暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第80話 水神様、十日後に備えて田んぼへ逃げる

 箱の中の小さな水面から放たれていた眩い光が、スゥッと消え、江戸城の奥深い座敷は、元の静けさと薄暗さを取り戻した。

 

 そこに残されたのは、家康、秀忠、竹千代、俺、そして伊達政宗の五人だけだった。

 

 俺は、極度の緊張の糸がプツリと切れ、たまらず畳の上にへたり込んだ。

 

「……終わった……。俺、生きてる……」

 

 本当に、心臓が口から飛び出るかと思った。

 

 異端審問の火刑にもかけられず、狂信的な十字軍の宣戦布告もされず、無事に通信を終えられたのは奇跡に近い。

 

「初回としては、悪くなかった」

 

 俺の隣で、竹千代兄上が冷徹な目で総括する。

 

「余計な未来話も、神仏の理の深い本質も、お前はほぼ口にしなかったからな」

 

「『ほぼ』って言い方やめてください。私は完璧に台本通り、必死に我慢して黙ってましたよ!」

 

「だが、十日後は違うぞ」

 

 秀忠父上が、早くも次の戦いを見据えて兜の緒を締める。

 

「相手も、我らの突きつけた禁教と通商の線引きを分析し、周到に準備してくる。今日のように、ただ驚いて固まっているだけではあるまい」

 

 伊達政宗は、依然として楽しそうな顔で独眼を光らせていた。

 

「いやはや、あのローマ法王猊下、なかなかの御仁でしたな。あれほどの理外の光景を目の当たりにして、逃げず、怒鳴らず、我らとの会話を最後まで続けた。……胆力が違う」

 

「うむ。侮れぬ」

 

 家康も、深い皺の刻まれた顔で頷いた。

 

「あれは、ただ神に祈るだけの信仰の人であると同時に……広大な世界を操る、冷徹な『政治の人』でもある」

 

 初回の会談は、間違いなく成功だった。

 

 徳川の禁教令の強固な線引きは伝えた。

 

 だが、通商と技術交流の扉は開かれていると示した。

 

 そして何より、十日後の再会談の約束を取り付けた。

 

 しかし、それは同時に、次回からはいよいよ誤魔化しのきかない『本格的な外交交渉』が始まるということでもあった。

 

 *

 

 家康は、休む間もなく次回の体制を決定した。

 

「次は、天海と崇伝も参加させる」

 

「……やっぱり、そうなりますか」

 

 俺がため息をつくと、家康は当然だというように頷いた。

 

「相手はローマ法王。海の向こうの宗教の頂に立つ者じゃ。こちらも、日ノ本の神仏と霊的な理を扱う天海と。そして、公儀の法度と文言の整理を担う崇伝を、この座に置かねばならぬ」

 

「次回は、間違いなく禁教令の細部や、ローマから派遣される医師・学者の受け入れ条件へ、深く踏み込んでくるはずです」

 

 竹千代が、次回の争点を予測する。

 

「あの海千山千の相手に対し、文言の綻びを突かれぬためには、崇伝殿の目は必須だな」

 

「天海には、彼らが言う『神の奇跡』と我らの『神仏の理』の違いについて、神学的、霊的な側面からの防波堤になってもらう必要がある」

 

 秀忠も同意する。

 

「……また参加者が増えるのか」

 

 俺は、システム管理者の顔に戻ってぼやいた。

 

「水鏡の画角調整と、全員の声を拾って自動翻訳する意味補正の再調整、難しくなるなぁ……。通信負荷が心配だ」

 

「ははは! 法王猊下の御前に、今度は僧まで並ぶのか。これは実に面白い絵面になりそうですな」

 

 政宗が愉快そうに笑う。

 

「政宗殿は、毎回本当に楽しそうですね……」

 

「天下の転がる音は、いつ聞いてもうるさく、そして愉快なものですからな」

 

 *

 

 方針が固まったところで、家康がふと、思い出したように言った。

 

「さて。……儂はこれから、『お(さと)』のところへ行って、ことの顛末を伝えてくる」

 

「お里?」

 

 俺が首を傾げると、家康は事も無げに答えた。

 

八百比丘尼(やおびくに)のことじゃ。今は、そう名乗っておる」

 

「えっ、あの千年ニートの八百比丘尼さん、今そんな名前で江戸にいるんですか」

 

「本人いわく、各地を旅するたびに適当に名前を変えておったそうじゃがな。今は下町の長屋で『お里』で通しておるらしいわ」

 

 秀忠が、やや疲れた顔で家康を見た。

 

「……父上。あの方と、最近よく茶を飲んでおられるのですか」

 

「うむ。あやつは、誰も知らぬ古い話を山のように知っておるからの。それに……なにより、話が面白い」

 

 大御所様が「面白い」と感じるタイプの理外の存在。

 

 だいたい国を揺るがすレベルで危険なんだよな……。

 

 俺が内心で嫌な汗をかいていると、家康が特大の爆弾を落とした。

 

「そういえば。あやつ、今のあのローマ法王が、まだ無邪気な子供だった頃に、直接会ったことがあるらしいぞ」

 

「…………はい?」

 

 俺は、自分の耳を疑った。

 

「あやつは、羅馬(ローマ)の地にも行ったことがあると言っておったからな。幼い頃の法王を見て、『あの子、妙に目が真面目で面白かったねえ』などと、茶をすすりながら笑っておったわ」

 

「なんで八百比丘尼さん、しれっと世界史の重要人物の幼少期にエンカウントしてるんですか……!」

 

「ははははは! それはまた、途方もなく愉快な尼ですな!」

 

 政宗が大笑いする。

 

 家康は、ものすごく悪い、そして悪戯っ子のような顔をして言った。

 

「どうじゃ。……次の会談に、あやつをいきなり同席させてみるのも、よいかもしれぬな」

 

「……」

 

「あの冷静な法王が、かつて自分に会った東洋の女が、一寸も老けずに現れたのを見て、度肝を抜かれて腰を抜かす様を見るのも……なかなか面白かろうて」

 

「駄目です!!! 絶対に駄目です!!!」

 

 俺は、反射的に全力で叫んだ。

 

「おやめください、父上! さすがにそれは火種が大きすぎます!」

 

 秀忠も慌てて止める。

 

「ローマ法王との繊細な外交会談に、千年生きた尼を飛び入りで出す意味が全くありません! あの尼の正体を向こうに説明するだけで、神学論争になって会談が完全に壊れます!」

 

 竹千代も、珍しく声を荒げて家康を諫めた。

 

「はっはっは! 冗談じゃ、冗談」

 

 家康は、愉快そうに手を振った。

 

「流石の儂も、あの底の知れぬ女を、かような重大な政治の場に引っ張り出すつもりはないわい」

 

「……本当に、冗談でよかったです」

 

 俺は心底安堵した。

 

「全てあの人の軽いペースに巻き込まれて、公儀の威信も法度も全部壊しそうなので、絶対に駄目です」

 

「分かっておるわ」

 

 家康の目が、再び冷徹な天下人のそれに戻る。

 

「あやつは、公の政治の場に出す『札』ではない。ただの茶飲み話と、裏の情報源として扱うだけで十分じゃ」

 

 *

 

「さて」

 

 家康が、本題の「次回の戦術」に戻った。

 

「十日後。……向こうは間違いなく、国松。お前を深く探ってくるぞ」

 

「……やっぱり、そうなりますか」

 

「なる」

 

 家康は断言した。

 

「最初に、あの理外の水鏡の理を説明したのは、お前じゃ。……あのように幼き子供が、海を越えて言葉を繋ぎ、翻訳の理まで完璧に整えておった。あちらの賢き者たちが、これを見逃すはずがない」

 

「ローマ側は、すでに日本の噂を血眼になって集め始めるだろうな」

 

 秀忠が予測する。

 

「水神の若君、田法、水脈の発見、井戸、救荒作物、そして『二童神徳』の噂……。同席していた支倉からも、厳しい聞き取りをするはずだ」

 

「うわあ……。絶対に、俺の正体というか、怪しさがバレるやつだ……」

 

 俺が頭を抱えていると、家康は冷ややかに言い放った。

 

「隠すのは、悪手じゃ」

 

 竹千代が、少しだけ眉を動かした。

 

「神仏の知識がある。神仏の声が聞こえる。後の世のことも、ある程度分かる。……この程度までは、向こうに言ってよい」

 

「い、言っていいんですか!?」

 

「よい」

 

 家康は、老獪極まる外交戦術を口にした。

 

「相手はすでに、水鏡という『理外のもの』を目の当たりにした。ここで我らが妙に隠し立てをすれば、かえって向こうは勝手に恐れ、神学的な妄想を際限なく膨らませる。ならば。……あることないこと、ほどよく混ぜて、わざと多く語ってよい」

 

「あることないこと!?」

 

「情報は、多ければ多いほど、相手はそれを整理し、真偽を確かめることに時間を取られる」

 

 家康の目が、凄絶な政治の光を帯びる。

 

「こちらの全てを正しく理解されるより……『断片を大量に与えて、混乱させた方』が、交渉において圧倒的に有利になる場合もあるのだ」

 

「隠して、こちらの『底』を測られるくらいなら。……底が全く見えぬほど、大量の情報を投げ込んで、水を濁してしまえばよい」

 

 大御所様、やっぱり政治の化け物だ。

 

 情報を隠蔽するんじゃなくて、あえて情報過多にして相手の処理能力をパンクさせる戦術を取るのか……。

 

「もちろん、絶対に言ってはならぬこともある」

 

 家康が釘を刺す。

 

「神仏ノードの仕組みそのもの、未来の細かな歴史、徳川内部の弱み、豊臣や朝廷に対する詳細な策。……そこは絶対に喋るな」

 

「それは当然だ」

 

 竹千代が深く頷く。

 

「だが、お前の『水神の若君』としての噂程度は、むしろ積極的に利用せよ。向こうが国松を恐れ、あるいは神の奇跡として崇めるならば……その『恐れ』も『期待』も、公儀の強固な交渉の盾になる」

 

 *

 

 ここで、竹千代が静かに、しかし明確に反論を口にした。

 

「……私は、秘する方もありだと思います」

 

「ほう」

 

 家康が、孫の反論を面白そうに促す。

 

「次回、向こうが国松を深く探ってくるのは確かです。……ですが。下手に国松を晒しすぎれば、ローマ側はこの子を『奇跡の源』として扱い始める危険があります」

 

「……」

 

「奇跡と信仰に飢えたあちらの者たちが、水神の若君を自分たちの教義に都合よく取り込もうと、あらゆる手段で接触を図ってくるかもしれません。あるいは逆に、純粋な悪魔の術と断じて、狂信的な敵視をしてくるかもしれません。……どちらに転んでも、国松にとっては極めて危険です」

 

「兄上……」

 

「国松は、公儀にとって便利な札だ。……だが、便利な札ほど、むやみに卓上へ出しすぎれば、必ず奪われる」

 

 竹千代の言葉には、次期将軍としての強い保護の意志があった。

 

「父上の言う通り、隠しすぎれば向こうは勝手に恐れる。だが、竹千代の言う通り、晒しすぎれば向こうは国松そのものへ執着する」

 

 秀忠が、二つの意見の板挟みになって唸る。

 

 家康の情報過多で混乱させる案と、竹千代の秘して守る案。

 

 方針が完全に割れた。

 

 だが家康は、不機嫌になるどころか、満足そうに笑った。

 

「よい。……お前たち、二つの策とも、しっかりと頭に入れておけ。次回、どちらの策を使うかは。……向こうの『出方次第』じゃ」

 

「……父上は最初から、そのつもりでしたか」

 

 秀忠がため息をつく。

 

「うむ。外交において、最初から一つの凝り固まった方針に縛られる必要はない。相手が恐れておるなら、少しだけ見せてやる。相手が食いつきすぎれば、隠して焦らす。相手が悪魔の術と断じてくれば、冷静な『政』の話へ戻す。相手が神の奇跡と騒げば、公儀の『法』の話へ戻す。……これでよい」

 

「結局、その場の空気を読んで臨機応変に対応するっていう、一番難しいやつじゃないですか……」

 

 俺が絶望していると、家康が立ち上がった。

 

「天海と崇伝への説明は、秀忠と竹千代に任せる」

 

「承知しました」

 

「神仏の理と禁教令の文言、そして次回の法度案を、彼らと詳細に整理しておきます」

 

「次回の水鏡の調整は、国松、お前がやれ」

 

「はい。参加者が五人から七人以上に増えるなら、画角と音声の自動翻訳の負荷を再調整します。向こうも人数が増えてる可能性がありますし、同時通訳の意味補正のシステム負荷がかなりキツくなりますね……」

 

「今回のように、お前は余計なことを言わず、ただの説明役に徹すればよい」

 

 竹千代が、またしても釘を刺してくる。

 

「兄上、またそれ言う」

 

「お前の命に関わる重要事項だから、何度でも言う」

 

「儂は、お里のところへ行く。また十日後だな」

 

 家康が上機嫌で座敷を出ようとする。

 

「本当に、八百比丘尼さんを連れてこないでくださいね!」

 

「しつこいのう。連れてこぬわ。……ただ、あの法王の子供時代の恥ずかしい話は、しっかりと聞いておく」

 

「それ、聞いたら聞いたで、絶対に向こうを揺さぶるために使いたくなるやつじゃないですか……」

 

「使うかは、別じゃ」

 

 家康は、悪い笑みを残して去っていった。

 

「大御所様、本当に楽しそうですなあ」

 

 政宗が愉快そうに見送る。

 

「面白い世になったものよ」

 

 政宗も一礼して下がり、秀忠と竹千代も、天海・崇伝への説明に向かうために立ち上がった。

 

 去り際、竹千代が立ち止まり、俺を見下ろして言った。

 

「……国松」

 

「はい?」

 

「父上はああ言ったが。……私は、お前を秘するのも『あり』だと思っている」

 

「……」

 

「下手にお前を、異国の狂信者どもの前に晒すのは、怖い」

 

 竹千代は、小さく、だがはっきりと言った。

 

「次回、向こうが『水神の若君』を探ってきたら。……まずは、私の目を見るように。私が、止める」

 

「兄上……。ありがとうございます」

 

「礼はよい。……仕事に励め」

 

「そこは休ませてくださいよ!!」

 

 俺の叫びを無視して、竹千代は去っていった。

 

 *

 

 座敷に、俺だけが残された。

 

 どっと押し寄せる疲労に、俺は畳の上に大の字に寝転がった。

 

「……大御所様は『晒して混乱させろ』。兄上は『秘して守れ』」

 

「……どっちが正解なんだよ……」

 

 すると、誰もいない空間から、KAMI様の声が響いた。

 

『やっほー。なかなか面白い分岐になってきたわね』

 

「KAMI様……。今、どっちの戦術が正解なのか、本気で分からなくなってます」

 

『なるほどねー』

 

 KAMI様は、俺の顔を覗き込むようにして言った。

 

『家康様の戦術は、相手を情報過多で「混乱」させるのが目的ね。情報を出しすぎて、どれが本質か分からなくする。……いかにも海千山千の古狸らしい、老獪な政治戦術だわ』

 

「ですよね」

 

『でもねー。ちょっと、キリスト教という宗教の「本質」を、甘く見ているかもしれないわね』

 

「……え?」

 

『竹千代君は、その辺の危うさを、直感的にすごくよく分かってるかもね』

 

 KAMI様は、少しだけ真面目なトーンになった。

 

『いいこと? 彼らはね……強烈に「奇跡」に飢えているのよ』

 

『この世界のローマ教皇庁は、まだ表向きには、あの水鏡のような理外の力を、体系的には一切持っていないの。あるいは、世界のどこかに秘匿して持っていたとしても、少なくとも今の教皇本人は、それを政治の道具として明確には認知して使えていない。彼らは、純粋な信仰として神を信じていても……目の前で、水鏡みたいな分かりやすい超常現象を、自在に扱えるわけじゃないのよ』

 

「つまり……ローマ側から見ると、俺は……」

 

『ものすっごく、目立つわ』

 

 KAMI様は、指を折って数え上げた。

 

『幼い子供。徳川の若君。水を操るという神秘的な噂。実際に、水を介してローマと江戸を繋いだ実績。……しかも本人は、「これはキリスト教の神の奇跡じゃない」と、自分たちの教義を真っ向から否定して断言した』

 

『……そりゃ、神学者も政治家も、全力で狂ったように食いついてくるわよ』

 

「うわあ……」

 

 俺は、最悪の想像をして顔を覆った。

 

『家康様の「情報過多で混乱させる」は、純粋な政治の場においては最強よ。でも、奇跡に飢えた巨大な宗教組織に対しては、餌を撒きすぎる危険もある。竹千代君の「秘して守る」は、その宗教的な狂信の危険性を、かなり正確に見抜いてるわ』

 

「じゃあ、結局どっちが正解なんですか?」

 

『そんなの、答えを言ったらつまらないでしょ?』

 

「また出たよ」

 

『それに、私は本当に必要な時しか、確定した未来は見ないの。あんたと私で、この先の展開はお楽しみよ』

 

『まあ、一つだけ助言してあげるなら……。次回は、絶対に『神の子』として振る舞わないことね。あくまで、徳川公儀の巨大な行政の仕組みの中で働く、ちょっと水回りの実務が得意な『変な若君』。……それくらいに、徹底的に矮小化しておきなさい』

 

「ちょっと変な若君、で済みますかね……」

 

『無理じゃない?』

 

「無理なの!?」

 

『だから面白いんじゃない。……じゃ、十日後に向けて、お仕事頑張りなさい!』

 

 KAMI様は、楽しそうに笑って、ふわりと消えた。

 

「……毎回毎回、爆弾みたいな情報だけ置いて消える……」

 

 *

 

 俺は、しばらく誰もいない座敷でぼんやりと天井を見上げていた。

 

 遥か海の向こうのローマ。

 

 強固な禁教令。

 

 水神の若君としての噂。

 

 次回の天海と崇伝の参戦。

 

 十日後の再会談。

 

 家康の情報過多戦術。

 

 竹千代の秘匿警戒。

 

 そして、KAMI様の「彼らは奇跡に飢えている」という不吉な警告。

 

 ……全部が、あまりにも重すぎる。

 

「……なーんか。十日後が、めちゃくちゃ怖くなってきたなぁ……」

 

 俺は、深いため息をついて立ち上がった。

 

「……はぁ。田んぼ見に行こう」

 

「今の俺にできるのは、結局それくらいだ……」

 

 ローマ法王と顔を合わせて話そうが、世界宗教から奇跡の存在として探られようが。

 

 俺が日ノ本で本当にやらなければならない、地に足のついた実務は変わらないのだ。

 

 田んぼを見る。

 

 水路の詰まりを見る。

 

 村人たちの水争いを減らす。

 

 津軽の飢えを救うための、救荒米を動かす。

 

 全てを台帳に記録し、制度を整える。

 

 俺は、御異物改方の部屋に戻って山積みの書類を一度だけパタンと閉じると、逃げるように城を抜け出し、江戸近郊の試験田の様子を見に向かった。

 

 *

 

 初夏の風が吹き抜ける、青々とした田んぼ。

 

 俺の視界には、澄んだ田んぼの水面が映っていた。

 

 その小さな水面には、当然ながら、遥か彼方のローマの石室は映らない。

 

 ただ、高く広がる江戸の空と、風に揺れる稲穂と、泥にまみれた俺の顔だけが映っている。

 

 ローマ法王との歴史的な初回会談は終わった。

 

 十日後には、さらに重く、厳しい問いが、あの水鏡の向こうから容赦なく投げ込まれるだろう。

 

 大御所様は、情報を撒き散らして相手を惑わせろと言った。

 

 兄上は、下手に己を晒すなと警告してくれた。

 

 KAMI様は、彼らは奇跡に飢えていると、楽しそうに笑った。

 

 どれも政治的に正しく、そして、どれも恐ろしい。

 

 だから俺は、ひとまずこの泥の田んぼへ向かったのだ。

 

 大理石のローマの石室ではなく、江戸近郊の泥田へ。

 

 終わりの見えない神学論争ではなく、確かな実りのための水口と(あぜ)を見に。

 

 たぶん。

 

 俺に本当にできることは、結局そこからしか始まらないのだ。

 

 水鏡は、確かにローマと江戸を繋いだ。

 

 けれど。

 

 俺の足元を一番確かに支えているのは、今日も変わらず、ただの冷たい田んぼの水と、泥の感触だった。

 

 




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