暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第74話 大御所様、元和の海を帳面で縛る

 江戸城の奥深い評定の間に、京都の禁裏から『改元』の正式な報せが届けられた。

 

 慶長二十年から、元和(げんな)元年へ。

 

 その報せの記された書状を見た瞬間、俺は内心で小さく息を呑み、固まった。

 

(……『元和』改元。……ここは、俺の知る歴史通りになったのか)

 

 だが、この世界が迎えた『元和』は、俺が前世の歴史で学んだものとは、その中身が決定的に違っていた。

 

 史実における元和改元は、大坂夏の陣によって豊臣家が完全に滅亡した直後に行われた。それゆえに「戦国の世が終わり、武をおさめる(元和偃武)」という、勝者による血生臭い区切りの意味合いが強かったはずだ。

 

 しかし、この世界において、大坂夏の陣は起こらなかった。豊臣秀頼の命は助命され、淀殿も生きている。豊臣家は一大名として縮小されはしたが、確かに存続し、徳川の法という新たな枠組みの中に収まっているのだ。

 

『やっほー。元和ね』

 

 不意に、俺の視界の端にKAMI様が音もなく現れた。もちろん、上座に座る家康や竹千代たちには見えていない。

 

(……元和は、歴史通りに来ましたね)

 

 俺が心の中で応じると、KAMI様は少し面白そうに笑った。

 

『そうね。でも、この世界の方が、年号の字面としては本来の意味に近くなったんじゃない?』

 

(豊臣を完全に滅ぼしていないからですか)

 

『そうよ。「武を伏せて、和を元とする」。……豊臣の城を焼き尽くして血の海で終わらせた平和じゃなくて、豊臣を生かしたまま、雁じがらめの制度と法の中に閉じ込めた平和。……家康ちゃん、かなり嫌らしいけど、治世の平和としては上等な着地ね』

 

(嫌らしい平和って、すごい言い方ですね……)

 

『でも、事実でしょ?』

 

 俺は内心で苦笑した。

 

 現実世界の座敷では、家康、秀忠、竹千代の三人が、改元の書状を前に重々しく語り合っていた。

 

「……慶長という名は、あまりにも戦と、豊臣の影を長く引きずりすぎた」

 

 家康が、白髪の混じる髭を撫でながら静かに言う。

 

「これよりは、元和じゃ」

 

「武を伏せ、和を元とする世を、名実ともに天下へ示すわけですな」

 

 秀忠が、将軍としての力強い声で応じる。

 

「ただ年号を変えるだけでは足りませぬ」

 

 竹千代が、次期将軍としての厳しい目を向ける。

 

「武を伏せるというのなら……その代わりに『何で』この国を動かすのかを、公儀として明確に示さねばなりませぬ」

 

(……兄上、それ完全に正論なんだけど。その『何で』の具体的な答えの書類が、全部俺の机に山積みにされてるんですよ……)

 

 俺は、胃の痛みを堪えながら、伏し目がちにそのやり取りを聞いていた。

 

 *

 

 改元というものは、本来ならば国を挙げてのめでたい祝賀行事だ。

 

 だが、江戸城の実務の現場に、祝賀の盃を傾けている暇など一瞬たりともなかった。

 

 俺の自室の机の上には、もはや壁のように書類が積み上がっている。

 

『港別登録制度の正式通達案』

 

『外国船入港札・発給管理台帳』

 

『各港の役割・取扱品目分類表』

 

『外国御用屋敷・建設計画および予算案』

 

『明国情勢・情報収集台帳』

 

『田法拡大・各地導入進捗報告』

 

『江戸近郊・蔵増築計画書』

 

『千歯扱き・試作および安全運用状況』

 

救荒米(きゅうこうまい)備蓄案』

 

『水防番所・一国一城令に基づく用途分類届』

 

「……元和元年、最初の実感が『また信じられないくらい書類が増えた』なの、あまりにも江戸幕府の実務部署らしすぎるだろ……」

 

 俺が机に額を擦り付けて呻いていると、いつの間にか部屋に入ってきていた竹千代が、冷ややかに言った。

 

「戦国の世が終わったのだ。戦の代わりに、公儀の書類が増えるのは当然だろう」

 

「……当然にしないでください。これじゃ、戦国時代が『超絶ブラックな官僚機構の事務部門』に変わっただけじゃないですか!」

 

「泰平とは、そういうものなのかもしれぬな」

 

 秀忠までが、妙に達観した顔で頷く。

 

「父上まで、変に納得しないでください!」

 

 家康は、俺の悲鳴を聞いて豪快に笑った。

 

「はっはっは! よいではないか、国松! 刀で人が無惨に死ぬよりは、お前のような役人が帳面と睨み合って唸る方が、世は遥かに平らかじゃ!」

 

「その唸って過労死しそうな役人、今まさに私なんですけどね!!」

 

 *

 

 元和改元と同時に、公儀はこれまで温めていた『港別登録制度』を、いよいよ日ノ本全土へ向けて正式に動かし始めた。

 

 それは、「鎖国はしないが、港を帳面で厳格に縛る」という、この世界における徳川幕府の新たな海洋方針の絶対的な宣言であった。

 

 俺は、日本地図の上に色分けされた札を置きながら、家康たちへ向けて各港の役割を最終確認した。

 

「港を無闇に閉じるのではなく、港ごとに『役割』を完全に固定します。どの国の船が、どの港へ入り、何を持ち込み、何を出すのか。……それを港ごとに厳密に記録し、管理責任者を定めます」

 

「海を巨大な道と見れば、港は『関所』じゃな」

 

 家康が頷く。

 

「はい。海に関所を作るんです。……では、現在の主な港の役割を確認します」

 

【長崎:南蛮・唐船・薬種・宗教監視の港】

 

「長崎は、ポルトガル船とマカオ経由の南蛮品、そして唐船(とうせん)の窓口です。生糸、絹織物、貴重な薬種、砂糖、ガラス器、時計などが入ってきます。……利益は莫大ですが、同時に危険も『最大』です」

 

「布教と、宗教物の密輸か」

 

 秀忠が顔をしかめる。

 

「はい。長崎は『交易の港』であると同時に、公儀にとっての『宗教監視の最重点港』になります。薬と信仰が同じ船で来る以上、そこを刃で切り分けねばなりません」

 

「ゆえに、宗教物検分役と、厳格な通詞を最も厚く配置すべきですな」

 

 崇伝の言葉に、俺は頷いた。

 

【平戸:オランダ・イギリス・紅毛技術の港】

 

「平戸は、オランダ船とイギリス船の窓口です。ここは長崎とは性格が違います。彼らはポルトガルほど布教を前面に出してきません。ですから、ここは『技術と航海情報の港』として扱います」

 

「望遠鏡、時計、羅針盤、海図、航海器具、そして銃器の部品か」

 

 竹千代が、目録を確認する。

 

「はい。ただし、オランダとイギリスの商人同士の争いは絶対に起きます。ですから、平戸の役人には、彼ら紅毛人同士の訴訟や荷物争いも、全て記録させます」

 

「紅毛同士を競わせつつ、公儀の帳面からは決して逃がさぬわけじゃな」

 

 家康がニヤリと笑う。

 

【堺・大坂:国内再流通と商人管理の港】

 

「堺と大坂は、外国船の直接の入口というより、公儀の朱印船や豪商たちが荷を保管し、国内へ流す『物流の心臓部』です。ここを荒らすと、米も銀も生糸も止まります」

 

「豊臣の匂いが色濃く残る地じゃが、彼らの商いの力を使わぬ手はない」

 

 家康の言葉に、竹千代が冷徹に続く。

 

「敵の財布を焼くのではなく、公儀の帳面に載せて管理し、利用するのだ」

 

「また兄上が、怖いことをものすごく自然に言ってる……」

 

【博多:唐船・九州商人・明情報の中継港】

 

「博多は、九州北部の商人ネットワークと、唐船、対馬・朝鮮方面との接続港です。長崎ほど派手ではありませんが、明国の情勢、海賊の動き、九州商人の噂はここで拾えます」

 

「八百比丘尼殿の語った、あの明の衰退の話を確かめる口の一つじゃな」

 

「はい。『明国情勢・情報収集台帳』の重要な入り口になります」

 

【対馬:朝鮮外交と北方情報の港】

 

「対馬は、単なる交易港ではありません。朝鮮との正式な『外交窓口』です」

 

 俺は、声を一段低くした。

 

「ここで国書の文言を一つでも間違えれば、あの凄惨な出兵の遺恨が再燃し、即座に戦の火種になります」

 

「方広寺の鐘銘の件で、言葉の危うさは骨の髄まで身に染みておる。……対馬の(そう)氏には任せるが、任せきりには絶対の絶対にせぬ」

 

 家康が断言する。

 

「報告書の厳密な定型化が必要ですね」

 

「また新しい書式だな」

 

「……はい、また書式です」

 

【薩摩・琉球:明への間接窓口】

 

「琉球は、明と朝貢関係を結びながら、薩摩の影響下にもあるという、極めて複雑な立場にあります。ここを公儀が表から強引に踏み荒らすと、明との窓が完全に閉じます」

 

「ならば、薩摩に『見えぬ形で』詳細な報告をさせるしかあるまい」

 

「琉球を『表向きの顔』として残し、裏で公儀が情報を吸い上げるのだな」

 

「言い方が怖いですけど、やることはそれです。東南アジアの情報や、貴重な薬種、南方産物を取りこぼさないための命綱です」

 

【江戸:外交館・検分・最終台帳の港】

 

「そして江戸ですが……ここは、外国商人が勝手に品物を売り買いする交易港ではありません」

 

 俺は、江戸の役割を明確に定義した。

 

「各国の『外国御用屋敷』を建てさせ、献上品や奇物の『技術検分』を行い、外国人の滞在を管理する。……外交と、許可と、すべての情報の『最終台帳』を管理する場所です」

 

「外国人を、公儀の目の前へ置く。……決して逃がさぬためじゃな」

 

「そうです。あと、彼らに江戸に西洋風の建物を建てさせるなら、絶対に地震と火事に耐える形へ直させます」

 

 *

 

 港別登録制度を正式に下ろした瞬間。

 

 俺の予想通り、各地の港から怒涛の勢いで『問い合わせ』が殺到し、江戸城の実務部署は完全に火の車となった。

 

【長崎からの問い合わせ】

 

『十字架の装飾が付いた南蛮の薬箱は、宗教物として没収すべきか、医療用具として通すべきか』

 

「両方です! 薬は検分して通し、十字架の装飾だけは隔離してください!」

 

「薬と信仰を同じ箱に巧妙に入れてくるとは、実に厄介な手口にございますな……」

 

 崇伝が忌々しそうに舌打ちする。

 

【平戸からの問い合わせ】

 

『オランダ商人とイギリス商人が、互いの荷を「我が方を先に検分しろ」と激しく争い、港で乱闘寸前になっております』

 

「……紅毛人同士の順番争いの仲裁まで、公儀が裁くんですか!?」

 

「裁かぬと、港の機能が止まる。厳罰をもって順番を公儀が指定せよ」

 

 竹千代が冷酷に指示を出す。

 

【薩摩からの問い合わせ】

 

『琉球関係の交易の報告を、いかほどの詳細さで公儀へ出すべきか』

 

「……全部出せ! と大御所様は仰っていますが、ただし『表には絶対に出すな』とも仰っています」

 

「大御所様の仰ることは正しいですけど、薩摩の役人が板挟みになって胃を壊しますよ!」

 

【堺からの問い合わせ】

 

『外国品の国内での再流通において、新たな公儀の札が必要か』

 

「必要です! 外国船から直接入った品と、国内で商人が二次流通させた品を明確に分けないと、何かあった時に追跡できません!」

 

【対馬からの問い合わせ】

 

『朝鮮側へ送る文書に、公儀の定めた西暦を併記すべきか』

 

「今はまだ慎重に! まず和暦・干支・相手側の暦に合わせるのが先です。西暦併記は、紅毛・南蛮向けの文書から始めましょう!」

 

(こよみ)だけでも、相手によって違うのか……」

 

 秀忠が頭を抱える。

 

「違います。本当に地獄です」

 

 *

 

 俺は、あまりの混乱を収拾するため、港別登録制度の書式をさらに限界まで細かく定型化した。

 

『外国船入港札の必須記載項目』

 

 船名、船籍、船長名、商館名。

 

 出発地、経由地。乗員数。

 

 武器・火薬の有無。宗教者の有無。宗教物の有無。病人の有無。

 

 積荷分類(薬種、生糸、砂糖、火器部品、書物、地図、時計・測量器具、用途不明の珍品・奇物らしき物)。

 

 通詞の立会い署名。検分済印。再流通先。禁制品の没収記録。

 

「……とりあえず、これで『最低限』です」

 

 俺が血走った目で書式を提示すると、秀忠が絶句した。

 

「これで……最低限だと申すのか」

 

「海外貿易を、帳面一つで完璧に縛り上げるというのなら、これでもまだ全然項目が足りません!」

 

「足りぬなら、さらに増やせ」

 

 竹千代が、容赦のない命令を下す。

 

「兄上、末端の役人を過労で殺す気ですか!?」

 

「ならば、文字の書ける役人をさらに増やせ。簡単なことだ」

 

「それを育てるための制度も、今私がヒーヒー言いながら作ってる真っ最中なんですよ!!」

 

 *

 

 港湾行政で大炎上している一方で、当然ながら、国内の「田んぼ」も俺を待ってはくれなかった。

 

 元和元年の初夏。

 

 田植えと、一年で最も重要な水管理の季節が到来した。

 

 各地に拡大した『田法』の現場から、続々と報告が舞い込んでくる。

 

【良い報告】

 

正条植(せいじょううえ)が確実に広がっている』

 

水口(みなくち)の管理が改善された』

 

『水番制度が機能し始め、無駄な争いが減った』

 

『今年の収量増への期待が高い』

 

『蔵の増築が本格的に始まった』

 

『千歯扱きの試作が順調に進んでいる』

 

【悪い報告】

 

『村によっては、水口の使い方がまだ雑で水漏れが起きている』

 

『正条植の線が盛大に曲がって、結局バラバラになっている』

 

『水が足りない村同士で水争いが発生した』

 

『蔵の増築工期が遅れている』

 

『千歯扱きの試作で、歯に引っかかって手を怪我する者が出た』

 

『豊作を前提にして、勝手に年貢を上げようとする強欲な領主がいる』

 

『「水神様の田法を取り入れたから、今年は絶対に豊作だ」と完全に油断して、草取りをサボる村が出ている』

 

「ほら出た!!」

 

 俺は、悪い報告の束を床に叩きつけた。

 

「制度だけが先に急激に広がって、現場の村人の理解と運用が全く追いついてない!」

 

「新しき法というものは、よくあることじゃな」

 

 家康が茶をすすりながら笑う。

 

「よくあってたまるか!!」

 

「田法も港別登録も、結局は同じだな。上に立つ者がどれほど精緻な仕組みを出そうとも、現場の末端は、必ずそれぞれの都合で勝手な解釈をするものだ」

 

 竹千代が、冷酷な真理を突く。

 

「そうなんです! だから、詳細な『運用説明書』と、現場を回る『巡回指導役』が絶対に必要になるんです!」

 

「……また、文官が要るな」

 

 秀忠が渋い顔をする。

 

「結局、全部そこへ戻ってくるんですよ!」

 

 *

 

 さらに、八百比丘尼から明の衰退の情勢を聞いた直後であったため、俺は「国内の飢え」への備えである『救荒(きゅうこう)』の準備も、かつてないほど強硬に推し進めていた。

 

「豊作への期待で浮かれるのは、極めて危険です」

 

 俺は、評定の間で語気を強めた。

 

「豊作の年ほど、次の凶作への備えを作るべきです。飢えてから蔵を作っても、手遅れなんです!」

 

 俺が提案した『救荒準備項目』は多岐にわたった。

 

『各領地の蔵の空き容量調査』

 

『米の湿気管理と防鼠対策』

 

雑穀(粟・稗・麦・蕎麦)の備蓄状況確認と栽培奨励』

 

種籾(たねもみ)の絶対保護』

 

『水害時の避難所分類の徹底』

 

『港を使った米の緊急輸送計画』

 

『飢饉時の米価格の高騰監視』

 

『悪徳商人による米の買い占め対策』

 

『北国・東北地方における冷害の兆候の即時報告』

 

『寺社を使った炊き出し経路の確立』

 

『永冷石箱の、薬種・一部種子保存への限定使用』

 

「米がある時に、あえて飢えのことを真剣に考えるか」

 

 家康が、満足げに頷く。

 

「はい。備えこそが、泰平を保つ唯一の手段です」

 

「ならば……救荒のための、新たな『帳面』も作るべきだな」

 

 竹千代が、当然のように言った。

 

「言うと思いました!!」

 

 *

 

 長く、あまりにも濃密な一日の終わり。

 

 俺は自室で、積み上がった真新しい帳面を、虚ろな目で見つめていた。

 

『港別登録台帳』

 

『明国情勢・情報収集台帳』

 

『田法運用・巡回指導帳』

 

『救荒備蓄・監視台帳』

 

『外国船入港札・発給控』

 

『元和改元後・諸法令通達控』

 

 ……その時、空間がわずかに歪み、KAMI様が俺の横にふわりと現れた。

 

『どう? 記念すべき、元和元年の初仕事は』

 

「……戦が終わったっていうより、底知れぬ地獄の仕事が始まった感じですね」

 

『それでいいのよ。武を伏せるって、ただ刀を置いて何もしないことじゃないもの』

 

「刀の代わりに、気が狂うような量の台帳と、蔵と、港を動かす」

 

『そう。……元和って、あんたにとっては『戦が終わった年』じゃなくて、『国家の保守運用が本格稼働した年』なのよ』

 

「……嫌すぎる『元和』の定義だな……」

 

 *

 

 元和(げんな)

 

 武を伏せ、和を元とする年号。

 

 史実の俺が知る元和は、大坂夏の陣の惨劇と、豊臣の凄惨な滅亡とともに語られることが多かった。

 

 だが、この世界で迎えた元和は違う。

 

 豊臣は滅んでいない。武家はまだ、その手に刀を握りしめている。

 

 海の向こうには、大国・明が不気味に揺れ、紅毛人と南蛮人が、抑えきれぬ巨大な欲望を抱えて日ノ本の港へ押し寄せてくる。

 

 国内の田んぼは限界まで広がり、蔵は足りず、いつ来るか分からぬ飢饉への救荒の準備は、まだ薄氷の上にある。

 

 それでも、年号は変わった。

 

 慶長から、元和へ。

 

 それは、戦の血生臭い名残を引きずる時代から……戦を起こさせないための『巨大な制度』を、油まみれになって回し続ける時代への、決定的な転換であった。

 

 港を登録する。船を検分する。宗教物を分ける。唐船の噂を拾う。

 

 田法を巡回指導する。蔵を増築する。救荒米を積む。

 

 それは、決して華々しい勝利宣言などではなかった。

 

 ただ、とてつもなく地味で、死ぬほど面倒で、そして永遠に終わりのない『仕事』の始まりだった。

 

 俺は、新しい帳面の表紙に重い筆を置き、深く、深く息を吐いた。

 

『元和元年・港別登録運用控』

 

『元和元年・救荒備蓄台帳』

 

「……元和って、こんなに忙しくて、胃が痛くなる年号だったっけ……」

 

 俺の愚痴に、誰も答えてはくれない。

 

 ただ、江戸の城外では、外国御用屋敷の基礎を打つ職人たちの力強い(つち)の音が響き。

 

 諸国の田んぼでは、水口を真剣に見張る村人たちが足を泥に沈め。

 

 そして遠い港では、通詞たちが、異国の難解な荷札を前に、俺と同じように頭を抱えて唸っていた。

 

 戦国は、終わった。

 

 だが、泰平の世の『保守運用』は……ここからようやく、本当の地獄の幕を開けるのだった。

 

 




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