暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
江戸の冬。
城下の特設相撲場で民草の熱気が渦巻く中、江戸城の奥深く、厳重に人払いされた一室では、極めて静かで、しかし張り詰めた空気の『水鏡会談』が執り行われていた。
参加者は、家康、秀忠、竹千代、俺。そして宗門と法を司る天海と崇伝。
水鏡の向こう、地球の裏側の石室には、ローマ教皇パウロ五世と、ごく少数の枢機卿たちが顔を揃えている。
初期の会談において、ローマ側は『禁教令の通達』と『水鏡という超常の奇物』を突きつけられたことへの、強烈な警戒と屈辱に満ちていた。
だが、月例の会談を重ね、日ノ本が南蛮の医学書や天文学書を『灰色本』として慎重に判定し、実務的な交流の仕組みを整え始めている様子を見るにつれ、彼らの態度は明確に変化しつつあった。
「……我らローマは、これまで貴国・日ノ本を、東の果てにある、遠き異教の島国としてしか見ておりませんでした」
パウロ五世は、静かな、しかし深い洞察を含んだ声で語り始めた。
意味補正の理によって、その言葉は俺たちの耳に正確なニュアンスで届く。
「ですが、この水鏡を通じて語り合うほどに……貴国が単なる未開の地ではなく、極めて独自の秩序と、強固な法と、長き歴史を持つ『強国』であることを、理解せざるを得なくなっております」
(……ローマ教皇が、日ノ本という国そのものの『構造』を、真剣に知ろうとしている)
俺は内心で、その変化の大きさを噛み締めた。
これは、ただの布教の対象や、異端の弾圧者として見ているのではない。
対等の、あるいは一目置くべき『交渉相手』として見始めている証拠だ。
*
「近頃、貴国ではどのような事があっておられますか」
パウロ五世が、日本の内情を尋ねてきた。
家康は、少しだけ口元を緩め、隣の孫へ視線を振った。
「近頃は、この竹千代が、冬の『奉納相撲』というものを大々的に取り仕切っておる」
竹千代は姿勢を正し、水鏡の向こうの教皇へ向けて、ハキハキと説明を始めた。
「相撲とは、日ノ本の古き力比べであり、神仏への奉納の儀式にございます」
「ただの喧嘩ではありません。確かな礼と型があり、公儀の許可制のもとで、力士の身元を登録し、賭博を禁じ、医師を置き、勝敗を正確に帳面に記録しております。……武士や大名の力と名誉欲を、血の流れる戦場ではなく、土俵の上での『勝負』へ向けるための試みにございます」
「民草も、安い木戸銭で大いに見物して笑い、そして集まった銭の一部は、寺社の修繕や、橋の普請、飢えに備える救荒米の資金へ回る仕組みとなっております」
パウロ五世は、最初は少し困惑したように眉を寄せていた。
「……力士と呼ばれる大男たちが、神仏の御前で身体を激しくぶつけ合い、民が熱狂の歓声を上げる……。それは、形を変えた『戦争』なのではないのですか?」
「戦ではございませぬ」
竹千代は毅然と答えた。
「相手の命を殺すためではなく、己の鍛え抜かれた力と技を、公の場で示すための勝負にございます。……勝っても、負けても、最後には必ず互いに『礼』を尽くす。その礼法を崩せば、それはただの野蛮な乱暴者に過ぎませぬ」
その答えに、パウロ五世の目が、微かに見開かれた。
「……武器を持たぬ戦を、戦にしないために、厳格な『礼』と『法』で囲い込む……」
「なるほど。貴国の若き君は、実に見事なことをお考えになる」
(……兄上、すげぇ。ローマ教皇相手に、普通に相撲の興行システムのプレゼンをしてる)
俺は内心で舌を巻いた。
(でも、これが教皇の心に意外と刺さっている。キリスト教圏でも血みどろの宗教戦争や王家同士の争いが絶えない時期だ。……『力を持て余した武装勢力の暴発を、別の興行の場所へ流してガス抜きする』という高度な統治の仕組みは、為政者である教皇にとって、普通に興味深いんだろうな)
*
相撲の話で少し空気が和らいだところで、パウロ五世は、以前から疑問に思っていたであろう『日ノ本の権力構造』の核心を突いてきた。
「我らには、一つ不思議でならぬことがあるのです」
教皇の眼差しが、家康へと向けられた。
「貴国には『帝』と呼ばれる古き御方がおられ、同時に、あなた方徳川家のような『将軍』がおられる。ローマの目から見ると、霊的な権威と、世俗の権力が、極めて奇妙な形で重なり合っているように見受けられます」
「徳川家は……その帝という御方と、どのように向き合っておられるのですか」
座敷の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
これは、下手な答え方をすれば、日本側の内政の弱点や、朝廷への不敬を露呈しかねない、極めて重要な外交的質問だ。
家康は慌てることなく、ゆっくりと、そして極めて慎重に言葉を選んだ。
「日ノ本の帝は。……我ら武家が、力任せに挿げ替えられるようなものではない。古き文と礼、暦と官位、そして祈りの中心におわす、尊き御方じゃ」
「されど」
家康は、戦乱の世を生き抜いた重みを声に乗せた。
「乱世において、刀を持つ武家が、己の都合で勝手に帝の『名』を借りれば。……朝廷そのものが、血で血を洗う戦の『道具』となり果ててしまう。それは、この日ノ本を地獄の底へと落とす火種となる」
「……ゆえに。我ら徳川は、朝廷の神聖な職分を守るためにも、武家が無闇に朝廷へ近づき、利用することを、厳しく法で戒めておる。……それが、我ら徳川と朝廷の、長き歴史の末の『均衡』の姿じゃ」
(大御所様、パーフェクトだ……!)
俺は、内心で快哉を叫んだ。
(『禁中並公家中諸法度』のような朝廷への縛りを、「完全支配のため」と乱暴に見せず、あくまで「朝廷を戦乱の道具から守るため」「古い権威と世俗権力の難しいバランスのため」という、高度な政治的防壁として説明しきった!)
パウロ五世は、ローマ教皇という立場だからこそ、その家康の言葉の裏にある『苦しみ』を深く理解したようだった。
神聖な宗教的権威が、世俗の王家の軍事的な都合で利用され、戦の大義名分にされてしまう危険。
それは、まさに欧州の歴史そのものであり、ローマ教皇庁が常に直面している現実の問題だからだ。
「……神聖な権威を、世俗の剣が己の都合で用いることを、法で防ぐ……」
パウロ五世は、深く頷いた。
「その苦しみと均衡の難しさは。……我らローマにも、痛いほどによく理解できます」
(……よし。ローマ教皇が、朝廷と幕府の複雑な関係性を、少しだけ正しく理解してくれた。これは、今後の外交においてめちゃくちゃ大きいぞ)
*
互いの国の統治について理解を深めたところで、パウロ五世が、自らの足元であるローマ周辺、および欧州の『近況』について語り始めた。
だが、その内容は、決して穏やかなものではなかった。
「……今年。欧州の多くの地域で、過去百年で最悪とまで言われるほどの、記録的な『猛暑』と『大干ばつ』がございました」
教皇の声に、重い疲労が滲む。
「雨が降らず、川の水位は恐ろしいほどに下がりました。その結果、運河や河川による穀物の輸送船が全く動かず、水車も止まりました。……秋を迎え、都市の市場では、小麦やライ麦の値が恐ろしい勢いで跳ね上がっております。パンの価格の高騰は、貧しき庶民の生活を直撃し、日々の糧を奪っています」
「さらには」
教皇は顔を曇らせた。
「干上がり切った川の底から、過去の大飢饉の年を刻んだ古い石……『飢餓石』が顔を出したという報告が、各地から相次いでおります。民はそれを、神の怒り、不吉な徴と恐れ、ドイツ諸邦の宗教対立の不穏な噂と相まって、人々の心にはかつてない不安が渦巻いております」
『ちょっと補足するわね』
俺の視界の端で、KAMI様が真剣な顔で現れた。
『この時代の欧州は、現代と違って、川と運河の水運が生命線なのよ。穀物、薪、塩、ワイン、建材。……それらを運ぶ大動脈なの。だから、水位が下がって船が動かない、粉挽きの水車も回らないってことは、都市部の食料供給システムが完全に停止するってこと』
『欧州の主食はパンよ。小麦、ライ麦、大麦。……収穫量が落ちて、輸送も止まれば、秋から冬にかけて都市の市場が直撃を受ける。十一月頃には穀物価格が爆発的に跳ね上がって、庶民は飢餓状態に陥り、一気に暴動や戦争の火種に火がつくわ』
(うわぁ……。欧州、普通に『食料危機』の真っ只中じゃないか)
俺は、背筋が寒くなるのを感じた。
(三十年戦争の勃発まで、あとたったの二年。……その前夜のタイミングで、気候不順による大干ばつと穀物価格の高騰。……これ、火薬庫に大量の油を注いでるのと同じだぞ!)
家康も、その話を聞いて、表情を厳しく引き締めた。
「……土地は違えど、食い物の苦しみは変わらぬか」
「米であれ、麦であれ。……民の腹が空けば、いかなる強国であろうと、必ず根底から揺れる」
秀忠も、重く受け止める。
「穀物の値が不当に上がり、輸送が滞れば、必ず都市の治安も悪化いたしましょう。……それは、統治者にとって最も恐るべき事態にございますな」
竹千代は、先程までの相撲の熱気の話から一転して、リアルな食料と治安の地獄の話になり、緊張で身を強張らせていた。
*
だが、真の地雷は、その直後に埋まっていた。
「……もう一つ」
パウロ五世が、少し思案するように、静かに問いかけてきた。
「貴国が、南蛮の天文学の書を熱心に集めていると聞いたからこそ。……日ノ本の若君の知見を、伺っておきたいことがあります」
「近頃、欧州の学問の世界では。……『太陽』と『地』の動きについて、古き説と、新しき説が、激しく争われております」
「ある者は、これまでの常識を覆し、『地が動き、太陽が世界の中心にある』と語っております」
「……これについて。貴国の若き水神の君は。……どのようにお考えか」
ピィィィィィィィィィィィン!!
その瞬間。
俺の網膜の端末画面が、全面真っ赤な『最上級アラート』で埋め尽くされた。
【警告:『地動説』の是非への明言は、ローマ教皇庁の神学的権威に致命的・重大な影響を及ぼします】
【警告:日ノ本の朝廷の造暦権、陰陽道、暦道への波及・破壊リスク極大】
【警告:未来知識の露呈による、科学史への異常干渉リスク極大】
【警告:宗教秩序・学問秩序・外交関係の『同時破壊』の可能性あり】
【推奨行動:断定の完全回避。実利・観測・長期探求の視点へ、全力で誘導せよ】
(来たあああああああああああああああ!!!!)
(今年最大級の、即死の地雷来たあああああああ!!!!)
俺は、内心で絶叫しながら、椅子から飛び上がりそうになるのを必死の腹筋で耐えた。
(地動説! ガリレオ・ガリレイ! 一六一六年の、ローマ教皇庁の第一回異端判決の直後の時期か!)
(これ、絶対に答えちゃ駄目なやつだ!! 『実は地球が回ってますよ、太陽が中心ですよ』なんて得意げに言った瞬間……ローマ教皇庁のメンツと教義が崩壊し、京の朝廷の暦道が爆発し、江戸の天文政策が全部まとめて木っ端微塵になる!)
『はーい、超特大地雷でーす。踏んだら宗教史と科学史がまとめて大爆発しまーす』
『ここで、後世の知識を使って賢そうな顔をして「正解」を言うのが、一番の馬鹿よ。……逃げなさい。全てを捨てて、全力で逃げなさい』
(分かってますよ!! ここで知識マウント取ったら、俺の首が物理的に飛ぶんだよ!)
(『私は天の真理を断じる立場にありません』作戦で、全力で回避します!!)
*
俺は、極限まで顔の筋肉を制御し、外向きの一人称「私」で、静かに、そして重々しく口を開いた。
「……法王猊下。私は、その『天の真理』を、断じる立場にはございません」
まず、自分に特別な知識や権威があることを完全に否定し、安全圏へと身を引いた。
そして、両者の『面子』を立てる。
「その問いの答えは。……京の朝廷において、古来より暦と星を司る神聖なる方々。そして、貴国の深き信仰を持つ神学者や、優れた学者たちが。……これから何世代もかけて、血を吐くような議論の末に、見極めるべきものでございましょう」
「天の理というものは、人一人、国一つが、軽々に『こちらが正しい』と断じてよいものではございませぬ。……長き観測と、幾代もの学びと、信仰と理性のすり合わせの中で、少しずつ見えてくるものではないかと存じます」
朝廷の造暦権を立てた。
ローマの神学者の権威も立てた。
その上で、俺は議論の軸を『実利』へと強引にずらした。
「私が、日ノ本の政を預かる者として、今見ているのは……その天の説が、真か偽かではございません」
「私が案じているのは。……今年の冬、民が飢えずに冬を越せるか。船がどう安全に海を渡り、飢えた者へ穀物をどう間違いなく届けるか。ただ、それだけにございます」
「天の中心が太陽であろうと、地であろうと。……神仏の理が消えるわけでも、明日の日ノ本の田んぼの水が止まるわけでもございませぬ」
「ですが。民の腹が空けば……どれほど『正しい天の説』を声高に唱えたところで、国は必ず乱れ、人は死にます」
「ゆえに。私は、天の議論よりもまず先に、民の飯と水を守るための『帳面』を書くことを考えます」
ピロッ。
端末の画面に、涼やかな音が鳴る。
【判定:危険回避成功】
【ローマ教皇庁権威毀損リスク:低下】
【朝廷造暦権侵害リスク:低下】
【未来知識露呈リスク:完全回避】
【総合:セーフ】
(よしっっ!! 切り抜けた!! アラート判定セーフ!!)
俺は、机の下で小さくガッツポーズをした。
『やるじゃない。見事な回避行動。……ちょっと成長したわね』
『昔のあんたなら、うっかり「あ、地球回ってますよ」とか言いかけて、世界を滅ぼしてたかもしれないもの』
(やめてください、怖いこと言わないでください! でも、サンキューKAMI様!)
*
水鏡の向こうで、パウロ五世は、俺の答えを聞いて、少しの間、深い沈黙に落ちた。
ローマ側の枢機卿たちも、日本の若君が地動説を肯定も否定もしなかったことに気づいている。
だが、教皇は決して怒らなかった。
むしろ、静かに、深く頷いたのだ。
「……貴殿は、自らの知恵を誇示するために、天の真理を軽々に売り買いすることはしないのですね」
「私に、その資格はございません」
「そして。……民の飯と水を守ることを、天の深き議論よりも、常に先に置く、と」
「少なくとも、政を預かる者の机の上では。……その順序にならざるを得ないかと存じます」
パウロ五世は、大きく、重い息を吐き出した。
「……確かに」
「今の我らローマにとっても。最も重く、恐るべき問いは……天の中心がどこにあるかではなく、『明日、民が市場でパンを買えるかどうか』なのかもしれません」
それは、神学者であり教会の頂点に立つ者としての顔ではなく、現実の都市と、飢える民を抱えた『統治者』としての、偽らざる本音の顔だった。
「信仰を守り、天の理を探求することは、我らの絶対の使命です。……だが。飢えた民は、天の神を恨む前に、まず地上の支配者を恨む。……その怒りの重さは、我らも痛いほどに知っております」
家康が、静かに、共感するように頷いた。
「……それは。米を食う国でも、麦を食う国でも。統治者の背負う業として、全く変わらぬようじゃな」
*
「日ノ本では、今年の作物はどうでありましたか」
ローマ側が、痛切な様子で尋ねてきた。
「こちらは麦が実らず、市場の穀物価格が恐ろしい勢いで上がっております。貴国では米が第一の糧と聞きますが、近年の気候の寒さや水害の害は、いかがですか」
家康が答える。
「日ノ本は、近頃は概ね豊作じゃ。国松の打った田んぼの策、水の手当、そして蔵の整備が、よく効いておる。米は、我が国の第一の命綱ゆえな」
だが、家康はただの楽観では終わらせなかった。
「されど。……古き者たちは、昔は何もせずとも、もっと豊作が多かったと語る。近年は、年々『底冷え』が増しておるようにも感じる」
「竹千代や国松が大人になる頃、この寒さがさらに続けば。……今のこの豊かな豊作も、いつまで続くか分からぬと、儂は恐れておる」
『はい、小氷期ね』
KAMI様が、冷酷な未来の事実を補足する。
『ざっくり言えば、まだまだ長ーく続くわよ。十九世紀半ばくらいまで、気候の不安定と飢饉のリスクは続くわ』
『でも、これを正直に教えたら、普通に絶望して諦めるか、気候を変えようとして無茶な生贄の儀式とかに走るか、どっちかになりかねないわね』
(幸先暗いなあああああ!! 小氷期、まだ何百年も続くのかよ!!)
俺は絶望でめまいがしたが、当然、その未来の年表を口にすることはしない。
「あと二百年以上、ずっと寒いです」なんて言ったら、全員の目が死んで政務がストップする。
俺にできるのは、未来の絶望的な年表を予言して怖がらせることじゃない。
目の前の、明日起きるかもしれない飢えを、少しでも減らす『帳面の仕組み』を作ることだけだ。
俺は、公的にこう答えた。
「近頃の寒さや水害は、日ノ本にとっても無関係ではございません。ゆえに、公儀では米だけに頼らず、麦や雑穀といった救荒作物の栽培、保存食の普及、蔵の分散、古米新米の厳格な入れ替え、そして水路の修繕を進めております」
「……日ノ本もまた。気候の残酷な揺らぎから、逃れているわけではないのですね」
「はい。神仏が護る国であろうと、田に降る雨と、川を流れる水と、蔵に入る米の量からは、決して逃れられませぬ」
俺の言葉に、パウロ五世は深く目を閉じた。
「……神の試練とはいえ。……飢えとは、誠に辛いものですな」
*
ここで、日欧の会談に、全く新しい『実務的な方向性』が生まれた。
これまでの水鏡会談は、禁教令、宣教師の扱い、書物の判定、医学や天文学といった『法と知識』が中心だった。
だが今回、ローマの干ばつ、穀物価格の高騰、運河の輸送停止の話を聞き、江戸側は大きな事実に気づいたのだ。
(……欧州の食料事情は、日本の『銀の流出』、貿易品の需要、そして戦争のリスクに直結している!)
穀物価格が上がれば、欧州の都市不安が増す。
宗教対立が過激化し、傭兵を雇うための軍需資金の需要が爆発する。
そうすれば、日本の銀を求める商人たちの動きが、さらに激しく、血なまぐさくなる。
技術書や薬種のような悠長なものではなく、即戦力となる『銀と武器』を求める圧力が、外国御用屋敷へ押し寄せてくるはずだ。
「……欧州の麦の値と、川の水位が。……遠き日ノ本の銀の流れにも、鋭く響くやもしれぬ」
家康が、鋭い視線で呟いた。
「世は、思ったよりも、恐ろしく狭いのう」
すかさず、本多正純が実務家として提案する。
「大御所様。ならば、欧州の作柄、穀物価格、河川の水位、運河の輸送状況、および都市の不穏な噂の情報を。……今後の水鏡会談の『定期の記録項目』に加えるべきかと存じます」
(……来た。また、俺の帳面が増える音がした……!)
だが、これは絶対に必要だ。
欧州の食料不安は、三十年戦争という巨大な火種に直結している。
日本の銀がどこへ流れるかを正確に読むには、欧州の『腹具合』を帳面で見張らなければならない。
ローマ側もまた、日本の『米の備え』に強い関心を示した。
「……貴国の救荒作物や、蔵の備蓄の制度は、我らにとっても大いに参考になるかもしれません。もちろん、土地も育つ作物も異なりますが。……飢えへの備えは、国を越えて等しく重いものです」
ここで、ローマは日本を『遠い異教の島』としてではなく、『飢饉対策の高度な知恵を持つ交渉相手』として、はっきりと見始めたのだった。
*
会談の終盤。
パウロ五世が、俺の先ほどの『地動説』への回答を、もう一度静かに振り返った。
「……天がどう動くか。それは、人類にとって誠に大きな問いです」
「ですが。……今、この冬。民が食べるパンがあり、貴国の民が食べる米があるか。……それもまた、我ら地上の統治者にとって、絶対に逃れられぬ、重き問いです」
「左様。天の理は、急いでも変わらぬ。……だが、飢えた民は、明日を待ってくれぬ」
家康が頷く。
「相撲場で歓声を上げる民も。……その腹が満たされていればこそ、笑えるのだと、近頃よく分かりました」
竹千代も、自分の見てきた景色と重ねて言った。
「米も麦も、形は違いますが。民の命を支える根幹にございます」
俺は、深く頭を下げた。
「そこを失えば。信仰も、学問も、政も。……すべてが、足元から崩れ去ります」
相撲で民が笑えるのは、米があるからだ。
米があるのは、水路を直し、蔵を建て、帳面を書いたからだ。
ローマで民が祈れるのは、パンがあるから。
パンがあるのは、麦が育ち、川が流れ、運河が機能し、市場が回っているからだ。
天の星の動きよりも。
俺は、足元の田んぼの泥を守る、ただの保守者なのだ。
*
会談が終わり。
自室に戻った俺は、机の前に座り、いつものように新しい白紙の帳面を並べた。
『水鏡月例会談・欧州近況控』
『欧州作柄并穀物価格聞書』
『河川水位・運河輸送不調報告控』
『飢餓石并凶作伝承聞書』
『天文論争取扱覚書』
『地動説関連・回答絶対禁止文例控』
『ローマ質問事項并返答控』
『日ノ本作柄・対外説明控』
『欧州不穏兆候・銀流出関連予測控』
(……地動説の地雷は、完璧に踏み抜かなかった。そこは、俺の完全勝利だ)
(でも、その代償として。……欧州の干ばつの状況、穀物価格の推移、川の水位、運河輸送の遅れ、飢餓石の不吉な噂、宗教不穏の兆候、それに伴う銀の流れの予測まで、全部俺の帳面に入ってきたぞ!?)
(……結局、特大の地雷を華麗に避けても、帳面の絶対量が増えるという結果からは、絶対に逃げられないのか! この世界、どの選択肢を選んでも『帳面の地獄』に収束するバグが起きてるだろ!)
『特大の地雷を踏んで世界を滅ぼさなかっただけ、偉いじゃない』
『それに。「天の真理を語らず、民の飯へ議論を戻す」。……かなり、『保守者』としての顔つきが板についてきたわよ、あんた』
(褒めてくれるのは嬉しいんですが、せめて帳面を一冊くらい減らしてくれませんか?)
『無理。帳面は、あんたの徳そのものよ』
(それ、徳じゃなくて『呪い』では?)
俺は、深く、深くため息をついた。
冬の江戸の夜。
窓の外では、まだ相撲の熱気の余韻が、町の中に微かに残っているように感じられた。
だが、俺の机の上には、遠い欧州の干ばつと、地動説の地雷と、跳ね上がる穀物価格の帳面が、崩れそうなほどに積み上がっている。
天が動くのか。
地が動くのか。
その問いは、確かに人類にとって大きすぎる問題だ。
だが、俺の机の上では、天の真理よりも先に、今年の米と麦の量、川の水位、蔵の残量、そして『民の腹』の方が、遥かに重かった。
ローマのパン。
江戸の米。
京の暦。
土俵の歓声。
どれも全く別々の話に見えて、結局は、同じ場所へと戻ってくる。
人が生きるための『水と食い物』を、どうやって腐らせず、他人に奪わせず、腹を空かせた者の口まで届かせるか。
天の真理を声高に語る資格など、今の俺にはない。
ただ、明日の田んぼの水口の泥を掻き出し、冬を越すための蔵の帳面だけは。……俺は、今日もどうにかして、守らなければならなかった。
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