暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
箱の中の、あり得ないほどに澄み切っていた小さな水面から、目を射るような光が、スゥッと消え失せた。
窓は閉ざされ、燭台の炎がかすかに揺れるだけの、重苦しいサン・ピエトロ大聖堂の謁見準備室。
そこは、再びただの石造りの部屋へと戻っていた。
だが。
そこにいた全員が、金縛りにでも遭ったかのように、微動だにできずにいた。
教皇パウロ五世は、豪奢な椅子に座ったまま、彫像のように動かない。
その双眸は、光の消えた水面をじっと見つめたままだ。
枢機卿たちは、顔面を蒼白にして、口を半ば開けたまま固まっている。
全てを書き留めるはずの記録官は、ペンを握りしめたまま、その手を震わせていた。
スペイン国王の意向を代弁する関係者は、額に脂汗を浮かべ、十字を切ることすら忘れている。
ルイス・ソテロ神父は、放心したように崩れ落ち、祈りの言葉すら出せずにいた。
そして、支倉常長は。
深く、深く頭を垂れたまま、水鏡の中に映った、海の果てにいる主君・政宗の威厳ある姿と、日ノ本の天下人の姿、そしてあの幼い子供の姿を、その目に焼き付けていた。
ローマの乾いた空気が、再び部屋を満たしていく。
誰もが、今自分が見たものが、果たして現実であったのか、それとも集団的な幻覚であったのかを、測りかねていた。
どれほどの沈黙が流れただろう。
最初に口を開いたのは、記録官だった。
「猊下……聖下……これは、どのように。どのように記録すれば、よろしいのでしょうか」
その震える声に、パウロ五世はゆっくりと、まるで巨大な岩を動かすように、重い口を開いた。
「……見たままを、記せ」
「……猊下」
「我ら全員の目の前で、何が起き、何を見たのか。それを、そのままに記せ」
パウロ五世は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
その法衣の裾が、石の床を擦る音だけが、静かな室内に響く。
「理解できぬことは、理解できぬと記せ。恐れたことも、迷ったことも、全て隠さずに記せ。それが、ローマの記録というものだ」
パウロ五世は、記録官を見据えた。
「後の者がこの記録を読む時。我らが、この未曾有の事態において何を見て、そして、何を見極め、何を断じられなかったのかを、しかと知るためにだ」
その言葉には、ただの老人の驚きではなく、世界宗教の頂点として、重い歴史の責任を背負った者の決意が込められていた。
*
パウロ五世の第一裁定が下されたことで、石の部屋の静寂は打ち破られた。
枢機卿たちが、一斉に口を開く。
「奇跡だ! これは、間違いなく神の奇跡だ!」
フランシスコ会の関係者や、ソテロの側に近い枢機卿が、縋るような声を上げた。
「猊下が日本問題のために捧げ続けた祈りが、神に届いたのだ! 神は、我らと日本との間に、海を越える不思議な道を、奇跡として開かれた! ルイス・ソテロ神父の情熱こそが、神に認められたのだ!」
「愚かな!」
即座に、イエズス会側の枢機卿が、鋭い声を浴びせる。
「神が、異教の神仏を拝む支配者のために、奇跡を行うとでも!? あの幼い者……あの子供が言った言葉を、お前は聞いていなかったのか! 彼は、『キリスト教の神による奇跡ではない』と、我らの前で明確に否定したのだぞ!」
石室は、一瞬にして神学的混乱の渦へ叩き落とされた。
「ならば、これは悪魔の術か!? 悪魔が我らを幻惑し、あの支配者の禁教令を聞かせ、日ノ本への道を閉ざそうとしているのか!?」
「悪魔なら、なぜ我らを害さなかった! なぜ、国を守るための法と理を、論理的に語ったのだ! 悪魔はもっと卑劣で、もっと嘘に満ちているはずだ!」
宗教的議論が割れる一方で、教皇庁秘書官やスペイン側関係者は、より冷徹な政治の面を見ていた。
「聖下。これは神学の問題であると同時に、未曾有の外交事件です」
秘書官が、震えながらも、先ほど水面に映った家康たちの姿を思い出しながら言った。
「あの徳川家康……彼は、このローマへ、伊達の使節を通じて、自らの直接の言葉を届けたのです」
秘書官は、唇を引き結んだ。
「しかも、イスパニア王国の仲介も、ポルトガル王国の窓口も、我らの宣教師の通訳も飛び越えて。……神の理などという理外の力を使い、法王猊下へ直接、国家の方針を突きつけたのです。これは、これまでの海の秩序を根底から覆す、極めて重大な挑戦です」
スペイン国王の意向を気にする関係者は、額の脂汗を拭いながら、危機感を露わにした。
「これは危険です。あの徳川は、我々の船や通訳を介さずとも、自分たちの力で直接ここに声を届ける手段を持っている。これは……通商においても、宣教においても、イスパニアが築き上げてきた立場を、一瞬で無価値にする恐れがある、極めて危険な前例になりかねません!」
石室の議論は、奇跡か、悪魔か、あるいは極東の武家政権が用意した、前代未聞の外交兵器かという方向へ広がっていった。
*
混乱が激しくなり、枢機卿たちの言葉が罵り合いに近づいたところで、パウロ五世は静かに、しかし断固として手を挙げた。
「断じるな」
ただ一言。
重厚な椅子に座り直した教皇のその一言で、場は完全に静まり返った。
「猊下。しかしこれは……」
「神の奇跡と断じるには、彼ら自身が、それを真っ向から否定した」
パウロ五世は、ゆっくりと言葉を重ねた。
「悪魔の術と断じるには、彼らは我らを害さず、まず対話を求めた。悪魔は法を語り、知恵と学問の道を歓迎するような会談はせぬ」
パウロ五世は、水鏡があった虚空を見つめた。
「ただの外交芝居と断じるには、我ら全員が、この場で同じ不思議な現象を見、同じ翻訳された声を聞いた。……ならば」
教皇の双眸が、枢機卿たちを静かに射抜く。
「いま我らにできるのは、断罪ではなく、事実の整理である」
「猊下」
「彼らは、あの力を『日ノ本の神々の理』と呼んだ」
その言葉に、神学者たちが息を呑む。
異教の神などという概念を、教皇が口にしたからだ。
「我らがそれを信じるか否かは、今ここで決めることではない」
パウロ五世は、神学的な危うさを、外交的な実務として切り分けた。
「だが、彼らがその力を信じ、その力の体系に従って国を治め、政治を行い、現実に海を越えてローマへ声を届ける力として使っていること。……それは、交渉上の事実として受け入れねばならぬ」
教皇の声は、静かだった。
「我らは、異教の神仏を承認するのではない。……異教の支配者が、その名の下で、ローマが決して侮れぬ力を使っているという現実を、認めねばならぬのだ」
その裁定によって、ローマ側は神学的破綻を辛うじて避けつつ、十日後の会談に向けて、目の前の現実にどう向き合うかの、唯一の道筋を見出した。
*
パウロ五世は、休む間もなく、十日後の再会談へ向けた議題の整理を命じた。
「議題は三つに分ける」
室内にいる者たちが、一斉に姿勢を正す。
「一つ目。神学・霊的評価」
パウロ五世は、指を一本立てた。
「あの水鏡通信は奇跡か、悪魔の術か、未知の自然哲学の類か。……断定してはならぬ。十日後までに、聖書、教父の記述、過去の奇跡記録、そして悪魔憑きの事例との徹底的な照合を行え」
教皇は続ける。
「もし、悪魔の欺きであるなら、なぜ彼らは神学論争ではなく、禁教の理由を論理的に語り、通商と学問の道を歓迎するような政治的会談に終始したのか。……異教徒が持つ、この理解不能な力に対する、ローマの暫定的な見解をまとめよ」
パウロ五世は、二本目の指を立てた。
「二つ目。外交・政治評価」
「徳川家康・秀忠は、疑いようのない日本の真の実権者である。伊達政宗は、海への橋渡しをした重要人物ではあるが、日本全体の王ではない」
ソテロの肩が、小さく震えた。
「支倉常長の使節は、伊達の使節として無効ではない。だが、単独で日本の国を代表して条約を結ぶ力はない。……彼らが公然と突きつけた禁教令は、公儀の正式な国家方針として、ローマは受け止めねばならぬ」
部屋の空気が、さらに重くなる。
「……喜んで受け入れるのではない。撤回させることが今すぐは困難な、厳しい現実として受け止めるのだ」
「猊下。では、十日後の会談は……」
「十日後の会談では、プロテスタント商人の影も踏まえ、布教の全面解禁を正面から要求するより、まず既存の信徒の命を守り、宣教師や書物、医学者、天文学者といった者たちの登録制や窓口の線引きを詰めるべきだ」
パウロ五世は、静かに息を吐いた。
「徳川が言う学問の道を、我らがどう活用できるか。港別登録制度下で、ローマ関係者がどの港を使うか。それを現実的に考えねばならぬ」
最後に、三本目の指が立てられる。
「三つ目。日本情報の再調査」
教皇の声に、さらに力が宿った。
「徳川とは何者か。江戸幕府とは何か。伊達政宗の真の立場。支倉常長は何を知っているか。ソテロはどこまで把握していたか。……そして」
パウロ五世は、記録官を振り返った。
「日本で噂される、『水神の若君』とは誰か」
室内が、再び静まり返る。
「徳川が用いた、『日ノ本の神々の理』とは何か。……それを扱うのは、今日最初に説明をした、あの幼い子供であったのか」
ここに、ローマ教皇庁の総力を挙げた日本再調査と、水神童=国松への推理が、本格的に始まることになった。
*
水鏡通信の衝撃から少し落ち着いた頃。
ルイス・ソテロ神父が別室へと連れて行かれ、事情聴取を受けた。
彼は完全に打ちのめされ、放心状態だった。
彼にとって、今回の出来事は二重の意味で残酷だった。
自分と伊達政宗とが、ローマと直接布教外交を結ぶための、壮大で純粋な旅だと思っていた。
だが、その船には、徳川公儀の密封箱が乗せられていた。
結果として自分は、伊達の夢ではなく、徳川の声がローマへ直接届くための器を運んでいたに過ぎなかった。
そして、徳川が正式に禁教令を通告し、政宗も水鏡の中で、徳川の上位性を否定しなかった。
「神よ……これは。……これは……」
「ルイス・ソテロ。あなたは、誓ってあの箱の中身を知らなかったのか」
教皇庁秘書官の問いに、ソテロは力なく首を振った。
「……知りません。誓って、知りません」
彼は、震える声で続けた。
「徳川公儀からの重き荷であることは聞いていました。ですが……それが、江戸とローマを繋ぎ、あのように天下人の声を直接届ける理外の奇跡など……。私は……私は、ただ政宗公の誠意を……」
ソテロは、必死に伊達政宗を擁護しようとした。
「伊達政宗公は、ローマとの通商と宣教師派遣を、心より願っておられた! それは偽りではありません! 奥州はまだ開かれていると、彼は海を越えたのです!」
「だが、ソテロ。……伊達政宗は、水鏡の中で何と言った?」
「……」
「『国としての言葉を述べるのは、徳川公儀にございます』」
「……」
「彼は、自ら海の扉を叩いたに過ぎないと述べた。……そなたがいくら彼を日本の王として立てようとしても。彼自身が、己の立場と、徳川の上位性を、我らの前で認めたのだぞ」
ソテロは、黙り込むしかなかった。
その独りよがりな夢が、徳川の冷徹な政治によって完璧に利用され、崩れ去ったことを、認めざるを得なかった。
*
教皇庁は、ソテロの事情聴取を終えると、次は支倉常長を呼び出し、丁寧だが厳しい聞き取りを行った。
彼は武士として、余計なことは言わない。
しかし、嘘もつかない。
「ハセクラ・ツネナガ。そなたは、あの密封箱の中身を、知らずに運んだ」
「はい。中身の理までは知りませぬ」
「だが、そなたの主君、伊達政宗は、出航前に徳川公儀と通じていた」
「……我が主が、公儀とどのようなお話をされたかは分かりませぬ。されど、あの密封箱は、徳川公儀より我が主に託され、必ず猊下本人の御前でのみ開くべしと、厳命されておりました」
「そなたは、伊達の使節ではないのか」
「私は、伊達の家臣にございます」
「ならば。伊達政宗は、徳川家康に従うのか」
支倉は、慎重に答えた。
「我が主は、奥州を治める有力な大名にございます」
そして、一拍置いて続ける。
「されど、日ノ本の天下は、徳川公儀の下にございます」
ローマ側は、この証言で完全に理解した。
伊達政宗は有力な王だが、日ノ本の天下を統べる唯一の王ではない。
彼の使節は無効ではないが、徳川が認めねば意味を持たない。
「では、支倉」
教皇庁秘書官が、本題の噂について問うた。
「日本には、トクガワの家に、神仏の加護を受けた『水神の童』がいると聞く」
秘書官は、慎重に言葉を選ぶ。
「田の収穫を倍にし、指差した場所から水を湧かせた子だと。……それは、今日、最初にあの水鏡の仕組みを説明した、あの幼い子供のことか」
支倉常長は、その問いにしばし沈黙し、やがて静かに答えた。
「神の子、という言い方が、そなたらの言葉として正しいかは分かりませぬ」
ローマ側の視線が集中する。
「されど、徳川の若君・国松様が、水と土に関わる不思議な知恵と御力を示されていることは、我らも噂に聞いております」
支倉は、淡々と語った。
「民は、水神様。水神の若君と呼ぶこともあります」
「それは、本当に神の加護なのか。それとも農法の知恵なのか」
支倉は、少しだけ考えてから答えた。
「神仏の理と、農法の知恵。日ノ本では、それを厳密に分けることはせぬやもしれません」
さらに、ローマ側は既出の情報との照合を行う。
「徳川には、政を担う兄と、水土を担う弟がいると語られている。……これは徳川が意図的に作った神話ではないか?」
「竹千代様と国松様を、徳川の次代を支える、二人の若君として語る向きもあると聞きます」
支倉は、慎重に証言する。
「兄は政を、弟は水土を担う、と。……その二人を、徳川の天下を支える二童神のようなものとして語る民もいる、と」
ローマ教皇庁は、支倉常長の証言と、過去の断片的な報告から、驚くべき推理を進めた。
情報A。
トクガワには、国松という幼い若君がいる。
情報B。
その若君は、水や田に関する不思議な奇跡の噂がある。
情報C。
今日の水鏡通信の最初に、その仕組みを説明したのは、江戸側で最も若く見えた子供だった。
情報D。
彼は水を介して江戸とローマを繋いだ。水神という噂と合致する。
情報E。
家康、秀忠、竹千代も彼を止めなかった。竹千代は横で見張っていた。
情報F。
徳川が用いた「日ノ本の神々の理」を実務として扱っていたのは、あの幼い子供に見えた。
枢機卿たちが、激しい議論を始める。
「最初に語った、あの幼い者こそが! 噂に聞く、水神の童なのではないか!」
「神の子か。……いや、異教の神の子などという言い方は、神学的に慎重にすべきだ!」
「しかし、事実として、徳川の神々の理を扱う者であることは、今日、我ら全員が目撃した! 彼は、我らの理解不能な力で、水を介してローマへ声を届けた!」
神学的な混乱が、さらに深まる。
異教の神仏を承認はしない。
だが現象として、彼が水を介した不思議な力を扱っているのは目撃した。
日本側はそれを「日ノ本の神々の理」と呼び、パウロ五世はそれを「交渉上の現実認識」として仮に受け入れた。
ならば、外交記録上、あの子供をどう書くべきか。
記録官が頭を抱える。
「猊下。……分類欄が足りませぬ」
「奇跡。悪魔。外交。東方の術。日ノ本の神の理。……どれに入れればよろしいのでしょうか」
「全てに印を付けろ」
秘書官が、苛立たしげに言う。
「それでは後世の者が困ります!」
「後世の者も、困ればよい」
パウロ五世が、微かに微笑んだ。
「……我らも困っているのだ」
この軽い笑いで、部屋の緊張が少しだけ緩む。
江戸の台帳文化とローマの記録文化の、不思議な対比だった。
「猊下。では、十日後への議題は……」
「断定してはならぬ」
パウロ五世は、記録官へ命じた。
「こう記せ。……トクガワ家の若君、国松。日ノ本において水神の加護ある童と噂される者。水鏡の理を扱う可能性あり、と」
パウロ五世は、異教の神を承認するのではなく、日本という国がその力の体系に従って動き、あの子がその中心にいることを、交渉上の現実として受け入れた。
*
パウロ五世は、さらに日本情報の洗い直しを命じた。
「日本から届いた過去の報告の中に。水。田。水脈。井戸。農作物。……そして徳川の若君に関する記述がないか。すべて洗い出せ」
教皇庁の総力を挙げた日本情報の洗い直し。
これまでローマへ届いた、断片的な噂が、次々と並べられる。
情報一。
農法の知恵。
「徳川の若君が、江戸近郊で田の植え方を改め、収穫を大きく増やしたらしい」
これは農法か。
それとも奇跡か。
情報二。
水脈発見。
「若君が指した土地を掘ると、必ず水が出たという」
聖人伝に似ている。
だが日本では、異教の神仏の加護と語られている。
情報三。
水番・水札。
「村々に水の番を置き、水札というものを配り、水を巡る争いを減らしたらしい」
これは奇跡というより、統治の知恵ではないか。
だが、その知恵を扱うのが、水神の若君と呼ばれている。
情報四。
救荒作物・飢饉対策。
「飢饉に備え、芋、大根、備蓄、蔵の管理を進めているらしい」
これもまた、統治の知恵である。
情報五。
二童神徳の噂。
「徳川には、政を担う兄と、水土を担う弟がいると語られている。弟国松を水神の化身と呼ぶ向きもある、と」
枢機卿たちは、これらの情報を並べ、驚くべき分析に到達する。
「徳川は、その子を神として野放しにしているのではない」
「むしろ、その子の奇跡を、徳川の政治の中に囲い込み、利用している」
「兄竹千代と弟国松。二人の若君で天下を支えるという、二童神のような神話を作り出し、徳川の権威を民に植え付けているのだ」
この冷静な分析が、ローマ側の対応を現実的なものにしていく。
異教の理を、交渉上の現実として扱い、徳川の統治思想を読み解く。
「我らは、十日後、異教の神々の理の正体を暴くことではなく……その力を持つ相手と、いかに信徒を守り、流血を避けるかを話すべきだ」
パウロ五世の裁定だった。
*
最後に、スペイン側の警戒である。
スペイン国王の意向を代弁する関係者は、危機感と焦りを隠せなかった。
徳川が、スペインの仲介価値をすっ飛ばして、直接ローマと直通の経路を持ったこと。
これは、彼らにとって到底看過できるものではなかった。
「聖下。……これは危険です」
スペイン側の関係者は、声を震わせながら訴える。
「徳川は、我々の航路、我々の通訳、我々の外交窓口を介さず……直接、猊下本人の御前へ声を届けたのです」
彼は、拳を握った。
「このままローマが徳川と直通の関係を持てば……太平洋の覇権と、イスパニア王国の立場はどうなりますか!」
「我らは、スペイン王を軽んじるものではない」
パウロ五世は、冷静に返した。
「だが。日ノ本の信徒の命と、ローマ教会の判断を……すべて一国の政治的都合だけに委ねるわけにもいかぬ」
室内に沈黙が落ちる。
「我らは、十日後の会談の内容を、慎重に扱う」
パウロ五世は続けた。
「だが、徳川との対話を、閉ざすことはしない」
この裁定で、ローマ教皇庁の主体性が示された。
スペインを敵に回しすぎず、しかし徳川という新たな交渉相手を無視もしない。
*
夜。
パウロ五世は、教皇の私室で一人、十字架の前で祈っていた。
だが、その心は、これまで一度も経験したことのない矛盾に満ちていた。
(……あれは、神の奇跡ではないと、彼らは言った。ならば、あれは何か)
(……悪魔の術か。異教の神々の理か。あるいは、人間がまだ知らぬ創造の仕組みの一端か)
彼は十字架を見上げる。
(日本にいる信徒を、救いたい。……しかし、日本という国を知らずに突き進めば、彼らをさらに危険に晒すことになる)
(徳川は恐ろしい支配者だ。……だが、話の通じぬ野蛮人ではない)
(あの老将は、己の国の警戒を、論理的な言葉にした。あの将軍は、公儀の法を示した。そして)
パウロ五世の脳裏に、水神の若君、国松の顔が浮かぶ。
(あの幼い子供は。……水を通じて、江戸とローマを繋いだ)
異教の神の子ではなく。
徳川という家に抱え込まれた、理解不能な力を持つ童。
あの子をどう見るかで、日本との交渉は変わる。
(……神よ。我らに、真実を見極める目を、お与えください)
そして、決意する。
(十日後。もう一度、あの水面を見る)
(その時、ローマは怯えたままではいられない)
(日本の信仰を守るためにも。まず、日ノ本を知らねばならないのだ)
パウロ五世は、目を閉じて深く祈った。
江戸の夜は静かだが。
ローマの夜もまた、十日後への静かな準備を始めていた。
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