暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第81話 水神様、天海と神仏ノードを歩く

 江戸城の重苦しい政治の空気から逃げ出すように、俺は江戸近郊の試験田へと足を運んでいた。

 

 吹き抜ける初夏の風が、青々と育ち始めた稲の葉を揺らしている。

 

 俺は泥に足を取られながら、いつものように田んぼの周囲を歩き回っていた。

 

水口(みなくち)の水量、よし。(あぜ)の崩れ、なし。……正条植えの列も、この村は綺麗に揃ってるな。水番の木札もちゃんと機能してる」

 

 津軽への冷害支援に思いを馳せながら、江戸近郊の田の水温や、苗の伸び具合を細かく確認していく。

 

 だが、手を動かしていても、頭の中の半分は、どうしてもあのローマ法王との水鏡会談のことでいっぱいになっていた。

 

(……法王と直接話して、十日後にもう一回本格的な交渉をすることになって。しかも向こうは、間違いなく俺を『水神の若君』とか『異教の神の子』とか、そういうヤバい視点で探ってくる……)

 

(大御所様は『情報を出して混乱させろ』って言うし、兄上は『秘して守れ』って言うし……)

 

「……はぁ。田んぼの泥をいじってる時が、一番心が休まるな……」

 

 俺が畦道にしゃがみ込んで深いため息をついていると、背後から衣擦れの音が近づいてきた。

 

「……国松様。やはり、こちらにおられましたか」

 

 振り返ると、黒衣を纏った天海僧正が、いかにも偶然通りかかったような穏やかな顔で立っていた。

 

 ……偶然なわけがない。

 

 秀忠父上か竹千代兄上からローマ会談の顛末を聞き、俺が重圧に耐えかねて田んぼへ逃げることを完全に読んで、先回りしてきたに決まっている。

 

「天海殿……。もしかして、兄上たちから聞きました?」

 

「ええ」

 

 天海は、静かに頷いた。

 

羅馬(ローマ)法王との水鏡での御会談のこと。その驚くべきあらましは、秀忠公と竹千代殿より、しっかりと伺いました。……そして、十日後の席には、拙僧と崇伝殿も同席せよ、との大御所様の命も」

 

「やっぱり……」

 

 俺がげんなりして肩を落とすと、天海は小さく笑った。

 

「それで、あまりの重責に、国松様はたまらず、いつもの田んぼへ逃げておられるのだろうと。そう思い、こうして足を運んだ次第にございます」

 

「逃げてないです! 点検です! 公儀の重要な水土御用の現場確認です!」

 

 俺が強がると、天海は深々と頭を下げた。

 

「では、拙僧もその重要な現場確認に、同行いたしましょう」

 

 こうして、ローマ法王との大一番を十日後に控えた俺と、黒衣の怪僧・天海の、のどかな二人歩きが始まった。

 

 *

 

 俺たちは、田んぼの近くにある名もない小さな(やしろ)と、村の小さな寺の境内を回った。

 

 ここは、俺が以前から定期的に点検している、江戸近郊の小規模な神仏ノードの一つだ。

 

 俺の視界には、いつものようにAR的な青い文字が浮かび上がっている。

 

『水守り系・小祠ノード:安定』

 

『田法導入に伴う豊作祈願ログ:増加』

 

『村落間水番制度への信頼値:上昇』

 

『水争い発生率:低下傾向』

 

『供物の偏り:米・野菜多、酒は控えめ』

 

『水口周辺の物理的詰まり:軽微』

 

『迷信・信仰過熱:要注意』

 

 俺は、視界の情報を頼りに、小さな祠の裏手へ回り込み、しゃがみ込んで泥を素手で払い始めた。

 

「……ああ、やっぱり。ここ、祠の裏の排水溝に落ち葉と泥が詰まって、水が溜まってますね。これじゃあ、木が腐って祠が傾きます」

 

 俺は持っていた木の枝で、泥を掻き出して水の通り道を直した。

 

「……信仰ノードの霊的な異常じゃなくて、ただの物理的な泥詰まりだ」

 

 天海が、その様子を横で見ながら、静かに言った。

 

「いかに神仏の御威光が宿る社と申しましても。……祠の裏に泥が溜まれば、木は湿り、やがては腐り落ちますからな」

 

「……天海殿。そこ、なんかありがたい仏法のお話っぽく言ってますけど。ただの物理的な木工のメンテの話ですよね?」

 

 俺がジト目で突っ込むと、天海は悪びれずに微笑んだ。

 

「その物理的な『めんて』とやらを行うこともまた、日々の信仰の大切な一部でございます」

 

 そう。

 

 神仏ノードの点検とは、大仰な呪文を唱えたり、派手な奇跡を起こしたりすることではない。

 

 祠の泥を払い、腐った供物を取り除き、水札が正しい位置に掛けられているかを確認し、参道のぬかるみを石で埋める。

 

 そして何より、「国松様に祈れば、田の草取りをしなくても勝手に米が育つらしいぞ」みたいな、村人たちの間の怠惰で危険な信仰の過熱がないかをチェックして、小さなうちに摘み取ることだ。

 

「……神仏ノードって、結局こういう泥臭い地道なことをやり続けないと、すぐ変な方向へ狂っていくんですよね……」

 

 俺が泥だらけの手を洗いながらぼやくと、天海は深く頷いた。

 

「だからこそ。国松様は、その点検を決して欠かさないのでしょう」

 

 *

 

 田んぼから集落へ向かう畦道を歩きながら、天海がふと、穏やかな声で言った。

 

「……国松様は、真に変わらず、この神仏の理の点検を欠かしませぬな」

 

「まあ、放っておいてバグって暴走されると、一番困るのは俺なんで……」

 

「それに。……昔に比べて、狼狽(うろた)えるような失言も、随分と少なくなりましたな」

 

「えっ、そうですか?」

 

 俺は少し驚いて振り返った。

 

「ええ。以前は、大御所様の御前や、少しでも理外の事象に触れると、何かにつけて慌てふためき、妙な未来の言葉を漏らし、慌てて必死に取り繕っておられました」

 

「……いや、今もけっこう頻繁にやってますけど?」

 

「はい。今も、大いにございますな」

 

「そこは優しく否定してくれないんですね!」

 

 天海は、声を立てて笑った。

 

「ですが。それでも、確かに減りました。……ご自身の持つ不思議な力や、その言葉の重みが、どれほど周囲の人間や、この国そのものを動かしてしまうのか。……その恐ろしさを、少しずつ分かってこられたのでしょう」

 

 天海は俺の顔を見て、静かに言葉を重ねた。

 

「驕らず、(たゆ)まず。誠に素晴らしいことと存じます」

 

「……私も、少しは成長できてるってことですかね」

 

 少しの間があった。

 

 天海は、ふと空を見上げて言った。

 

「……それが拙僧には、少し寂しくもあり。……同時に、大いに誇らしくもございます」

 

「寂しい?」

 

「幼い若君が、己の立場の重さを知り、為政者としての顔つきになっていく。……それは、国を支える者として大変喜ばしいことです。ですが、同時に、田の泥にまみれて無邪気に驚き、笑っておられた頃が、少しずつ遠くなっていくようでもありますからな」

 

「天海殿……」

 

 俺は、その年老いた僧侶の、祖父のような優しい言葉に少しだけ胸が熱くなった。

 

「……とはいえ。今も十分に、先ほどの座敷のように慌てふためき、青い顔をして逃げ出しておられますので。……その点においては、拙僧も深く安心しております」

 

「安心するところですか、それ!」

 

 俺のツッコミに、初夏の風に混じって、天海の穏やかな笑い声が響いた。

 

 *

 

 空気が少し和らいだところで、俺は、ずっと腹の底に抱えていたローマ法王との水鏡会談への不安を口にした。

 

「天海殿。……十日後、ローマ法王と再びあの水鏡で面会する時。俺は、どう振る舞えばいいんでしょうね。……俺、まだ全然分からないんです」

 

「……」

 

「向こうは間違いなく、俺のことを『水神の若君』とか、『異教の神の子』とか、あるいは『悪魔の術師』とか、そういう異常な目で探ってくるはずです。……キリスト教の神の奇跡じゃない、って、俺が自分で断言しちゃいましたし」

 

 天海は、ゆっくりと歩きながら答えた。

 

「国松様。……まず知っておいていただきたいのは。この日ノ本の民草にとって、神や仏とは、決して遠い天の空の上にだけおわすものではない、ということです」

 

 天海は、周囲の景色を指差した。

 

「神は、あの山にいる。あの川にもいる。この田んぼの泥の中にもいる。……村の井戸にも、家の(かまど)にもいる」

 

「仏は、死者を優しく導き。同時に、寺は村の子供たちが学び、地域の記録を残す場でもある」

 

 天海の声は、静かだが、妙に深く胸に響いた。

 

「神や仏は、決して人の日々の暮らしから切り離されてはおりませぬ。田植え、雨乞い、疫病除け、井戸掘り、橋の普請、道中祈願、出産、そして葬儀。……その全ての泥臭い営みに、神仏が深く関わっているのです」

 

「民は、小難しい教義や理屈で神仏を信じるのではありません。日々の、苦しくも豊かな暮らしの中で……ただ自然に、手を合わせて拝むのです」

 

「……」

 

羅馬(ローマ)の厳格な神学がどのようなものか、拙僧には全てを理解することはできませぬ。……しかし、日ノ本では、神仏とは暮らしのすぐそばにおわすものなのです」

 

 天海は、俺の目を真っ直ぐに見た。

 

「井戸の水が涸れぬように拝む。田が少しでも多く実るように拝む。死者が迷わぬように祈り、子が健やかであるようにと願う。……それを、無知な迷信だと笑う知識人もおりましょう。ですが……その祈りこそが、人を根底から支え、過酷な村の暮らしを繋ぎ止めていることもまた、揺るがぬ事実でございます」

 

「じゃあ……俺の見ている、この神仏ノードっていうシステムは……」

 

「国松様の仰る『のーど』というものが、真にどのような理屈で動いているのか、拙僧には完全には分かりませぬ」

 

 天海は、優しく微笑んだ。

 

「……しかし。この地に生きる人々の祈りや畏れ、そして感謝が。土地に深く積もり、確かな形を持ち……時に、理外の力となって現象を起こす。……そう聞けば、拙僧には、それほど奇怪で恐ろしいことには思えませぬ」

 

(……この時代の人、特に天海殿の受容力、現代人より遥かに高いんだよな……)

 

「国松様は、妙なところで現実的で、理屈っぽいですからな」

 

「うるさいです」

 

 *

 

「でも」

 

 俺は、立ち止まって言った。

 

「俺が『キリスト教の神の奇跡ではない』って断言したことで。……ローマ側を、余計に混乱させてしまったんじゃないでしょうか。彼らの信仰の根幹を揺るがして、迷わせてしまったんじゃないかと……」

 

 天海は、首を振った。

 

「それは、外交において絶対に必要な線引きでございました。あれを曖昧にすれば、いずれ必ず国同士の血みどろの争いになります」

 

「でも……」

 

「混乱している者を、無責任にさらに惑わせてはなりませぬ。……しかし」

 

 天海は、静かに、だが確固たる僧侶としての声で言った。

 

「深く迷っている者を、正しき道へと導くのも、また僧の役目でございます」

 

「……」

 

「それは、この日ノ本の泥にまみれた民であろうと。……海の向こうの、豪奢な石室にいるローマ法王であろうと。……根は、何も変わりませぬ」

 

「天海殿。……十日後、ローマ法王相手に説法して、導く気ですか?」

 

「導くなどと、大仰なことは申しませぬ」

 

 天海は、薄く笑った。

 

「ただ、相手が深い霧の中で迷い、恐れているというのなら。……こちらが、足元を照らす(あかり)を一つ、置いてやることはできましょう」

 

「……その灯が、仏の灯か、日ノ本の神の灯か、水神の灯か。彼らがそれを何と呼んで記録するかは、また別の話でございます」

 

「……なんか、すごくありがたいお話っぽく聞こえます」

 

「ありがたい話をしているつもりでございますよ」

 

 *

 

 俺は歩きながら、一番の悩みの種である大御所様と兄上の戦術対立について、天海に相談した。

 

「大御所様は、十日後、向こうが俺を探ってきたら『あることないこと情報を大量に出して、相手を混乱させろ』って言うんです。底を測らせないために」

 

「でも、兄上は、『奇跡に飢えた連中に下手に晒せば執着されるから、極力秘して守れ』って言うんです」

 

「……どれも正しそうで、どれも怖いんです」

 

 天海は、しばらく黙って畦道を歩き、やがて答えた。

 

「……大御所様の策にも、大いなる理があります」

 

「異国の海千山千の者たちに、公儀の底を測らせぬため、あえて情報を過剰に与え、相手の理解を濁らせ、恐れさせる。……これはいかにも、大御所様らしい、天下人の老獪な戦術でございます」

 

 天海は一拍置き、続けた。

 

「そして、竹千代殿の策にも、極めて鋭い理があります」

 

「理外の奇跡を目の当たりにした者は、必ずその奇跡の源を欲しがる。狂信的な信仰を持つ者ほど、己の教義の正しさを証明するために、その奇跡を強引に自分たちの中へ取り込みたくなるものです。……その宗教的な狂熱の恐ろしさを警戒する竹千代殿の目も、完全に正しい」

 

「……じゃあ、俺はどっちに従えばいいんですか」

 

「どちらも、時と場による、としか言えませぬな」

 

「またそれだ……」

 

 天海は、ピタリと足を止め、俺の目を正面から見た。

 

「ただ、一つだけ申し上げるならば」

 

「……」

 

「国松様ご自身が、己の力を大きく見せようとしてはなりませぬ」

 

 その声は、柔らかいのに、妙に鋭かった。

 

「神の化身であると誇れば、相手は国松様を、自分たちを脅かす本物の神か悪魔として扱い、必ず牙を剥きます」

 

「かといって、ただの無力な子供だと逃げて隠せば、水鏡を見た相手は嘘をついていると見抜き、余計に執着します」

 

「ならば。……国松様は、いつも通りでよろしいのです」

 

「いつも通り……?」

 

「はい。田を見て、水を見て、祠の泥を払い。……そして、自分が分からぬことは分からぬと、はっきりと言う」

 

「それが一番、国松様らしい。……そして、それが相手を一番煙に巻くことになります」

 

「……」

 

「拙僧の見る限り。……国松様は、根っからの政治家ではありませぬからな」

 

 *

 

「国松様に、一つ知っておいていただきたいことがございます」

 

 天海は、少しだけ声を潜めて言った。

 

「日ノ本の民草は。……国松様を、心の底から尊敬している、ということです」

 

「……えっ。尊敬、されてますかね?」

 

 俺が戸惑うと、天海は頷いた。

 

「水神様の祟りが怖いと恐れられているだけでは?」

 

「ふふ、もちろん、それも大いにございますが」

 

「そこは否定してくれないんですね!」

 

「ですが、恐れだけではありません」

 

 天海は、村の方角を見やった。

 

「国松様は、自ら泥に入って田の試作をされた。水口の詰まりを直し、水争いを減らす水札の仕組みを作られた。民のために井戸を掘らせ、飢饉に備えて芋や大根を広められた。……そして、村人の泥臭い話を直接聞き、寺社や小さな祠を決して粗末に扱わなかった」

 

「神仏の理を実務に利用しながらも、決して敬意を忘れず。……ご自身を全能の神としてふんぞり返るような真似は、一度もされなかった」

 

 天海の言葉は、まるで俺の歩いてきた道を、静かに一つずつ拾い上げるようだった。

 

「田の試作も、水脈の発見も、救荒の備えも、神仏への敬意も。……その全ての地道な行いが、今の日ノ本における国松様への深い信頼を作り上げたのです」

 

「……そんな、大層なものじゃないですよ」

 

 俺は照れ隠しに頭をかいた。

 

「俺はただ、目の前の水路の詰まりを直して、無難にメンテしてただけで……」

 

「民にとっては。……その目の前の詰まりが直ることこそが、命に関わる何よりの救いなのでございます」

 

 天海の声に、強い力がこもった。

 

「ローマが、十日後にどのような恐ろしい手に出てこようとも」

 

「国松様を、ただの異教の神の子だ、悪魔の術師だ、交渉のための便利な道具だと扱うならば。……少なくとも、この日ノ本で、国松様を全力で守ろうとする者は、山のようにいるでしょう」

 

「それは、公儀の武士たちだけではございませぬ。水を得て生き延びた村、田を守られた百姓、飢えへの備えを得て安心した者たち。……皆、国松様のしたことを、ちゃんと見て、知っております」

 

「……天海殿……」

 

「日ノ本の総意、などと軽々に申すのは、一介の僧として慎みますが。……少なくとも、拙僧はこう申し上げられます」

 

 天海は、俺の目を真っ直ぐに見た。

 

「今の日ノ本は、国松様を、異国の者の思惑で簡単に差し出すような、薄情な国ではございませぬ」

 

 俺は、天海のその言葉に、胸の奥のつかえが少しだけ取れるのを感じた。

 

 *

 

「そうか……。俺、なんとか上手くやれてるのかなぁ……」

 

 俺がぽつりと漏らすと、天海はまたしても小さく笑った。

 

「やはり、国松様は政治には向いておられませんな」

 

「今、すごくいい話をして感動してたのに、急に鋭い刃で刺してきましたね!?」

 

「真に政治に向いた方は、自分の足元を見て『上手くやれているか』などとは、あまり深く悩みませぬ」

 

 天海は、江戸城の方角を見た。

 

「大御所様、秀忠公、竹千代殿をご覧なさい。……あの方々は、強烈な自己認識を持っておられる」

 

「強烈な自己認識?」

 

「自分は天下を動かす者である。自分のひとつの判断が、何万という人を生かし、そして殺す。自分の言葉が、国の法となり、天下を縛る。……そういう恐ろしい自覚を、当たり前のように強く持っておられる」

 

 天海は、そこで少しだけ声を低くした。

 

「僧が仏の教えを信じ、厳しい修行の道を疑わずに信じるように。武家の(まつりごと)を真に担う者は、己の役目と権威を、狂気なまでに信じ抜く強き心が要るのです。……それが、政治には求められます」

 

「なるほど……」

 

 俺は、家康たちの顔を思い浮かべて深く納得した。

 

「まあ、俺は中身はただの一般人だからなぁ……」

 

「一般人は、ローマ法王と水鏡で会談などしませぬ」

 

「それはそう」

 

「ですが」

 

 天海は、穏やかに微笑んだ。

 

「その『自分はただの一般人だ』『特別な神なんかじゃない』という感覚が、国松様を決して(おご)らせぬのでしょう」

 

「国松様は、政治には向いておりませぬ」

 

 そこで、天海は少しだけ優しい声になった。

 

「……しかし。保守(ほしゅ)には、誰よりも向いております」

 

「保守……」

 

「壊れた水口の異常に気づく。傾いた祠の泥を払う。田の列が曲がっていれば、根気よく直す。百姓が飢えと冷害で困っていれば、まず困っているという事実から目を背けずに認める。……それは、天下人の強烈な力とは違う」

 

 天海は、夕方の光を受ける田を見つめた。

 

「しかし、泰平の世を長く、静かに支え続けるには。……そういう地道な保守を続ける者もまた、絶対に必要なのでございます」

 

 *

 

 天海と話しながら歩いていると、俺の視界のARに、一つの小さな異常アラートが表示された。

 

『江戸近郊・小祠ノード:祈願の偏りを検出』

 

『水神信仰の過熱:軽度』

 

『内容:「水神の若君に祈れば、今年は草取りをしなくても勝手に米が育つらしい」との怠惰な誤解が、村内の一部に発生中』

 

『推奨対応:寺社経由での、迅速な修正説法』

 

「……ほら出たよ」

 

 俺は、頭を抱えて座り込んだ。

 

「水神様に祈れば、辛い草取りをしなくていいとか言い出してる村人がいます」

 

「おや、それは困りますな」

 

「困ります。草取りは絶対に手作業でやってください。神様も、そこまで甘やかして面倒は見ません!」

 

「では、拙僧から、村の者たちを集めて話をしておきましょう」

 

「本当ですか! ありがたいです!」

 

 天海は、その場で少し考える素振りを見せ、即席の説法案を口にした。

 

「水神様の御加護とは、怠け者に実りを与えるものではない。……水を分け、田を守り、泥にまみれて働く者の手を助けるものである」

 

「水神様は、そなたらの代わりに草を取ってはくださらぬ。……そなたらが草を取る手が動くよう、田の水を清らかに守ってくださるのだ。……このような感じでいかがでしょう」

 

「……めちゃくちゃありがたいお話になった!」

 

「迷っている者を正しく導くのも、僧の役目ですので」

 

 視界のノード表示が、青く切り替わる。

 

『誤解修正・説法案:有効と判定』

 

『水神信仰過熱:低下見込み』

 

『村落の労働意欲:維持』

 

「天海殿。……神仏ノードのメンテ適性、高すぎませんか?」

 

「ただの、老いぼれの僧ですからな」

 

 天海は、してやったりの顔で笑った。

 

 *

 

 帰り道。

 

 俺は、天海の話を受けて、自分の中で少しだけ腹を決めていた。

 

「俺は、政治家には向いてない。……大御所様みたいに、相手を情報の海で溺れさせて煙に巻くのも。兄上みたいに、冷徹に一線を引いて守るのも、まだちゃんとはできない」

 

「でも。俺は俺のやり方で、自分の足元を見るしかないですね」

 

「それでよろしいかと存じます」

 

 天海が頷く。

 

「ローマ側に、十日後、何をどう聞かれても。……決して神の子ぶらず。かといって、悪魔じゃないとヒステリックに叫びすぎず。……あくまで徳川公儀の行政の仕組みの中で働く、ちょっと水回りの実務とメンテが得意な、変な若君でいようと思います」

 

「……十分に、難しく神経を使う役回りでございますな」

 

「この江戸城、簡単な役回りが一つもないんですよ……!」

 

「しかし、国松様ならば、見事に演じきれましょう」

 

「天海殿。そういう風におだてて持ち上げるから、俺、逃げられなくなるんですよ」

 

「ふふ。逃げてもよいのですよ」

 

 天海は、夕日に照らされる田んぼを見渡した。

 

「ただ……遠くへ逃げた先で、結局また田んぼの水口の詰まりを見て、放っておけずに泥に入ってしまうのが、国松様という御方なのでしょう」

 

「……ぐっ。……否定できない」

 

 *

 

 夕方。

 

 俺と天海は、村外れの小さな社の前で、静かに手を合わせた。

 

 俺は、視界に浮かぶ神仏ノードの最終表示を確認する。

 

『江戸近郊・小祠ノード:安定』

 

『水守り信仰:正常範囲内』

 

『水神信仰過熱:軽度に低下』

 

『次回点検推奨:十日以内』

 

「……十日以内」

 

 俺は、その数字を見て苦笑した。

 

「ローマ法王との再会談と、全く同じ日程じゃん」

 

「忙しきことは、ありがたきことでございます」

 

「全然ありがたくないです!」

 

「では、少し心を落ち着けるための、ありがたいお話をもう一つしましょうか?」

 

「今日はもう、十分すぎるくらい聞きました!」

 

 ローマ法王との再会談まで、あと十日。

 

 その十日の間に、ローマ側は総力を挙げて日本の噂を調べ、徳川の底を測り、そして水神の若君の正体を探ろうと血眼になるだろう。

 

 江戸城では、天海と崇伝が神学と法の言葉を鋭く整え、家康と秀忠と竹千代が、次なる外交の冷徹な一手を練り上げている。

 

 そして俺は。

 

 田んぼの水口を見て、小さな祠の泥を払い、草取りをサボろうとする村人へのありがたい説法案を、天海殿に作ってもらっていた。

 

 たぶん、それでいいのだ。

 

 ローマの神学者たちに、どう異端視されようと、どう崇められようと。

 

 俺はまず、目の前の田んぼの水を詰まらせないことから、一つずつ始めるしかない。

 

 水鏡は、果てしない海を越え、江戸とローマという全く違う世界を繋いだ。

 

 けれど。

 

 俺が今日、自分の手で確かに繋ぎ直したのは。……名もない小さな祠と、泥だらけの田んぼと、そこに生きる民草の、ささやかで切実な祈りだった。

 

 




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