暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和二年の冬。
京の都は、身を切るような底冷えの季節を迎えていた。
だが、朝廷の中心である禁裏の空気は、かつてないほどに明るく、確かな熱を帯びていた。
その熱の源泉の一つは、江戸へ派遣した『星見の公家衆』──土御門家と広橋家に連なる者たちから届いた、最新の密書であった。
「……江戸は、独自の暦を定める気はないと。公の文言として、確かにそう記してきおったか」
御簾の奥で、後で言われる後水尾天皇が静かに問うた。
「はい。星の観測記録は、あくまで京へ献上する素材に留めると。……広橋筋の者が、朝廷提出用の公式な文言を、江戸の若君と膝を交えて直接整え、その言質を確かに取りました」
公家の代表が、恭しく平伏して答える。
「暗箱写しや遠見筒といった南蛮の観測器具も、決して我らから隠すことなく、土御門の若き者をその観測の場へ堂々と招き入れております。……少なくとも、今すぐ武力で朝廷の造暦権を強奪しようというような、乱暴な動きはございませぬ」
だが、公家たちは安堵の表情を見せながらも、声の端に深い警戒の念を滲ませた。
「されど……江戸のあの若君の実務を回す力と、全てを吸い込む帳面の吸引力は、誠に恐ろしきものにございます。土御門の者も、いつの間にか江戸の星見の様式作りにどっぷりと取り込まれ、日夜帳面を書き続けているとか。……油断すれば、実務の中身だけが、なし崩しに江戸へ移りかねませぬ」
帝は、静かに頷いた。
「……暦のことは、まだ完全に安心とはゆかぬか。だが、江戸が我らの面子を立て、協調の姿勢を見せている以上。……今ここですぐに疑心暗鬼となり、角を突き合わせるべきではない。ひとまずは、慎重に注視を続けよ」
完全な安心ではない。
だが、決して敵対もしない。
それが、圧倒的な力を持つ徳川政権に対する、朝廷の現実的で、最も賢明なバランスの取り方であった。
*
禁裏の空気を温めている、もう一つの、そして最大の要因。
それは、今年も江戸から届けられた、膨大で目を見張るような献上品の山であった。
「……また、増えておるな」
公家の一人が、うずたかく積まれた献上品の目録を見て、驚きに目を見開いた。
透き通るような白米。
最高級の餅米。
冬を越すための干し大根や干し芋、南瓜などの豊かな保存食。
さらには、禁裏や京の街の修繕のための上質な材木と大量の銭。
公家の家職に欠かせない極上の和紙、墨、筆。
珍しい南蛮の薬種。
そして、厳しい京の冬を温めるための、上等な炭。
「……秋に、一部の国で大雨による水害があったと聞いておったが。……水に削られてなお、これほどの厚さの献上が届くとは」
「ええ。徳川が強引に進めたという水土の御用と田法の改革……水争いをなくし、泥を掻き出し、蔵を建てるというあの実務が、いかに日ノ本の田んぼに恐るべき効果をもたらしているか。この米の量が、何よりの証左にございます」
帝は、御簾の奥で、献上品の白米そのものよりも、その背後にある天下の安定を見ていた。
米が増える。
米が増えれば、商人が動く。
商人が動けば、この京の都にも物が入り、金が回る。
物が入れば、禁裏も公家も、そして貧しかった町も、少しずつだが確実に息を吹き返す。
かつての戦国の世は、武士の振るう血塗られた刀が天下を動かしていた。
だが、今は違う。
泥にまみれた米こそが、泰平の世の天下を静かに、しかし力強く動かしているのだと、朝廷は確かに実感し始めていた。
*
事実、豊作の波と、公儀が進めた街道や橋の普請の効果で、京周辺の商いは目に見えて活発になっていた。
京の町には、米を扱う商人、保存食を運ぶ荷駄、公家文書御用の隆盛を見越して上質な紙や筆を売り込む商人たちが、ひっきりなしに出入りしている。
大坂の商人もまた、米の集散と船運、商人同士の金融を巧みに操り、巨万の富を生み出しながら、京への物資供給をスムーズに支えていた。
「大坂の商人どもは、戦が終われば終わったで、米と蔵と船を使って、実にしたたかに儲けるものですな」
公家の一人が、半ば呆れ、半ば感心したように言う。
「戦の槍が減って、代わりに米俵と帳面が天下を行き交う。……これもまた、徳川がもたらした泰平の姿なのでしょう」
さらに、京の町そのものも、近年少しずつ美しく変化し始めていた。
江戸から寺社を通じて緩やかに広まった、
『身を清めよ』
『水を汚すな』
『井戸の周りを清く保て』
『屎尿を道へ捨てるな』
『火除け地を保て』
という、衛生と清掃の教え。
それが、思いのほか民の生活に浸透し、京の通りの泥や汚物が減り、水路の悪臭が消え、病の広がる頻度が明確に下がり始めていたのだ。
「武家の泥臭い実務と、寺社の説法が上手く噛み合うと。……都の姿も、こうも変わるものなのですな」
公家たちが感嘆する。
帝も、その報告を静かに受け止めていた。
都が清く美しく保たれることは、朝廷の神聖な尊厳にも直結する。
徳川の力で京が整えられていくことへの警戒心はある。
だが、荒れ果て、病と死臭に満ちていたかつての都よりは、はるかに良い。
*
そして、帝の耳には、地方の民草たちの、ささやかながらも確かな喜びの声が届いていた。
「……田法の効きました村々では。秋の祭りや婚礼、子の誕生の祝いの日に、貧しい農民たちも真っ白な白米を炊いて、神仏に感謝の涙を流していると聞きます」
地方の荘園の様子を知る公家が、少し目を細めて報告する。
「普段は、江戸からの強いお触れにより『足が弱るゆえ、麦や雑穀、糠を必ず混ぜて食え』と厳しく指導されておりますが。……祝いの晴れの日だけは、雪のように白い飯を腹いっぱい食べて、皆が泰平の喜びを噛み締めているとか」
白米は、豊かさの象徴だ。
それが、長年泥水をすするようだった民草の口にまで、ようやく届き始めている。
帝は、その報告を聞いて、深く、静かに頷いた。
「……白き飯を。祝いの日に、民が口にできるようになったか」
「はい。これもまた、徳川の田の政の賜物にございましょう」
「だが」
と、帝は少し不思議そうに口を開いた。
「江戸は、民を豊かにする一方で……白米ばかり食えば足が弱ると、その豊かさの毒をひどく恐れ、戒めているのだな」
「左様にございます。祝いの席は許すものの、日常の食には必ず麦や糠を食せと、口すっぱく養生訓を寺社経由で流させております」
「……豊かにするだけでなく。豊かさがもたらす害までを、先に恐れ、帳面で縛って防ごうとするか」
帝は、嘆息した。
「……それは、並の為政者にできることではないな」
ただ力を誇示して奪うのではなく。
民を生かし、豊かさを与え、そしてその豊かさがもたらす病すらも、事前に管理しようとする。
徳川の政の真の恐ろしさと、そしてその深さを、朝廷は確かに感じ取っていた。
*
そんな中、江戸の公家文書御用の者たちから、少し風変わりで面白い噂が、京へともたらされた。
「……江戸にて。徳川の竹千代君が、この冬の奉納相撲を大々的に取り仕切るらしいぞ」
「相撲、だと?」
「うむ。ただの力自慢の喧嘩ではない。力士の身元を公儀に登録させ、師匠となる親方役を置き、賭博や乱闘を厳しく禁じた上で。……勝敗を正確に記録し、強い者を大きな字で書き記した番付表なるものを作るらしい」
公家たちは、最初その話を聞いて、思わず上品に吹き出した。
「相撲の力比べにまで、わざわざ細かい帳面と順位表を作るとは! 江戸の者たちは、本当にこの世の何でも帳面にせねば気が済まぬのだな」
だが、その報告の続きを聞いていくうちに、彼らの顔から笑みは消えていった。
「……ただの遊びではない。大名や大商人が、強い力士を抱え、育成することで己の名誉を競うように仕向けるそうだ。……血の流れる戦ではなく、血の流れない興行の場へと、武士の余った力を流し込む気だ」
「さらには、相撲を見る木戸銭の一部を、寺社の修繕や橋の普請、水害地の救荒米の資金へ回す仕組みまで整えているとか」
「……なんと。遊びに見せかけて、武家の暴発を鎮め、金と人の流れを公儀の帳面に載せる政か」
「……いかにも、江戸らしい、恐るべき合理の策よ」
帝は、御簾の奥で少しだけ楽しそうに目を細めた。
「相撲の、番付か。……まこと、泰平の世の匂いがするのう」
*
朝廷側で、ひとつの数字が改めて話題に上った。
元和二年の、現在の徳川の次世代の若君たちの年齢である。
「……竹千代殿は、まだ数えで十三にございますな」
「国松殿に至っては、数えで十一」
公家の一人が、信じられないというように首を振った。
「たった十三と十一の童たちが。……米の蔵を作り、港の銀を管理し、南蛮の書物を分類し、星の記録を取り……ついには、武家の力を鎮めるための相撲の興行まで、己の手で動かしておるのか」
もちろん、実務の背後には、家康や秀忠、本多正純といった老練な大人たちの強力な支えがあることは分かっている。
だが、それでも、次代を担う二人の若君の存在感が、これほどまでに巨大になりつつある事実は、朝廷にとって無視できないものだった。
「……徳川の童らは。実に、よく育っておるな」
帝が、静かに言った。
「徳川の天下は、もはや磐石。ならば……その次代を担う彼らが、どのような器に育つかは、我ら禁裏にとっても、国の存亡に関わる極めて大きなことにございます」
公家の言葉に、帝は深く頷いた。
「楽しみでもあり……そして、恐ろしくもあるな」
帝のその一言には、泰平を喜ぶ心と、あまりにも有能すぎる徳川の次代に対する、抜き差しならない警戒の双方が、色濃く込められていた。
*
帝が、ふと、思いついたように口にした。
「……竹千代と、国松。……一度、この目で、直に見てみたいものだ」
その言葉に、座敷の空気が一瞬だけピクリと緊張した。
帝が、東の武家の若君に直接「会いたい」と口にする。
それは、政治的に極めて重い意味を持つ。
「……今すぐ、彼らを京へ召すことも、決して不可能ではございませぬ」
公家の一人が、慎重に言葉を選ぶ。
「徳川は禁裏の面子を厚く立てておりますし、江戸も朝廷との関係を重んじております。名目を整えれば、喜んで上洛させましょう」
「されど」
広橋筋に近い、実務に長けた公家が諫めるように言った。
「二人は、まだ元服前の童にございます。ことに国松殿は十一。……あまりにも早く、禁裏と直接結びつけるような動きを見せれば、周囲の大名や寺社が、余計な政治的意味を読み取り、無用の波風が立ちましょう」
「やはり。彼らが元服を迎えるか、あるいは将来の明確な節目を待って、公式な儀礼として整えるのが、最も穏当かと存じます」
帝は、その現実的な意見に静かに頷いた。
「……そうか。ならば、急ぐことはない」
今はまだ、彼らは江戸で学ぶべき時であろう。
帝は、少しだけ面白そうに微笑んだ。
「徳川の天下が、このまま無用な戦乱を遠ざけ、京の都と、日ノ本の民を潤し続けるならば。……いつか、あの童らに、穏やかな顔で会う日も来よう」
そして、柔らかな声で続ける。
「その時は。……竹千代には、あの相撲の番付の熱気の話でも、ゆっくりと聞いてみることにしようか」
その言葉に、張り詰めていた公家たちの顔も、少しだけ和らいだ。
*
最後に、朝廷としての現状の最終的な評価が下された。
献上は厚く、京は美しく整い、公家文書御用で公家の職能は重んじられ、民は祝いの日に白米を食べて涙している。
そして、最も警戒していた暦の問題においても、江戸は今のところ、朝廷の面子を立てて一歩引いている。
帝は、御簾の奥から、遠く東の江戸の方角を見つめて言った。
「……徳川は。今のところ、まことによくやっておる」
そこで一度、静かに間を置く。
「だが。……よくやっておるからこそ。我らは決して、彼らから目を離してはならぬのだ」
それは、ただの徳川への手放しの称賛ではない。
誇り高き朝廷としての、自らの職分を守り抜くための、冷徹で主体的な評価であった。
*
冬の京。
禁裏の庭に、冷たい木枯らしが吹き抜けていく。
帝は、静かに目を伏せた。
遠い江戸では今頃。
巨大な米蔵が建ち並び、冷たい夜空の星が帳面に記録され、南蛮の灰色本が泥臭く翻訳され、外国商人が監視の網の目の中で算盤を弾き、そして、武士たちが熱狂する冬の相撲番付が作られているのだろう。
徳川の童たちは、まだ幼い。
だが、その幼さの向こうに。
すでに、次の泰平の世の巨大な輪郭が、くっきりと見え始めている。
それが、朝廷にとって真の福となるのか。
それとも、帳面による静かな侵食となるのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ、確かなのは。
血で血を洗う戦乱に荒れ果てていたこの世が。
……少しずつ、豊かな米と、精緻な帳面と、そして民の明るい遊びの声によって、満たされ始めているということだった。
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