下の兵を押し返した、強き主か」

 

「うーん……。直接会って話したこともあるけど、優秀な人だったよ。若い頃はね」

 

 八百比丘尼は、少し遠くを見るような目をした。

 

「頭はいいし、皇帝としての能力も間違いなくある。大局も見えるし、人を見る目もある。……ただ」

 

「ただ?」

 

「途中から、宮廷内のゴタゴタとか、うるさい官僚たちとの終わらない対立とか、後継者の皇太子問題とか、あちこちの戦費の重圧とか。そういうのが全部重なって……途中で、国を動かすのを完全に『やめちゃった』感じかな」

 

「動くのを、やめた?」

 

 秀忠が、信じられないというように聞き返す。

 

「うん。引きこもり皇帝、みたいな感じ。本人が政務を全部丸投げして遊んでるわけじゃないんだけど、面倒な官僚に会わなくなって、書類の決裁が止まって、朝廷の機能がどんどん『詰まって』いくんだよね」

 

「皇帝みたいな、たった一人の優秀な人が動かなくなるだけで。巨大な国って、けっこう簡単に上から詰まって、腐っていくんだよ」

 

 その言葉は、俺の胸にも深く刺さった。

 

(……それ、前世の現代の巨大な会社や組織でも、よくある『トップがボトルネック化して組織が死ぬ』パターンじゃん。国規模でそれやられたら、下が地獄だな……)

 

 竹千代が、重い声で確認する。

 

「国がどれほど大きかろうと、頂に立つ帝が一人動かぬだけで、末端まで血が通わなくなり、国そのものが詰まるというのか」

 

「そうだよ。むしろ大国ほど、上の小さな『詰まり』が、下に行くほど途方もない『腐り』になるからね」

 

 家康は、無言で茶をすすった。

 

 この言葉は、今まさに徳川の盤石な仕組みを作ろうとしている家康の胸に、最も鋭く刺さっていたはずだ。

 

 だからこそ、自分が死に、上が凡庸であっても、勝手に回る『法と制度』を作らねばならない。その確信を新たにしたような顔だった。

 

 *

 

 八百比丘尼が、甘い蜜を舐めながら、さらっと恐ろしいことを言った。

 

「でもさ。私が未来の夢で見た感じだと……あの万暦帝、一六二〇年には亡くなるらしいんだよね」

 

「……」

 

「だから、彼が死んじゃう前に、もう一度くらい北京に会いに行きたいんだよねー」

 

 竹千代、秀忠、そして家康の三人が、一斉に固まった。

 

「……いちろくにぜろ、年?」

 

 竹千代が、聞き慣れぬ言葉を繰り返す。

 

「それは、明の年号か? いや、何の年号だ」

 

 秀忠が問う。

 

「日ノ本の元号でないことは確かじゃな」

 

 家康も眉をひそめる。

 

 俺は慌てて補足説明をした。

 

「ええと……それは『西暦』です。西洋、特にキリスト教圏で使われている、共通の年の数え方です」

 

「西洋の暦か」

 

「はい。後の世では、国同士のやり取りや条約において、この西暦が世界的な『共通の基準』になります。……ただし、日本では後の世になっても、帝の元号、つまり『和暦』も並行してずっと使い続けますけどね」

 

「ならば」

 

 家康が、目をスッと細めた。

 

「その、一六二〇年とは……今から、どれほど先の話じゃ」

 

「……今は、西洋の年号で言うと『一六一五年』です」

 

 茶室が、水を打ったように静まり返った。

 

「……なんと」

 

 家康が、低く唸った。

 

「あと、たった『五年』ではないか」

 

「明の皇帝が、あと五年後に死ぬと……」

 

 秀忠が、絶句する。

 

「そのような先の命数まで、お前にははっきりと見えるというのか」

 

 竹千代が、八百比丘尼を畏怖の目で見つめた。

 

「見える時はね」

 

 八百比丘尼は、コロコロと笑った。

 

「でも、絶対じゃないよ」

 

 *

 

「八百比丘尼さんの予知って、未来が完全に『確定』しているものなんですか?」

 

 俺が恐る恐る確認すると、彼女は首を振った。

 

「んー、違うね」

 

「私が見る未来の夢は、だいたい『このまま何もしないで進めば、こうなる』っていう、大河の流れみたいなものだよ」

 

「だったら、事前に分かっていれば、対策できるんじゃ……」

 

「でもね。私が何かしても、未来が大きく変わることなんて、滅多にないんだよ」

 

「どうしてですか?」

 

 俺が問うと、彼女は軽く笑ったが、その目には千年を生きる者の、どうしようもない寂しさと諦念が宿っていた。

 

「私、人を動かす『魅力』とか『信用』が、あんまりないみたいでさ」

 

「……え?」

 

「私がどれだけ『このままだと国が滅びるよ』って忠告しても、だいたい『頭のおかしい尼の寝言』か『怪しい占い師の妄言』扱いされて、誰も本気で動いてくれないんだよね。……長生きしすぎて、人間としての泥臭さが消えちゃったのかな。言葉が重くなるどころか、逆に現実味がなくなって、他人の心に響かないのかもしれない」

 

 家康が、その言葉の裏にある理を深く理解したように頷いた。

 

「なるほどのう。……いかに正確に未来を見る力があろうとも、それを他人に信じさせ、何万という人間を自らの足で『動かせねば』、決して歴史という巨大な岩は動かぬか」

 

「そうそう。私の力なんて、全然万能じゃないんだよ」

 

 八百比丘尼は、俺をじっと見つめた。

 

「私は未来が見えるけど、人を動かせない」

 

「でも。国松君は、見えた上で……人を『動かせる』」

 

「そこが、君と私の決定的な違い」

 

「いや、俺もそんな大層な力を持った万能じゃないですよ!」

 

 俺が否定すると、彼女は首を傾げた。

 

「でも、国松君には、天下を動かす『徳川家の若君』っていう身分と、『水神様』っていう絶対的な信用があるじゃん」

 

「それに……君は、実際に歴史を大きく変えたでしょ?」

 

 俺は、返す言葉に詰まった。

 

 豊臣は滅びていない。大坂夏の陣は起こらなかった。そして、徳川の国家制度の構築が、本来の歴史より恐ろしい速度で前倒しで進んでいる。

 

 俺のせいで、歴史が歪んでいるのは、もはや否定しようのない事実だった。

 

 *

 

 俺は、おぼろげな前世の中国史の記憶を、必死に頭の奥から引っ張り出した。

 

「明の滅亡って……たしか、一六四四年、でしたっけ?」

 

「うん。私の最新の未来の夢で見たのも、それで合ってるよ」

 

 八百比丘尼が指をパチンと鳴らした。

 

「私のちょっとした行動で、未来が少しだけズレる可能性はあるけど……大抵の大きな流れは変わらない。明の国は、今、かなり悪い方向へ転がり落ちてるよ」

 

「一六四四年……今から、三十年ほど後か」

 

 家康が、扇子で畳を軽く叩きながら計算する。

 

「あのような巨大な国が、たった三十年で完全に滅ぶというのか」

 

 竹千代が驚く。

 

「それほどまでに、内情が追い詰められていると……」

 

 秀忠も信じられないといった顔だ。

 

 八百比丘尼は、菓子をつまみながら、まるで近所の世間話でもするかのように軽く言った。

 

「内側が、重すぎるんだよね」

 

「官僚制度は巨大だけど、頭が固くて融通が利かない。皇帝は政治に疲れて引きこもってる。財政はずっと火の車で、辺境の防衛戦は常に燃えっぱなし。その重い負担は全部、一番下の民草に税としてのしかかってる」

 

「そこへ、どうしようもない大飢饉とか、食えなくなった民の反乱とか、北から攻めてくる新しい強い勢力とかが重なって……最後に、内側からパキッと折れて崩れる」

 

(……李自成の乱とか、清の台頭とか、たしか銀の流通不足とか気候の寒冷化とか、細かい滅亡の要因はいろいろあった気がするけど……俺の記憶だと、その辺の中国史は本当にふわっとしてるんだよな……)

 

 俺は、迂闊に知ったかぶりをして歴史講義をするのは危険だと判断し、黙って彼女の話を聞くことに徹した。

 

 *

 

 その時。

 

 八百比丘尼が、唐突に、茶室の真ん中へ特大の爆弾を投げ込んだ。

 

「だからさ、国松君」

 

「……はい?」

 

「君が海を渡って、あの引きこもり気味の万暦帝を直接説得して……明の滅亡を、変えてみない?」

 

「ぶっ……!!」

 

 俺は、口に含んでいた茶を、見事に畳の上へ吹き出した。

 

「国松! 大御所様の御前で茶をこぼすな!」

 

 竹千代が慌てて俺の背中を叩く。

 

「無茶苦茶言わないでくださいよ!!」

 

 俺は、むせながら八百比丘尼に向かって絶叫した。

 

「えー、そんなことないよ。国松君なら、実際に日本の歴史変えられてるじゃん」

 

「日本国内の農政と、大陸の巨大王朝の延命じゃあ、規模と難易度が違いすぎます!!」

 

 俺は両手をブンブンと振って全力で拒絶した。

 

「俺がなんとかやれてるのは、日本列島の水路と、田んぼの泥と、少しの制度のメンテだけです! 言葉も通じない大陸王朝の寿命延長とか、完全に専門外も専門外です!」

 

「でも、万暦帝、このまま死んで国が滅びるの、可哀想じゃん?」

 

「可哀想ってだけで、他国の王朝を救えるなら誰も苦労しません!!」

 

 家康が、俺の必死の抵抗を見て、腹を抱えて笑い出した。

 

「はっはっは! 国松が、ここまで情けない顔をして狼狽えるのを見るのも、珍しいのう!」

 

「いや大御所様、これは狼狽えて当然かと存じますぞ……」

 

 秀忠が、俺に同情するような目を向ける。

 

「いくら国松でも、今から明国へ渡って国を救えというのは、さすがに風呂敷が大きすぎる」

 

 竹千代も、現実的ではないと切り捨てる。

 

「でも、国松君が向こうへ行って、何か『一言』だけでも核心を突くようなことを伝えたら、少しは良い方向に変わるかもしれないよ?」

 

 八百比丘尼がまだ食い下がる。

 

「その『何か一言』の具体的な解決策の中身が、俺には全く分からないから無理なんです!!」

 

 *

 

 俺が全力で「明救済ルート」を拒否していると、家康がスッと真顔に戻り、意外な反応を示した。

 

「明の国を、日ノ本の力で直接救う……などと言えば、それは正気の沙汰ではない、途方もない夢物語じゃ」

 

「ですよね!」

 

「だが」

 

 家康の目が、老獪な為政者のそれに変わった。

 

「沈みゆく明の『今』を正確に知ることは、これからの日ノ本を守るために、絶対に必要なことじゃ」

 

「大御所様?」

 

「明が、本当に三十年後に滅ぶかどうかは、わしには分からぬ。……だが、あの巨大な国が内側から衰えつつあり、病んでいるというのならば。海の向こうの唐船の商人、琉球、朝鮮、紅毛人、南蛮人……海を行き交う全ての者たちの『動き』が、これから必ず大きく変わる」

 

「大陸の巨大な乱れは、必ず海を越えて、この日ノ本へ漏れ出してくる」

 

 家康の言葉に、秀忠がハッとして頷いた。

 

「……明を直接助けるかどうかではなく。明の衰えがもたらす余波に、今のうちから『備える』、ということですな」

 

「明の国が乱れれば、唐船の動き、海賊の跋扈、難民の流入、したたかな商人たちの思惑、武器や銀の流れ、そして薬種の相場。……我々の定めた海の道に流れるものが、全て変わる」

 

 竹千代が、港別登録制度に与える影響を予測する。

 

「……確かに」

 

 俺も、その視点には同意せざるを得なかった。巨大市場が崩壊すれば、その経済的・軍事的余波は絶対に日本にも直撃する。

 

「ゆえに、八百比丘尼殿の未来の話は、ただの阿呆な御伽噺として聞き流すには、あまりにも惜しい」

 

 家康は、冷徹に判断を下した。

 

「ただし、国松に『今すぐ海を渡って明を救え』などという狂った命を下すつもりはない」

 

「ありがとうございます!!」

 

 俺が深々と頭を下げると、八百比丘尼は「えー、つまんなーい」と頬を膨らませた。

 

「だが」

 

 家康が続ける。

 

「あの引きこもっておるという万暦帝とやらの真意を探る道、その接触の手段を探る価値は大いにある」

 

「……ありがとうございますを、撤回します!」

 

 *

 

 そこからは、「明を救う」というファンタジーな無茶振りから離れ、極めて現実的で冷徹な『情報収集』の議論へと移行した。

 

「日ノ本から、明の宮廷へ公儀の『正式な使節』を送るのは、現状では重すぎます。あまりにも危険です」

 

 秀忠が、外交上の最大のリスクを指摘した。

 

「朝鮮出兵の深い遺恨が、あちらにはまだはっきりと残っている。明は我らを強く警戒しているはずだ。それに、徳川を『豊臣の武略を引き継ぐ者』と見なす可能性もある。……朝貢や冊封を巡る国書の文言一つで揉めれば、使節団は首を刎ねられ、新たな戦の火種になります」

 

「言葉一つで、巨大な戦になる。……我らがつい先頃、方広寺の件で痛いほど味わったことですね」

 

 俺が言うと、家康も深く頷いた。

 

「異国が相手となれば、文言の恐ろしさは何倍にも膨れ上がるからのう」

 

「ならば、やはり琉球を経由して探るのが筋か」

 

 竹千代が、間接的なアプローチを提案する。

 

「薩摩を通じ、琉球の使節の裏に隠れて、明の意向を柔らかく探る。琉球は明と正式な朝貢関係にあるのだから、これなら明側の過剰な警戒を少しは下げられるはずだ」

 

「唐船商人から情報を直接買い上げるのも現実的です」

 

 俺も実務の視点から加わる。

 

「万暦帝本人に会うのは無理でも、長崎や博多に入ってくる唐船の商人から、福建、広東、南京あたりの最新の情報は入るはずです」

 

 すると、八百比丘尼が、身を乗り出して口を挟んだ。

 

「ねえねえ。私なら、単独で明の宮廷の奥まで行けるよ?」

 

 茶室の男四人が、一斉に黙り込んだ。

 

「……それが、一番外交上の事故になりそうで怖いんですよ」

 

 俺がジト目で言うと、彼女は不満そうに首を傾げた。

 

「えー、何でも見てきてあげるのに。便利じゃん」

 

「その力は便利だが、公儀としてお前の行動を全く『制御』できぬのが問題なのだ」

 

 竹千代が冷たく切り捨てる。

 

「八百比丘尼殿は、公儀の正式な使いではなく、あくまで己の意志で独自に世界を巡る者。……その立ち位置を崩さぬ方がよい」

 

 家康が、彼女を外交の駒として組み込むことを避けた。

 

「えー、自由に行っていいってこと?」

 

「公儀の名を、勝手に騙らぬのであればな」

 

「ちぇー。つまんないの」

 

 *

 

「大御所様。明を救う、という話は、今の我らには絶対に無理です」

 

 俺は、情報分析官として結論を出した。

 

「俺たちには、圧倒的に『情報』が足りません。万暦帝の本当の健康状態も、宮廷内の権力闘争も、財政の赤字額も、北の辺境の守りも、官僚の派閥争いも、何一つ正確には分からない」

 

「未来で滅ぶと分かっていても……今、どこにどんな一手を打てばその崩壊を止められるのか、その『急所』が分からなければ、下手に手を出すほど状況を悪化させます。藪蛇です」

 

 家康は、俺のその臆病なまでの慎重さに、ひどく満足そうに頷いた。

 

「よい。己の分と、持ち得る札の限界を弁えておるな」

 

「なので、まずは徹底的に『情報を集める』ことから始めましょう」

 

 俺は、頭の中で調査項目をリストアップした。

 

『万暦帝の健康状態』

 

『皇太子・後継問題の進捗』

 

『宮廷と官僚の対立の深さ』

 

『正確な財政状況』

 

『遼東方面の辺境防衛の動き』

 

『朝鮮との関係』

 

『福建・広東の海商の動向』

 

『唐船貿易の実態』

 

『銀の流通経路』

 

『大飢饉・災害の兆候』

 

『民乱の兆し』

 

 そして……。

 

『明国が、今の徳川幕府をどう見ているか』

 

「……まずは、これらを記録し、整理するための『台帳』を作ることからですね」

 

 竹千代が、俺に死の宣告を下した。

 

「はい。……またしても、台帳です」

 

「明国情報管理台帳、か」

 

 秀忠が呟く。

 

「名前が、すでに途方もなく重い……」

 

「つまんなーい。国松君なら、もっと派手に、ドカンと歴史を変える大活躍をしてくれると思ったのに」

 

 八百比丘尼が、心底つまらなそうに菓子を口に放り込む。

 

「派手に勘違いして動いたら、国が燃えて何万って人が死ぬんですよ!!」

 

 *

 

 俺が怒鳴ると、八百比丘尼は、少しだけ真面目な、千年を生きる者の目になって、俺を真っ直ぐに見つめた。

 

「でもさ、国松君。私は本当に、君に期待してるんだよ」

 

「……」

 

「私がいくら未来の夢を見て、滅びを警告しても、人は決して動かなかった」

 

「でも。国松君は、ちゃんとこの手で、人を『動かしてる』じゃない」

 

「家康ちゃんも、秀忠ちゃんも、竹千代君も。周りの堅物な役人も、欲深い大名も、田んぼの民も。みんな、君の作る仕組みで動いてる」

 

「だから」

 

 彼女は、少しだけ優しく微笑んだ。

 

「君なら、もしかしたら。明の滅亡みたいな、巨大な運命の大河の流れも……ほんの少しだけなら、変えられるかもしれないって、そう思うんだよね」

 

「……ほんの少し、ですか」

 

「うん。大国が崩れ落ちる流れを、全部止めるのは無理。私にも、君にもね」

 

「でも……誰かの理不尽な死に方を変えるとか。価値ある職人や文化を逃がすとか。戦火が海を渡ってくる前に、日ノ本に早く備えさせるとか。……そういう些細なことでも、未来から振り返ってみれば、ものすごく『大きいこと』だったりするんだよ」

 

 その言葉は、俺の心に深く沁み込んだ。

 

 明国という超大国を丸ごと救うことは、絶対に背負えない。俺のキャパシティの限界を遥かに超えている。

 

 だが……情報を集め、崩壊の足音を正確に察知し、いざという時に、日本への避難路を作るとか、交易の混乱を防ぐとか、難民や優秀な技術者を保護するとか……『被害を最小限に抑えるための備え』をすることは、今の俺の立場ならできるかもしれない。

 

 *

 

 家康が、茶席の結論を出した。

 

「よし。明を救う、とは決して言わぬ」

 

「だが……明の真実を『知る』」

 

「琉球、唐船、長崎、博多、対馬、薩摩、平戸。あらゆる海の口から、大陸の情報を集めよ」

 

「八百比丘尼殿の話は、ただの御伽噺としてではなく……公儀への一つの『確かな警告』として、重く扱うこととする」

 

「……では、明日から大急ぎで『明国情報台帳』の枠組みを作ります」

 

 俺が項垂れると、家康が呵呵と笑った。

 

「また一冊、お前の机に重い帳面が増えたのう!」

 

「嬉々として増やしたのは大御所様です!」

 

「私も、時々気が向いたら、大陸の最新の噂を教えてあげるよー」

 

 八百比丘尼が手を振る。

 

「情報提供は助かりますけど、今日みたいな『明を救え』みたいな規模のおかしい無茶振りは、どうかほどほどでお願いします……」

 

「んー、考えとく」

 

「絶対に考えてないやつの返事だ、それ!」

 

 *

 

 茶室を出た俺の口の中には、まだあの南蛮砂糖の甘い菓子の余韻が、鮮烈に残っていた。

 

 砂糖は、この時代では薬のように高価で貴重であり、その強い甘味は、それだけで人を笑顔にする不思議な力があった。

 

 だが。その甘味の席で軽く語られたのは……『明』という、この時代における世界最大級の巨大王朝の、悲惨な寿命の話だったのだ。

 

 万暦帝。

 

 一六二〇年。

 

 明の滅亡、一六四四年。

 

 俺の頭の中に、前世でもあまり馴染みのなかった大陸史の数字が、鉛のように重く沈み込んでいく。

 

 日本列島のインフラのメンテと、新しい法度の運用だけで、すでに俺は手一杯だ。過労死寸前だ。

 

 大陸王朝の寿命まで、俺が背負えるはずがない。背負ってはいけない。

 

 だが。知らないまま、目を塞いでいるわけにはいかないのだ。

 

 明が大きく揺れれば、唐船の動きが揺れる。

 

 琉球が揺れる。朝鮮が揺れる。長崎が揺れ、平戸の商人が揺れる。

 

 徳川が定めた、あの『海の道』が、根底から激しく揺れる。

 

 そして、その巨大な揺れは、必ず波となって、この日ノ本の海岸へと打ち寄せてくるのだ。

 

 俺は、自室に戻り、真新しい帳面の表紙へ、重い筆を下ろした。

 

『明国情勢・情報収集台帳』

 

「……また一冊、一番見たくない嫌な名前の台帳が増えた……」

 

 茶席で八百比丘尼さんが笑いながら言っていた言葉が、耳の奥に残っている。

 

『いいじゃん、国松君。……歴史を大きく変えるための第一歩って、だいたいそういう退屈な情報収集から始まるものなんだよ?』

 

 俺は、誰もいない部屋で、心底嫌そうに答えた。

 

「その第一歩、できれば一生踏みたくなかったです……」

 

 だが、もう遅い。

 

 日ノ本を完全に(とざ)さないと決めた以上、この国は、海の向こうからやって来る巨大な揺れから、決して目を逸らすことはできないのだ。

 

 甘味の席で、長命の尼によって軽く投げ込まれた一言は。

 

 江戸幕府の真新しい台帳の上に、『明』という崩れゆく大国の、恐ろしく巨大な影を落とし始めていた。

 

 




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