魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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今回はギャグ回になります。


来訪者編8 境界の裏側と甘い避難所

## 境界の裏側と甘い避難所

 

本郷未亜の肉体は消滅した。

 

パラサイト本体は逃げた。

 

だが、完全に逃げ切ったわけではない。

 

少なくとも、鷹山聖火はそう判断していた。

 

第一高校の敷地の外れ。

 

人目につかない校舎裏で、聖火は小さく息を吐いた。

 

足元には、数枚の札が落ちている。

 

いや、落ちているように見えるだけだ。

 

それらはすべて、学校全体に張り巡らせた結界の基点だった。

 

聖火は現場にいなかった。

 

レオがパンツァーファウストを放った時も。

 

美月が痛みに耐えながらパラサイトを視認した時も。

 

幹比古が美月を守るために防壁を展開した時も。

 

深雪がミアを氷結させ、達也が雷撃を分解した時も。

 

聖火は、その場にはいなかった。

 

だが、何もしていなかったわけではない。

 

むしろ、現場にいなかったからこそ、できることをしていた。

 

「……出さない」

 

聖火は静かに呟く。

 

その声に応じるように、校舎全体を包む見えない膜がわずかに震えた。

 

第一高校の敷地を囲む、広域結界。

 

目的は、防御ではない。

 

遮断でもない。

 

逃走の妨害。

 

パラサイト本体が肉体を捨てて逃げた場合、校外へ逃がさないための網だった。

 

幹比古が張った結界は、現場の視覚と音を遮るためのもの。

 

対して、聖火が張った結界は、その外側を囲むものだった。

 

局所ではなく、広域。

 

捕縛ではなく、封鎖。

 

網にかかったものを潰すのではなく、外へ出さない。

 

だから、聖火は現場に向かわなかった。

 

向かえば、局所の戦闘には間に合ったかもしれない。

 

だが、その代わりに、外側の網が薄くなる。

 

パラサイトは人間の肉体を捨てて逃げる。

 

その可能性がある以上、出口を塞ぐ者が必要だった。

 

そして、もう一つ。

 

聖火の視線が、校門の向こうへ向く。

 

「そっちも、動かないでくれて助かったよ」

 

そこには誰もいない。

 

少なくとも、普通の目にはそう見える。

 

だが、聖火には分かっていた。

 

第一高校の外側。

 

人通りの少ない道路。

 

建物の影。

 

停車した車両。

 

一見、何の関係もない位置に、いくつかの気配があった。

 

訓練された気配。

 

動かないことに慣れている者たちの気配。

 

USNA軍。

 

マーキュリーが、リーナに万一のことがあった場合に備えて組織した奪還チーム。

 

リーナが第一高校内で孤立した場合。

 

あるいは、敵対勢力に拘束された場合。

 

即座に回収するための部隊。

 

彼らは、学校の外側で待機していた。

 

そして聖火は、その存在に気づいていた。

 

互いに手は出していない。

 

だが、にらみ合いは成立していた。

 

USNA側が学校へ踏み込めば、聖火が動く。

 

聖火が外へ出れば、USNA側も動く。

 

そういう均衡だった。

 

やがて、離れた位置にあった気配が一つずつ消えていく。

 

撤退。

 

リーナの安全が確認されたのだろう。

 

聖火は肩の力を抜いた。

 

「賢明だね」

 

皮肉ではなかった。

 

今ここでUSNA軍と衝突しても、得るものは何もない。

 

こちらも、向こうも。

 

ただ被害が増えるだけだ。

 

聖火は視線を校舎へ戻した。

 

現場からは、すでに戦闘の気配が薄れている。

 

ミアの肉体は自爆によって消滅。

 

パラサイト本体は肉体を捨てて逃走。

 

だが、逃げた先で結界に触れた。

 

聖火には、その反応が分かっていた。

 

広域結界の端で、虫の羽音のような気配がひどく乱れた。

 

レオの拳。

 

深雪の氷結。

 

ミアの自爆。

 

美月の視認。

 

幹比古のサイオンの剣。

 

それらを受けた上で、さらに聖火の結界に引っかかった。

 

完全に仕留めたわけではない。

 

完全に捕らえたわけでもない。

 

だが、無傷ではない。

 

むしろ、かなり深く削れている。

 

「瀕死、と見ていいかな」

 

聖火は静かに言った。

 

おそらく、しばらく覚醒しない。

 

器を失い、霊的な損傷を負い、さらに結界によって外へ抜ける力も削られた。

 

今すぐ再び人間に取り憑くほどの余力はない。

 

少なくとも、今日明日で大きく動く可能性は低い。

 

聖火は札を一枚拾い上げた。

 

紙片の端が、わずかに焦げている。

 

「ひとまず、様子見かな」

 

そう判断した時、背後に足音が近づいた。

 

司波達也だった。

 

「聖火」

 

「達也くん」

 

聖火は振り返る。

 

達也は、いつも通り表情を変えなかった。

 

だが、その目は状況をすでに把握している目だった。

 

「こちらも見ていたのか」

 

「全部じゃないよ。外側だけ」

 

聖火は札を指先で揺らした。

 

「中は君たちの領分だったからね」

 

「外側を塞いでいたのか」

 

「うん。パラサイトが校外へ逃げる可能性があったから」

 

達也は短く頷いた。

 

聖火が何をしていたのか、それで理解したのだろう。

 

「逃げた個体は?」

 

「かなり削れてる」

 

聖火は答えた。

 

「現場にいた皆の証言も合わせれば、しばらくは覚醒しないと思う。器を失って、内側もかなり傷ついている。今すぐ次の宿主を探せる状態じゃない」

 

「確定か?」

 

「確定とは言わない」

 

聖火は苦笑した。

 

「でも、焦って追い回すより、今は様子を見た方がいい。下手に刺激すると、残った力で何をするか分からない」

 

「同意見だ」

 

達也はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

 

「雫から連絡があった」

 

「雫から?」

 

「USNAで行われた実験が、今回のパラサイト発生の原因になった可能性が高い」

 

聖火の表情が変わった。

 

怒りではない。

 

驚きでもない。

 

もっと冷たいものだった。

 

「……どんな実験?」

 

達也は短く答えた。

 

「余剰次元理論に基づく、極小ブラックホールの生成および蒸発実験」

 

聖火は数秒、黙った。

 

その沈黙が、逆に重かった。

 

「……は?」

 

珍しく、聖火の口から間の抜けた声が漏れた。

 

達也は表情を変えない。

 

「雫からの情報では、実験そのものは高エネルギー物理学の範囲として扱われていたらしい。だが、ブラックホールの生成と蒸発の過程で、想定外の情報体が発生、あるいは流入した可能性がある」

 

聖火はこめかみに指を当てた。

 

「余剰次元理論」

 

「そうだ」

 

「極小ブラックホール」

 

「ああ」

 

「生成して、蒸発させた」

 

「そのようだ」

 

聖火は深く息を吐いた。

 

「馬鹿なのかな」

 

達也は否定しなかった。

 

聖火は空を見上げる。

 

冬の空は澄んでいる。

 

だが、その向こうにあるものを思うと、素直に綺麗だとは思えなかった。

 

「陰と陽が混ざらなくてよかった」

 

達也がわずかに目を細める。

 

「どういう意味だ」

 

「陰は形を失ったもの。陽は形を持つもの」

 

聖火はゆっくりと言葉を選んだ。

 

「死んだものと生きているもの。情報だけのものと肉体を持つもの。星の外側を漂うものと、この世界に根を下ろしているもの」

 

聖火の声は静かだった。

 

「本来、混ぜちゃいけないものだよ」

 

「今回の実験は、それを混ぜかけたと?」

 

「混ぜかけたどころじゃない」

 

聖火は、珍しくはっきりと呆れた顔をした。

 

「世界の壁に針で穴を開けて、その穴を覗き込んだら、向こう側から何かが目を合わせてきた。そんな実験だよ」

 

達也は黙った。

 

「極小ブラックホールそのものが問題なんじゃない。生成して蒸発させる過程で、こちら側と外側の境界を一瞬でも揺らしたことが問題なんだ」

 

「外側」

 

「この世界の外。あるいは、人間の認識や肉体の秩序から外れた領域」

 

聖火は達也を見る。

 

「そこにいるものが、こっちの理屈で生きているとは限らない。肉体もない。死の概念も違う。時間の流れ方すら違うかもしれない。そんなものに、こっちの世界への入口を見せた」

 

「だからパラサイトか」

 

「たぶんね」

 

聖火は吐き捨てるようには言わなかった。

 

むしろ、静かすぎるほど静かだった。

 

「亡霊でも、精霊でも、悪魔でもない。帰る場所を失った、星の外側の残骸。そんなものを、実験でこちらへ引っ張った」

 

「危険な実験だったと?」

 

「危険なんて言葉じゃ足りない」

 

聖火は苦笑した。

 

だが、その笑みにはまったく温度がなかった。

 

「下手をすれば、世界が崩壊してもおかしくない実験だ」

 

達也はその言葉を否定しなかった。

 

否定するだけの材料がない。

 

そして、聖火がそう言うだけの何かを見ていることも分かっていた。

 

「陰と陽が完全に混ざっていたら、宿主に寄生する程度じゃ済まなかったと思う」

 

聖火は続ける。

 

「肉体を持たないものが、肉体を持つ世界の法則を侵食する。情報だけの存在が、生きている人間の内側に根を張る。それが広がれば、世界そのものが内側から腐る」

 

「……」

 

「今回は、まだましだよ」

 

「まし、か」

 

「最悪ではなかった、という意味でね」

 

聖火は肩をすくめた。

 

「本当に、人間ってたまにすごいことをするよね。星の外側に向かって扉を叩いて、返事があったら驚くんだから」

 

達也は静かに言った。

 

「雫には?」

 

「まだ詳しいことは言わない方がいい」

 

聖火は即答した。

 

「雫は、向こうで自分の立場がある。知りすぎると危ない。それに、この話は下手に知識だけ持つと、余計なものに目を向ける人間が出る」

 

「そうだな」

 

「封じた方がいい情報だよ。少なくとも、興味本位で触っていいものじゃない」

 

聖火はそう言って、もう一度空を見上げた。

 

「極小ブラックホールを作って消したつもりが、外側の漂流物を拾ってきた。まったく、洒落にならない」

 

その声には、怒りよりも深い呆れがあった。

 

人間は、知らないものを知りたがる。

 

それ自体は悪ではない。

 

だが、開けた扉の向こうに何がいるのか。

 

その覚悟もなく、世界の壁を叩くべきではない。

 

聖火はそう思った。

 

しばらく二人は黙っていた。

 

冬の風が、校舎の裏を抜けていく。

 

事件はまだ終わっていない。

 

だが、少なくとも今すぐ暴れ出すものではない。

 

聖火は札を懐へしまった。

 

「まあ、今日はこの辺りで区切りかな」

 

「学校に戻るのか」

 

「うん。少なくとも、表向きは普通の高校生だからね」

 

達也は無言で聖火を見た。

 

「何?」

 

「お前が普通を名乗るのは、少し無理がある」

 

「ひどいな」

 

聖火は苦笑した。

 

それから数日が過ぎた。

 

パラサイトは動かなかった。

 

完全に消えたわけではない。

 

逃げた個体は、まだどこかにいる。

 

だが、聖火の見立て通り、すぐに新しい宿主を得て動き出すほどの余力は残っていないらしい。

 

現場にいた者たちの証言。

 

美月が視たもの。

 

幹比古が感じ取った反応。

 

レオのパンツァーファウストによる打撃。

 

深雪の氷結。

 

達也による魔法式の分解。

 

そして、聖火が外側で張っていた広域結界に残された痕跡。

 

それらを総合しても、結論は変わらなかった。

 

今は、下手に刺激するよりも様子を見るべきだ。

 

もちろん、警戒を解いたわけではない。

 

聖火は学校の周囲に残した札を何度か確認し、必要に応じて結界の基点を入れ替えていた。

 

幹比古も、精霊を使って校内外の気配を確認している。

 

達也もまた、独自に情報を整理しているようだった。

 

雫からもたらされた、余剰次元理論に基づく極小ブラックホール生成・蒸発実験の情報は、表に出せるものではない。

 

興味本位で触れていい話ではない。

 

聖火はそう判断し、達也も同意した。

 

だから、その数日間は、奇妙な静けさの中で過ぎていった。

 

危険は消えていない。

 

だが、表向きの日常は戻っている。

 

授業があり。

 

部活動があり。

 

試験や課題の話があり。

 

そして、いつものように、学生たちは学生らしい話題で騒ぎ始める。

 

やがて、二月十四日がやって来た。

 

第一高校は、朝から妙に落ち着かない空気に包まれていた。

 

吸血鬼事件。

 

パラサイト。

 

USNA軍。

 

極小ブラックホール生成実験。

 

世界の壁に穴を開けるような、笑えない話題が続いていたはずなのに。

 

それでも、二月十四日は二月十四日だった。

 

バレンタインデー。

 

普段は魔法実技だ、成績だ、部活だと騒いでいる男子生徒たちも、この日ばかりは妙にそわそわしている。

 

机の中を何度も確認する者。

 

廊下を歩く女子の手元を不自然に見る者。

 

興味がないふりをしながら、耳だけは周囲の会話へ向けている者。

 

第一高校の生徒も、結局は高校生だった。

 

その中で、鷹山聖火だけは特に浮ついた様子もなく、いつも通りだった。

 

朝のうちに、知り合いからいくつかチョコを受け取ってはいた。

 

義理。

 

お礼。

 

ついで。

 

部活連で配る用。

 

理由は様々だったが、聖火はそれを特に大げさに受け取ることもなく、礼を言って鞄にしまっていた。

 

期待して待つでもない。

 

かといって、貰って当然という態度でもない。

 

いつも通り。

 

それが聖火だった。

 

もっとも、バレンタインを完全に無視していたわけでもない。

 

放課後。

 

部活連本部には、いつもとは少し違う甘い香りが漂っていた。

 

机の上には、丁寧に切り分けられたザッハトルテ。

 

艶のあるチョコレートグラサージュ。

 

間に挟まれた杏のジャム。

 

横には、軽く泡立てたクリーム。

 

そして、人数分の紅茶。

 

聖火は茶器を並べながら、部活連のメンバーへ告げた。

 

「本日の部活連本部は、バレンタイン特別メニューです」

 

数人の部活連メンバーが歓声を上げた。

 

「おおっ」

 

「鷹山、これ自家製か?」

 

「うん」

 

聖火は頷く。

 

「ザッハトルテ。今日は男女問わず、疲れてる人には出します」

 

「男女問わず?」

 

「バレンタインだからって、男子だけ甘いものを食べるのは不公平でしょう」

 

「いや、そういう理屈なのか?」

 

「そういう理屈です」

 

聖火は当然のように言った。

 

「それに、最近は皆さん疲れてますからね。糖分と温かい紅茶は必要です」

 

その言葉に、部活連の何人かが深く頷く。

 

ここ最近、校内外で妙な緊張が続いている。

 

吸血鬼事件の噂もまだ消えていない。

 

表向きは平穏でも、生徒たちの間にはどこか落ち着かない空気が残っていた。

 

だからこそ、甘いものはよく効いた。

 

聖火が皿を配り始めた時、当然のように席に座っている大きな影があった。

 

十文字克人だった。

 

彼は無言で、すでに紅茶の前に座っている。

 

聖火は手を止めた。

 

「十文字先輩」

 

「何だ」

 

「なぜ、当然のように座っているんですか?」

 

「巡回だ」

 

「巡回でフォークは持ちません」

 

十文字の手元には、すでにフォークがあった。

 

部活連のメンバーが小さく吹き出す。

 

十文字は表情を変えない。

 

「部活連本部の状況確認も、前会頭として気にかける程度には許されるだろう」

 

「状況確認にザッハトルテは含まれますか?」

 

「含まれる場合もある」

 

「便利な解釈ですね」

 

聖火は呆れたように言いながらも、十文字の前に皿を置いた。

 

「甘さは少し強めです。疲労回復用なので」

 

「助かる」

 

「本当に食べに来ただけでは?」

 

「巡回だ」

 

「はいはい」

 

聖火は軽く流した。

 

部活連本部には、しばらく穏やかな空気が流れた。

 

ザッハトルテを食べた者たちが、次々に表情を緩める。

 

「うまい」

 

「これ、本当に店で出せるだろ」

 

「紅茶も合うな」

 

「杏の酸味がちょうどいい」

 

聖火はその反応を見て、満足そうに頷いた。

 

「甘いものは、心の防壁ですからね」

 

「また変なこと言ってる」

 

部員の一人が笑う。

 

その時、別の部員がふと思い出したように言った。

 

「そういえば、服部先輩、七草先輩に呼ばれてたよな」

 

その一言で、室内の空気が少し変わった。

 

「呼ばれてたな」

 

「めちゃくちゃ浮かれてなかったか?」

 

「浮かれてた」

 

「本人は平静を装ってたけど、足取りが軽かった」

 

「顔も若干引き締まってた」

 

「髪もいつもより整ってた気がする」

 

本人不在のまま、服部は好き勝手に分析されていた。

 

聖火は紅茶を注ぎながら、少しだけ眉を上げた。

 

「服部先輩、七草先輩に呼ばれたんですか」

 

「らしいぞ」

 

「バレンタイン当日に?」

 

「そう」

 

「それは……浮かれますね」

 

聖火は少しだけ遠い目をした。

 

「まあ、気持ちは分からなくもありません」

 

十文字は黙って紅茶を飲んでいる。

 

何も言わない。

 

だが、その沈黙が妙に重かった。

 

部員の一人が小声で言う。

 

「でも、七草先輩だぞ」

 

「うん」

 

「何かあるよな」

 

「あるだろうな」

 

「普通にチョコ渡して終わり、って感じじゃないよな」

 

「ないな」

 

その場の誰もが、なぜか同じ結論に達していた。

 

七草真由美が、バレンタイン当日に服部を呼ぶ。

 

それだけなら甘い話に聞こえる。

 

だが、相手が七草真由美である。

 

そして、呼ばれたのが服部である。

 

甘いだけで終わるとは思えなかった。

 

そんな話をしていると、部活連本部の扉が開いた。

 

「失礼……する……」

 

入ってきたのは、噂をしていた服部だった。

 

ただし、出ていった時とは別人のようだった。

 

顔色が悪い。

 

背筋は伸びているが、どこか魂が抜けかけている。

 

歩き方も、妙によろめいている。

 

今にも倒れそうなほど疲弊していた。

 

部活連本部の全員が固まる。

 

「服部先輩?」

 

聖火が声をかける。

 

服部はゆっくりと顔を上げた。

 

「鷹山……」

 

「どうしたんですか、その顔」

 

「何でもない」

 

「何でもない人は、そんな戦場帰りみたいな顔をしません」

 

服部は何か言いかけた。

 

だが、言葉にならなかった。

 

代わりに、机の上のザッハトルテを見る。

 

その目が、わずかに光を取り戻した。

 

「それは……」

 

「ザッハトルテです。食べますか?」

 

服部は無言で頷いた。

 

聖火はすぐに皿を用意し、少し甘めに仕立てたザッハトルテと紅茶を差し出した。

 

服部は椅子に腰を下ろし、一口食べる。

 

その瞬間、目を閉じた。

 

「……うまい」

 

声に、深い実感がこもっていた。

 

「甘い……温かい……生き返る……」

 

部活連本部に沈黙が落ちた。

 

全員が同じことを思っていた。

 

何があった。

 

だが、誰もすぐには聞けなかった。

 

服部の表情が、あまりにも切実だったからだ。

 

聖火は静かに紅茶を注ぎ足す。

 

「おかわり、いります?」

 

「頼む」

 

「はい」

 

「鷹山」

 

「はい」

 

「今日ほど、お前の存在に感謝したことはない」

 

「何があったんですか本当に」

 

服部は答えなかった。

 

ただ、遠い目をした。

 

真由美に何をされたのか。

 

何を渡されたのか。

 

何を言われたのか。

 

それは、本人以外には分からない。

 

ただ一つ分かるのは、浮かれて出ていった服部が、今は甘いザッハトルテに救われているという事実だけだった。

 

その時、扉が再び開いた。

 

「聖火!」

 

飛び込んできたのはレオだった。

 

その後ろには、幹比古もいる。

 

二人とも顔色が悪い。

 

特にレオは、戦闘後よりもある意味ではひどい顔をしていた。

 

「ザッハトルテあるか!?」

 

聖火は無言で二人を見る。

 

「ありますけど」

 

「くれ」

 

「何があったの?」

 

幹比古がよろよろと近くの椅子に座った。

 

「エリカの……」

 

「エリカの?」

 

「チョコを……食べた」

 

その一言で、部活連本部に緊張が走った。

 

レオが机に両手をつく。

 

「変なチョコだった」

 

「変なチョコ」

 

聖火は繰り返す。

 

「見た目は普通だったんだよ」

 

レオが必死に説明する。

 

「でも、食った瞬間、なんか……辛いのか苦いのか甘いのか分からねえ味がして」

 

幹比古が青い顔で続ける。

 

「香辛料と薬草と、たぶんカカオが喧嘩してた」

 

「それはチョコなの?」

 

「分からない」

 

幹比古は真顔で答えた。

 

「少なくとも、僕の知っているチョコではなかった」

 

レオは呻く。

 

「エリカのやつ、体に良いとか言ってたけど、あれはたぶん修行だ」

 

「毒では?」

 

聖火が真面目な顔で言う。

 

「毒じゃねえと思う。たぶん」

 

「その“たぶん”が怖いね」

 

聖火が皿を用意しようとしたところで、部活連の一人が首を傾げた。

 

「でも、千葉さんって料理苦手だったか?」

 

「料理の問題じゃないと思う」

 

幹比古が疲れた声で答えた。

 

「たぶん、わざとだよ」

 

「わざと?」

 

聖火が手を止める。

 

レオが苦い顔をした。

 

「千葉家って、毎年門下生にチョコを配るんだとよ」

 

「門下生に?」

 

「おう。まあ、恒例行事みたいなもんらしい」

 

「それで?」

 

「エリカが、今年も大量に配らなきゃいけないって文句言ってた」

 

幹比古が続きを引き取る。

 

「門下生の分は、ちゃんと普通に作ったらしいんだ。家の名に関わるから」

 

「そこは真面目なんだね」

 

「ただ、その反動でストレスが溜まったみたいで」

 

「まさか」

 

聖火は嫌な予感がした。

 

幹比古は静かに頷く。

 

「僕たちには、別枠のチョコを渡してきた」

 

レオが遠い目をする。

 

「笑顔でな」

 

「笑顔で」

 

「ええ。すごく楽しそうだった」

 

聖火はしばらく黙った。

 

それから、小さく息を吐く。

 

「つまり、門下生に配る毎年恒例のチョコ作りでストレスが溜まったエリカさんが、その発散として君たちにまずいチョコを食べさせた、と」

 

「たぶん」

 

「ほぼ確実に」

 

レオと幹比古が同時に答えた。

 

部活連本部に、何とも言えない沈黙が落ちた。

 

聖火は真面目な顔で言った。

 

「それは、もう事件では?」

 

「バレンタインって怖いな」

 

レオが呟く。

 

「違うと思う」

 

幹比古が即座に否定した。

 

聖火はすぐに皿を二つ用意した。

 

「はい。ザッハトルテ。紅茶は少し濃いめにするよ」

 

「助かる」

 

「ありがとう……」

 

レオと幹比古は、ほとんど避難民のようにザッハトルテを食べ始めた。

 

一口食べた瞬間、二人の表情が緩む。

 

「うまい……」

 

「普通の甘さって、こんなにありがたいんだね……」

 

「エリカに聞かれたら怒られるよ」

 

「今は怒られてもいい」

 

幹比古が珍しく本気で言った。

 

聖火は苦笑する。

 

「部活連本部が、だんだんバレンタイン被害者の避難所になってきたね」

 

「被害者って言うな」

 

レオが言う。

 

「でも否定できない」

 

幹比古が呟く。

 

服部は黙ってザッハトルテを食べ続けている。

 

十文字も静かに紅茶を飲んでいる。

 

部活連メンバーは、その光景を見ながら困惑していた。

 

バレンタインとは、こんな行事だっただろうか。

 

誰も答えを持っていなかった。

 

聖火はふと、服部を見る。

 

「そういえば、服部先輩」

 

「何だ」

 

「七草先輩のチョコは、そんなにすごかったんですか?」

 

服部の手が止まった。

 

部屋の空気が、わずかに冷える。

 

服部はしばらく黙っていた。

 

そして、低い声で言った。

 

「……苦かった」

 

「苦い?」

 

「甘さの奥に、悪意のような苦味があった」

 

その表現に、全員が沈黙した。

 

「でも、七草先輩は満足そうだった」

 

服部の声には、悟りのようなものがあった。

 

「満足そうに、食べるところを見ていた」

 

「それは……」

 

聖火は言葉に迷った。

 

「試練ですね」

 

「試練だった」

 

服部は深く頷いた。

 

その時、三度目の扉が開いた。

 

入ってきたのは、司波達也だった。

 

普段通りの無表情。

 

普段通りの姿勢。

 

普段通りの足取り。

 

だが、なぜかその場にいた全員が思った。

 

何かあった。

 

表情は変わらない。

 

だが、空気が違う。

 

いつもの達也より、ほんのわずかに疲労が滲んでいる。

 

聖火はゆっくりと顔を上げた。

 

「達也くん」

 

「聖火」

 

「どうしたの?」

 

達也は一瞬だけ沈黙した。

 

それから、机の上のザッハトルテを見る。

 

「まだあるか」

 

部活連本部に、今日一番の沈黙が落ちた。

 

レオが目を見開く。

 

幹比古が固まる。

 

服部でさえ、手を止めた。

 

十文字もわずかに達也を見る。

 

聖火は深く息を吸った。

 

そして、静かに言った。

 

「部活連は喫茶店じゃない」

 

誰も反論しなかった。

 

達也も反論しなかった。

 

ただ、静かに聖火を見ている。

 

聖火はしばらくその視線を受け止めた。

 

そして、結局ため息をついた。

 

「……七草先輩ですか?」

 

達也は否定しなかった。

 

その沈黙だけで、十分だった。

 

服部が遠い目をする。

 

「司波もか」

 

「……はい」

 

「苦かっただろう」

 

「はい」

 

短い会話だった。

 

だが、そこには同じ戦場を生き延びた者同士のような奇妙な連帯感があった。

 

聖火は頭を抱えたくなった。

 

「部活連本部は、七草先輩とエリカさんのチョコ被害者救護所じゃないんだけどな」

 

「救護所」

 

レオがザッハトルテを食べながら呟く。

 

「今のところ、かなり助かってるぞ」

 

「僕も」

 

幹比古も頷く。

 

服部も静かに言った。

 

「俺も助かっている」

 

達也も短く続ける。

 

「助かる」

 

聖火は全員を見渡した。

 

服部以外は、部活連本部に用事のない部外者である。

 

レオも。

 

幹比古も。

 

達也も。

 

ついでに、当然のように座っている十文字も、現在の会頭ではない。

 

聖火は深く息を吐いた。

 

「本当に、ここは喫茶店じゃないんだけどな」

 

それでも、彼は皿を用意した。

 

達也の分のザッハトルテを切り分け、甘さを少し抑えた紅茶を淹れる。

 

達也は席につき、静かに一口食べた。

 

「うまい」

 

短い感想だった。

 

だが、それだけで十分だった。

 

聖火は呆れたように肩をすくめる。

 

「今日は本当に何なんだろうね」

 

「バレンタインだろ」

 

レオが言う。

 

「バレンタインって、もっと甘くて平和な行事じゃなかった?」

 

「甘いだろ」

 

幹比古がザッハトルテを見ながら言った。

 

「少なくとも、ここは」

 

服部が深く頷いた。

 

「ここは、平和だ」

 

その言葉に、なぜか重みがあった。

 

部活連本部に、再び静かな時間が流れた。

 

ザッハトルテ。

 

紅茶。

 

疲れ切った男子たち。

 

なぜか当然のように座っている十文字。

 

そして、半ば喫茶店の店主のように全員へ給仕する聖火。

 

聖火は全員を見渡して、もう一度だけ言った。

 

「本当に、部活連は喫茶店じゃないんだけどな」

 

誰も聞いていなかった。

 

ある者はケーキを食べ。

 

ある者は紅茶を飲み。

 

ある者は生還したような顔をしている。

 

聖火は諦めた。

 

そして、空いたカップに紅茶を注ぎ足す。

 

事件はまだ終わっていない。

 

パラサイトはまだどこかにいる。

 

USNA軍の影も消えたわけではない。

 

それでも、この瞬間だけは、甘い香りと温かい紅茶が部屋を満たしていた。

 

聖火は小さく笑った。

 

「まあ、今日くらいはいいか」

 

二月十四日。

 

第一高校のバレンタインは、甘く、騒がしく、どこか奇妙に過ぎていった。

 




私はチョコをもらったことがありません(笑)

次回はピクシーの話になります。
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