マブラヴ ラグナロク   作:玉葱狂い

1 / 6
前史
前史(戦間期から冷戦開始まで)


1924年

スターリンはトロツキーとの権力闘争を制する。

 

1927年11月

トロツキーが追放される一方、スターリンは権力闘争に敗北し、閑職に追いやられる。

ブハーリン派がソ連の指導層になる。

ブハーリンはネップを1932年まで継続するも、農業集団化を1932年5月に決定、実行されるも反発で反乱が相次ぎ、その鎮圧で軍が消耗、ブハーリンは軍の粛清も実行できず、工業化もさほど進まず。軍の体制にも大きく不安が残った。

 

1929年

世界恐慌発生、時の大統領フーヴァーは恐慌に有効な対策を打てず。

 

1932年

アル・スミスがフランクリン・ルーズベルトを破り大統領候補になり、選挙で大統領に当選

 

1936年

フランクリン・ルーズベルトが大統領候補となり、当選する。

 

1937年7月7日

盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まる。

 

1939年9月1日

ドイツによるポーランド侵攻を発端に第二次世界大戦が開戦する。

 

1940年6月

ダイナモ作戦失敗、ここに取り残された33万の兵のうち、6万人しか脱出に成功せず、イギリスの指揮が低下

 

1940年10月31日

ドイツ軍、バトルオブブリテンに敗北

 

1940年12月

世界恐慌からの回復などを掲げ、ニューディールを推し進めたにもかかわらず経済は回復せず国民の不満が溜まった結果、フランクリン・ルーズベルトは大統領選に敗北

1941年1月20日、大統領はウェンデル・ウィルキーとなり政権交代

 

1941年6月22日

バルバロッサ作戦開始、ソ連軍は敗北し、後退に後退を重ねる。ソ連国防人民委員令第227号も、軍の混乱や反ブハーリン派意味をなさず後退が相次ぐ。

 

1941年10月2日

ドイツ軍、タイフーン作戦を発動

 

1941年12月8日

真珠湾攻撃

飛龍から発進した部隊が独断で重油タンクを破壊し、ハワイの米海軍はここでの燃料補給が困難になる。

ウィルスキー大統領は国民の戦意を奮い立たせることに失敗した。

 

1941年12月25日

ドイツ国防軍、ソ連軍との激闘の末モスクワを確保、ブハーリンをはじめ政府高官は既にアルハンゲリスクへ逃亡

 

1942年2月

アルベルト・シュペーア、軍需大臣に就任する。

 

1942年5月

珊瑚海海戦で空母祥鳳が沈没、MO作戦が延期される。

 

1942年6月7日

ミッドウェー海戦勝利、米空母二隻を撃沈、一隻を大破させた。大破した一隻「エンタープライズ」は曳航中に日本潜水艦の攻撃を受け、船の中腹に穴が開く。もはや曳航不能と判断され米駆逐艦の魚雷で沈没処分となる。

 

1942年7月

マルタへの総攻撃決定

イタリア海軍の戦艦の艦砲射撃とイタリア軍航空隊の爆撃が実行、大損害を受けるも辛うじてマルタを確保

 

1942年8月

MO作戦およびガダルカナルの戦いが開始

しかし、ニューギニアのジャングルと米海軍に阻まれ停滞

ガダルカナルでは補給も順調に進み、この護衛に蒼龍も従事、翌年ガダルカナルは日本の手に落ちる。

 

1942年8月20日

イタリア軍、北アフリカに増援を送り、航空機も多く派遣する。

また、イタリア海軍は地中海での北アフリカへの補給線維持に全力を注ぐ。

 

1942年9月1日

ドイツ軍の優勢を見たアイルランド、イギリスへの宣戦布告を決定

ジャガイモ飢饉でのイギリスに対する恨みや北アイルランドの奪還なども理由の一つであった。

これ以降、Uボートが進出しイギリスにやってくる船は多くが撃沈されることになる。

アイルランドの参戦は、ドイツの圧倒的な優勢を見てのことだった。

 

1942年10月

ドイツ軍の降下猟兵がジブラルタルへ降下、イタリア軍の上陸作戦も実施されるが失敗

この作戦は、北アフリカ戦線で攻勢を行い、地中海を封鎖するための多少無理をした作戦であり、ヒトラーはこれに拘った。

 

1942年11月

エルアラメインの戦いでドイツ軍とイタリア軍が勝利し、エジプトへ流れ込む。翌年2月にはスエズ運河が確保される。

 

1942年12月

ウラヌス作戦失敗

スターリングラードが陥落

これによりコーカサス戦線も崩壊

 

1943年1月20日

スペインが参戦を決定

ジブラルタルの奪還なども目的の一つであった。翌月10日、ジブラルタルはスペインの手に落ちた。

 

1943年3月

MO作戦、FS作戦の両方が終結。大損害を受けつつも日本はフィジー、サモア、ニューカレドニア、ポートモレスビーを確保

 

1943年4月

コーカサス山脈以北のコーカサスを確保、バクーの確保は1943年12月になる。

 

1943年5月

ドイツの生産量が急激に増大する。これは装甲の奇跡と呼ばれており、奴隷の活用や部品の共通化などがあってのものである。

さらに、ソ連を確保してウクライナやコーカサスなどの資源が活用できるようになってからは生産量がさらに急速に伸びる。

 

1943年7月

ドイツ軍、侵攻を停止、ブハーリンは反体制派に暗殺、一派も全てクーデターにより処刑される。政府組織は最早機能しておらず、度重なる反乱とクーデターの末、1945年までに西ロシアの赤軍政府、西シベリアの軍政シベリア(内情は統一はされていない)、東シベリアの臨時政府(こちらも求心力は弱い)、極東シベリアの極東連邦(こちらは機構がほぼバラバラ)に分裂する。

ドイツは東方生存圏から資源の獲得に成功する。

理由は、史実のような熾烈な焦土作戦が行われておらず、油田や鉱山、工場もほとんど破壊されていなかったためである。

 

1944年2月

大本営はインパールの突破を画策、補給には比較的余裕があり、海上兵力も温存されているため、チッタゴンおよびメグナ川のデルタ地帯への上陸も計画された。

 

1944年3月

ヒトラー、国防軍の反対を押し切ってアシカ作戦の実行を決定

新たに用意した空軍で第二次バトルオブブリテンを実行

イギリスの飛行場や工場を徹底的に破壊する。

アイルランド周辺からのUボートによる通商破壊でイギリスは大打撃を受けており、食糧、燃料共に不足、ロイヤルネイビーは満足に動けなかった。

 

1944年4月

桂林などの飛行場を抑え、B-29による日本本土爆撃を防ぐため一号作戦(通称、大陸打通作戦)を決行する。

 

1944年6月

アシカ作戦実行を決定

ドイツ国防軍、陸空軍ともに大損害を受けるもドーバー、ワージング、イーストボーン、サウスエンド=オン=シーへ上陸、ロンドンを目指す。

1944年10月にはロンドンまであと25kmに迫り、12月にはロンドンを包囲、1月にロンドンの戦いでドイツ軍は勝利し、2月にロンドンの守備隊が降伏する。

イギリス軍はこの一連の戦いで壊滅状態となる。しかしドイツ軍もギリギリで、ロイヤルネイビーが動いておらず、ドイツ海軍も総力を挙げてドーバー海峡を確保していたが、数は少なかったもののアメリカ潜水艦が脅威となり、補給は滞っていた。

 

1944年9月

インパールを確保、メグナ川デルタに上陸した日本軍部隊は北上しダッカを目指す。

 

1944年10月8日

第一次サモア沖海戦

空母二隻(赤城と蒼龍)、戦艦山城を主力とし、重巡四隻と軽巡八隻、駆逐艦ニ十隻を擁する艦隊がサモアの沖合で米主力と衝突し、空母二隻戦艦一隻をはじめとする大損害を出して敗北、翌年6月までにサモアとフィジーの奪還を許す。

しかし、フィジーやサモアの航空機力の航空部隊の奮戦や駆逐艦、巡洋艦、戦艦山城の奮闘もあって米海軍に大損害を与えることにも成功している。

 

このとき、同時に海兵隊が4000ほど上陸しているが、大損害を被った末、日本軍守備隊2万はわずか1200の損害しか受けていなかった。

 

1944年12月10日

大陸打通作戦成功

桂林をはじめいくつもの飛行場を確保、中国内陸のB-29基地群を無力化される。

さらに、南方へ続くシーレーンが安定化

 

1944年12月20日

大本営はインド方面について、コルカタを確保したら防衛に回れとの命令を出す。

理由は、単純に兵力が足りていないためであった。

 

1945年1月20日

1944年の大統領選挙の結果に基づきアメリカ大統領にトーマス・E・デューイが就任する。

 

1945年2月7日

第二次サモア沖海戦

戦艦二隻(伊勢・金剛)、空母二隻(千代田・千歳)を主力とする空母部隊がサモア沖合で衝突、フィジーの航空基地からも攻撃隊が発進し米機動部隊に大害を与えつつも敗北、空母一隻が沈没する。この際、VT信管を米軍は投入しており、航空部隊は大損害を受けた。

しかしながら、この戦いで米海軍も空母三隻(うち護衛空母一隻)と戦艦一隻を失い、複数の主力艦が大破、あるいは甲板炎上するなどした。

 

当時、大本営はこのことを察知しておらず、南方で連合軍が反攻に出ることを考えていなかった。そのためこの方面には最低限の戦力しか配置されていなかった。主力はトラック島やミッドウェイに配置されており、2月12日にこのことを察知しても増援に向かわせるにはすでに遅かった。

 

1945年2月12日

サモア上陸戦

サモアに送られた海兵隊部隊は、日本軍守備隊2万との戦いになった。

この戦いで双方ともに損害を被り、結果的に日本軍守備隊は壊滅するが、この戦いで海兵隊は1万人が戦死し、戦いの終結は5月までもつれ込んだ。

捕虜は数百人を除きほぼいなかった。

 

1945年2月14日

イギリス軍ロンドン守備隊が降伏

ロンドン市街地は瓦礫の山と化しており、首相も行方不明、イギリス政府は最早機能しておらず、組織的に動けるのは米軍をはじめとする連合国軍であったが、その連合国軍もアイルランド周辺やドーバー海峡、北海での通商破壊により、補給がアイスランド経由からでしか届かず、補給は非常に乏しく、米軍も守勢に回るしかない上、弾薬も燃料も不足していた。

イギリス南部、特にロンドン周辺では鉄道、通信網、行政機構のいずれもが完全に死んでおり、北部との連絡手段は既に存在せず、抵抗する術はなかった。

 

1945年3月

イギリス軍の組織的抵抗が消失、連合軍も物資不足の中で敗退を重ねた。

イギリス南部が陥落したとの報を新聞で聞いたアメリカ国民は落胆し、厭戦感情が生まれることになる。

さらに、アイスランドを経由した補給ももはや限界であり、勝てる見込みはなかった。

これを機に、アメリカは欧州戦線から太平洋戦線へシフトしていくことになる。

 

1945年4月3日

ドイツ軍は抵抗する術のない連合軍を蹂躙し北進、

ドイツ軍は5月1日にはエディンバラへ入城した。

 

1945年5月1日

フィジー沖海戦

フィジーに停泊中の空母瑞鳳が戦艦伊勢、金剛および空母千歳、更に随伴する巡洋艦や駆逐艦とともに海戦に突入

陸上基地と空母部隊、さらには戦艦の部隊と米機動艦隊との大激戦の中で七面鳥のように落とされ壊滅した。

戦艦伊勢と空母瑞鳳が沈没

米海軍も流石に無傷ではいられなかったが、二度に渡ったサモア沖海戦と比べれば損害は少なかった。

 

1945年5月7日

東條内閣がフィジー沖海戦およびサモアの陥落を受け総辞職

この倒閣には、海軍大臣が関わっており、海軍大臣が辞職し、海軍が後任の大臣を出さなかったことが原因だった。

すぐに小磯内閣が組閣され、6月1日には大東亜指導政略大綱を撤回する。

 

1945年5月8日

ダブリンで休戦協定が結ばれる

アメリカ合衆国は対ドイツ戦から離脱し、欧州戦線での敗北が確定

イギリスはドイツの傀儡政府が成立し、北アイルランドのアイルランド共和国への帰属が決定し、アメリカはドイツやイタリアに対する禁輸措置の解除をすることとなった。

この後、6月10日のエディンバラ条約を以てドイツによる欧州各国の戦後処理が決定する。

エディンバラ条約当事国はドイツ、イギリス、フランス国、アイルランド共和国、イタリア王国、スペイン、トルコ共和国である。

なお、イギリスはエドワード8世が復位しており、イギリスはドイツの傀儡と化していた。この復位は、ドイツにとっては、イギリス統治の安定化のための材料に過ぎなかった。

 

1945年5月16日

フィジーの戦い

この場所で、日本軍守備隊2万が立てこもった。

上陸部隊はこの地で8000人もの戦死者を出しながらも、6月末ごろにフィジーを獲得した。

こちらでも捕虜は数十人を除きほぼいなかった。

 

1945年6月11日

真珠湾の基地が復旧されていることが偵察情報から確認される。

海軍上層部は攻撃するかしないかで真っ二つに割れるが、結局実行されることが決定した。

作戦名は「HO作戦(Honoluluから)」である。

 

1945年7月28日

バヌアツ沖海戦

残存部隊は空母千歳とニューカレドニアに停泊していた護衛空母大鷹、さらに戦艦金剛と少ない随伴艦であった。

すでに空母部隊は戦力を失っていた艦隊は米海軍の前に敗北する。

しかし、戦艦金剛の奮闘や巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の決死の突撃を前に米海軍も損害を出した。

この戦いの結果、あと使えるのはポートモレスビーの空母龍鳳と葛城、戦艦陸奥、ガダルカナルの空母天城、さらにラバウルの空母雲鷹、戦艦霧島と扶桑を含む第四艦隊のみだった。

第三艦隊(フィジー、サモア、バヌアツなどに配置)は壊滅し、ニューギニア及びソロモン方面の第四艦隊が残された。

第四艦隊主力

空母4隻(龍鳳、天城、雲鷹、葛城)

戦艦3隻(陸奥、扶桑、霧島)

重巡洋艦7隻

軽巡洋艦8隻

駆逐艦31隻

潜水艦19隻

 

残存第三艦隊

重巡洋艦1隻

駆逐艦11隻

潜水艦7隻

 

とはいえ、米軍にとっての脅威がなくなったわけではない。ラバウルやポートモレスビー、ガダルカナルの航空隊は依然として脅威で、同基地の航空隊は潤沢ではないとはいえ十分な燃料と兵員があった。

そのため、米軍は一連の海戦で被った損害の補充と艦船の修理を行わなければならなかった。

新たに奪還した基地やオーストラリアでの補給と修理を実行することはできたが、破壊されていたり、オーストラリアの北部では日本の航空隊がいつ襲い掛かってくるか分からないため、オーストラリア南部などで修理しなければならなかった。

 

8月1日のバヌアツ・ニューカレドニアの戦いでは、日本軍守備隊5万がバヌアツとニューカレドニアに立てこもり抗戦、

こちらは終戦まで戦闘が継続した。

 

1945年8月11日

第二次真珠湾攻撃

日本の空母八隻(翔鶴・瑞鶴・大鳳・雲龍・隼鷹・飛鷹・飛龍・加賀)と戦艦二隻(大和・武蔵)が真珠湾を攻撃、大和と武蔵の艦砲射撃と空母八隻からの大編隊がハワイの基地を強襲、大損害を出しながら重油タンクと航空基地、ドックを破壊し、ハワイに集結していた太平洋艦隊の艦船は再び海の藻屑となる。

加賀と飛鷹が沈没

大本営は中部太平洋方面に偏重しており、ここに大戦力を終結していた。それゆえ南太平洋の守りは手薄となり敗北を喫していたが、第一線には大量の主力部隊が集まっていた。

 

1945年8月21日

ハワイに再び空襲

飛龍が沈没するもハワイの基地は致命的な損害を被り、今後数年間は復旧のため使えない見通しとなる。

この時点でアメリカは日本を屈服させるため、最低でも1949年までかかると計算しており、到底完勝する見込みもなかった。

アメリカは日本と交渉を開始、日本も国力の限界で和平を模索中である。

 

1945年9月2日

オアフ島に停泊していた戦艦アイオワの艦上で日米の代表が休戦協定に署名、太平洋戦争は、大東亜戦争は一応の終戦を迎える。

 

1945年9月10日

休戦協定に基づき、全戦域にて停戦、第二次世界大戦は終結する。

しかし、休戦地域に中華地域は含まれておらず、大陸では戦闘が継続している。

 

1945年10月11日

メキシコのサンルイスポトシで条約締結

ハワイは日本に99年間租借され、アリューシャン列島の非武装化、ほかにも太平洋諸島の一部を日本に譲渡することを決定した。

また、アメリカは日本に対する経済制裁の解除を行うことになった。

アメリカは満洲国や汪兆銘政権(汪は既に亡くなっているが)の承認を求められた。

しかし、バヌアツやニューカレドニア、フィジー、サモアは現状維持で決まる。

加えて、インドは自由インド政府がすでに進出していた地域については現状維持とされた。

イギリス政府がドイツの制御下にあり、インド総督府が宙に浮いている状態であったが、インド共和国が成立すると事情は変わった。

インド共和国と自由インド政府の二つの政府が存在する状態になったのである。

自由インド政府とインド政府との国境は、ゴーラクプルを結んだ直線とされたが、これが戦後に歪みの原因となったのである。

 

日本がアメリカからハワイを租借できたのには理由がある。

5月の対独戦敗北で「あれだけの犠牲を払ってもドイツを抑えられなかった」という理由から世論は無力感に苛まれ、さらには8月の第二次真珠湾攻撃で「もはや日本はどうやっても抑えられない」という虚脱感から、厭戦感情は高まりつつあった。

そこに8月22日の「対日戦勝利にはあと4年かかる見込み」との報道が止めとなり、アメリカで反戦運動が大きくなっていき、世論は急速に講和へと傾いた。

日本は日本で国力も戦力も厳戒の状況であり、講和を求めていた。

日米両方が講和を求めたことから9月2日に大東亜戦争は休戦となり、講和を待つこととなった。

講和会議の場所は仲介を申し出たメキシコの都市「サンルイスポトシ」である。

ハワイの租借が了承されたのは、もう一つ政治的な思惑があった。

「ハワイはどうせ復興に莫大な金がかかるんだ。あいつらが欲しがってるなら上げてしまえ、めんどくさい土地が増えるだけだ。あいつらには復興などできるはずもない」ということである。

しかし、このハワイ租借は、十年後に恨みや後悔となり、特に日本に対する深い恨みを抱き、ハワイの奪還はアメリカの悲願として、そして重要な問題の一つとして日米間の関係に襲い掛かることになる。

 

1945年10月18日

小磯声明に基づいてインドネシアをはじめとした各国に独立が付与され、同時に日本との地位協定なども締結される。

 

1945年11月11日

小磯内閣退陣、理由は陸軍の反発だった。

6月の大東亜指導政略大綱の撤回はともなく、インドネシアの独立は陸軍の不興を買い、陸軍大臣が辞職し倒閣した。

 

1945年11月20日

宇垣一成に組閣の大命が下った。しかし、陸海軍の仲は大戦末期の敗北以来急速に悪化しており、陸海軍双方が双方を信じていなかった。

海軍は南方での海軍の壊滅を、陸軍が無理してフィジーやサモアに侵攻したせいで戦線が伸び、結果として海軍の壊滅が起きたとして陸軍に責任転嫁

その一方、陸軍は、フィジーやサモアなど南太平洋での敗北を海軍の怠慢として批判、結果として数万の陸軍が殲滅されたと海軍に責任転嫁した。

これ以降も、陸軍は支那事変での遅滞を海軍の支援の不足のせいにしたり、海軍は陸軍主導だった大本営が支持した第二次真珠湾攻撃のせいで海軍の航空部隊がいくつも沈んだと水かけ論が続いた。

しかし、稀に戦争初期における南方へつながるシーレーンの破壊を海軍の怠慢とするなどまともな指摘もあったが、陸海軍の不仲は国民の不信と不安を煽り、軍部の名声は地に墜ちた。

さらに、陸軍省内部で決定した軍人恩給の大幅な減額や財政的理由からの今回の戦争での軍人恩給の不認定がこれを煽り、国民からの信用は全くなくなり、軍部は「国民の英雄」から「閥族」に落ちぶれた。

 

こうして、1945年から1946年にかけて、日本政治は混迷を極めることになる。

大命はいくつも下った。陸軍からは杉山や阿南、海軍からは永野や嶋田などが候補に挙がったが、いずれの場合でも片方の軍が大臣を出さずに組閣は出来なかった。

そんな中、政治の混乱を収めるために1946年5月に勅撰貴族院議員たる吉田茂による新内閣が発足した。

しかし、そんな中、吉田は就任して一週間の内にワシントンへ向かい、デューイ大統領と握手、ハワイは五十年以内に必ず返還すると豪語した。

これは単なる親米や弱腰ではなく、ハワイ問題が日米間の最大の懸念点になるという問題を認識してのことだったが、当然軍部からも帝国議会からも非難される。

陸海軍は大臣を出してはいたが、1947年1月に内閣不信任案が決議されると吉田内閣は崩壊、またしても政治的空白が生じた。

 

この政治的混迷の中、様々な勢力が動いた。革新官僚、宮中、衆議院、貴族院はもちろんのこと、陸海軍の一部、枢密院さえ動いた。

 

そして、国民は安定した政府を望んだ。

そんな中で担ぎ上げられたのが近衛文麿だ。

以前に内閣総理大臣だった経験もあり、皇別摂家の一つたる近衛家、しかも容姿端麗で、国民的な人気もあった。

そうして、1947年5月に近衛内閣が発足する。外務大臣は重光葵、内務大臣は木戸幸一、商工大臣は岸信介、陸軍大臣は小磯国昭、海軍大臣は米内光政と、閣僚は革新官僚や宮中、穏健派などから選ばれた。

そんな中でも支那事変が継続して動いたのは、参謀本部が独立しているおかげであり、独立しているせいでもあった。そして、内閣は総辞職状態とはいえ吉田内閣内閣がまだ継続している状態だった。

この内閣の下、国家総動員法の改正(ほぼ変わってはいないが)や内閣への権限集約、文官政府の軍への権限強化や、帝国憲法の改正へと進む事になる。

 

1948年4月の空軍省設立により、軍用機の命名規則がすべて英語式へ変更され、同時期に帝国憲法も改正された。

1949年には帝国憲法の改正や内閣官制の全面改訂、1951年の内閣庁設置、1952中の戦争省の設置により軍の統制は文官政府に戻っていた。

このことは、1955年の国防省設置にもつながる。

 

ここまでは政治の動きであったが、ここからは日中戦争の動きである。

 

1946年2月1日

第二次大東亜会議を東京で開催、大東亜共栄圏が発足する。

 

1946年3月9日

黒龍江作戦・蒙古作戦・樺太作戦からなる北方作戦が始動

樺太の制圧と外蒙古の確保、外満洲地域の確保を目標として開始される。

 

1946年8月1日

日本軍、中国にて二号作戦を開始

平頂山市、宜昌市の制圧

さらに大陸打通作戦時に形成された沿岸部の包囲網の制圧を試みた。

 

1947年9月25日

さしたる抵抗もなく、北方作戦が終了

しかし、外満洲では都市や鉄道、河川の制圧しか成功せず、それ以外の場所ではソ連軍の残党に悩まされることになる。

外蒙古は蒙疆聯合自治政府が統治し、内外の蒙古は統一されることになった。

 

1946年11月21日

平頂山市、宜昌市を確保

内陸への圧力をさらに強める。

太平洋で導入された航空機も投入がこの時期から開始

また、南方で戦闘を繰り広げていた部隊も多くが復員されたが、その一部は大陸へ再派遣される。

1946年12月時点で中国には日本軍150万が存在している。

 

1947年2月

懐化、十堰、安康へと進み、6月中の漢中確保を目指す漢中作戦

さらに銅仁を目指す銅仁作戦が計画される。

 

1947年5月

中国軍の猛列な抵抗を受けつつも11日に漢中を確保、5月21日には銅仁を確保する。

 

1947年6月11日

大陸打通作戦時に形成された包囲網の制圧が完了

 

1947年6月17日

重慶をはじめとした四川省の攻略を目指す四川作戦が開始される。

 

1947年7月13日

重慶会戦が開始

重慶市内には日本軍の戦車や歩兵、さらには爆撃隊が猛攻撃を加え大激戦となる。

 

1947年9月1日

重慶会戦が終結、国民党政府は成都へ逃げるも、もはやこの先逃げ場はほとんどなかった。

 

1947年9月12日

日本軍は四川作戦の通り成都へ突入、こちらでは三日に渡って戦闘が続き遂に成都が陥落する。

国民党政府は遂に崩壊した。

 

1947年10月1日

支那事変の戦後処理方針が決定

中華民国政府を中心とし、軍閥を地方政権として残した方法で分割されることになった。

それは、雲南省、貴州省、広西省、陝晋省(陝西省と山西省を統合した区域)を中華民国中央政府の統治から切り離すというものであった。

さらに、この時点で中国方面へ派遣されていた150万の兵の内、135万を復員させ、10万を重要地域への駐留、2万を奥地への派遣のために残した。

なお、奥地へは、2万の日本軍の他にも20万の和平建国軍が派遣されて平定を目指し、現地軍閥政権が発足され次第その政権に維持を任せることになっている。

和平建国軍(新生中華民国陸軍)の総兵力は120万、全国の統治や広大な国土を守るために必要で、国境警備や反乱抑止、さらには軍閥で反乱が起きた時の為の派兵用に最大200万まで配備することが許されている。

この段階では内陸部への侵攻が終わっていないため、あくまで制圧地域やその付近の処置のみだった。

 

また、チベットは1947年11月1日、大東亜共栄圏に加盟している。

 

しかし、西康省、青海省、甘粛省、新疆省の制圧はなかなかうまくいかず、すでに正規軍は存在しなかったが残党との戦いの中で何年もかけて制圧していくことになり、カシュガルなどを確保した段階で1952年になっていたのであった。

また、この大規模な侵攻については、都市と鉄道および河川、幹線道路の確保のみにとどまり、周辺の森林や農村などについては確保がされなかった。

このため、日本は中国に関して多大な苦労を強いられることになった。

西康、青海、甘粛、新疆いずれも山岳部や砂漠、森林の確保はなされず、都市などの要所や鉄道や河川など輸送路の確保にとどまった。

そのため、中国の本土と同じく点と線だけの支配であった。

 

1947年12月1日

ニューヨークにてThe United Nations(通称:連合国)が発足する。

原加盟国は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス亡命政府、オランダ亡命政府、自由フランス、フェロー諸島、バヌアツ、サモア、フィジー、アイスランド、南アフリカ、西インド諸島共和国(キューバ、ドミニカ、ハイチ、ジャマイカを除く西インド諸島諸国の連合国家)である。

 

1948年

ハリー・S・トルーマンがアメリカ合衆国大統領に当選

 

1945年以降のドイツを見れば、大きく栄えているように見えた。

しかし、その繁栄には大きな闇があった。装甲の奇跡以来の奴隷経済がその原因である。

これによりドイツの生産力は急速に膨張し、東方生存圏からの鉱物資源や農産物でドイツは自給自足の経済圏、アウタルキーを築いた。

アメリカからの工作機械の輸入やそのコピーなどもあって、ドイツは1947年から1950年代半ばまで栄光の時代を歩むことになる。

その裏では、ルフトヴァッフェが西ロシア地域に連日爆撃を繰り返している。これは、搭乗員の訓練という名目であったが、膨大な予算と燃料を日々食いつぶすブラックホールと化していた。

各地の戦線からの徴兵軍の撤収や国家弁務官区による占領政策など戦後処理が着々と進んでいく中で、今度は枢軸国内の対立が表面化した。

旧英仏殖民地の取り分が、その問題の一つだった。

 

イタリアがチュニジアとエジプトとスーダン、さらにはイエメン、オマーン、オマーン休戦海岸、レパント、イラクなどをはじめとした中東、さらにはケニアを

 

スペインがアルジェリアやモロッコ、モーリタニア

 

ドイツが旧ベルギー領のコンゴや東アフリカ、マダガスカルを確保した。これはゴムの確保や資源の確保も目的であった。

だが、ドイツには東方の管理で手いっぱいであったため、イギリス政府が代わりに管理を担当することになった。

 

ギニア湾沿岸部や西アフリカについては、半分ほど放棄されたようなものであった。

ニジェール、マリ、チャドなど内陸部はほぼ無政府状態で、しかも本国が混乱状態にあるため情勢が一つも分からなかった。

その一方、ナイジェリア、コートジボワール、ギニア、シエラレオネをはじめ、沿岸部はドイツの監視下とはいえ英仏が引き続き統治を担当した。

 

また、南アフリカについてはアメリカが保護したためどの国の干渉を受けることもなかった。

南アフリカの国土は、現在のナミビア、南アフリカ、レソト、エスワティニに相当する。

 

しかし、アフリカでマズかったことがある。

それは、ドイツ軍がポルトガルのアフリカ植民地に武力進駐したことである。

1947年にアンゴラへ、1948年にモザンビークへ宣戦布告もなしに侵攻した。

これはそれぞれアンゴラ危機、モザンビーク危機と呼ばれており、ポルトガル及びスペインとドイツとの間で極めて緊張した空気が走ることとなった。

 

この危機の結果、ポルトガル、スペイン両国ともにドイツに対する危機感を抱き、結果として1950年のイベリア連合結成に繋がっていくのである。

また、この隙に乗じて日本はポルトガル領東ティモール及びマカオへ進駐した。インド共和国もポルトガル領ゴアへと進駐、こちらも問題になるかに思われたが、ポルトガル政府はドイツへの対処に手一杯でそれどころではなく、その上距離が離れていたため大した問題とはならなかった。

 

時系列は多少前後するが、1947年3月1日、ドイツはベルリンでゲルマニア合意の結成を宣言した。

その原加盟国には、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、スペイン、イギリス、フランス、アイルランド、トルコが含まれていた。

しかし、これらの内スペインは1949年に離脱することになった。

 

1949年1月9日、ヒトラーがスイスへの野心を見せ、タンネンバウム作戦を発令しようと試みた。

イタリア王国はこれに反発し、1949年2月24日に締結されたポン=サン=マルタン条約により、「ドイツ国およびイタリア王国に加え、すべてのゲルマニア合意加盟国はスイス連邦の中立を尊重し、同国に対する侵攻を行わない」とした。

 

このことによりドイツとイタリアの関係は悪化し、ヒトラーはイタリアを裏切り者とまで言った。

そして、1949年8月17日、ベニート・ムッソリーニが暗殺された。

このことに怒ったイタリアの世論は反独感情を高ぶらせることになる。

暗殺された初代統帥の後任には、ガレアッツォ・チャーノが選ばれ、1949年9月1日、イタリアでは新体制が始まった。

 

当時のイタリアでは、経済的な黄金時代を迎えていた。スエズ運河の通行料に、中東の石油利権、特に経済発展によりバクーだけでは足りないドイツと、南方からの石油では間に合わない日本、さらに中南米諸国からの石油の輸出でイタリア経済はまさに絶好調であった。

ドゥーチェの威厳は、経済的発展と帝国の拡大でまさにその頂点を迎えていたのだ。

そんな中、ドイツがスイスに野心を向け、襲い掛かってくるかもしれなかったのだ。

さらに、そのスイス侵攻の阻止で統帥たるムッソリーニが殺害されたことは、イタリア国民にとって「裏切り」に等しかった。いや、同盟国に対する背信であった。

 

また、1950年2月1日、イタリア王国はトルコとブルガリアとともにゲルマニア合意を脱退、地中海はゲルマニアの海から、イタリアの海となった。

イタリアに従属しているバルカン半島の国は、クロアチア王国、ボスニア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国、セルビア王国があった。バルカン半島で唯一ドイツの属国ナノは、ベオグラードに首都を置くセルビア救国政府のみであった。

そして、この年より、独伊国境は常に緊張状態となり、さながら北緯三十八度線のような緊迫した状況であった。

 

1950年代、世界は対立が多少ありながらも、一見平和に見えた。

そう、その日までは。

 

1950年10月19日

日独伊三国同盟が10年の期限を迎え失効した。

これを以て、日独伊の協力関係は完全に停止、1950年の年始から綻びつつあった独伊関係は完全に不信になった。

これ以降、世界は徐々に混乱する。

 

1950年12月1日、日本が早くもドイツを見限った。

それは、既に確認されていた情報である「ドイツは死の収容所を作っている」という情報を理由に切ったというものであった。

日本は1947年にはこのことを知っていたが、三国同盟が継続中の手前、そんなことは言えなかった。

また、これ以降も、日独関係は表面上は維持されていた。

アメリカは、一応条約期限中であること、そしてドイツと再び開戦したくないという理由から黙っていたのである。

 

時は1951年、イランの首相モサッデグが石油産業を国有化した。

当時の石油利権はイギリスからドイツへ「譲渡」されており、ドイツが権利を握っていた。

そんな中で国有化を実行したのだ。ドイツからは当然反発があった。

結局、アプヴェーアによる二度のクーデター作戦の末に1953年にモサッデグは失脚し、イランはパフレヴィーの専制体制に移行することになり、当然ゲルマニア合意の加盟国の一つとなった。

 

1952年1月、ヒトラーは演説で10年以内に人類を月に送ると演説し、宇宙開発総合計画を発表した。その内容は荒唐無稽と言ってもいいほどであったが、総統の命令である以上、多くの予算を投入して開始された。

宇宙開発の中枢はシュレージエンやポンメルン地方などで、発射基地はウクライナに置かれている。

 

同年、ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーが大統領に当選し、1953年に就任

 

宇宙開発においては、アメリカもオーストラリアなどと協力して実施され、その最大の拠点がアラスカやフロリダ、オーストラリア中央部にあった。

 

一方、日本も負けてはいられず宇宙開発へ傾注、1955年には早速予算を大量に投入し、宇宙開発プロジェクトの立ち上げたうえでカシュガル基地建設を開始した。

カシュガル空軍基地は巨大宇宙センターと研究所、兵器開発場を兼ねた最大の基地として建設されており、バックアップは蘭州とウランバートルであり、本土の主な研究所は秋田と筑波に置かれている。

 

ここで、各国の航空宇宙軍の設立時期を示しておくと、

ドイツ:1953年

アメリカ:1954年

日本:1961年

である。

 

ドイツ、日本、アメリカの全ての国は、この時期巨額の予算を宇宙開発に投じている。

それは、まぎれもなく1952年のヒトラーの空想にも近い演説が原因だったが、ドイツが実際に有人宇宙飛行を1954年に達成すると日米は双方とも本気になり、宇宙開発競争が勃発し、これ以降宇宙開発は超大国で最も重要な一つのものとなる。

 

宇宙開発の進捗がどうなったかは別の話であるが、とにかくこの時期とんでもない規模の宇宙開発競争が存在したのである。

 

1952年、デリーでインド統一交渉が開始された。当事国はインド共和国と自由インド政府

最初の議題は首都、こちらは難なく決まった。デリーである。

法制度はどうするか。これは、当分かつての総督府命令や統一以前の各国の法律を部分的に用いることで結実した。

政治体制はどうするのか、これも共和制で確定

ここまでの議題はすべて順調に進んだ。

しかし、最後の議題が問題であった。

「統一後、大東亜共栄圏に残存するか」である。

 

これを巡って、統一交渉は紛糾した。共栄圏からの離脱を叫ぶ者、共栄圏残存を叫ぶ者、あるいはアメリカのThe UN(連合国)への参加を求める者、ある者は非同盟主義で行くべきだと主張した。

しかし、統一交渉の議長の決定で当分の間は進めることになった。

 

その内容は、

大東亜共栄圏に加盟はするが、経済的協力や外交関係での日本へのある程度の配慮を持つが、他の共栄圏加盟国と比べて比較的日本に自由で独立した外交的関係を持つというものである。

この方針は、日本の機嫌も取りつつ、自国独自で戦略を立てることが可能であったため、採択された。

また、この方針では、日本を含む大東亜共栄圏加盟国は、インドを通過する際、必ず事前協議が必要であることも明記、地位協定も他の諸国と比べれば平等であった。

比較的平等なのは、タイやチベットも同じであるが、インドは群を抜いていた。

 

国号は決まった。

ヒンドゥスターン共和国である。

大統領は最初に選挙で選ぶものである。議会も設置される。

国防軍は10年の移行期間を経てヒンドゥスターン国軍に統合

法律も10年以内での制定、行政機構の徹底的整備を目的とする。

さらに、政教分離の原則も設けられた。

そのような新しい国家としてヒンドゥスターン共和国は始動する。

 

1953年1月9日、デリー条約発効とともに、自由インド政府とインド共和国は消滅し、ヒンドゥスターン共和国が成立し、同年6月の最初の選挙では、元自由インド政府の大統領であったスバス・チャンドラ・ボースがヒンドゥスターン共和国初代大統領に選出されることになった。

日本はこのことを歓迎し、アジアの繁栄と独立にとって重要な一歩であるとしたが、内心は核兵器の保有や日本を上回る戦力は避けてほしい所だった。

その一方、日本にとってインドはインド洋戦略の要だった。

インド洋を守るうえでインドは欠かせない。帝国海軍をインドへ回すほどの余裕はないことから、インドを日本は囲い込もうとした。

日本は、大東亜共栄圏の中核的加盟国に、満洲帝国、中華民国、タイ王国に加え、インドネシア共和国とヒンドゥスターン共和国を追加した。

これにより中核加盟国は日本、満洲、中国、タイの四か国から六カ国体制に変化することになった。

 

日本は、アメリカからの輸入やアジアの資源、さらには増大した生産力を活かし、1950年代から急速な経済成長を遂げつつあった。

さらに、軍需省を主体として商工省と拓務省が合併され通商産業省に改組され、日本の経済体制は中央集権化していった。

 

四大財閥との協力、さらには引き締めという飴と鞭により官僚は日本の経済を動かし、計画的に日本の、そしてアジアの経済を牽引していくことになる。

このころ、財閥には収まらない人々が企業を立ち上げつつあった。それらの企業は戦争終結後に通産省の政策の下成長した。

さらに、日本全国で投資が加速する中で地方農村部への資金注入も積極的に実施され、大規模な工場や造船所、港湾などが次々に整備されていき、日本は史実の1960年代の如く急成長を遂げる。

 

一方、アメリカは敗戦に打ちひしがれていたが、本土は決して侵されてはいなかった。

その持ち前の工業力を活かし、日独をもしのぐ経済大国として、そして世界一の超大国として存在することになる。そして、1950年代には対日敗戦と対独敗戦の復讐心を元にアメリカは強大化していき、経済力も軍事力も、他の大国と勝っていた。だが、戦争となれば必ず核戦争となるため絶対に戦争を始めようとは思っていなかった。

 

1941年2月にマンハッタン計画が縮小され、1943年に再拡大されて以来アメリカの核開発は遅延し、1948年にアメリカは核兵器を開発した。

ドイツは1946年に、日本は1949年に核開発に成功している。

ドイツはノルウェーの北部で、日本は太平洋上でそれぞれ核実験を実行している。

かくして、日独米すべての超大国は核保有国となったのである。

 

1955年、中華民国は広東省や厦門、福州、杭州、寧波、上海、南通、蘇州、青島、天津をはじめとした沿岸都市に加え、成都や重慶、常徳、武漢などに経済を特区を設置し、共栄圏の企業を誘致しようと試みた。

 

1955年、アメリカ合衆国は突如大ゲルマン帝国に対して禁輸を発令、米独関係には緊張が走り、この年より米独間冷戦が始まった。

 

二年後の1957年、今度は日本に対して禁輸が発令、太平洋上でも冷戦が始まった。

しかし、米独いずれも工作機械を輸入し、そのコピーを作成することで禁輸があっても耐えられるようにはしていた。

 

しかし、インド、イタリア、トルコ、イベリア連合には禁輸が発されなかった。

それは単純に、露骨な親独でも親日でもなかったのが理由だろう。

インドに関しては共栄圏加盟国ではあったが、仮想敵国ではない。よって、禁輸対象からは除外された。

 

1958年、ドイツに危機が訪れた。

財政が悪化し続ける一方、国防軍は戦争が終わって尚更なる予算を要求する。

そこに東方を維持するための費用と東部総合計画での出費が積み重なり、赤字と国債額は増大するばかり。

奴隷経済はもはや限界に達し、ドイツ人の雇用が破壊されたばかりか、奴隷経済は遂に生産性と製品の品質を落とした。

同年9月、フランクフルトの株式市場は歴史的暴落をたたき出した。

ドイツで経済危機が訪れたのである。

この回復の為、ドイツ国防軍の縮小やゲルマニア計画の大幅な縮小(既に建設されている分は継続)、緊縮財政の実施などが行われるも、かえって占領地の不安定化や経済の失速へと繋がっていった。そして、これ以降東方ではテロが頻発するようになっていく....

 

このことを理由に、日本は遂にドイツを完全に見捨て、日独冷戦が開始されたのである。

 

また、1945年から1958年まで定期的に実施されていたモスコーヴィエンよりも東のロシア地域への爆撃により施設はかなりの打撃を受けており、旧ロシア地域にまともな産業設備はほとんど残っていなかった。この爆撃は、今後も無期限で続けられることになる。

さらに、その軍閥自体も爆撃に加え、元々軍閥であるがゆえに弱体で、国内の不和を抑えきれず、反体制派の蜂起や反乱などが相次ぎ、軍閥も次第に全国統治能力を喪失し、ロシアでは群雄割拠の時代が訪れることになる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。