暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第82話 第二回水鏡会談、国松は人であると告げる

 十日後。

 

 江戸城の奥深く、前回の水鏡通信を行ったのと同じ、厳重に人払いされた座敷にて。

 

 俺は、早朝から第二回となるローマ法王との水鏡会談の準備に取り掛かっていた。

 

 今回の参加者は、前回より二名増えている。

 

 大御所様こと家康公。将軍であるお父様。竹千代兄上。俺。伊達政宗殿。

 

 そこに加えて、日ノ本の神仏の理を扱う天海僧正と、公儀の法度や禁制の文言を整える金地院崇伝が同席していた。

 

「えー、前回よりこちらの参加者が増えたので、水鏡の画角を少し広めに拡張します。大御所様、お父様、兄上、政宗殿は前列へ。天海殿と崇伝殿は少し後ろになりますが、発言時には水面が自動でそちらへ焦点を合わせるようにします」

 

「自動で焦点を……?」

 

 崇伝が、見慣れぬ理に首を傾げる。

 

「そこは深く気にしないでください。水鏡の便利な理です」

 

「便利な理でございますな」

 

 天海が、面白そうに頷いた。

 

「便利な理ほど、それを管理して運用する担当者の胃を強烈に壊すんですよ……」

 

 俺が愚痴をこぼしていると、隣から竹千代兄上が冷たく言い放つ。

 

「国松。今日は無駄に肩の力を入れるな。余計なことを自ら語らず、聞かれたことにだけ短く答えればよい」

 

「兄上、それ言われると逆に緊張します」

 

 天海が、穏やかな声で助け舟を出してくれた。

 

「国松様。いつも通りでよろしいのです。田を見て、水を見て、分からぬことは分からぬと申す。ただ、それだけでございます」

 

「はい。決して神の子ぶらず。かといって、悪魔じゃないとヒステリックに叫びすぎず。徳川のちょっと変な若君でいきます」

 

「変な若君で済むかは知らぬがの」

 

 家康公が、ニヤリと笑う。

 

「そこは、なんとか済ませてください!」

 

 崇伝は手元に分厚い文書の束を置き、すでに臨戦態勢に入っていた。

 

 禁教令の詳細な説明文。

 

 既存信徒の処遇案。

 

 宣教師の扱い。

 

 医師・学者の受け入れ条件。

 

 港別登録制度の詳細。

 

 そして、国松に関する質問が過熱した場合の遮断文句と、ルイス・ソテロ神父の処遇案。

 

「本日は、あちらのペースで神学論争に流されてはなりませぬ」

 

 崇伝の目が、冷酷な法曹のそれに変わる。

 

「法、人、荷、港、記録。議論が宙に浮きそうになれば、ただちにそこへ話を力ずくで戻すのが、拙僧の役目にございます」

 

「うむ。場が熱くなったら、容赦なく冷ませ」

 

「承知」

 

 *

 

 やがて指定の刻限となり、水鏡が静かに光を放ち始めた。

 

 水面が波立ち、遥か彼方、ローマ教皇庁の石室が鮮明に映し出される。

 

 ローマ側は、前回のように完全に凍りついてはいなかった。

 

 もちろん、極度の緊張と畏怖は表情に張り付いている。

 

 しかしこの十日間、彼らは必死に祈り、記録を洗い直し、議題を整理してきたのだろう。

 

 水面の前に座るその顔には、確かな覚悟が宿っていた。

 

 参加者は、パウロ五世を中心に、枢機卿数名、秘書官、記録官、神学顧問、スペイン側関係者。

 

 そして、ルイス・ソテロ神父と支倉常長。

 

 前回よりも席次が明確に整えられており、水鏡の横には前回の詳細な記録が置かれている。

 

 あの密封箱には清らかな水が張られ、火と刃物は遠ざけられているのが見えた。

 

 よかった。

 

 ちゃんと説明した通りに保管してくれている。

 

 俺は内心で少しだけ安心した。

 

 パウロ五世が、威厳に満ちた声でまず口を開いた。

 

「徳川公儀の方々。十日前の会談で起きた出来事を、我らは決して幻としては扱いません。あの場にいた複数の者が、同じこの水面を見、同じ声を聞きました」

 

 記録官が、深く頷く。

 

「ただし」

 

 パウロ五世の目が、鋭く光った。

 

「我らはそれを、我らの神の奇跡とも、あるいは悪魔の術とも、まだ断じません。そなたらが呼んだ通り、まずは日ノ本の神々の理と呼び、互いの交渉上の現実として、厳粛に扱います」

 

 家康公は、満足げに深く頷いた。

 

「それでよい。こちらも、貴殿らの信仰を無理に捨てさせるために、この水鏡を開いたのではない。日ノ本の法と、海の道と、人の扱いを話すためじゃ」

 

 この瞬間。

 

 互いが互いの絶対の領域を侵さず、実務の交渉テーブルに着くという、第二回会談の土台が整った。

 

 *

 

 秀忠父上が、新たな同席者二人をローマ側へ紹介した。

 

「本日は、前回より二名を加えております。こちらは天海。日ノ本の神仏、寺社、そして霊的な理について、公儀に助言する高位の僧です」

 

 天海が、静かに合掌する。

 

「天海にございます。迷える者の足元に、わずかでも灯を置く役を務めます」

 

 ローマ側が微かにざわついた。

 

 異教の僧か。

 

 そんな警戒の気配が、水鏡越しにも伝わってくる。

 

「こちらは崇伝。公儀の法度、禁制、文言を厳密に整える僧です」

 

 崇伝は、淡々と頭を下げた。

 

「崇伝にございます。本日は、言葉の行き違いが後々無用な血を招かぬよう、厳密に法と文言を整えるため、同席いたします」

 

 ローマ側の空気が、さらに一段張り詰める。

 

 前回、秀忠父上の口から絶対の法として禁教令を突きつけられた記憶が蘇ったからだ。

 

「信仰の者と、法の者を、新たに置いたということですね」

 

 パウロ五世が確認する。

 

「その通りです」

 

 秀忠父上が頷き、家康公が後を継いだ。

 

「貴殿らが神学を持つなら、こちらも神仏を扱う者を置く。貴殿らが法を持つなら、こちらも法を整える者を置く。それだけの、対等なことじゃ」

 

 *

 

 崇伝が、手元の文書を開き、冷徹な声で今日の会議の枠を定めた。

 

「本日の議題は、以下の四つに限ります」

 

 その声は、感情ではなく文言で場を縛るための声だった。

 

「一つ目。日ノ本にすでにいるキリシタンの処遇について」

 

「二つ目。今後、ローマより来る人、書物、器具、学問の扱いについて」

 

「三つ目。前回、法王猊下が関心を示された国松様と、水鏡の理についての、最低限の確認」

 

「四つ目。ルイス・ソテロ神父の、今後の扱いについて」

 

 ローマ側がざわつき、ソテロ本人がハッとして顔を上げた。

 

 だが、崇伝は即座に重い釘を刺す。

 

「ただし。三つ目と四つ目は、特に慎重に扱います。これは、国松様の御身を不当に詮索するための場でも、宣教師の自由な帰還を認める場でもございませぬ」

 

 竹千代兄上が、俺の隣に座り、無言で鋭い視線をローマ側へ向けている。

 

 国松は、勝手には食わせない。

 

 そういう強烈な圧だった。

 

 パウロ五世は、それを深く理解したようだった。

 

「承知しました。我らも、今日この場で、全てを暴こうとは思っていません」

 

 だが、その視線は、確かに俺へと向けられていた。

 

 胃が痛い。

 

 *

 

 パウロ五世が、最も重い最初の議題を口にした。

 

「日本にすでにいる、多くの信徒たちについて伺いたい」

 

 ローマ側の空気が、悲痛なほどに重くなる。

 

「彼らはすでに洗礼を受け、我らの神を信じています。我らは、彼らが国家に対して反乱を起こすことを決して望みません。しかし、ただ静かに祈るだけの者、家族の死を悼む者、神に救いを求める者までが、無惨に血を流して殺されることは、何としても避けたいのです」

 

 これは、世界宗教の長としての、絶対に譲れない問いだった。

 

 秀忠父上が、将軍として答える。

 

「公儀の方針は、前回と変わりません。徒党を組み、公儀の法を拒み、異国の命令に従い、領主や商人と結びつき、密かに外の国と繋がることは、絶対に許しません」

 

 崇伝が、法の観点から補足する。

 

「信仰そのものを、彼らの内心から逐一暴き出し、すべてを血で洗うことは、公儀の本意ではございませぬ。されど、信仰を名目として民を組織し、公儀の法を超える別の命令系統を作ることは、国家として断固禁じます」

 

「では、民が心の内で静かに祈ることまで、全てを罰するわけではない、と」

 

 パウロ五世の確認に、崇伝は揺らがない声で返した。

 

「公儀が罰するのは、あくまで法に反する行為です。ただし、その行為が信仰の名でなされるからといって、信仰だから特別に免れるということも、決してありませぬ」

 

 ローマ側は、完全には満足しなかった。

 

 だが、信徒は一人残らず皆殺しにする、という最悪の宣告ではないことは確認できた。

 

「その言葉を、記録します」

 

 パウロ五世の命で、記録官が必死にペンを走らせる。

 

 *

 

 次に、ローマ側が問う。

 

「では、宣教師は、すべて日本から退去せねばならぬのですか」

 

 場が緊張する。

 

「布教を目的とする者は、日ノ本には置けぬ」

 

 家康公が、はっきりと言い切った。

 

 ローマ側が、沈痛な表情を浮かべる。

 

 だが、崇伝が現実的な道を示した。

 

「ただし。医師、薬師、天文学者、暦を扱う者、航海術や測量を教える者、建築や器具に通じる者。そうした者が、公儀の定められた港で登録し、検分を受け、決して布教を行わず、活動範囲を厳守するならば、日ノ本への受け入れの余地はございます」

 

「信仰を持つ医師は、入れないのですか」

 

 パウロ五世の問いに、崇伝は首を振った。

 

「信仰を持つこと自体が問題なのではありませぬ。その信仰をもって、日ノ本の民を組織し、公儀の法を超える繋がりを作るから問題なのです」

 

 崇伝は、受け入れ対象と制限対象を明確に分けた。

 

 受け入れ対象。

 

 医学書。

 

 薬学書。

 

 天文学書。

 

 暦法。

 

 航海術書。

 

 測量器具。

 

 時計。

 

 望遠鏡。

 

 印刷技術。

 

 建築技術。

 

 港湾技術。

 

 通詞育成資料。

 

 制限、あるいは没収対象。

 

 布教用の宗教書。

 

 大量の十字架や聖像。

 

 隠し書簡。

 

 信徒を組織化する名簿。

 

 外国王権との政治連絡文書。

 

「知恵は受け入れる」

 

 秀忠父上が、冷徹に告げる。

 

「だが。知恵の中に、信仰と、兵と、王の命令を巧妙に隠して持ち込むことは、決して許さぬ」

 

 パウロ五世は苦い顔をした。

 

 しかし、国家間の実務の取り決めとしては、深く理解したようだった。

 

 *

 

 そして。

 

 ついに主題がやってきた。

 

 パウロ五世は、極めて慎重に言葉を選んで尋ねた。

 

「では、もう一つ。前回、最初に水鏡の理を説明した若君について、伺ってもよろしいか」

 

 座敷の空気が、一瞬でピキリと固くなった。

 

 竹千代兄上の鋭い視線が、俺に向かう。

 

 俺は、事前の打ち合わせ通り、まず竹千代兄上を見た。

 

 兄上は、小さく一度だけ頷いた。

 

 話せ。

 

 だが、決して広げすぎるな。

 

 俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。

 

 肩の力を抜く。

 

 先日、田の畦で天海に言われた言葉を思い出す。

 

 田を見て、水を見て、分からぬことは分からぬと言う。

 

 俺は、いつも通りでいい。

 

 そう自分に言い聞かせ、少しだけ前に出た。

 

「私のことですね」

 

 ローマ側の視線が、一斉に、食い入るように俺へ集中した。

 

「あなたは、徳川家の、どのような方なのですか。そして、あの理外の水鏡の理を扱うのは、あなたなのですか」

 

 俺は、真っ直ぐに法王の目を見た。

 

「私は、徳川国松です」

 

 そして、一拍置いて、最も重要なことを、はっきりと言い切った。

 

「私は神ではありません。悪魔でもありません。人です」

 

 水鏡の向こうの枢機卿たちが、激しくざわついた。

 

 俺は、言葉を続ける。

 

「徳川の子として生まれ、日ノ本の公儀という行政の仕組みの中で、水と田と、神仏の理に関わる御用を手伝っているだけの者です」

 

 パウロ五世が、じっと俺の底を探るように見つめる。

 

「民が、私を水神の若君と呼ぶことがあります。ですが、それは私がそう名乗って、神の奇跡を誇示したからではありません。村の泥水が出て、田が少し実り、水争いが減り、飢えに少しだけ備えられるようになったため、民が感謝して、そう呼んでくれているだけです」

 

 俺は、嘘偽りない本心で言った。

 

「私自身は、今も、田の水口が詰まれば、泥だらけになって掻き出すだけの者です」

 

 ローマ側は、激しく困惑した。

 

 神の子ぶるわけでもない。

 

 悪魔として威嚇するわけでもない。

 

 だが、ただの無力な子供でも決してない。

 

 パウロ五世が、さらに踏み込んで問う。

 

「では。人でありながら、なぜそのような理に触れることができるのですか」

 

 俺は、無理に理屈を作らなかった。

 

「私にも、完全には分かりません」

 

 ローマ側がさらにざわめく。

 

「ただ、見えるものがあり、聞こえるものがあり、直せる詰まりがあります。だから、直せるものから、順番に直しているだけです」

 

「聞こえるもの、とは」

 

 俺は少し迷い、再び竹千代兄上を見た。

 

 兄上は首を横に振らない。

 

 ただ目で、浅く、とだけ伝えてきた。

 

「日ノ本の神仏の理に関わる、声のようなものです。ただし、それは猊下が信じる、あなた方の神の声ではありません。そして、私自身が、それを完全に理解しているわけでもありません」

 

 ここで、俺は決定的な線引きをした。

 

 *

 

 天海が、すっと助け舟を出し、日本の神仏観を補足する。

 

「猊下。日ノ本では、神仏は暮らしのすぐそばにおります」

 

 ローマ側の視線が、黒衣の僧へ向く。

 

「山、川、田、井戸、竈、道、死者、病、出産。人々は日々の泥臭い営みの中で、自然に神仏へ手を合わせます」

 

「国松様は、その暮らしのそばにある水と祈りの乱れを、点検し、整える役目を担っておられるのです」

 

 神学顧問が、我慢しきれずに問うた。

 

「では、彼は、水神なのか」

 

「水神そのものではございませぬ。しかし、水神の御加護を受け、民の水と田を整える役を担う御方ではあります」

 

 天海は、巧みに躱す。

 

「日ノ本では、神仏の理と、農の知恵、村の水を分ける法と、民の祈りを、完全に切り離しては考えませぬ」

 

 ローマ側は、完全には理解しきれなかった。

 

 だが、日本では自然と信仰と行政が不可分に結びついていることだけは伝わった。

 

 しかし、神学顧問が、思わずさらに危険な領域へ踏み込んだ。

 

「その若君は、病を癒やすのか! 死者を蘇らせるのか! 水を自由に呼び、天候すら変えるのか!」

 

 場が、完全に神学的な異端審問の方向へ傾きかけた。

 

 その瞬間、竹千代兄上が即座に、冷たく重い口を開いた。

 

「国松は、徳川公儀の外には決して出しませぬ」

 

 一言で、水鏡の向こうの空気が凍りついた。

 

「国松は、日ノ本の公儀の中で働く者です。ローマの神学の証として差し出す者でも、異国の奇跡の道具でもありませぬ」

 

 崇伝も、間髪入れずに話を法へ戻す。

 

「国松様の御身についての詮索は、本日の本旨ではございませぬ。日ノ本の法と、ローマの使者が踏むべき道を定めることこそが、本日の議題にございます」

 

 パウロ五世は、神学顧問を手で制した。

 

「よい。我らは今日、その若君のすべてを暴くために来たのではありません」

 

 そして、パウロ五世は俺を深く見つめ、言った。

 

「徳川国松。あなたが自らを人であると言ったことは、記録します」

 

「はい」

 

「まだ、完全な理解はできません。しかし、少なくとも今日は、あなたを神とも悪魔とも断じず、人として話すことにします」

 

 これが、第二回会談における、俺にとっての最大の成果だった。

 

 俺は心底安堵し、深く息を吐いた。

 

 *

 

 パウロ五世が、次の議題へ移った。

 

「次に、ルイス・ソテロ神父の扱いについて、お願いがあります」

 

 青ざめていたソテロが、ハッとして顔を上げた。

 

「彼は、日本をよく知る者です。伊達政宗の使節に深く関わり、支倉常長とともにここまで来た者です。そして、前回と今回の水鏡会談を直接目撃した者でもあります」

 

 ローマ側の枢機卿たちも、重く頷く。

 

「我らは、彼を自由な宣教師として日本へ戻せと、望むものではありません。彼を、ローマ教皇庁の記録官、神学顧問、そして日本事情を観察する者として、徳川公儀の定める条件の下で、日本へ戻すことは可能でしょうか」

 

 座敷の空気が、再び鋭くなる。

 

 竹千代兄上が、俺の前にわずかに身体を寄せ、庇うような姿勢を取る。

 

 崇伝は、すでに厳しい条件文書を開いていた。

 

 家康公は、にやりと笑う。

 

「ほう。自ら、鎖付きの目を差し出すか」

 

「鎖付き、と受け止められても構いません。しかし、日本の信徒を完全に見捨てず、同時に徳川公儀の真意を誤らずローマへ伝える者が、どうしても必要なのです」

 

 ソテロが、震える声で口を開いた。

 

「猊下。お許しいただけるなら、私は日本へ戻りたい」

 

 ローマ側も、江戸側も、彼に注目する。

 

「私は、日本の信徒を見捨てたくありません。ですが、今はただ熱意ある宣教師として戻れば、さらに多くの血を招くことになると理解しました」

 

 それは、彼にとって苦渋の言葉だった。

 

「ならば。私は、この目で見届けたいのです。徳川が何を恐れ、何を禁じ、何を残そうとしているのか。そして……」

 

 ソテロの目が、俺へ向く。

 

「あの水を通じて、ローマと江戸を繋いだ若君が、一体何者であるのかを」

 

 うわぁ。

 

 俺を見るための宣教師が、日本へ戻ろうとしている。

 

 俺は内心で頭を抱えた。

 

 *

 

 崇伝が、淡々と冷酷な条件を読み上げた。

 

「ソテロ殿を日本へ戻す場合、以下の条件を全て受け入れていただきます」

 

 ソテロ帰還条件。

 

 一、布教活動の完全な禁止。

 

 二、既存信徒との無許可接触の禁止。

 

 三、洗礼、告解、信徒の組織化、教会設立の禁止。

 

 四、滞在地は、公儀の指定する屋敷に限る。

 

 五、移動には、必ず公儀の監視役を付ける。

 

 六、本国への書簡は、すべて公儀の検分を受ける。

 

 七、ローマへの報告は許可制とする。

 

 八、国松様への接触は、公儀の許可制とする。

 

 九、港別登録制度に従う。

 

 十、違反すれば即時退去、必要ならば拘束する。

 

 ローマ側に、重苦しい沈黙が落ちた。

 

 ソテロは一瞬、強く目を閉じた。

 

 宣教師としては、あまりにも屈辱的で、手足を完全に縛られる条件だ。

 

 しかし、彼が日本へ戻る道は、もはやこれしかない。

 

「それでも、私は戻りたい」

 

 パウロ五世は、ソテロを見る。

 

「ルイス・ソテロ。そなたは、自由な布教者としてではなく、制限された記録者として戻ることになる。それでもよいのか」

 

「はい。猊下。私は、日本を見届けたいのです」

 

 竹千代兄上が、静かに、だが殺気を込めて言った。

 

「ソテロ殿が国松に近づく時は、必ず公儀の許しを得ること」

 

「承知しました」

 

「国松は、ローマの神学の証として差し出す者ではありませぬ」

 

「それも、承知しました」

 

 家康公は、満足げに頷いた。

 

「よかろう。ならば、その男が何を見るか、儂らも見てやろう」

 

 家康公にとって、ソテロは危険だが、極めて有用な存在だ。

 

 ローマの目を手元に置ける。

 

 欧州の神学を解説させられる。

 

 宣教師側の思考を読める。

 

 そして何より、国松への反応を間近で観察できる通訳兼サンプルなのだ。

 

「ただし、忘れるな」

 

 家康公の目が光る。

 

「日本へ戻るなら、そなたは完全に徳川の法の内側に入るのだぞ」

 

「はい」

 

 *

 

 ソテロの条件付き帰還が大筋で認められたところで、家康公が、さらに特大の外交カードを切った。

 

「さて、法王猊下。海の向こうで、今後、奇妙な噂が流れるかもしれぬ」

 

 ローマ側が、びくりと身構える。

 

「夏でも冷たさを保つ箱。中に入れた物を腐らせにくくし、氷すら長く保つ。理外の冷たき箱の噂じゃ」

 

 大御所様、ここで永冷石箱を出すの!? 

 

 俺は心臓が跳ね上がった。

 

「これは、国松が見つけた永冷石という奇物を、公儀が管理し、安全な箱に仕立てたものじゃ」

 

 ローマ側がざわつく。

 

「すでに、南蛮・紅毛の商人らに、それぞれ一つずつ渡しておる。相応の金を取り、厳しい証文を取ってな」

 

 家康公は、渡した、ではなく、売った、と明言した。

 

「夏でも冷たさを保つ箱……」

 

 パウロ五世が呟く。

 

「それも、奇跡では……」

 

 神学顧問が騒ぎかけるのを、崇伝が即座に冷ます。

 

「奇物です。聖遺物でも、神の証明でもございませぬ。徳川公儀が管理し、用途と証文を定めて実務に扱う品です」

 

「今後、欧州に戻る商人らが、その冷たき箱の噂を必ず持ち帰るであろう。その時、ローマでも話が出るかもしれぬゆえ、先に伝えておいた」

 

 パウロ五世は、その真意を理解したようだった。

 

 徳川は、商人たちの背後から奇妙な噂が広がる前に、先手を打って説明しているのだ。

 

「その箱を、神の奇跡や悪魔の術として騒がず、公儀管理の奇物として扱え、ということですか」

 

「そうじゃ」

 

 家康公は、不敵に笑う。

 

「もし法王猊下が望むならば、ローマ教皇庁にも、一つ献上しようではないか」

 

 ローマ側が、大きく動揺する。

 

 夏でも冷たい箱。

 

 医薬保存、食料保存、航海補給、権威の象徴、聖遺物保管。

 

 使い道はいくらでも想像できる。

 

 世界の富を積んでも手に入らない奇跡の箱。

 

 だが、家康公の目は全く笑っていなかった。

 

「ただし。条件がある」

 

 *

 

「分解せぬこと」

 

「火にかけぬこと」

 

「聖遺物として崇めぬこと」

 

「悪魔の箱として焼かぬこと」

 

「売らぬこと」

 

「破損、異常、使用結果は必ず記録して、次の水鏡会談で報告すること」

 

 ローマ側が沈黙する。

 

「これは、ただの贈り物ではないな」

 

 パウロ五世の言葉に、家康公は頷いた。

 

「我らがどう扱うかを、試すのですね」

 

「その通りじゃ」

 

 ローマ側がざわつく。

 

「ローマが理外の物を見た時、すぐに神の証とするのか。悪魔の術として焼くのか。権威の飾りとして隠すのか。それとも、正確に記録し、法で縛り、人を助ける道具として扱えるか。それを見極めさせてもらう」

 

 大御所様、世界宗教のトップであるローマ法王を、完全に試している……! 

 

 俺は冷や汗を拭った。

 

 パウロ五世は、しばらく沈黙し、そして答えた。

 

「受け取りましょう」

 

 ローマの枢機卿たちが驚く。

 

「ただし、我らはその箱を、神の証として宣伝するために受け取るのではありません。徳川公儀が言う通り、記録し、検分し、何に使えるかを確かめるために受け取ります」

 

 家康公が、深く頷く。

 

「よい」

 

「医薬の保存、病人のための薬種保存、腐敗を避けるための用途。まずはそのような実務に使えるかを検めます」

 

 よかった。

 

 法王、ちゃんと実務に寄せてくれた。

 

 俺は心底安心した。

 

「ならば、手配しよう。ただし、ローマへ渡すのは一つだけじゃ。二つ目以降は、今後の関係次第とする」

 

 家康公は、永冷石箱を最強の長期外交カードとして場に固定した。

 

 *

 

 最後に、帰路の話がまとめられた。

 

 政宗殿が、支倉について発言する。

 

「支倉は我が家臣。長き旅の労をねぎらい、無事に帰すことを望みます」

 

「支倉常長は、伊達の使節として帰国を認める。ただし帰国後は、公儀の定める報告と登録を受けること」

 

 秀忠父上の言葉に、水鏡の向こうで支倉が深く頭を下げる。

 

 崇伝が、今日の合意事項を淡々と読み上げた。

 

 前回の水鏡通信は、双方が現実として扱う。

 

 ローマ側は水鏡を神の奇跡、悪魔の術と断定せず、日ノ本の神々の理として交渉上扱う。

 

 国松は自らを神でも悪魔でもなく、人であると明言した。

 

 ローマ側は、今日のところ国松を人として扱う。

 

 禁教令は撤回されない。

 

 既存信徒への無用な流血は避ける方針を確認する。

 

 宣教師による布教、組織化、外国連絡網形成は禁止。

 

 医師、学者、技術者は、指定港、登録制、活動制限付きで受け入れの余地あり。

 

 ソテロは、制限付き記録官、神学顧問、日本事情観察者として帰国条件を検討、許可する。

 

 永冷石箱を一つ、ローマ法王へ献上予定。

 

 聖遺物化、悪魔化、分解、売却を禁じ、記録して使用する。

 

 水鏡会談は、今後も継続する。

 

「我らは、多くを失い、多くを得た」

 

 パウロ五世が、静かに言う。

 

 禁教令は覆らなかった。

 

 しかし、信徒の命綱、学問交流、徳川との直接対話、ソテロの帰還、永冷石箱という奇物を得た。

 

「こちらも同じじゃ。貴殿らが、ただ狂信に呑まれるだけの者ではないと知れた」

 

 家康公が返す。

 

「次回も、同じ水面で」

 

「同じ時刻に」

 

 俺は、接続終了の手順に入った。

 

 *

 

 水鏡の光が静まり、座敷は元の暗さに戻った。

 

 俺は、今回は畳に崩れ落ちることはなく、ただ深くため息をついた。

 

「よく言えた」

 

 竹千代兄上が、珍しく俺を褒めた。

 

「私は人間です、ってところですか」

 

「そうだ。余計な神格化もせず、卑下しすぎもせず、よく留めた」

 

「いつも通りでございましたな」

 

 天海が微笑む。

 

「いつも通りと言われると、それはそれで複雑な気分ですけどね」

 

「しかし、ソテロ殿を戻すことになるとは。厄介な目を入れることになりますな」

 

 崇伝が、今後の対応に思案する。

 

「厄介だからこそ、手元に置く価値がある」

 

 家康公が笑う。

 

「ローマの目であると同時に、我らがローマの神学や思惑を見る窓にもなる」

 

 秀忠父上も同意した。

 

「国松への接触は、私が許可した時のみだ」

 

 竹千代兄上が、再び俺を庇うように言う。

 

「兄上、本当にお願いしますね」

 

「それにしても」

 

 政宗殿が、水面を見つめながら愉快そうに言った。

 

「我が使節が連れて行った神父が、今度は徳川公儀の厳しい監視下で戻るとは。海の道というものは、本当に面白い曲がり方をするものですな」

 

 家康公は、永冷石箱についても語った。

 

「あれは、いずれ欧州で必ず大きな噂になる。ならば、ローマへ先に話しておく方がよい」

 

「同時に、ローマが理外の奇物をどう扱うかを見る、良い試験にもなりました」

 

 崇伝が頷く。

 

「うむ。奇物を見てすぐ神の奇跡だと騒ぐか、悪魔だと焼くか、王侯の宝として奪い合うか。それとも、記録し、法で縛り、実務の道具として扱えるか。それを見れば、あちらとどこまで付き合えるかがはっきりと分かる」

 

「大御所様、本当に世界の全部を試してる……」

 

「そして国松。次は、さらに深く探られるぞ」

 

 竹千代兄上の言葉に、俺は肩を落とした。

 

「ですよね……」

 

「ですが、今日の国松様の言葉は、大いに効きました」

 

 天海が言う。

 

「効きましたか?」

 

「神でも悪魔でもなく、人である。そして水口の泥を掻き出す者である。あれは、ローマの複雑な神学者には、案外最も理解が難しい言葉でしょう」

 

「難しいからこそ、法と記録へ戻す余地が生まれるのです」

 

 崇伝が、法曹の視点で評価する。

 

 *

 

 二回目の水鏡会談は、初回よりもずっと静かに、しかし深く進んだ。

 

 ローマは、こちらを幻とは扱わなかった。

 

 だが、神とも悪魔とも断じなかった。

 

 徳川は、禁教令を曲げなかった。

 

 だが、信徒の命を無駄に血で洗うつもりはないと告げた。

 

 そして俺は。

 

 水神の若君でも、神の子でも、悪魔の術師でもなく。

 

 ただ、人であると告げた。

 

 田の水口が詰まれば泥を掻き出し、祠の裏に泥が溜まれば排水を直す。

 

 そういう、妙に水回りの実務が得意な、徳川の変な若君だと。

 

 ローマ側がそれをどう記録し、どう神学的に処理するかは分からない。

 

 だが少なくとも、今日のところは。

 

 彼らは俺を、神とも悪魔とも断じなかった。

 

 そしてソテロ神父は、自由な宣教師としてではなく、ローマの目として、徳川の重い法の内側へ戻る道を選んだ。

 

 さらに大御所様は、ついでのような顔をして、夏でも冷たい箱を一つ、ローマ法王へ投げ込んだ。

 

 ……うん。

 

 たぶん、次に本当に大変なのは、十日後ではない。

 

 ソテロ神父が厳しい制限付きで日本へ戻ってきて。

 

 永冷石箱が海を渡り。

 

 ローマがその両方を本格的に記録し始めてからだ。

 

 俺は、静かになった水面を見つめながら、遠い未来に待ち受ける書類の山と外交の地獄を想像し、またしても深くため息をついた。

 

 




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