暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第91話 朝廷、星の帳面にざわつく

 京の都。

 

 千年の長きにわたり、日ノ本の中心として君臨し続けてきたこの雅なる地において、近頃の朝廷および公家衆を取り巻く空気は、かつてないほどに明るく、そして潤っていた。

 

 理由は極めて明白である。

 

 東の江戸に幕府を開いた徳川家が、近年、朝廷に対して並々ならぬ厚遇をもって接してきているからだ。

 

 禁裏の修繕。

 

 京の道や橋、水路、火除け地の整備に対する、公儀からの惜しみない資金援助。

 

 散逸しかけていた貴重な古典籍や文物保護への手厚い支援。

 

 何より、三年連続の大豊作に伴い、江戸から京へと送られてくる献上品の数と質は、近年稀に見るほどの目覚ましい規模に達していた。

 

 だが、公家たちの自尊心を最も満たしていたのは、そうした物質的な富だけではない。

 

 ──『公家文書御用』という、新たな制度であった。

 

 江戸の公儀の深刻な文官不足を補うという名目で、京から多くの公家やその家臣、次男三男たちが江戸へと下り、幕府の公式な法文の作成、大名への返書の推敲、そして諸外国との交渉に関わる文書や帳面の整理といった実務において、大いに重用されているのだ。

 

「……近頃、江戸の武家どもより届く文は、実に丁重で礼にかなったものになり申したな」

 

 ある晴れた日の午後。

 

 立派な庭園を望む座敷で、香を焚きしめた衣を纏う公家の一人が、扇を静かに揺らしながら微笑んだ。

 

「左様。公家文書御用に出た我が一門の者たちも、江戸城の奥深くで、ずいぶんと頼りにされ、骨を折っていると聞いておる」

 

 別の公家が、満足げに頷く。

 

「武家が力をもって天下を治める世となって久しいが……やはり、国を治めるための『文』と『礼』を正しく整えるには、我ら公家の長年の蓄積がどうしても必要なのだ」

 

「徳川からの献上も、まこと目を見張る厚さ。豊作の恩恵が、こうして禁裏にも厚く届くとは、これぞ泰平の瑞兆にございますな」

 

「江戸の若君は、なかなか『文の価値』というものを分かっておられるご様子」

 

「我が家の部屋住みであった次男坊も、江戸で異国の書付の清書に携わっているとか。……無骨な武家の帳面も、いよいよ我ら公家の筆なしでは、一日たりとも回らぬようになりましたな」

 

 表向きは、あくまで雅やかに。

 

 扇の陰で上品に笑い合う公家たち。

 

 しかしその内心は、「我らの力なしでは武家の政治も回らぬのだ」という、確かな優越感と、高揚感で満たされていた。

 

 彼らの中には、徳川という政権に対する認識の確かな変化が生まれつつあった。

 

 野蛮に力で全てを奪い取る武家ではなく、文と礼を重んじ、共に秩序を作ろうとする現実的な協調相手である、と。

 

 *

 

 だが。

 

 その和やかで誇り高い空気は、江戸の公家文書御用から届いた一通の密書によって、一瞬にして凍りつくことになった。

 

「……何と申した?」

 

 先程まで扇を優雅に揺らしていた公家の一人が、血相を変えて身を乗り出した。

 

「江戸の公儀が。……南蛮の天文学の書を集め、星の観測記録を同じ様式で取り始める、だと?」

 

 報告をもたらした家臣が、青ざめた顔で頷く。

 

「はっ。江戸城の内に新しく設けられた『公儀御書物蔵』に、天文や測量に関わる異国の書物が次々と集められております。そして、江戸、長崎、さらにはこの京などにおいて、同一の帳面を用いて、星の運行を精密に記録する計画が持ち上がっているとの由」

 

「……公儀は、独自の暦を作るつもりか!?」

 

「いえ、江戸側は『我らは暦を作るのではなく、ただの観測記録を取り、それを朝廷へ献上するのみである』と明言しているようでございます」

 

 それを聞いた瞬間。

 

 座敷の空気が、まるで冬の冷気に晒されたように冷たく、硬く張り詰めた。

 

 公家たちにとって、星の運行を読み解き、天変地異の兆しを解釈し、そして民草の生活の基盤となる暦を定めることは、単なる実用的な技術などでは決してない。

 

 それは、帝の絶対的な権威の源泉であり、朝廷の神聖なる職分であり、陰陽道や暦道を司る家々が、古来より守り抜いてきた犯してはならない聖域なのだ。

 

「……江戸の武家どもが、星の運行を自らの帳面に記録する、とな」

 

 一人の公家が、震える声で呟いた。

 

「航海や、土地の測量のため、という実利的な建前を並べるであろうな」

 

「されど、星の動きを精密に記録し、異国の書を用いて数理を計算し始めれば……やがて必ず、我が国の古き暦との誤差に触れることになりましょう!」

 

「それは……朝廷の重き職分に、泥足で踏み入るも同然の所業!」

 

 先程までの「徳川は分かっておる」という余裕の空気は、完全に吹き飛んだ。

 

 彼らの顔には、己の存在意義を根底から脅かされることへの、強烈な危機感と疑心暗鬼が張り付いていた。

 

 *

 

 この問題は、数人の公家の噂話で済ませられる次元のものではない。

 

 事態を重く見た朝廷の上層部は、後水尾天皇をも交えた、極めて内密で重い会議を開くこととなった。

 

 御所の一角。

 

 御簾の奥に鎮座する若き帝の御前に、関白や摂家の代表、公家文書御用の窓口を担う者、そして陰陽や暦道を代々司る家々の当主たちが、平伏して居並んでいた。

 

 誤解してはならないのは、帝は決して感情的に「徳川憎し」で凝り固まっているわけではないということだ。

 

 彼は聡明である。

 

 徳川の圧倒的な武力と財力に正面から逆らうことが朝廷の破滅を招くことも、近年の徳川との現実的な協調路線が、禁裏にどれほどの恩恵をもたらしているかも、冷徹に理解している。

 

 だが、それと、朝廷の存在意義である神聖な職分が侵食される危機を座視することは、全く別の問題だった。

 

「……江戸は、星を見ようとしておるのか」

 

 帝の、静かで、しかし底知れぬ深みを持つ声が響いた。

 

「はい。南蛮の天文学の書を用い、江戸や長崎などで、同じ様式の観測記録を作る案が進んでおるとのことにございます」

 

 公家の代表が、伏し目がちに答える。

 

「……江戸は、自らの手で暦を改める、と言っているのではないのだな?」

 

「はい。江戸側は、あくまで『星の観測結果を帳面に記し、朝廷へ献上するのみ』と申しているようでございます」

 

 帝は、御簾の奥で少しだけ沈黙した。

 

「……ならば、直ちにこれを逆心として咎める話ではあるまい」

 

 その言葉に、居並ぶ公家たちはホッと息をつきかけた。

 

 だが、帝はさらに冷たい声で続けた。

 

「されど。……星を帳面に記し、時を正確に測り、我らの暦の誤りを数学で見出す力を、江戸の武家が完全に握るならば」

 

「……いずれ、真の暦を定めるという朝廷の職分も、ただの形だけのものと成り果てかねぬ」

 

 会議の場に、息苦しいほどの緊張が高まった。

 

 *

 

 朝廷側は、江戸が今すぐ武力で造暦の権限を強奪しにくるとは考えていない。

 

 むしろ、近年の徳川は驚くほどに丁寧だ。

 

 以前発令された『禁中並公家中諸法度』も、朝廷を潰すというよりは、朝廷を武家の政争の道具にさせないための防壁としての名目が強かった。

 

 だからこそ、朝廷の抱く恐怖は、もっと別の次元──行政的な侵食に対する恐怖だったのだ。

 

「江戸が、我らから暦の権を奪うと、あからさまに申すとは思えませぬ」

 

 公家の一人が、苦渋の表情で言う。

 

「むしろ、江戸の者たちは必ず笑顔で言いましょう。『朝廷の権威を高く立てるため、我らが苦労して集めた観測結果を、献上いたします』と」

 

「……それ自体は、武家として極めて礼にかなった行いではありますな」

 

「だが!」

 

 暦道を司る家の当主が、悲痛な声を上げた。

 

「その、江戸が差し出してくる観測の帳面がなければ、我らが正確な暦を作れぬという事態に陥れば、どうなりますか!」

 

 沈黙。

 

 それこそが、この問題の最も恐ろしい本質だった。

 

 暦を定めるのは朝廷。

 

 その名目だけは残る。

 

 しかし、その基礎となる膨大な星の観測データは、江戸が集める。

 

 数理の計算方法や最新の南蛮書物は、江戸の公儀御書物蔵が独占する。

 

 正確な天体望遠鏡や測量器具も、江戸が持つ。

 

 ならば。

 

 朝廷の神聖な職分は、実質的に、江戸が差し出してくる資料に完全に依存し、それに判を押すだけの機関へと転落してしまうことになる。

 

 徳川は、悪意で強引に奪うのではない。

 

 ただ、合理化と朝廷への支援という美しい名目のもとに。

 

 なし崩しに、職分の実態だけが江戸へと移っていくのだ。

 

「……奪うと言わずとも。……奪われることは、ある」

 

 帝の、その重い一言が、朝廷が抱く恐怖の全てを代弁していた。

 

 *

 

 ここで、皮肉なことに、最近朝廷が大いに誇りにしていた公家文書御用の成功が、逆に見届けの必要性を強く後押しすることになった。

 

 公家文書御用に出た公家たちは、江戸で実際に重用されている。

 

 法文の文言調整。

 

 朝廷への返書。

 

 銀台帳の用語統一。

 

 南蛮書物の清書や抄訳の補助。

 

 徳川幕府は、公家の文書能力を極めて高く評価し、実務の中枢に組み込んでいる。

 

 それは、朝廷にとって誇らしいことだ。

 

 だが同時に、江戸の行政システムを、公家が内側から支え、取り込まれているということでもある。

 

「……我らがすでに、江戸へ数多の人材を出している以上。江戸の星見の事業にも、ただ献上を待つのではなく、朝廷の目を直接入れるべきではありませぬか」

 

 実務に通じる公家が提案する。

 

「それは、決して江戸を疑うという悪意ではなく。我らの職分を守るための、当然の見届けにございます」

 

「左様。江戸が真に、朝廷の暦を侵さぬと申すのであれば。朝廷の者がその観測のそばに立ち、共に星を見ても、江戸側が困ることはありますまい」

 

 帝は、静かに頷いた。

 

「……見張り、という言葉は強すぎる。波風を立てるべきではない」

 

 公家たちが、ハッとして平伏する。

 

「だが……見届けは、絶対に必要であろう」

 

 方針は決まった。

 

 朝廷は、江戸へ追加の公家を派遣する。

 

 名目はあくまで、公家文書御用の増員と、南蛮書物への協力。

 

 だが、その中に、暦道、陰陽、天文に通じる若き秀才を忍ばせる。

 

 江戸の観測記録の様式作成に直接関与し、観測結果は必ず京へも同時に写しを送らせるよう、内側から楔を打ち込むのだ。

 

 *

 

 方針が決まれば、次は江戸の公儀へどう確認の書状を送るか、という公家の最も得意とする文言調整の地獄が始まった。

 

 朝廷としては、「お前たち、江戸で勝手に星を見て、朝廷の暦の権限を奪う気か」などと、野暮で喧嘩腰なことを直接聞くわけにはいかない。

 

 しかし、何の牽制もしなければ、江戸の都合のいいように既成事実化されてしまう。

 

「最初の案は、こうでいかがか。『江戸における天体観測は、禁裏の造暦権を侵すものではないか』と」

 

「直截すぎるわ! 武家の面子を潰し、角が立つ。却下じゃ」

 

「では、『天文観測の趣旨につき、朝廷へ詳細を奏上されたい』では?」

 

「まだ硬い。公儀を一方的に咎めているように読める」

 

 何十回という推敲と激論の末、彼らがひねり出した完成形の文面は、このようなものだった。

 

『近頃、江戸にて南蛮天文の書を用い、星の運行を記す由、京へも聞こえあり。暦は古来より、禁裏の重き職分に候えば。……江戸における観測の趣旨、ならびに記録の扱いにつき、念のため、伺い置きたく候』

 

 完璧な文章だった。

 

 江戸を一切責めていない。

 

 だが、「暦は朝廷の絶対の職分である」という事実は、岩のように重く明記している。

 

 その上で、江戸の意図の説明を求め、全体を「念のため」という極めて柔らかい真綿で包み込んでいるのだ。

 

 *

 

 場面は変わり、江戸城。

 

 勘定方や御異物改方の仕事に追われる俺のところへ、大御所様からの呼び出しがかかり、小評定の間に急行した。

 

 そこには、家康、秀忠、竹千代、本多正純、そして天海が揃っており、正純の手には、京から届いたばかりの雅な和紙の書状が握られていた。

 

 俺は、その文面を見せられ、内心で盛大にため息をついた。

 

 来た。

 

 ……ですよね。

 

 そりゃ来ますよね。

 

 江戸が突然、南蛮の最新の天文学書を集めて星を測り始めます、でも暦は絶対に作りませんから安心してくださいね、なんて言われても。

 

 朝廷からすれば、「嘘つけ。絶対裏でなんか企んでるだろ」ってなるに決まってる。

 

 しかも、この文面。

 

 柔らかい。

 

 すっごく柔らかい雅な文章だけど。

 

 ……笑顔のまま、首元にめちゃくちゃ鋭い釘を突きつけられている。

 

「思ったよりも、早く来たな」

 

 家康が、楽しそうに喉を鳴らした。

 

「当然でございます、大御所様。暦は朝廷の最も重き神聖な職分。これを軽んじて武家が勝手に踏み込めば、公儀が自ら定めた『禁中並公家中諸法度』の趣旨そのものに反することになります」

 

 秀忠が、法を司る将軍として厳格に言う。

 

「江戸が実地で観測し、京がそれをもとに暦を定める。……その分担を、明確にせねばならぬな」

 

 竹千代が、冷静に大局を整理した。

 

「ここで一歩対応を誤り、言葉を濁せば……京の不信は取り返しのつかぬほどに深くなりましょうぞ」

 

 天海が、静かに警告する。

 

 俺は、一人称を「私」にして即座に答えた。

 

「大御所様。この懸念は、初めから承知済みにございます。……朝廷の不安を払拭するため、即座に、明確な返答を出すべきです」

 

 俺たちがその場で取りまとめた、江戸側の返答内容はこうだ。

 

 一、江戸は、独自の暦を決して作らない。朝廷の造暦権を、どこまでも重んじ尊重する。

 

 二、江戸、長崎などで取った観測記録は、全て京へ献上する。

 

 三、公儀が星を観測する目的は、あくまで航海の安全、土地の測量、時刻の管理といった実学の範囲に限る。

 

 四、観測様式の策定にあたり、朝廷より適任の公家を派遣していただければ、江戸はこれを大いに歓迎する。公家文書御用の一環として、星見の記録の文言と様式を、朝廷と共に整えたい。

 

 家康は、その返答案を聞いて、老獪にニヤリと笑った。

 

「よいではないか。……朝廷が、わしらの星見を見届けたいと申すなら。堂々と、特等席へ来てもらえばよい」

 

「はい。見張りを門前払いして外から疑心暗鬼の目で見られるより、制度の内側に入ってもらった方が、公儀としてもはるかに安全です」

 

 俺が言うと、竹千代が深く頷いた。

 

「……先日の、ローマ側を南蛮書物の判定者として引き込んだのと同じ手法だな」

 

「はい、兄上。外から『奪う気だろう』と疑われるくらいなら、内側へ引き込んで、一緒に面倒な帳面を書いてもらう方が、絶対に文句は出ません」

 

「敵にしないために、あえて共に筆を持たせる。……誠に、血を流さぬ良き手にございますな」

 

 天海が、数珠を擦りながら感心したように微笑んだ。

 

 *

 

 数日後。

 

 京の朝廷へ、江戸からの返答が届けられた。

 

 その内容は、公家たちが驚くほどに、腰が低く、かつ極めて丁寧なものであった。

 

「……江戸は、こちらの懸念を全て承知しておるようですな」

 

 返書を読んだ公家の一人が、安堵の息を漏らした。

 

「造暦権は朝廷にあると明記し、独自の暦は作らぬと断言しておる。……少なくとも、今すぐ武力で暦を奪い取るような荒っぽい意図は、見えませぬ」

 

「むしろ、こちらの者を、江戸の観測記録の立ち上げに直接加わってほしいと、向こうから歓迎してきておるではないか」

 

 公家たちは、江戸の素早い対応と、朝廷の面子を立てる姿勢に、一応の安心を得た。

 

 だが。

 

 彼らは、完全には安心しきれなかった。

 

 御簾の奥で、帝が静かに言った。

 

「……江戸の公儀は、今すぐ我らに何か刃を向けるような相手ではない」

 

 一同が、重く頷く。

 

「だが。……あまりにも手際が良く、あまりにも丁寧だ。だからこそ、恐ろしい」

 

「なし崩しに、我らの職分が彼らの帳面の中へと移っていく懸念は。……何一つ、消えてはおらぬ」

 

 それが、朝廷側の偽らざる本音だった。

 

 乱暴に実力で奪おうとする相手なら、大義名分を盾に拒むことができる。

 

 だが、「献上します」「支援します」「共同で記録しましょう」「公家様のお知恵をお貸しください」と、低姿勢で真綿で首を絞めるように進んでくる相手に対しては、どこからが協力で、どこからが侵食なのか、その境界線が全く見えないのだ。

 

 *

 

 朝廷は、結論を下した。

 

 江戸幕府は、今すぐ朝廷の暦を奪う意図はない。

 

 だが、江戸が観測のデータと記録の様式を完全に独占すれば、長期的には朝廷の職分が空洞化する恐れがある。

 

 よって、朝廷は公家を江戸へ追加で送り、星見の帳面作りに直接関与する。

 

 これは決して野暮な見張りではない。

 

 神聖な職分を守るための、雅な見届けである。

 

「……星は、武家のものでも、公家のものでもない」

 

 帝の静かな声が、座敷に響き渡った。

 

「されど、星を読み、暦を定め、民の生きる時を整える職分は、古より我ら朝廷にある。……江戸の公儀がそれを重んじ、立てるというのであれば。我らも、江戸の星の観測を無闇に退ける必要はない」

 

「ただし。……武家が、文と礼の道を決して外れぬよう。……江戸の空に、しっかりと目は入れよ」

 

 ははぁっ、と公家たちが一斉に平伏した。

 

 敵対はしない。

 

 協力する。

 

 だが、決して油断せず、見届ける。

 

 それが、江戸の強大な実務システムに対する、朝廷のギリギリの生存戦略だった。

 

 *

 

 そして。

 

 京から江戸へ、追加派遣される公家たちが選抜され、出発の準備が整えられた。

 

 表向きの名目は、公家文書御用の増員と、南蛮書物の翻訳支援。

 

 だが、その中には、土御門家に連なる、若いながらも暦学と陰陽の秘術に深い知見を持つ学者肌の公家。

 

 そして、広橋家筋の、公文書の実務処理とタフな交渉に極めて長けた公家が、朝廷の目としてしっかりと忍ばせられていた。

 

 彼らは、内心に複雑な重圧を抱えながら、荷造りをしていた。

 

 徳川の資金援助はありがたい。

 

 公家が重用されるのも誇らしい。

 

 ……だが、決して油断はできない。

 

 江戸の者たちは、武力で血を流すのではなく。

 

 あの恐ろしい帳面で、世界の理を全て塗り替えようとしている。

 

 その帳面が、ついに我らの頭上の星にまで伸びようというのなら。

 

 京の朝廷は、その恐るべき筆先を、すぐそばで見届けねばならないのだ。

 

 こうして、京の都から。

 

 朝廷の目と筆を携えた公家たちが、夏の東海道を、再び江戸へと向かって下っていくことになった。

 

 田んぼの小さな水口の泥を掻き出すことから始まった、国松の果てしない帳面は。

 

 ついに、地上の港や城を越え。

 

 ……京の朝廷が司る、神聖なる天の星の領域へと、静かに、しかし確実に届き始めていたのである。

 

 




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