暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
じっとりとした湿気を含んだ南風が、江戸城の白壁を撫でて吹き抜けていく。
元和二年、夏。
御異物改方の自室にこもる俺の周囲には、旧正月の華やかさなど木っ端ほども残っておらず、ただただ、汗を吸って重くなった和紙の山が、不気味なほどの存在感を放ってそびえ立っていた。
「……
俺は、額の汗をぬぐうことも忘れて、各地の代官や港の役人から送られてきた『夏期作柄見込帳』の束を、死んだ魚のような目で見つめていた。
筆を握る手のひらが、じっとりと汗ばむ。
だが、俺が青ざめているのは、決して夏の暑さのせいだけではなかった。
手元の帳簿には、日ノ本中の田んぼから、これ以上ないほどに「忌々しいほど喜ばしい」数字が並んでいたのだ。
国松がこれまで強引にねじ込んできた施策。
水土御用による大規模な灌漑。
冷害や霖雨を見据えた排水改善。
水番制度と水札による水争いの根絶。
さらには塩水選や正条植えの徹底。
そして、各村への千歯扱きの配備と安全講習。
これら全ての行政の歯車が、驚くほど正確に、そして恐ろしいほど噛み合って、今まさに日ノ本中の泥田で炸裂していた。
『本年の作柄、関東・畿内を中心に極めて順調。稲の伸び、例年に倍す』
『水番の木札により、本年に至るまで村落間の水論、一件も発生せず。田の荒れ皆無なり』
『千歯扱きの配備、各村にて完了。秋の脱穀の段取り、すでに昨年の倍の速度を見込む』
どの報告書をめくっても、代官たちの嬉々とした文字が躍っている。
つまり。
今年もまた、間違いなく『大豊作』の気配が色濃く漂っているのだ。
「……やったー。今年も米が取れまくるぞ。……蔵が、死ぬ」
俺は、がっくりと机に突っ伏した。
飢えが減る。
それは、前世の歴史を知る人間として、何よりも誇るべきだし、素直に喜ぶべきことだ。
民草が餓死せずに夏を越せる。
それだけで、俺のやってきた内政チートには絶大な価値がある。
……だけどさ。
増えすぎた米を、一体どこにしまえばいいんだよ。
*
江戸城内の、風通しの良い奥の座敷。
俺が持ち込んだ臨時の作柄報告書を眺めながら、大御所・家康は、その深い皺の刻まれた顔を実になめらかに綻ばせていた。
「よいことではないか、国松」
家康は、満足げに扇で膝を叩いた。
「四年続けて、この日ノ本の田が豊かに実るのじゃ。これほどの大豊作が重なれば、諸国の頑迷な大名どもや、戦の味を忘れられぬ浪人どもとて、ようやく『徳川の泰平』というものを、骨の髄から実感せざるを得まい」
「左様。民が飢えずに腹を満たせるならば、それに勝る政の成果はございませぬ」
将軍・秀忠も、日頃の厳しい表情を少しだけ緩めて、深く頷いている。
俺は、外向きの神妙な顔を作り、一人称を「私」にして頭を下げた。
「はい。……本年の作柄の良さ、豊作の見込みにつきましては、公儀の行政官として、これ以上ないほどに大変喜ばしいことと存じます」
「うむ。……では、なぜその顔をしておる」
家康の鷹のような目が、俺の引きつった口元を鋭く射抜いた。
「喜ばしい、と言いながら、お前のその目は、まるで己の田を全て虫に食い荒らされた百姓のような絶望に満ちておるぞ」
「……大御所様。豊作は素晴らしいのですが、現実の実務の算盤を弾けば、絶望せざるを得ないのです」
俺は、懐から『各令国・公儀蔵の容量逼迫概算書』を取り出して、家康と秀忠の前に広げた。
「すでに、前年までの連続した豊作によって、諸国の幕府直轄の米蔵は、どこも底が見えぬほどに満杯にございます。……そこへ、本年のこの三割増、四割増の膨大な新米が、秋になれば容赦なく津波のように押し寄せてくるのです。……置く場所が、物理的にどこにもございませぬ」
秀忠が、あ、と声を漏らして書類を凝視した。
「……そこまで、逼迫しておるのか」
「はい。前年までの古米をどう順序よく動かすか、津軽などの凶作地への救荒米の貸付をどう管理するか、そして新しく発行する『蔵札・米札』の裏付けとなる現物を、どうやって一石の狂いもなく照合するか。……さらには、急激に増えた米を狙う鼠の害、夏の湿気、梅雨時の黴、そして何より恐ろしい火災への対策。……これら全てを回すための、有能な『蔵番』と『帳面役』が、全国で完全に底を突いております」
俺は、胃のあたりを押さえた。
稲穂が青々と、そして金色に輝く気配を見せるたびに、俺の頭の中では「処理しきれない在庫の爆弾」のアラートが鳴り響き、胃壁が真っ黒に焼け焦げていくのだ。
*
だが、当座の秋の収穫を無駄にするわけにはいかない。
俺は、正純や勘定方の役人たちと徹夜で練り上げた『蔵不足に関する応急対応策』を、秀忠たちへ矢継ぎ早に説明した。
「当座の応急策といたしましては……昨年、一国一城令の用途分類によって、大名たちから没収、あるいは公儀の管理下で用途を縛って残した『諸国の城郭や陣屋』。……あそこの空き区画や、水防番所、避難所、港湾番所の堅牢な建物を、本年に限り、一時的な【公儀仮米蔵】として強制的に転用いたします」
「ほう」
家康が、にやりと老獪な笑みを浮かべた。
「城を無条件で全て打ち壊さず、用途を厳密に分類して、公儀の帳面で縛って残させた甲斐が、早くもこんなところで出たわけじゃな」
「はい。民を災害から守るための拠点を残しておいたからこそ、今年の大増収の波を、なんとかギリギリで受け止める器として活用できます」
「ならばよいではないか」
秀忠が頷く。
だが、俺は首を振った。
「良くはございません。これはあくまで、今年を生き延びるための、その場しのぎの策に過ぎませぬ。……このまま場当たり的に蔵を増やし続ければ、いずれ日ノ本中が、管理の行き届かぬ不気味な『蔵だらけの国』になります」
俺の言葉に、座敷の空気が少しだけ引き締まる。
そうなんだよ。
軍事の拠点を減らして平和にしたはずなのに、今度は米を保管するための拠点が無限に増殖して、役人の人手を食いつぶしている。
平和になるっていうのは、建物の『名目』と『帳面の種類』が変わるだけで、行政の仕事自体は一ミリも減らないんだ!
俺は、蔵の『根本的な規格統一と運用規則』の必要性を訴えた。
ただ建物を建てるだけでは駄目だ。
公儀の蔵の建材や換気構造の規格を統一し、鼠返しや床上げの基準を法で縛る。
さらに、長期保管に向く『籾保存』と、すぐに消費する『白米保存』の比率を厳密に管理する。
古米と新米の入れ替えの順序を規則化し、現物と蔵札の照合を監査する仕組みを作る。
災害時の分散備蓄の計画、蔵番の不正を暴くための定期的な監査。
……そして、米が市場にあふれて値崩れを起こした際の、公儀による買い支えの介入と、酒造制限の連動。
「それら全てを、正確な『台帳の仕組み』として縛らなければ……あの山のような米は、いざ飢饉が起きた時には、ただの鼠の餌の『腐る山』になります」
「……また、新しい帳面を作るのじゃな、国松」
家康が、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに言った。
「はい。また、信じられないほどの厚さの帳面になります」
*
さらに、豊作が四年も続くという事実は、国内の民草や都市部の町人たちの『食生活』のバランスをも、じわじわと、しかし確実に狂わせ始めていた。
米が、ある。
市場に米が溢れ、手元に余剰の米があるとなれば、人間はどうなるか。
当然、贅沢をしたくなる。
日ノ本中で、祭り、婚礼、棟上げ、子の誕生祝い、豊作祈願の講、寺社の集まりといったあらゆる祝い事にかこつけて、真っ白に精米された『白米の飯』を食べる機会が、爆発的に増えているという報告が、御異物改方に届き始めていた。
『近頃、江戸や大坂の町方、さらには近隣の村々に至るまで。祝いの席にて、粥や麦飯ではなく、真っ白き白米の飯を出す家、急増しております』
『豊作の御礼として、寺社や村の集まりにて、大量の白米が振る舞われ、民も大いに喜んでおります』
『白い飯を食べることこそが、泰平の世における、至上の豊かさの証となりつつあります』
俺は、その報告書の文字を見るたびに、冷や汗が止まらなくなっていた。
やめろ……。
いや、分かる。
気持ちは痛いほど分かるよ!
四年も大豊作が続いて手元に米が余ってるんだ。
せっかくの祝いの日くらい、普段の不味い麦飯や粟、稗の粥じゃなくて、真っ白く輝く銀シャリを腹いっぱい食いたい。
その人間の当たり前の食欲は、一ミリも間違ってない!
……でも。
それをやったら、絶対に『
米の栄養の本体である『糠』を綺麗に削り落とした白米ばかりを、豊かさの証明として毎日偏食し始めたら……あの恐ろしい、足腰が立たなくなって最悪は心不全で死に至る『江戸患い』の芽が、この元和二年の段階で、全国規模で前倒しになって大流行してしまう!
すでに、懇意の医師や寺社のネットワークから、不穏な『兆候』の報告が集まり始めていた。
「最近、江戸の町や城下町にて、妙に『足がだるい』『力が入らぬ』と訴える若者が増えております」
「特に、白米を多く支給される、大名屋敷の若い奉公人や、武家奉公人の間で、その足弱りの症状が顕著にございます」
「一方で。普段通り、麦や雑穀、糠漬けを食べている鄙の農村では、そのような病は一切見られませぬ」
「寺社経由で、『白い飯ばかりを食うと、天の気の片寄りによって足が弱る。必ず麦や糠、菜っ葉を混ぜて食うべし』と、古い経験則を装って緩やかに広めてはおりますが……食欲の前には、なかなか浸透いたしませぬ」
「……大御所様」
俺は、家康の目を真っ直ぐに見た。
「公儀として、豊作を祝う民の白米の振る舞い、そのものをお上の力で強制的に禁止することはいたしませぬ。それは、民のささやかな泰平の喜びを理不尽に奪い、余計な反発を招きます」
「うむ。禁止はせぬ。……では、どうする」
「日常の食においては。……麦や雑穀を必ず混ぜること、そして米の『糠』を決して無駄に捨てず、糠漬けや糠味噌、家畜の飼料として余すことなく循環させるよう。……お上の正式な『お触れ』ではなく、寺社や医師の『口伝の養生訓』として、再度、強烈に通達を重ねるべきです」
秀忠が、少し不思議そうな顔をした。
「祝いの白い飯を、そこまで警戒せねばならぬのか。米が増えたというのに、なぜそれを食うことで民が病になる?」
「米が増えすぎたからこそ、偏るのです」
俺は、言葉を選んで答えた。
「人間、豊かになりすぎると……往々にして、身体の調いを崩す食べ方をしてしまうものにございます」
「……米が増えて、かえって病が増えるとは。……誠に、国を治めるというのは皮肉なものよな」
家康が、ぽつりと呟いたその言葉が、俺の胸に重く突き刺さった。
内政チートの成功の副作用。
……本当に、この世界は一寸の油断も許してくれないな……。
*
国内の米と病の対応に頭を抱える一方で。
海の向こうの、ローマ法王との『月例の水鏡会談』の刻限が、冷酷にやってきた。
江戸城の奥深い座敷。
水鏡の前に座るのは、家康、秀忠、竹千代、俺、そして崇伝と天海。
今回の会談の最大の議題は、前回、俺たちがローマ側へ突きつけた、あの無茶苦茶な要求。
──『白・黒・灰色の南蛮書物の判定に、ローマ側の神学者や判定者を公式に参加させろ』という協力依頼に対する、パウロ五世からの正式な返答だった。
水鏡が淡い光を放ち、地球の裏側のローマ教皇庁の石室が映し出される。
パウロ五世の顔は、前回の会談の時以上に、ひどく困惑し、苦渋に満ちているように見えた。
それもそのはずだ。
……まあ、そうだよな。
この一六〇〇年代の初頭の世界において。
自国が発令した禁教令の『検閲の運用』のために、わざわざ他国の、しかも対立しているはずの宗教の最高権威に向かって、
『どれが布教書で、どれが実用的な学問書か、そっちの専門家を出して一緒に第三者委員会で判定してくれ』
なんていう、高度な『外部委託』の思想を突きつけてくる国など、世界のどこを探したって日ノ本以外にあるわけがない。
宗教組織の長から見れば、自分たちの信仰に関わる神聖な書物の判定を、異国の武家の支配者と共同で行うなんて、意味が分からなくて脳の処理がパンクしているはずだ。
だが、パウロ五世は、逃げなかった。
彼は、長い沈黙のあと、重厚な声でゆっくりと言葉を紡いだ。
意味補正の理を通じて、その本心が俺たちの耳へ自然に届く。
「……徳川公儀の、若君よ。……貴国が求めてきたその提案は。我らローマ教会にとって、極めて『異例』であり……にわかには受け入れがたい要求である」
「……」
崇伝の目が、スッと鋭く吊り上がる。
だが、法王は言葉を続けた。
「しかし。……神への信仰の書と、人間が世界を理解するための学問の書は。……我らの世界においても、明確に、簡単に切り離せるものではないこともまた、事実である」
「もし。我らがこの協力を拒み、貴国が『神の名が一言でもあれば、全て邪法の書である』と断じて、欧州の全ての書物を入り口で焼き捨ててしまえば。……それは、我らの持つ高貴な医学、天文学、薬学、測量の『知』の道をも、この日ノ本に対して永遠に閉ざすことになる。……それは、我らとしても、決して本意ではないのだ」
……マジで、このローマ法王の胆力に感謝するしかないな。
俺は内心で、深く、深く安堵の息を吐き出した。
禁教令を突きつけてきた相手に対して、自らのプライドをギリギリのところで制御して、日本の信徒の命綱と、未来の知識の窓口を維持するために、この無茶な『実務の卓』に座ることを選んでくれたんだ。
このおじいさん、やっぱりただの聖職者じゃない。
強烈にタフな政治家だ。
「……次回の通信までに」
パウロ五世は、厳しい目で俺たちを見据えた。
「我が教皇庁の中から、書物の文言と、神学の正当な教えに通じた、信頼できる高位の者を選び出す。彼らに、長崎から提出される灰色の書物が、純粋に布教を目的とするものか……あるいは、日ノ本にとっても有用な『学問の書』として扱えるものかを、厳密に検分させ、意見を述べさせよう」
「感謝する、法王猊下」
家康が、満足げに微笑んで手を挙げた。
「日ノ本は、信心の名を借りて国を揺るがす布教は、断じて許さぬ。……だが。民の命を救う医学や、天の運行を知る天文学といった、世界の『知』を拒むつもりは、毛頭ない」
「その毅然たる線引きが。……いずれ、互いの国の多くの命を救う『知恵の橋』となることを、我らも神に祈ろう」
パウロ五世のその言葉を最後に、水鏡の光は静かに静まっていった。
会談は終わった。
友好の抱擁を交わすわけでも、敵対して罵り合うわけでもない。
互いに強烈に警戒し、腹の底を探り合いながらも。
……『文書の判定』という、極めて冷徹な行政の実務の鎖によって、江戸とローマは、さらに一段、強固に繋ぎ止められたのだ。
*
会談の後。
江戸の街では、限定的ながらも、南蛮書物の抄訳や図面が、知識に飢えた武士層や大商人の間で、じわじわと『海外学問ブーム』のような熱気を生み出し始めていた。
当然、原本をそのまま一般の民や大名に読ませることは絶対にしない。
新しく創設された『南蛮書物御改』の厳しい図書検閲を通り、宗教的な毒を抜かれた実用部分だけの『抄訳』が、公儀の許可を得た限定的な勉強会で閲覧されるようになったのだ。
そのメンバーは多岐にわたる。
江戸に集められた大名家の三男四男五男たち。
公家文書御用の公家たち。
必死に言葉を学ぶ通詞。
最先端の医術を求める医師や薬師。
好奇心に目の色を変えた大商人。
そして、測量や暦に強い関心を持つ、実務派の若い武士たち。
俺は、彼らが集まる江戸城近くの詰め所を、何度か視察のために覗いてみた。
そこでは、俺の想像を超えるほどの『泥臭い翻訳の地獄』が繰り広げられていた。
「……この、ラテン語の『アニマ』という言葉。……これは、仏法の言うところの『魂』と訳すべきなのか、それとも『霊』と訳すべきなのか。……どちらに転ぶかで、公儀の検閲の目が変わるぞ!」
「この、自然哲学という概念。……これは、我らの言う『
「この草木図譜に描かれている薬草の絵……。日本の、どこの山に生えている草と同じなのか、名前が全く分からぬ!」
「この天球の、星の運行の緻密な図面……。一体、どういう数理の引き方をすれば、このように狂いなく写し取れるのだ!」
彼らは、頭から湯気を出しながら、一語一語の翻訳と、異国の思考の移植に、命を削るようにして取り組んでいた。
……そうなんだよな。
俺は、彼らの必死の姿を見て、自分の『驕り』を深く反省した。
俺は、神仏ノードの加護と端末のアシストがあるから、本を見た瞬間にシステム的なチートで『これは白!』『これは黒!』と一発で本質を理解できる。
でも、この時代を生きる普通の人たちは、そんなチートは一切使えない。
未知の異国の学問の、一語一語の意味を悩み、泥にまみれて訳し、自分たちの道具と材料に落とし込んで、ようやく『一歩』を進めることができるんだ。
知識っていうのは……ただ本を輸入して読めば、その瞬間に頭が良くなって役に立つような、そんな簡単な魔法じゃないんだよ。
家康は、この部屋の熱気を大いに歓迎していた。
「よい、実によい光景じゃ」
家康は、満足げに目を細めた。
「武士が、ただ刀を振るう腕前だけで己の価値を競う世は、もう終わった。……こうして、字を読み、理を解し、異国の知を必死に貪る若者が増えることこそが、徳川の泰平の世を、より盤石にする」
だが。
将軍・秀忠は、その熱気に対して、ひどく冷ややかな、厳しい警戒の目を向けたままであった。
「……大御所様。私は、これを諸手を挙げて喜ぶ気にはなれませぬ」
「なぜじゃ、秀忠」
「……生半可な知識というものは。……時に、全く無知であることよりも、はるかに大きな『怪我』と『破滅』を現場にもたらすからにございます」
秀忠の、その冷徹な為政者としての懸念は。
そのわずか数日後、江戸の町で、最悪な形で『現実の事件』として噴出することになった。
*
「……旦那様!! 御異物改方に、長崎と江戸の町奉行所から、同時に『知ったかぶりによる大不祥事』の報告が届きました!!」
役人が、大慌てで俺の部屋に飛び込んできた。
「何が起きた!?」
「南蛮の『食用草木・薬草図鑑』の、初期の雑な抄訳を盗み見た、若い武士や好奇心の強い大商人の奉公人どもが……知ったかぶりをして、日本国内で大事故を起こしております!」
その報告の内容は、まさに秀忠が予言した通りの『知識の食あたり』そのものだった。
南蛮の書物には、
『このギザギザした葉を持つ草は、茹でて食えば美味であり、体力を大いに回復させる』
『この根は、熱を下げる特効薬になる』
などと、美しい精密な絵付きで書かれていた。
それを読んだ江戸の若い武士たちが。
「おお、この絵にそっくりな草なら、俺の領地の裏山に無限に生えておるぞ!」
「南蛮の高名な医師が『食える』と書いているのだ。間違いない、早速煮て食ってみよう!」
と、知ったかぶりをして、日本の『似て非なる有毒植物』を、腹いっぱい調理して食べてしまったのだ。
結果。
「まずい!!」
「舌が、舌が激しく痺れる!!」
「腹が引き裂かれるように痛い!!」
「うわああ、目が、目が見えぬ!!」
と、全員が泡を吹いてのたうち回り、役所の療養所へ担ぎ込まれる大騒動に発展した。
「……だから、言ったじゃん!!」
俺は、自室で頭を激しく掻きむしった。
「欧州の気候と土地で書かれた図鑑の植物を、なんの検証もなしに、日本の見た目がちょっと似てる野草にそのまま当てはめるな!! 気候も、土地も、科も、毒性の強さも、全部根本から違うんだよ! これは学問の摂取じゃない、ただの『命懸けの知ったかぶり』だ!!」
さらに悪いことに、別の若い医師が、南蛮の医学書に書かれていた「発熱時の、薬種の調合分量」の数字をそのまま真似して、患者に投与した。
だが、向こうの書物の単位の換算を完全に間違え、さらに日本に入ってきた南蛮の薬種の『濃度』の違いを計算に入れていなかったため、通常の五倍以上の猛烈な強さの薬を患者に飲ませてしまったのだ。
結果、患者の熱は下がるどころか、内臓が悲鳴を上げて、一時的に意識不明の重体に陥った。
「……翻訳のミス一つで、人が死ぬ。……知識っていうのは、やっぱり、扱い方を一歩間違えれば、銃や大砲よりも簡単に人を殺せる『猛毒』なんだ……!」
俺は、戦慄した。
公儀は、直ちに強力な『知識の防波堤』を構築せざるを得なくなった。
南蛮から入ってきた食用草木、薬草の書物については、日ノ本側の超一流の医師、高名な薬師、そして山に暮らす熟練の『山師』たちが、現物の実物標本と徹底的に照合して安全を完全に確認するまで、一般大名や民間への公開・利用を『全面禁止』とする。
絶対に、見た目の絵が似ているだけで「同じ草だ」と扱ってはならない。
薬の分量についても、江戸の南蛮書物御改が作成した、厳密な『単位換算表』と『分量対比台帳』を通したものしか、医師たちに使用を許さない。
「……また。新しい帳面が、増えた……」
俺は、新しく作ることになった『異国草木并日ノ本草木照合控』という名の分厚い帳面を前に、再び死んだ魚の目になった。
「必要な帳面にございます、国松様」
正純の、いつもの容赦ない声が響く。
「……分かってますよ! 分かってますけど、俺の処理能力の限界が近いんですよ!」
*
そんな知識の混乱と大事故が多発する中で。
俺が、最も「これは、今の段階でもそのまま確実に役に立つ」と、強い期待を寄せていた学問の分野があった。
──『天文学』と『測量術』である。
「なぜ、草木や医学の書を後回しにして、星の書物を最優先で読むのだ、国松」
竹千代が、不思議そうに尋ねた。
俺は、明確な行政上の理由を答えた。
「兄上。植物や薬は、土地や気候が違えば、そのままでは毒になり、使えませぬ。ですが……『空の星の動き』だけは。この日ノ本であっても、遥か欧州であっても、全く同じ空の下で、同じように観測できるからです」
「……」
「書物に書かれている星の運行の数理が、正しいか、あるいは嘘偽りであるかを、日ノ本の夜空を見上げるだけで、極めて容易かつ安全に『検証』することができます。……星は、絶対に毒にはなりませんから」
「なるほどな」
竹千代が深く頷く。
だが、隣から天海が、静かに、しかしチクリと釘を刺した。
「されど、国松様。……天の運行、暦を論じるということは。……京の朝廷が持つ絶対の職分である『造暦』の権威に、真正面から触れることになりますぞ。一歩間違えれば、朝廷への重大な宣戦布告と受け取られかねませぬ」
「そこは、百も承知のうえでございます、天海殿」
俺は、朝廷を絶対に敵に回さないための、周到な『配慮の仕組み』を説明した。
「公儀は、独自の新しい暦を勝手に作って広めるような真似は、断じていたしませぬ。暦の決定権は、あくまで京の朝廷をどこまでも高く立てます。……江戸の『公儀御書物蔵』がやるのは、あくまで、日々の日ノ本の空の『星の観測の記録』そのものです」
「江戸で見た星の位置、長崎で見た星の角度、京で見た星の時間を、同じ厳密な様式で帳面に載せて記録し。……それを、『このような精緻な星の記録が取れました』と、朝廷へ敬意を持って献上・報告する形をとります」
「……朝廷の面子を完璧に立てつつ。実質的な星の運行のデータと、測量・航海術、正確な時刻管理の主導権だけは、全て江戸の公儀が握るわけだな」
秀忠が、将軍としての冷徹な目で、その策略の質の高さを評価した。
「はい。ここを間違えて江戸が勝手に暦を弄れば、朝廷との関係は最悪になります。……京を文で立てつつ、江戸で実利を握る。それが正解です」
よし。
これで朝廷との無用な摩擦は防げる。
……ただし。
そのためには、各港や各地で見た星の動きを、一秒の狂いもなく同時に記録して突き合わせるための、恐ろしく精密な『天文観測記録台帳』の運用が、今夜から必要になるんだけどさ……!
*
元和二年の、短い夏が、音を立てて過ぎ去ろうとしていた。
俺の机の上には、今や、二つの巨大な『地獄の山』が同時にそびえ立ち、俺の命を削りにかかっていた。
現実の、米の蔵の山。
今年も全国的な大豊作の見込み。
城郭や番所を仮の米蔵へ改築するための、職人と資材の手配。
古米と新米の入れ替えの順序を定める、在庫管理の帳面作成。
白米の偏食による、足弱りの兆候を抑えるための養生訓の通達。
酒造制限の監査と、米価急落を防ぐための公儀の買い支え金の計算。
新しく生まれた、知の蔵の山。
南蛮書物御改へ、長崎から大量の「灰色本」が届く。
神学と実学がどろどろに混ざった文章の、五人多数決による判定実務。
ローマ側の判定者との、水鏡を通じた細かな文言調整。
知ったかぶりによる毒草事故を防ぐための、草木対応表の作成。
医学書の単位換算と、危険な宗教注釈を削ぐための、膨大な抄訳の作成。
朝廷を立てつつ行う、天文学の観測記録様式の策定。
「米も、増える。……本も、増える。……人も、増える。……そして、帳面が無限に増える……」
俺は、深夜の誰もいない部屋で、ぼんやりと自分の手のひらを見つめた。
増えたものは。
全て、厳格に管理しなければ、一瞬にして『腐る山』になる。
米は、湿気と鼠によって物理的に腐り、国を損なう。
知識は、誤訳と知ったかぶりによって狂気となり、人を殺す。
その時。
俺の脳裏に、かつて八百比丘尼が持ち出してきた、あの空間収納のチート奇物──『どこでもキューブ』の輝きが、一瞬だけ蘇った。
あの時、もし八百比丘尼さんの誘惑に負けて、あのキューブを蔵の代わりに受け取っていたら。
……少なくとも、この『米の蔵が足りなくて死にそう』っていう物理的な地獄だけは、一瞬で消し去ることができたのかもしれないな。
俺は、自嘲気味に微笑んだ。
……でも。
たとえあのチートアイテムで、米の置き場所の空間を無限に増やすことができたとしても。
この『南蛮の知識の食あたりで人が死ぬ』という、人間の理解の限界から来る地獄までは、絶対に救えなかったはずだ。
どれほど便利な魔法の道具があろうとも。
異国の言葉を、一語一語血を吐くように悩みながら訳し。
日本の草木と実物で照らし合わせ。
分量を間違えずに計算し。
星の動きを夜空を見上げて確かめる。
……その、人間の泥臭い『理解のプロセス』だけは、絶対に省略することも、チートで肩代わりすることもできないのだ。
チートで、蔵の空間は増やせても。
人間の、受け取る側の『知恵の容量』までは、決して増やせない。
「……だから、地道にやるしかないんだよな。……一つずつ、帳面に載せて、システムを組んでいくしか」
俺は、深く、長く、今年一番の重い息を吐き出すと。
当面の優先順位として、危険な草木や医学の急激な実用化は一度ストップさせ、まずは日ノ本でも空を見上げれば確実に検証ができる、天文学と測量の記録から始めることを決意した。
「国松。……本当に、星の観測から始めるのだな」
夜中に、様子を見に来た竹千代が、俺の書いた方針書を見て確認する。
「はい、兄上。星は、どれだけ見つめても、決して逃げませんし、毒を吐いて人を殺すこともありません。……たぶん」
「天の運行の不思議を、そのように不敬に扱う言い方はお控えなされ」
黒衣の影から、天海がいつの間にか現れて、楽しそうに嗜めてくる。
「すみません、天海殿。……でも、俺の仕事は、もうキャパオーバーなんです!」
俺は、そう叫びながら。
机の上に並べられた、新しい何冊もの白紙の帳面の表紙に、墨をたっぷりと含ませた筆を走らせた。
『元和二年夏・作柄見込并蔵応急改築覚』
『足弱り再発防止・養生訓通達案』
『異国草木并日ノ本草木照合控』
『南蛮医学・薬量換算控』
『天文観測記録様式案』
最初は、ただ目の前の田んぼの、小さな水口の泥を掻き出すことから始まった、俺のしがない内政の仕事だった。
それが、米になり、蔵になり、蔵札になり、港の関所になり、海の向こうの銀になり……そして、ついに。
夏の夜空に輝く、遥か遠い『空の星の動き』を管理するところまで、届き始めていた。
俺は深くため息をつき、米蔵の改築図面のすぐ横に、震える筆で『天文観測記録様式』と、新たな地獄の項目を書き加えた。
青々と波打つ夏の田んぼの、そのはるか高い空の向こうで。
……俺の終わらない書類仕事の山は、泰平の世の光を映して、静かに、しかし圧倒的な物量で、どこまでも拡大を続けていた。
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