暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第83話 水神様、米が取れすぎて頭を抱える

 ローマ法王パウロ五世との第二回水鏡会談が終わり、江戸城内の空気は、にわかに熱を帯びていた。

 

 次の一手をどう打つか。

 

 ソテロ神父の受け入れに向けた公儀の監視体制の構築。

 

 ローマへ献上する『永冷石箱』の厳密な取り扱い説明書の作成。

 

 外交と神学と奇物の入り混じった、非常に重い実務が、家康や秀忠父上、竹千代兄上、そして天海や崇伝の手によって、嵐のように始まろうとしている。

 

 しかし今回、俺はそこからの会議には一切呼ばれなかった。

 

「国松は、本来の持ち場へ戻れ。お前が抱えている帳面も、限界が近かろう」

 

 家康公のその一言で、俺は御異物改方の自室へと解放——いや、事実上の強制送還をされたのだった。

 

 薄暗い部屋で一人になった俺は、机の上に山脈のように積み上がった国内からの報告書の束を前に、深く、ひたすらに深いため息をついた。

 

「……ローマ法王に向かって『私はただの人間です』って高らかに宣言したその直後に、山のような米の報告書と向き合って死にかけることになるとは思わなかったよ……」

 

 愚痴をこぼしても、書類の山は一分も減ってくれない。

 

 俺は硯に墨を擦り、一番上に置かれていた束を手に取った。

 

 そこには、江戸近郊の試験田をはじめ、関東の水番制度導入村、畿内の田法導入地域、堺・大坂周辺の早場米の産地、さらには駿河・遠江方面や西国の温暖な地域からの、初秋の状況報告が詳細に記されていた。

 

 ただし、北国・津軽方面の冷害兆候の報告だけは、別の赤い紐で括られている。

 

 早い地域では、すでに稲刈りが始まり、新米が蔵に納められようとしている時期だ。

 

 そして今年は、俺がこれまで全国に撒き散らしてきた施策が、一気に、そして恐ろしいほどの相乗効果をもって効き始めている年でもあった。

 

 正条植えによる、日照と風通しの確保。

 

 水番制度と水札による、無駄な水争いの減少。

 

 水口の厳密な管理と、田の排水性の改善。

 

 選別された優良な種籾の使用。

 

 そして何より、秋の収穫の常識を根底から覆す『千歯扱き』の広範な導入。

 

 代官や村の庄屋たちから上げられた報告書には、目を疑うような喜ばしい言葉が踊っていた。

 

『本年の収穫見込み、昨年比にて三割増を下らず』

 

『村落間の水争い皆無。田の荒れ、著しく減少せり』

 

『千歯扱きにより脱穀の作業、驚くほど大幅に短縮す』

 

『水番木札の効能、誠に著し。民も大いに安堵す』

 

『近隣の村内においても、公儀の田法導入を願う声、急増せり』

 

『収穫の多きにより、規定の年貢納入後も、村内に余剰の米多し』

 

 俺は最初、その報告を読んで素直に顔を綻ばせた。

 

「おお……! ちゃんと成果が出てる。現場の反発もあったけど、結果が数字に繋がってる。よかった、これは本当に良かったぞ」

 

 飢えを減らす。

 

 争いをなくす。

 

 そのためにやってきたことが、着実に実を結んでいる。

 

 行政担当者として、これほど嬉しいことはない。

 

 だが。

 

 ニコニコしながら帳簿をさらに数枚めくり、各地の『余剰米の概算』の数字を足し合わせていったところで、俺の顔からスゥッと血の気が引いた。

 

「……ん?」

 

 さらに別の地域の報告を読む。

 

 計算する。

 

「……んん?」

 

 筆を置き、頭を抱える。

 

「いや、ちょっと待って」

 

 米が多い。

 

 多すぎるのだ。

 

 *

 

 俺は、各地からの報告を大まかな表にまとめ直した。

 

 少ない所でも、昨年比で三割増。

 

 条件が良く、田法が完璧に機能した所では、四割から五割近い増収を叩き出している村まである。

 

 もちろん、日ノ本全土が一律で豊作なわけではない。

 

 津軽や北国方面では、相変わらず霖雨と冷夏が続き、凶作の影が色濃く落ちている。

 

 だが、江戸近郊や畿内をはじめとする、田法と水番制度の導入が先行した地域では、明らかに全体の収量が異常に跳ね上がっているのだ。

 

「少ない所で三割増の報告が平均値って……これ、普通にやりすぎでは?」

 

 俺の頬を引きつらせた最大の要因は、『千歯扱き』の圧倒的な効果だった。

 

 脱穀作業が劇的に早くなり、収穫後の処理速度が跳ね上がった。

 

 作業時間が減ったことで、天候が崩れる前に米を蔵へ収められる。

 

 扱き残しなどの取りこぼしも、激減した。

 

 つまり。

 

 田で取れる絶対量が増え。

 

 脱穀の過程で失うロスが減り。

 

 水争いで意図的に潰される田が減った。

 

 結果として、年貢として公儀に納められる米も増え、農民たちの手元に残る米も、かつてないほどに増えた。

 

 良いことしかない。

 

 天下泰平、万々歳だ。

 

 ……そう、一面だけを見れば。

 

 しかし、俺は帳簿の次の項目を見て、完全にフリーズした。

 

『──蔵、不足の懸念あり』

 

 報告書には、悲痛な叫びが連なっていた。

 

『村の共同蔵が全く足りませぬ』

 

『幕府の備蓄蔵も、本年の年貢を入れれば容量ギリギリにございます』

 

『各藩や代官所の蔵も、急造にて対応中なれど、板材が不足しております』

 

『年貢を納めた後にも各戸で米が余り、保存場所がなく、虫害・湿気・盗難が極めて強く懸念されます』

 

 さらに、俺の胃を痛めつけるような報告が続く。

 

『村々が、「徳川公儀の御恩」として、余剰米の献上を強く希望しております』

 

『蔵がない村では、保管を諦め、米を早売りして現金に換えようとする動きがあり、一部で値崩れの兆候が出ております』

 

『酒造業者が、この余剰米の大量買い取りに動き始めております』

 

『悪徳な米商人が、蔵を持たぬ農民の足元を見て、安値での買い叩きを狙い始めております』

 

「……うわぁ……」

 

 俺は、机の角に頭をガンガンと打ち付けた。

 

「大豊作でめちゃくちゃめでたいはずなのに、もう最悪の嫌な予感しかしないんだけど!」

 

『やっほー。見事にバランス調整、ミスったわね』

 

 不意に、虚空からKAMI様の楽しそうな声が降ってきた。

 

 姿は見えないが、その声色だけで、腹を抱えて笑っているのが想像できる。

 

「いきなりそれ言います!?」

 

『だってそうでしょ? 米の収穫量を強引に増やす施策、水争いを減らしてロスを無くす施策、脱穀効率を爆発的に上げる画期的な道具。……それを、なんのインフラ整備も追いついてない段階で全部一気に入れちゃったんだから。そりゃ、出口で詰まるに決まってるじゃない』

 

「ぐっ……成功したから褒められるのかと思いきや、怒られる感じがすごい理不尽なんですけど!」

 

『当たり前でしょ。成功したからこそ、今まで隠れていた次の巨大な問題が噴出してるのよ。何も変わらない失敗より、よっぽど手強くて面倒なやつね』

 

 *

 

 俺は、苛立ちを抑えながら報告書を読み進めた。

 

 現在進行形で起きている問題の一つが、民草の間の妙な献上ムーブメントだった。

 

『水神の若君様の御加護のおかげで、これまでにないほど米が取れました』

 

『徳川公儀の深い御恩に報いるため、この余剰の米をぜひ献上したい』

 

『年貢とは別に、水札と田法の御礼として、初穂として差し出したい』

 

 俺は、再び机に突っ伏した。

 

「いや、気持ちはありがたい。本当にありがたいんだけど……そうじゃないんだよ……」

 

 公儀の、いや俺の真意としては、本当は各地で自発的に貯蓄してほしいのだ。

 

 なぜなら、津軽や北国方面では現に冷害が出ており、今後数年にわたって凶作が続く危険性が高い。

 

 翌年以降、江戸や畿内の天候が安定する保証もどこにもない。

 

 豊作の年にこそ、各村が自前の備蓄をしっかり持ち、いざという時の飢えに備える。

 

 それが最も健全な国家運営の姿だ。

 

 だが、民草の側には、その理想を阻む絶望的なハードルがあった。

 

 ——彼らには、米を安全に長期間保管しておくための頑丈な蔵がない。

 

「そうだよな……。余った米は万が一のために貯めとけって言っても、村にネズミや湿気を防ぐちゃんとした蔵がなきゃ、物理的に無理なんだよな」

 

 安全な保存場所がなければ、余剰米はただの腐りゆく厄介者になる。

 

 湿気でカビが生え、傷む。

 

 虫が湧く。

 

 ネズミに食い荒らされる。

 

 盗賊に狙われる。

 

 火事で一瞬にして灰になる。

 

 だからこそ、どうせ駄目になるくらいならと、商人に安値で買い叩かれたり、酒造りに回されたり、あるいは見栄を張って豪勢な祝宴で一気に消費されたり、公儀に献上して手元から消してしまおうとするのだ。

 

「民に『備えのために貯めろ』って偉そうに言うなら、まずその米を安全に貯められる器を用意してやらないと、全部机上の空論になるのか」

 

『そうそう。貯蓄っていうのはね、“余ったから自然にできる”ような簡単なものじゃないのよ』

 

 KAMI様の声が、どこか教師のように響く。

 

『入れるための頑丈な箱、それを管理して守る人、量を正確に記録する帳簿、そして、いざという時にそれを使うための厳格な決まり。……そのシステムが全部揃って、初めて貯蓄が成立するの』

 

「現代の企業でも、在庫管理って、結局のところ倉庫のキャパシティと台帳の正確さが本体みたいなところがありますからね……」

 

『米も、データも、置き場とアドレスがなければ腐ってゴミになるのよ』

 

「無駄に嫌な例えが上手いな!」

 

 *

 

 俺は、各代官所から次々と上げられてくる解決案の提案書に目を通した。

 

 その中で最も多く、かつ役人たちが「名案だ」と飛びついているのが、これだった。

 

『余剰米を持て余している村については、来年分の年貢の一部前納を特例として認めるべきではないか』

 

 つまり、今年取れすぎた米を、来年納めるはずの年貢として、公儀の蔵で先取りして引き受けてやるという案だ。

 

 一見すると、これは極めて合理的に見える。

 

 村は余剰米の置き場や管理の負担に困らなくなる。

 

 幕府は備蓄を大幅に増やせる。

 

 来年もし不作になっても、農民はすでに一部納入済みとして扱われるため苦しまずに済む。

 

 民も、よく分からない名目の献上ではなく、将来の負担軽減のための前払いとしてなら、心理的に納得しやすい。

 

 しかし。

 

 現代の経済と行政の失敗事例を嫌というほど学んできた俺は、その提案書の裏に潜む強烈な危険を即座に察知した。

 

「これ……現場の役人にとってはめちゃくちゃ楽な処理だろうけど、長期的に見たら国が破綻するくらい危ないぞ」

 

 なぜか。

 

 もし今年が豊作で、来年も天候に恵まれて普通の年だったとしたらどうなるか。

 

 来年も田法と水番制度は確実に効く。

 

 千歯扱きも稼働する。

 

 来年もまた米が余る。

 

 そして、今年の前払い分が控除されるため、農民の手元にはさらに大量の米が残る。

 

 それをまた、再来年分の前払いとして納入する。

 

 結果として、年貢の前払いが雪だるま式にどんどん積み上がっていくのだ。

 

 よほど全国的な大凶作が数年連続で発生でもしない限り、この前払い分は永遠に消化されず、幕府の帳簿上には農民に対する莫大な借金のようなものが、実体のないまま膨れ上がっていくことになる。

 

「今年三割増で余って、前払い。来年も余って、前払い。……幕府の蔵には物理的に米が積み上がってパンクするし、村の側は『何年分も先まで前払いしたから、今年はもう働かなくても楽勝だ』って労働意欲が確実に低下する」

 

 しかも、地域差が最悪だ。

 

 豊作の土地は無限に前払いして楽になるのに、津軽のような凶作地域は常にギリギリで、不公平感が爆発する。

 

 そして何より、そんな数年越しの複雑な前払い控除の計算をさせられたら、代官の帳簿役が過労で死ぬ。

 

「これ、俺が仕掛けた施策で通常の凶作リスクがかなり打ち消されてるから、マジで五年連続で全国規模の大飢饉ぐらいの極悪確率を引かないと、前払い残高が増える一方の破綻システムじゃないか……!」

 

『その通り。名付けて、年貢前払いという名の時限式在庫爆弾ね』

 

「言い方!」

 

『でも、本質的には完全に合ってるでしょ?』

 

「合ってるから、本気で嫌なんですよ!」

 

 俺は、すぐさま強い方針を固めた。

 

 年貢の前払いを、全国で無制限に全面許可することは断じて罷り成らぬ。

 

 前払いは、あくまで極めて限定的な特例として扱う。

 

 厳しい条件を付ける。

 

 一つの村ごとの上限額を厳密に設定する。

 

 村ごとの共同蔵の容量が本当に満杯であるかを、役人が目視で確認する。

 

 受け取った前払い米は、そのまま幕府の蔵で腐らせるのではなく、津軽などの凶作地域支援用に強制的に回す。

 

 来年分の年貢の全額前払いは、労働意欲低下を防ぐため絶対に禁止。

 

 そして、前払い米はあくまで幕府への備荒預かり米として扱い、村側には紙の蔵札・米札を発行する。

 

 凶作時には、その札と引き換えに米を払い戻すか、減免措置と連動させる。

 

「ただの雑な前払いにしないで、いざという時のための備蓄預かりの保険システムに近い形に設計し直さないと、絶対に後で帳簿が破綻する……!」

 

 *

 

 だが、そのシステムを回すにしても、俺は再び根源的な問題にぶち当たって頭を抱えた。

 

「……そもそも、公儀の蔵だってキャパが足りねぇんだよ!」

 

 ならば、蔵をドカドカと増やせばいい。

 

 簡単な話だ。

 

 だが、この時代において、それは決して簡単ではない。

 

 立派な土蔵を一つ建てるだけでも、途方もないリソースが必要になる。

 

 腕の良い大工。

 

 土を塗る左官。

 

 大量の良質な木材。

 

 屋根を葺く瓦。

 

 壁に塗る土。

 

 土台となる石材。

 

 建てた後も、米を管理する蔵番が要る。

 

 火事から守るための火除け地の確保が要る。

 

 床下の湿気対策も必要だ。

 

 ネズミ返しも要る。

 

 出入りを厳格に記録する有能な帳簿役も要る。

 

 鍵の管理、盗難対策、水害を避けるための高い立地選び、そこへ米を運び込むための運搬路の整備、川から直接荷揚げするための船着き場の造成。

 

 全部、必要だ。

 

「蔵を増やせばいいじゃん、は素人の発想だ。それはそうだけど、職人の数にも木材にも明確な限度があるんだよ……」

 

 公儀の命令で各地に無理に蔵を急造しすぎれば、必ず別の重要なインフラ工事が止まる。

 

 港別登録制度のための、新たな港湾番所の建設。

 

 水防のための堤防工事。

 

 一国一城令の後の、城郭を蔵や番所へ改修する工事。

 

 江戸のど真ん中に作らせている外国御用屋敷。

 

 津軽への支援米を運ぶための船の建造。

 

 老朽化した橋や街道の整備。

 

 そして、地域コミュニティの核となる寺社ノードの補修。

 

 職人は有限だ。

 

 木材も有限だ。

 

 米や資材を運ぶ船や馬の輸送能力も有限だ。

 

「全部、この国を回すのに絶対に今必要な工事なんだよ……。なんで、全部の問題が一気に同時に押し寄せてくるんだよ……!」

 

『あんたが国内の内政バランスの調整を、盛大にミスったからじゃない?』

 

「二回目!」

 

『大事なことだからね。心に刻みなさい』

 

「本当にクリティカルに刺さるからやめてください!」

 

 俺は、半泣きになりながら、蔵建設をいきなり全国一斉に行うことは不可能だと判断し、冷酷に優先順位をつける作業に入った。

 

 まず、津軽・北国方面への米輸送の要となる中継拠点。

 

 次に、江戸近郊の、人口密集地を支える大収穫地域。

 

 大量の米を船で動かせる、水運の便が良い大きな河岸。

 

 港別登録制度の要となる、長崎や大坂などの主要港。

 

 大坂、堺、江戸といった、消費を支える大都市周辺。

 

 そして、いざ凶作となった時、陸路で周辺の村々へ迅速に米を配れる、内陸の中継地。

 

 さらに、全てをコストのかかる立派な土蔵にするのは諦め、蔵の種類を分けて運用することにした。

 

 幕府直轄の巨大な米蔵。

 

 これは最高強度の長期保管用。

 

 村が共同で管理する小規模な蔵。

 

 これは日常の備蓄用。

 

 寺社が管理を担う義倉。

 

 これは飢饉時の炊き出し拠点用。

 

 信用のある豪農や町人に管理を委託する預かり蔵。

 

 本格的な蔵が建つまでの間を凌ぐ仮設の籾蔵。

 

 船に積む前に、港で一時的に雨風を凌ぐだけの船積み前一時保管蔵。

 

「全部を完璧な土蔵にするから、職人が足りなくて詰むんだ。仮蔵、小蔵、寺社の義倉、民間委託の預かり蔵をパッチワークみたいに組み合わせて、なんとか全体のキャパシティを誤魔化すしかない……」

 

 *

 

 なんとか蔵と在庫の運用方針の骨組みを作ったところで、俺はさらに別の厄介な報告書を手に取って絶句した。

 

 一部の村や、少し裕福な町場からの報告だった。

 

『今年は米が余るほど取れたため、民が白米を多く食べたがっている』

 

『せっかくの水神様の豊作なのだから、貧しい粥や麦飯ではなく、銀シャリを腹いっぱい食いたいとの声多数』

 

『祝い事として、白米を景気よく振る舞う村が出ている』

 

『各所の水車小屋などで、米の精米量が急激に増加している』

 

 現代人の俺は、その報告の文字を見た瞬間、背筋が凍りついた。

 

「……白米ばっかり食うのは、本気でまずい」

 

 もちろん、精白された真っ白な米は美味い。

 

 長年の過酷な労働と、貧しい食事に耐えてきた民にとって、豊作の年に腹いっぱい白米を食べられることは、何よりの喜びであり、至高の贅沢だ。

 

 だが。

 

 白米ばかりを偏食すると、この時代にはまだ原因が解明されていない、恐ろしい病が蔓延するリスクがある。

 

 脚気だ。

 

 特に、米が豊かになったからといって、今まで食べていた玄米や麦、粟、稗、雑穀を貧乏人の食い物だと捨ててしまい、米の糠も完全に削り落として、白米中心の食事に極端に偏ると、その危険性は爆発的に跳ね上がる。

 

「……米が取れすぎた結果、このまま放置したら、本来もっと後世で問題になるはずの江戸患いを、全国規模で数十年も先取りして蔓延させることになるとか……全然笑えないブラックジョークなんだけど……」

 

『白いふっくらしたご飯、甘くて美味しいものねぇ』

 

「美味しいけど! 美味しいけど、ビタミンB1が完全に抜け落ちて栄養が偏るんだよ!」

 

『豊作という成功によって民が贅沢を覚え、その贅沢によって新たな未知の病が国を蝕む。……人間の歴史でよくある、文明の皮肉な罠ね』

 

「やめて。俺の行政ミスみたいで、心にグサグサ刺さる」

 

 問題は、俺が公儀の権力を使って、頭ごなしに白米を食うなと命じた場合の反発の大きさだ。

 

 それは、豊作を喜ぶ民のささやかな幸せを、理不尽に奪い取る形になる。

 

 しかも、この時代の人々は、脚気の本当の原因など誰も知らない。

 

 彼らの常識では、白米は上等な食べ物。

 

 玄米や麦飯は、貧しい者の食べ物。

 

 糠は、捨てるものか、せいぜい家畜の餌や肥料。

 

 大豊作で米が余っているのに、なぜわざわざ不味いものを食わねばならないのか。

 

 理由が全く理解されない。

 

「ここで俺が『白米ばかり食べるとビタミンB1が不足して末梢神経がやられて脚気になりますよ』とか、未来の医学知識をドヤ顔で語れるわけないしな……」

 

『びたみん、なんていう未来の単語を出したら、即座に大御所様への報告行きで、また失言扱いよ』

 

「分かってます!」

 

 *

 

 俺は、脚気対策を未来の医学知識としてではなく、この時代の人々にもスッと通る、もっともらしい理屈へと慎重に翻訳・偽装する必要があった。

 

 直接的な禁止は駄目だ。

 

 白米禁止令など出せば、一揆が起きかねない。

 

 かといって、「白すぎる米は体の気を弱める」というふわっとした神仏の説法だけでも、食欲の前では根拠が弱すぎる。

 

 俺は、医師、薬師、寺社のネットワーク、そして公儀の権威を複合的に使って、自然な栄養指導を広める方針を考えた。

 

 白米だけを常食にすることは避けるべし、という緩やかな通達。

 

 米に、麦、粟、稗、豆、芋、菜っ葉を混ぜて炊くことを公儀が推奨する。

 

 米の糠を無駄に捨てすぎず、糠漬け、糠味噌、家畜の良質な飼料、肥料として積極的に活用させる。

 

 精白しすぎない半搗き米や玄米を、身体の精をつけるものとして推奨する。

 

 真っ白な白米は、祝いの日や、特別な客をもてなす晴れの日の食事とするよう、風潮を誘導する。

 

 公儀の兵や、江戸詰めの武士たちの兵糧には、必ず麦飯と豆、味噌をセットにして支給することを義務付ける。

 

 寺社の説法や、各地の医師・薬師を経由して、「白飯ばかりを食い続けると、脚が弱り、体がむくむ」という事実を、古くからの経験則であるかのように口伝で広めさせる。

 

 水車の精米所などを登録制にして監視し、米の過度な精白を物理的に抑える。

 

 最終的に、「水神様の豊作米は、麦や豆と合わせて一緒に食うのが、一番身体に力が入る」という、都合のいい説法に仕立て上げる。

 

「……白米を絶対悪の敵にするんじゃなくて、白米だけを毎日食べ続ける、という偏った食生活を、行政と宗教の両面から避けさせる……」

 

『言い方が大事ね。人間は「絶対に食べるな」と禁止されるより、「こうやって食べると、もっと力が出るし健康に良いぞ」と勧められた方が、はるかに素直に受け入れやすいわ』

 

「これ、江戸時代の幕府がやってることじゃなくて、完全に現代の保健所の栄養指導だ……」

 

 さらに、俺は公文書に記載する病名も、白米病といった露骨なものではなく、作中で自然に受け入れられる表現を考えた。

 

 足弱り。

 

 白飯偏り。

 

 米気の片寄り。

 

 脚の病。

 

 あるいは、江戸患いの芽。

 

「とはいえ、いきなり公文書で『白米のみを常食とすることにより、脚弱り・倦怠・浮腫の症状が増える恐れあり』なんて断言したら、それこそ未来知識っぽくて怪しまれるな……」

 

 まずは、懇意の医師や薬師に、白米を多く食べる地域の患者の症状を観察させて、彼らの口から報告させる形を取ろう。

 

 未来知識で俺が断言しすぎると、また竹千代兄上に目をつけられる。

 

 *

 

 俺は、さらに視野を広げ、余った米の様々な使い道の選択肢を一覧にして整理した。

 

 一、備蓄。

 

 これが最優先。

 

 ただし、先述の通り、蔵の確保というハードルがある。

 

 二、凶作地域への緊急移送。

 

 津軽や北国方面へ優先的に回す。

 

 ただし、輸送船の確保、街道の整備、荷揚げする港、そして到着地での蔵が必要になる。

 

 三、年貢の前払い。

 

 一部は認めるが、上限付きの備荒預かりという特殊な形にする。

 

 四、米札・蔵札制度。

 

 村が余剰米を幕府の指定蔵へ預け、その証明として札を受け取る。

 

 凶作時にはその札の価値を保証し、返還や年貢減免、支援と連動させる一種の金融システム。

 

 五、加工保存。

 

 干飯、焼米、餅、米粉、味噌、麹、酢。

 

 そして糠漬けや米糠利用。

 

 これらに加工して長期保存させる。

 

 ただし、一番利益が出る酒造りについては、厳しく制限をかける。

 

 津軽では酒造禁止令が出るほど米が不足しているのだ。

 

 米が過剰な地域であっても、無制限に酒造に回させれば、いざという時の食用の米が一瞬で消え失せる。

 

「米が余ったから酒にして高く売ろう、っていう商人の思考は分かる。でもそれやると、国家の飢饉対策としては本末転倒なんだよな……」

 

 六、飼料・肥料。

 

 糠やくず米は、家畜の餌や肥料に使える。

 

 ただし、全てを捨ててしまうと、先ほどの脚気対策に使えなくなるため、バランスが重要だ。

 

 七、米価の安定化。

 

 これが一番厄介だ。

 

 大豊作だからといって、余った米を市場へ一気に放出すると、米の価格が大暴落して崩壊する。

 

 米価が下がれば、米を売って現金収入を得ている農民たちの生活が苦しくなる。

 

 そして、悪徳な米商人が安値で買い叩いて、不当な利益を得る。

 

 それを防ぐには、公儀が適正な価格で米を買い上げ、幕府の蔵で備蓄して価格を下支えする介入が必要になる。

 

「……豊作で米の値段が下がりすぎると、農民が困窮して一揆の火種になる。逆に凶作で米の値段が上がりすぎると、都市部の町人が飢えて打ちこわしが起きる。……米価のコントロール、現代の金融政策なみにめんどくさすぎるだろ!」

 

『食料行政と価格統制は、いつの時代も国家運営のラスボスよ』

 

「そういう事実、あんまり知りたくなかったです」

 

 *

 

 この日は、他に相談する者もおらず、俺は一人で狂ったように筆を走らせ続けた。

 

 最終的に、今日一日の思考を、一枚の巨大な和紙に整理メモとして書き上げる。

 

 タイトルは、『豊作時米穀処理覚書』。

 

【一、余剰米の扱い】

 

 ・民からの献上は、原則として受け取らない。

 

 ・ただし、公儀への純粋な感謝の念を無下にしないため、「御礼米」ではなく「村備蓄米」という名目で公儀の帳簿に登録する。

 

 ・村の名義で、公儀または寺社の蔵にて大切に預かる形を取る。

 

 ・その証明として蔵札を発行し、凶作時にこの札を持つ村を優先的に返還・救荒の対象とする。

 

【二、年貢前払いの特例】

 

 ・全国一律の全面許可はしない。

 

 ・村ごとの蔵の容量を確認した上で、厳密な上限を設定する。

 

 ・単純な前払いではなく、「備荒預かり米」として特別に扱う。

 

 ・翌年の収穫状況に応じて、柔軟に減免や相殺の計算を行う。

 

【三、蔵建設の現実的運用】

 

 ・職人不足のため、全国一斉の土蔵建設は不可とする。

 

 ・水運の拠点や、凶作地支援の中継拠点を最優先とする。

 

 ・立派な蔵だけでなく、仮蔵、小蔵、寺社の義倉、豪農への委託である預かり蔵をパッチワークのように組み合わせる。

 

 ・箱を作るだけでなく、蔵番と帳簿役の育成を急ぐ。

 

【四、米の消費と脚気、つまり足弱り対策】

 

 ・白米のみの偏った常食を、行政と宗教の両面から避けるよう指導する。

 

 ・半搗き米、麦飯、豆、芋、菜っ葉、味噌の摂取を強く推奨する。

 

 ・精米所を登録制にし、無駄で過度な精白を抑え込む。

 

 ・医師、薬師、寺社の説法を通じて、「白飯ばかり食うと脚を弱らせる」と経験則の形で広める。

 

 ・糠を絶対に無駄に捨てず、糠漬け、糠味噌、飼料、肥料へと循環活用させる。

 

【五、酒造管理の徹底】

 

 ・米が過剰な地域であっても、酒造は無制限とせず登録制とする。

 

 ・凶作地域、特に津軽などへの支援米の絶対量が確保されるまで、過度な酒造への米の流用を禁じる。

 

 ・津軽・北国方面への、迅速な米の移送手配を最優先する。

 

【六、千歯扱きの安全管理】

 

 ・脱穀効率が上がりすぎるため、処理した後の保管手順、米袋の手配、台帳の記帳と完全にセットにして導入させる。

 

 ・道具だけを配って終わりにしない。蔵と台帳が追いつかない村には、導入を待たせる。

 

 ・歯に引っかかっての怪我防止の講習を徹底する。

 

 俺は、書き上げた和紙を眺め、深く、深くため息をついた。

 

「……結局。米が田んぼで増えたら増えたで、蔵の確保、預かり札の発行、台帳の記帳、足弱り予防の栄養指導、酒造りの制限、そして港を使った巨大な物流。……これ全部がセットで押し寄せてくるのかよ」

 

『そうよ。国全体の生産量のベースを強引に上げるって、そういうことなのよ』

 

「……正直、少し考えなしに、田んぼの収量アップの施策をやり過ぎたかな……」

 

『ちょっとね』

 

「ちょっとで済みますか?」

 

『かなり?』

 

「そこは嘘でも優しくしてくださいよ!」

 

 *

 

 俺が机の前でうなだれていると、KAMI様が、珍しく少しだけ優しい声でフォローを入れてきた。

 

『でもね、国松。……悪いことばかりじゃないわよ』

 

「そうですか?」

 

『ええ。民が冷害でバタバタと飢えて死んでいく地獄を見るよりは、米が豊作すぎて余って、あんたが一人で頭を抱えてる方が、国としては一万倍もマシよ』

 

「……」

 

『問題の質が、ギリギリの生存から、高度な運用へと、一段階上に移っただけよ』

 

「生存から、運用へ……」

 

『そう。あんたがこの数年間、泥だらけになってやってきたことは、決して無駄じゃないわ。国は確実に強くなってる』

 

 そして、KAMI様は少し意地悪く笑った気配を漂わせた。

 

『……ただし。自分が作ったその巨大なシステムを、死ぬまで維持して運用し続けるっていう保守管理の地獄からは、一生逃げられないってだけよ』

 

「……それ、優しいフォローなのか、絶望的な脅しなのか、どっちなんですか」

 

『もちろん、両方よ』

 

 俺は、KAMI様の意地悪な響きに、力なく苦笑するしかなかった。

 

 *

 

 俺は立ち上がり、重い木の窓を開けて、外の景色を見た。

 

 江戸の空は、高く、澄み切って穏やかだった。

 

 遠くに見える近郊の田んぼからは、黄金色の稲穂を刈り取り、かつてないほどの豊かな収穫を心の底から喜ぶ、民たちの活気ある声が風に乗って微かに聞こえてくるような気がした。

 

 本来ならば。

 

 ただ諸手を挙げて、大豊作を喜んでいればいいだけの、美しい光景だ。

 

 だが、今の俺の頭の中には、複雑な台帳の数字と、足りない蔵の図面と、足弱りの恐怖と、年貢の前払いの計算式が、黒い渦のようにグルグルと渦巻いている。

 

 飢えを減らしたかった。

 

 血を流す水争いをなくしたかった。

 

 田の実りを、少しでも安定させたかった。

 

 その純粋な願いは、俺の行動によって、確かにこの日ノ本で形になり始めていた。

 

 だが。

 

 米が増えれば、それで全てがめでたしめでたしで終わるわけではなかった。

 

 米が増えれば、蔵が要る。

 

 蔵が要れば、帳簿が要る。

 

 帳簿が増えれば、それを管理する有能な役人が要る。

 

 米が余れば、勝手に売り捌いて値を崩す者が出る。

 

 恩着せがましく献上しようとする者が出る。

 

 己の利益のために、酒造りに回して米を消す者が出る。

 

 そして、美味しい白米ばかりを食べて、見たこともない新しい病に倒れる者まで出る。

 

 秋の収穫とは、一年の終わりではなく。

 

 全ての問題の始まりだったのだ。

 

「……国を動かすバランス調整、難しすぎるだろ……」

 

 俺は、豊作の喜びが綴られた報告書の束を前にして、心の底からそう呟いた。

 

 つい昨日。

 

 あの水鏡の向こうの、世界の頂点に立つローマ法王に向かって、「私はただの人間です」と、かっこよく名乗った俺は。

 

 その翌日には。

 

 神の奇跡でも悪魔の魔法でもなく、ただの過労死寸前の行政担当者として。

 

 取れすぎたこの莫大な米を、どうやって腐らせず、どうやって商人に奪わせず、どうやって民の病に変えさせず、そして、どうやって必ず来る次の飢饉のために残しておくか。

 

 その、途方もなく地味で、果てしない現実の問題に、一人孤独に頭を抱え続けていた。

 

 




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