暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
西暦一六一五年、ローマ。
カトリック世界の中心であるサン・ピエトロ大聖堂。その奥深く、教皇庁の厳かな謁見準備室には、重く神経質な沈黙が満ちていた。
豪奢な装飾に囲まれたその部屋にいるのは、教皇パウロ五世ただ一人ではない。
豪奢な法衣に身を包んだ枢機卿たち。冷徹な目をした教皇庁秘書官。全てを書き留める記録官。東洋の言葉に通じた通訳担当。スペイン国王の意向を代弁する関係者。そして、日本での宣教を巡って長年激しい対立を繰り広げてきた、フランシスコ会とイエズス会双方の高位聖職者たち。
秘書官が、無機質な声で最終報告を上げた。
「聖下。日本より参った使節、ハセクラ・ツネナガらの一行が、まもなく正式な謁見に臨みます」
スペイン側の関係者が、少し皮肉げに補足する。
「彼らはヌエバ・エスパーニャを経て、我がイスパニア本国を通り、国王陛下の保護の下にこのローマへ参りました。その旅の過酷さと情熱は、確かに並々ならぬものがございます」
「東の果ての奥州の王、伊達政宗公は、ローマとの直接の通商と、宣教師の派遣を強く願っております。これは、我らカトリックにとって、あの閉ざされた国へ再び福音の光を届ける、大いなる希望の扉にございます」
フランシスコ会の関係者が、熱を込めて語る。
しかし、日本での布教を長らく担ってきたイエズス会側の人物は、極めて冷ややかな目でその熱を見つめていた。
「……しかし、現在、日本の全ての実権が、その伊達政宗という一地方の王にあるわけではありません」
彼は静かに、しかし容赦なく言った。
「日本の大政を握り、天下の兵を動かしているのは、かの『トクガワ』という一族です」
その名が出た瞬間、部屋の空気がわずかに凍った。
最初の不穏な影が、教皇庁の石造りの部屋に落ちる。
パウロ五世は、重厚な椅子に身を沈めたまま、静かに問うた。
「では、今日、余の前に現れるこの使節は、日本という国すべての『声』なのか。それとも、奥州の王ただ一人の『声』に過ぎないのか」
その問いに、即座に答えられる者は、この部屋には一人もいなかった。
*
パウロ五世は、日本の報告を今日初めて聞いたわけではない。
この教皇庁の書庫には、すでに二十年近く前から、あの遥かなる東の島国についての血塗られた報告が、山のように積み上がっていた。
まずは、かつての権力者・秀吉の時代における凄惨な殉教の報告である。
ローマに届いた手紙には、長崎の丘に立てられた数多の十字架と、血に染まった大地、そして幼い少年を含む信徒たちが、最後まで信仰を捨てずに天に召されていった光景が、痛ましいほどの筆致で描かれていた。
ローマ側はそれを、深い悲劇であると同時に、至高の信仰の証として神聖に受け止めてきた。
(日本は、確かに信仰の清らかな種が芽吹いた土地である)
パウロ五世は、胸の内で十字を切った。
(だが、その芽を容赦なく刈り取る権力者の刃もまた、恐ろしく鋭い。あの国では、名もなき信徒たちの魂が純粋に燃えている。しかし、彼らを統べる王たちの手には、神への恐れなど微塵もない)
ローマ側にとっての日本像は、この時点で一つの形を得ていた。
極めて危険なえている。しかし、彼らを統べる王たちの手には、神への恐れなど微塵もない
ローマ側にとって権力者たちがいる。だが、決して見捨てることのできない、希望に満ちた布教の地。
次に届いたのは、その豊臣秀吉の死の報せだった。
日本の太閤が死んだ。幼い後継者が残された。大名たちの間で血みどろの権力争いが起きているらしい。中には、キリシタンに好意的な有力な大名もいるという。
ローマの宣教師たちは期待した。秀吉が死んだなら、あの凄惨な弾圧は緩むのではないか。日本の権力が分断されている今なら、信仰に好意的な大名を強力な足場にして、国を内側から教化できるのではないか、と。
しかし、同時に深い恐れもあった。
権力が分裂した国は、神の教えを広める布教地である前に、血で血を洗う泥沼の戦場となる。戦場においては、純粋な信徒も宣教師も、ただの権力争いの便利な駒として無惨に消費されるだけだ。
パウロ五世は、その断片的な報告から、日本という国が単純な布教地などではなく、凄絶な権力闘争と独自の論理が複雑に絡み合う、極めて難解な国家であることを認識していた。
*
やがて、日本で大地を割るような巨大な戦があったという報せが届いた。
セキガハラ。
そして、その戦の唯一の勝者は、トクガワ・イエヤスという名の老将であったと。
ローマ側に入ってくる情報は決して完全ではない。だが、次第に一つの動かしがたい事実が、海を越えて教皇庁の机の上に浮かび上がってきた。
日本の実権は、完全に豊臣の手から滑り落ち、徳川へと移りつつある。
「その、トクガワ・イエヤスという強大なる者は、我らの信仰に対して好意的なのか?」
枢機卿の一人が、当時の報告会で問うた。
「あの者は、南蛮や紅毛の商人たちがもたらす商いと利益には、強い関心を示します。ですが、信仰そのものについては、恐ろしいほどに冷淡かつ慎重です」
イエズス会関係者が、苦い顔で答えた。
「彼は、極めて老獪な武家の長にございます」
スペイン側の関係者も同意した。
「彼は、我々から得られる利益を正確に見ます。だが同時に、我々の背後にある帝国の危険性をも、正確に見抜く目を持っています」
パウロ五世は、その報告を聞いて悟った。
(日本の強固な門を開く鍵は、もはや豊臣ではない。では、徳川なのか。それとも、まだ地方に燻っているキリシタン大名たちなのか)
*
その混乱をさらに深めるように、奇妙な報告が続いた。
徳川家康が将軍という武の最高位に就き、江戸という新しい土地に巨大な幕府を開いた。
ローマ側にとって、この日本の特殊な権力構造は、非常に分かりにくく、理解に苦しむものだった。
京都には、神聖なる血統を持つ古い帝がいるという。しかし、実際の軍事と政治の全権を握り、実質的な法を定めているのは、江戸にいる徳川だという。しかも、かつての支配者である豊臣も、まだ大坂の城で完全には息絶えずに生き残っているという。さらにその下には、独自の強大な軍隊と港を持つ大名と呼ばれる地方の王たちが、無数に存在している。
パウロ五世は、日本をヨーロッパの絶対王政や帝国の構造に当てはめようとして、それが完全には当てはまらないことに苛立ちを覚えていた。
(あの国には、聖なる古い王がいる。だが、剣と法を握る者は別にいる。地方の王たちもまた、自らの兵と港と野心を持ち、独立国のように振る舞う。ならば、ローマは一体、あの国の誰と話せば、真の約束を結べるのだ?)
この深い混乱があったからこそ。
今、目の前に現れようとしている伊達政宗の使節に対しても、当然の疑問が湧き上がるのだ。
伊達政宗とは、日本全体の王なのか。
それとも、徳川というさらに巨大な権力の下で、勝手に吠えているだけの地方の一大名に過ぎないのか。
*
パウロ五世が教皇の座に就き、彼の机には、ヨーロッパの重い政治的難題だけでなく、世界各地の宣教地からの血の滲むような報告が日々届くようになった。
その中でも、日本問題は最も厄介で、最も矛盾に満ちたものだった。
信徒の数は、確実に増えている。
美しい殉教者も、次々と出ている。
現地の宣教師たちは、熱意と希望に満ちた報告を書き送ってくる。
日本との交易がもたらす利益は、途方もなく莫大だ。
しかし、国の実権を握る権力者は、日を追うごとに彼らへの警戒を露わにし、締め付けを強めている。
さらに悪いことに、カトリックの内部でも、日本への接し方を巡って修道会ごとの報告が完全に矛盾し、スペインとポルトガルの国家的な思惑も複雑に絡み合っていた。
「聖下。日本は、我らカトリックにとって大いなる収穫の地です。今こそより多くの宣教師を送り込むべきです」
ある者は、そう叫ぶ。
「いいえ。日本は剣の国です。あの国の王たちは、我々の信仰を、国を内部から崩す政治の道具としてのみ見て、激しく恐れています」
別の者は、冷静に危険性を説く。
「信仰の問題だけではありません。日本は、世界有数の銀の産出国であり、莫大な交易の国です。これは魂の救済だけでなく、世界の海の利を巡る、帝国の争いなのです」
さらに別の者は、俗世の利益の観点から警告する。
パウロ五世は、玉座で沈黙したまま、それらの矛盾する声を聞き続けていた。
*
さらに、ローマ側の焦りを極限まで高める存在があった。
あの閉ざされた島国に入り込もうとしているのは、カトリック勢力だけではないのだ。
オランダ。
そして、イギリス。
プロテスタントの勢力たちが、宗教を巧みに隠し、純粋な交易という名目で、徳川の懐へと深く入り込み始めているという報告が届いていた。
ローマ側からすれば、これは恐怖以外の何物でもなかった。
「もし、日本という強大で豊かな国が、我らローマの教えを捨て、オランダやイギリスの商人たちを独占的な相手として選んだとしたら?」
枢機卿の一人が、青ざめた顔で呟いた。
「太平洋の覇権を巡る航路と、莫大な銀の流れが、根本から塗り替えられることになります」
スペイン側の関係者が、震える声で同意する。
「これは、日本の魂だけの問題ではありません。日本の港もまた、我らの教会の知らないところで、激しく争われようとしているのです」
この切羽詰まった段階において。
東の果てからやって来た支倉使節は、ローマにとってただの珍しい客ではなかった。
それは、日本におけるカトリック布教の最後の希望であると同時に、あの巨大な富の国を、プロテスタント側へ完全に渡さないための、奇跡のようにつながった一本の細い糸でもあったのだ。
*
だからこそ、ローマ側は、伊達政宗が派遣した使節団に大きな期待を膨らませた。
支倉常長と、ルイス・ソテロ。
彼らがメキシコを抜け、スペインを経て、ついにローマの扉を叩いた時、教皇庁は沸き立った。
日本から、ついにローマへ向けて、正式な外交の使節がやって来る。
しかも彼らは、カトリックの宣教師を強く求め、ローマとの通商を熱望しているという。
しかし、教皇庁の冷静な官僚たちは、すぐに致命的な疑問に立ち返った。
「そもそも、その伊達政宗とは、日本全体の王なのか?」
枢機卿が、厳しい声で問う。
「いいえ。彼はあくまで、日本の北の果て、奥州という一地方を治める大名に過ぎません」
イエズス会の関係者が、冷淡に事実を突きつける。
「だが、彼は独自の立派な港を持ち、自前で巨大な船を建造し、大海へ出る強き意志を持つ有力な王だ」
ソテロ側の関係者が必死に庇う。
「では、もし彼がここで我らローマと通商と布教の約束を交わしたとして、日本の真の支配者である徳川がそれを認めねば、その約束は全て紙屑になるのではないのか?」
枢機卿の反論に、庇う者も黙り込むしかなかった。
この使節は、本当に日本の未来を開く確かな鍵なのか。
それとも、奥州という一地方の王の、無謀で小さな野心の発露に過ぎないのか。
パウロ五世は、最終的な判断を保留した。
(まずは会う。会って、彼らの目を見て、聞いて、測るしかない)
*
だが、事態はローマの思惑を、さらに複雑な迷宮へと引きずり込んでいた。
支倉の使節が、長い航海の末にヨーロッパへ向かっている、まさにその途中の期間。
日本から出た別の船便によって、教皇庁へ、極めて不穏な噂が次々と届き始めたのだ。
「日本で、宣教師や信徒への圧迫が、かつてないほど強まっているらしい」
「長崎の教会が壊されたという噂がある」
「一部の有力な宣教師が、国から追放されたとのこと」
「領主たちが、信徒に棄教を迫る動きがあるらしい」
「徳川という新たな支配者が、キリスト教に対して、かつての秀吉以上に厳しい態度を取り始めているようだ」
ローマ側は、この時点で徳川が発した禁教令の正確な全文や、その真意までは把握していなかった。
だが、断片的な不穏情報だけでも、絶望を抱くには十分だった。
「これが、日本全土に適用される正式な法なのか、それとも一部の領主の独断による一時的な処置なのか、まだ判然としません」
秘書官が、苦り切った顔で報告する。
「徳川の恒久的な方針なのかどうかも分からぬ」
「もし、徳川が本気で国を挙げて禁じているのなら、伊達政宗がここで我らと結ぶ約束など、完全なる空文になりかねませんぞ」
スペイン側の関係者が、吐き捨てるように言った。
「そんなことはありません。伊達政宗公は開かれた御方です。少なくとも奥州には、我らの道がまだ確かに残されている」
ソテロの報告を信じる者は反発したが、教皇庁に渦巻く深い疑念は消えなかった。
(支倉使節は、日本の未来を開く光輝く鍵なのか。あるいは、すでに重く閉ざされてしまった門に向かって、何も知らずに遅れて届いただけの、哀れな鍵なのか)
*
謁見の直前。
パウロ五世は、周囲に集まった枢機卿や秘書官たちに、最後の確認を行った。
「支倉常長は、あくまで伊達政宗の使節であるな」
「はい、聖下」
「彼は、我らとの通商を求めている」
「はい」
「そして、宣教師の派遣を求めている」
「そのように聞いております」
パウロ五世は、目を伏せた。
「だが、日本では今、我らの信仰への圧迫が強まっているという」
重苦しい沈黙が、部屋を満たした。
「ならば、我らは今日の謁見で、一体何を見るべきか」
教皇の問いに、一人が答える。
「伊達政宗という地方の王の、誠意を」
別の枢機卿が、首を振って答えた。
「いいえ。彼らの背後にある、真の支配者、徳川の影をです」
「そうだ」
パウロ五世は、力強く頷いた。
「伊達の美しい言葉だけでは足らぬ。徳川が、あの国をどうしたいのか。我らに対して何を考えているのかを、何としても測らねばならぬ」
*
重厚な扉が開き、使節団が謁見の場へと足を踏み入れた。
ローマ側の視線が、一斉に彼らへ注がれる。
先頭を歩く支倉常長は、体格こそヨーロッパの者たちに比べて小柄だったが、その歩みには一切のブレがなく、姿勢は恐ろしいほどに崩れていなかった。
過酷な長旅の疲労は確実にあるはずなのに、それを微塵も感じさせない。異国の洗練された衣服を纏い、腰には武士の魂である二本の刀を帯びている。
彼が纏う静寂の中には、確固たる礼節があった。
(東の果てから来た者。だが、決して野蛮人ではない)
枢機卿の一人が、息を呑んで見つめる。
(彼は、高度な礼を知っている。沈黙の重さを知っている。自らの主の名を背負う者の、気高い威厳がある)
支倉常長は、教皇の前に静かに跪き、主君・伊達政宗の書状を恭しく捧げた。
傍らで補佐するソテロ神父の顔は、期待と焦りで引き攣っていた。
(ここで、法王聖下から伊達政宗公への強力な支持を取り付けねばならない。そうすれば、日本への布教の道はまだ絶対に閉じない)
だが同時に、ソテロもまた、日本からの不穏な噂がローマに届いていることを知っていた。
(伊達政宗公の誠意を示さねば。奥州はまだ開かれていると、日本の門はまだ完全には閉ざされていないと、彼らに信じさせねばならないのだ)
*
伊達政宗の書状が、朗々と読み上げられた。
ローマ法王への深い敬意。通商の切実な願い。宣教師派遣の要請。奥州と欧州の文化交流。そして、途方もない海を越える、強固な友好の誓い。
その言葉は美しく、情熱に満ちていた。
ローマ側も、それを極めて丁重に受け止めた。
しかし、枢機卿たちの顔には、依然として消えない疑念の影が張り付いていた。
彼らは、小声で囁き合う。
「美しい言葉だ。だが、それを徳川は認めるのか?」
「この使節は、日本全体の意志ではない。所詮は地方の王の野心だ」
「だが、むげに無視するには、彼らの航海はあまりにも壮大すぎる……」
パウロ五世は、跪く支倉常長をじっと見つめた。
(この者は、決して嘘をついているようには見えない。だが、この者の純粋な誠意が、日本の未来を保証するわけではない)
その時。
支倉常長もまた、武士としての鋭い勘で、ローマ側の重苦しい空気を正確に感じ取っていた。
(彼らは、我が主・伊達政宗公の言葉だけを見てはおらぬ)
常長は、無表情に近い顔の裏側で、冷徹に状況を理解した。
(彼らは、我が主の背後にいる、真の支配者、徳川の意志を探しているのだ)
ならば、出すのは今しかない。
*
謁見の終盤。
通常であれば、伊達政宗の書状の披露と、見事な贈り物の贈呈で、儀式は滞りなく終わるはずだった。
しかし、支倉常長は、静かに、しかし断固たる所作で、従者に持たせていたもう一つの箱を自らの手で受け取り、教皇の御前へと差し出した。
謁見の場が、わずかにざわついた。
それは、伊達政宗の華麗な書状箱とは、明らかに異質なものだった。
幾重にも厳重に封じられた、飾り気のない白木の箱。
日本式の頑丈な紐の結び目。
そして、伊達の紋とは全く違う、圧倒的な威圧感を放つ徳川の印。
支倉常長は、静かに、しかしよく通る声で言った。
「これは、我が主・伊達政宗公よりの荷ではございませぬ」
通訳がその言葉を訳した瞬間、ローマ側の空気が、一瞬にして凍りついた。
パウロ五世が、わずかに身を乗り出した。
「では、それは、誰よりの荷であるか」
支倉常長は、真っ直ぐに法王の目を見た。
「日ノ本を治める徳川公儀より、ローマ法王猊下ただ一人へ託された、極めて重き箱にございます」
*
教皇庁の奥深い石室が、完全な静寂に支配された。
彼らが、一番知りたかった、そして一番恐れていた名前が出たからだ。
徳川。
日本で、信仰への圧迫を強めているらしい、冷淡な支配者。
だが同時に、交易の道を完全には閉ざしていない、老獪な支配者。
伊達の使節の言葉が、本当に意味を持つかどうかの全ての鍵を握る相手。
その徳川が、わざわざ伊達の船に自分たちの箱を忍ばせて送っていたというのか。
ソテロ神父は、激しく動揺し、顔面を蒼白にさせた。
「聞いていない……! 常長殿、そのような箱のことなど、私は……!」
だが、支倉常長はソテロの方を一切見なかった。
ただ、法王の目を真っ直ぐに見据えたまま、言葉を続ける。
「この箱の外封の取り扱いについては、必ずローマ法王猊下ご本人の御前でのみ開くことと、江戸の公儀より厳命されております」
枢機卿たちが、一斉にざわめいた。
スペイン側の関係者は、極度の緊張に顔を強張らせ、記録官は震える手でペンを止めた。
パウロ五世は、目の前に差し出された、不気味なほど静かな箱をじっと見つめた。
(これは、伊達の使節ではなかったのか)
ソテロは、絶望的な孤独感の中で十字を切った。
(いつから、徳川の恐ろしい声が、この純粋な旅に紛れ込んでいたのだ。私は、伊達の夢ではなく、徳川の声を運ぶための、ただの哀れな道具だったというのか)
*
パウロ五世の無言の頷きを受け、まず、常長の手によって厳重な外封が開かれた。
中から、さらに小さな内箱と、一枚の説明書と思われる紙片が現れた。
通訳担当の者が、恐る恐るその紙片を手に取る。
彼は、紙面に並ぶ文字を見て、激しく困惑した。
「これは……日本の文字、です」
「読めぬのか?」
枢機卿が苛立たしげに問う。
「いえ……読めます」
通訳担当は、震える声で答えた。
場が凍った。
「何を馬鹿なことを言っている。お前は日本の文字を完全に解するわけではあるまい」
「そうなのです。文字そのものは、東洋の見たこともない形のはずなのに……紙面を見た瞬間、その意味が、なぜか私の頭の中に直接流れ込んでくるのです……!」
それは、神仏ノードの意味補正の機能が、紙片を介して極めて微弱に、しかし確実に漏れ出している前兆だった。
通訳担当は、取り憑かれたように、その説明書の内容を読み上げ始めた。
「この箱は、ローマ法王本人の前でのみ開くこと」
「途中で無理に開けた場合、箱は完全に沈黙する。また、悪意をもって奪った者の前では決して開かない」
「中には、我らの声が封じられている」
「それは、伊達政宗の声ではない。天下を統べる、徳川公儀の声である」
「開封後、静かに箱の中の水面を見ること。決して驚いて箱を壊してはならない。火に近づけてはならない。剣を向けてはならない。まず、相手の挨拶を静かに聞くこと」
枢機卿の一人が、恐怖に顔を歪めた。
「声を封じた箱、だと……?」
「馬鹿な。それは、悪魔の魔術ではないのか!」
スペイン側の関係者が叫ぶ。
「私は、誓ってこの箱のことを知らされておりません!」
ソテロが必死に弁明する。
「それがしも、この箱の真の中身や、仕組みの全てを知るわけではございませぬ」
支倉常長は、淡々と答えた。
「ただ、江戸の公儀より、命に代えてもローマ法王猊下の前まで運び、御前で開けと厳命されていただけのことにございます」
*
周囲の者たちは、当然ながら即座に箱の開封を止めに入った。
「猊下。危険にございます。今すぐにお下がりを」
枢機卿が叫ぶ。
「これは東方の呪術か、さもなくば暗殺の罠のやもしれません。まずは別室へ移し、徹底的に調べるべきです」
スペイン関係者が懇願する。
「悪魔の欺きである可能性が極めて高い。燃やして捨てるべきです」
イエズス会関係者が断言する。
「しかし」
フランシスコ会関係者が反論する。
「もしこれが、本当に日本の真の支配者である徳川からの唯一の言葉であるならば。それを一度も聞かずに退けることは、布教の道を永遠に閉ざすことになりかねませんぞ」
記録官は震え上がり、秘書官は法王の決断を待ち、ソテロは完全に血の気を失って立ち尽くしていた。
パウロ五世は、周囲の喧騒と制止の声を全て聞き流しながら、ただ一点、目の前の白木の箱を静かに見つめ続けていた。
この二十年。
遥か東の日本から届いた報せは、どれも矛盾に満ちていた。
血塗られた殉教の悲劇。秀吉の死。徳川の台頭。交易の莫大な誘惑。プロテスタント商人の不気味な影。伊達政宗の使節の到来。そして、信仰弾圧の絶望的な噂。
そのすべてが入り混じる迷宮の中で、教皇庁はずっと手探りで祈り、迷い続けてきた。
パウロ五世は、静かに、しかし威厳に満ちた声で言った。
「我らは、この二十年。あの極東の国について祈り、聞き、そして迷い続けてきた」
彼の声が、石室に響く。
「日本には、熱き魂を持った信徒がいる。だが、血を流す剣もある」
「伊達政宗は、我らに向かって門を開こうとしている。だが、真の支配者たる徳川が、その門を内側から閉ざそうとしているのかどうか、我らは確かなことを何一つ知らぬ」
「ならば」
パウロ五世の目が、鋭い光を放った。
「その徳川本人が、自ら海を越えて言葉を寄越したというのなら、我らは、それを聞かねばならぬ」
「猊下!」
「もしこれが悪しき悪魔の術であるならば、我らは神の御名において、それを見極めねばならぬ」
「もしこれが、彼らの持つ人の知恵の結晶であるならば、それもまた見極めねばならぬ」
「そして、もしこれが、あの閉ざされた国を統べる真の支配者からの声であるならば。ローマは、決して逃げることなく、正面からそれを聞かねばならぬのだ」
それは、ただ見知らぬ異物に驚く老人の言葉ではなかった。
危険を承知の上で、世界宗教の頂点としての責任を果たす決意だった。
その言葉の重さに、誰もそれ以上、止めることはできなかった。
*
儀礼の間に、張り裂けそうなほどの緊張が満ちた。
支倉常長が、説明書の通りに、教皇の眼前の卓へ箱を静かに置く。
パウロ五世が、自らの手を伸ばす。
枢機卿たちが一斉に息を呑み、記録官は震える手でペンを握りしめ、ソテロは震える唇で十字を切った。
パウロ五世の手によって。
ついに、内箱の最後の封が解かれた。
音はなかった。
だが、封紙が静かにほどけた瞬間。
箱の内側から、金属でも木でもない、薄い奇妙な札が淡い光を放ち始めた。
そして、箱の底に、あり得ないほどに澄み切った、小さな水面が突如として現れた。
窓は閉ざされているのに、部屋の燭台の炎が大きく揺れた。
誰も触れていないのに、箱の中の水面が、まるで生きて呼吸しているかのように静かに波立つ。
遠い東の国の空気のような、不思議な湿り気が、ローマの石造りの乾いた空気に混じり合う。
青い畳と、清らかな水と、墨の匂いが、微かに、しかし確かに部屋の空気を変えていく。
通訳の手にあった説明書の日本の文字が、役目を終えたかのように、すっと紙面から薄れて消えていった。
そして。
箱の底の水面が、内側から、目を射るような強烈な光を帯び始めた。
*
ローマ側の者たちは、誰一人として声を出すことができなかった。
恐怖と、畏敬と、圧倒的な理解不能の事態を前に、息をすることすら忘れていた。
パウロ五世は、微動だにせず、ただ真っ直ぐに水面を見つめていた。
彼は悟った。
これは、ただの遠い国からの手紙ではない。
これは、使節が口で伝える通訳の言葉でもない。
これは、過去に書かれた古い王の言葉でもない。
いま、この瞬間に。
遥か地の果ての、あの東の島国の奥深くで、絶対の権力を握って座している者たちの視線が。
時と空間の全てを飛び越えて、このローマの小さな水面へと、直接届こうとしているのだ。
パウロ五世は、息を止めた。
枢機卿たちも、秘書官も、記録官も、ソテロも、スペインの使者も、そして支倉常長も。
その場にいた、地位も思惑も全く異なる複数の人間全員が、この同じ空間で、水面の放つ絶対的な光を同時にその目に焼き付けていた。
だからこそ、後にこの出来事を「教皇が老いによって見た、一時的な幻覚だ」と片づけることは、誰にもできなかった。
これから、あの水面越しに起きる事態が。
ただの外交交渉でも、布教の取引でも、戦の駆け引きでもなく。
ローマ教皇庁が、その長い歴史の中でこれまで一度も経験したことのない、神の奇跡か悪魔の魔法か、それすらも判別できない未曾有の出来事であることを。
その場にいた誰もが、まだ完全には理解していなかった。
ただ、箱の中の小さな水面だけが、遠い東の覇者の声を届けるため、静かに、そして圧倒的な力で光を帯び続けていた。
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