南コーカサス戦線は、まさに地獄というほかなかった。
2月3日に黒海艦隊が壊滅してからは、補給の一切が途絶した。
黒海を航行する補給船団はもはや安全な航海は不可能となり、ただでさえ少なかった補給は完全にゼロとなった。
さらに、補給の安全が確保できないということは、石油の輸送の安全も確保できないということを意味した。
バクー油田で生産された石油は本来バトゥミなどへパイプラインで輸送された後に船に積み替えクリミア半島やウクライナのヘルソン、ルーマニアのオデッサなどで陸揚げしてパイプラインで本国に送るというものだった。
元々コーカサスから本国へパイプラインがつながっていたのだが、それは普段からゲリラの襲撃でほとんど機能せず、しまいにはオクチャブリスカヤ作戦で徹底的に破壊されてしまっていた。
だが、ドイツ国防軍コーカサス方面軍はコーカサス山脈を盾に徹底抗戦を続けた。
山岳に陣地を構え、森林に潜伏し、思わぬところから攻撃を加え、ロシア軍に少しずつ、しかし着実に被害を与えた。
前線を張っての防衛ではもはや長大な戦線を支えることなど不可能であった。
そこで採用されたのがゲリラ戦術だ。
高強度紛争ではなく低強度紛争に持ち込み、この地域のロシア軍の動きを徹底して遅滞させる。
いわば時間稼ぎの戦術である。
12月時点での戦線は、ゲレンジーク、マイコープ、ピチャゴルスク、グロズヌイ、スラクを結んだ線であった。
しかし、翌年1月19日にソチが翌日にアドレルが陥落し、黒海沿岸部ではロシア軍が優勢を確立しつつあった。
ルーシ作戦開始のわずか二週間ほど前である。
ルーシ作戦開始日であった1月30日時点で、ロシア軍はエッセントゥキ、バクサン、ナリチク、ブラジカフカス、ヴェジノ、マハチカラを確保し、去年12月よりも確実に前進していた。
しかし、兵力、兵器、弾薬共に損耗が著しく、補給を整うのを待つことになった。
また、オクチャブリスカヤ作戦の残った作戦区域は、ここ南コーカサス戦域のみとなった。
そもそも、オクチャブリスカヤ作戦の一時侵攻ラインに既に到達している以上、ここから無理に進軍してもメリットがないのが実情であった。
当初の作戦計画では、戦術核の使用さえも想定していたのだから、作戦は順風満帆に進んでいると言っていい。
ここは一度、数か月待とうではないか。
それが、コーカサス方面の作戦を担当する第七方面軍の判断であった。
ロシア軍中央もおおよそその方針で固まり、部隊の充足と新たな作戦計画の立案を待つまで攻勢をかけないとした。
しかし、それでもドイツ軍はゲリラ的に襲撃してくる。
兵営を襲い、弾薬庫を襲い、住宅街や商業地を襲い、駐屯地を襲った。
兵器、弾薬、食糧、医薬品、燃料ほか多数の物資が奪われただけでなく、軍に少なくない損害を出し、ロシア軍はずっと疲弊していた。
そうやっていつもいつもやって来るドイツ軍を迎え撃つために歩兵が警戒しているが、彼らはどこから出てくるか分からない。
山、洞窟、森、市街地、地下、考えられる場所はいくつもあったのである。
この地域には、ドイツ軍がすべて合わせて20万はいると見積もられている。
それらの軍隊が、山野や市街地に潜伏しているのだから、ロシア軍としては気が気ではない。
いっそ、市街地を全て更地にし、山をはげ山にしてしまいたいぐらいだったが、手間がかかるうえに襲撃の可能性も高く、自分たちが再利用するにも不利であり、挙句それで「ドイツ軍の居場所を丸裸にできるかは不明瞭」という予測も立ったため、不採用となった。
ドイツ軍ゲリラを撃滅するための作戦案がいくつも出される。
オクチャブリスカヤ作戦の再開は、予想では4月20日である。
現在の補給状況や、クリミア沖航空戦の結果に鑑み、そして作戦準備にかかるであろう手間を計算した結果であった。
最終的に出された案は次のようなものだった。
枯葉剤の投入、毒ガスの投入など化学兵器の投入、加えて戦術核や中性子爆弾といった核兵器、更にはクラスター爆弾、ナパーム弾、火炎放射器、ほとんど倫理的に、あるいは法的に禁止されている平気であった。
それでも、検討段階で却下された兵器もあった。
生物兵器と核兵器だ。
理由は単純だった。汚染が広範囲に拡散し、甚大な被害をもたらすだけでなく、作戦終了後にロシア軍自身が占領地を利用する際にも重大な障害となるからである。
だが、三十八年の恨みは並みのものではない。
「我々が約四十年にわたって受けた屈辱を思えば、これでも足りない。」
といった復讐感情が強く存在する一方、司令部はこの方法を軍事的に合理的と判断した。
航空部隊による枯葉剤、毒ガス、クラスター爆弾、ナパームの投入、加えて洞穴などへの火炎放射をしながらドイツ軍ゲリラを掃討する。
それが作戦計画である。
この時点で、作戦は改まった。
「オクチャブリスカヤ作戦」改め「タタールの軛作戦」である。
この作戦には、大量の輸送機、戦闘機、攻撃機、爆撃機、ヘリコプターが投入される予定であった。
火炎放射器用の燃料やガスマスク、その他防毒装備、通常の火器や弾薬、戦車装甲車がコーカサス各地に配備された。
この作戦の総兵力は70万であり、ロシア全軍の約二割に当たる。
それほどまでに、ロシア軍は作戦に力を入れていた。
1977年4月20日、遂にタタールの軛作戦が開始された。
作戦総司令官はこう残した。
「諸君、ドイツからコーカサスを取り戻す時がやって来た。今回の作戦の為、司令部は様々な兵器を用意した。ナパーム、クラスター爆弾、枯葉剤に加え、マスタードやルイサイトなどのガス兵器だ。全ての兵器の無制限使用を許可する。ドイツ軍がいそうな村や怪しい人影には容赦なく銃撃を加えろ。我々が三十八年感じてきた屈辱を、ドイツ人どもに味わわせてやれ。」
同日午前十一時、数百機のヘリコプターで編成された第107師団がウスチ=ジェグタを襲撃した。
クラスノダールに建設された仮設の飛行場からMig-A-7が出撃しコーカサス山麓の森林と市街地にナパームと爆弾の雨を降らせ、山麓は黒い煙に包まれた。そのうえからIl-C-3がサリンの詰められたガス弾を投下し、ドイツ軍のいると思われる市街地は跡形もなく消え去り、跡には瓦礫だけが残っていた。
ヘリ部隊は山麓を低空飛行で飛び、ドイツ軍の居場所を警戒しながら山脈を進んだ。
第三大隊はそのままカラチャエフスクへ南進し、ドイツ軍の抵抗の温床となっているだろう市街地を一つ一つ破壊しに掛かった。
市内に立て籠もったドイツ軍と対独協力者の民兵に毒ガスを浴びせながら家々に一つずつ火を放ち、カラチャエフスクのドイツ軍は殲滅された。
「こちら第四中隊、移動する現地人の列を確認した。」と部隊の一つから報告が上がって来た。
場所はリム=ゴルスキーである。
「避難民か?」と大隊長は問う。
中隊長は答えた。
「積み荷を確認しない限りは何とも言えない。」
すると、大隊長は答える。
「確認している時間などない。避難民だと確認できないなら殲滅せよ。どうせ対独協力者が混じっているからな。」
中隊長はその答えを了承した。
「了解、これより殲滅を開始します。」
カラチャエフスクより南へ40km、チェベルダに到着したロシア軍は、ここでも容赦ない攻撃を加えた。
ガス弾を街に放り込んでから戦車で乗り込み、住宅街を容赦なく破壊し、住民はドイツのスパイと見なされ、一人残らず皆殺しにされた。
更に進んでコルドン・ケプタラ、ここでも同じような悲劇が繰り返された。遂にコーカサス山脈も頂上を超え、南に差し掛かる。
ロシア軍はこれまでの通り森林には枯葉剤を撒き、住宅地は焼き払った。
そして、ドイツ軍が潜んでいそうな洞窟へガソリンを放り込んでから火炎放射器で火を放つと、ドイツの軍人が暑さと煙に堪えかねて飛び出てきた。ロシア軍は降伏するかを聞くこともなく火炎放射を向け、男は火だるまになりながらもだえ苦しみ、最後はライフルで頭と胸を撃たれて息絶えた。
洞窟という洞窟、洞穴という洞穴でそれは繰り返された。
地図上から村や町が一つずつ消え去り、抵抗の温床となっていた山林が枯葉剤で禿げ上がり、ナパームで火の海となる。
第百九師団がアドレルから南東へ進撃していく。
アラハジでは住宅を砲撃で破壊し、森林にはナパームを投げ込み、ヘリコプターで前進しながら攻略した。
そうして、一週間でルィフヌィ、ノヴィ・アフォン、スフミ、フルリプシと進んでいき、コーカサス山脈の南側へ到達した。
ここからトビリシまではあと300km、まだ遠いが、ロシア軍は最小限の犠牲でコーカサスを超えつつあったのである。
カスピ海沿岸部、マハチカラでは森林は比較的少ない。
戦車でカスピ海沿岸部を進んでいき、ヘリコプターがコーカサス山脈の東端をんでいき、いよいよバクーから150kmの距離にあるハチマスに到着した。
バクー油田はトルクメン地方から出撃した爆撃機と戦闘機により徹底的に破壊されているが、ドイツ軍が潜伏している疑いがあったため、残骸や廃墟を一つ一つ丁寧に探っていった。
マスタードガスを散布し、クラスター爆弾を投下した。現地のドイツ軍は駆逐され、その後にはロシア軍の戦車部隊が続いた。
4月30日、バクーは再びロシアの手へと戻って来たのである。
5月21日、作戦部隊のほぼすべてがコーカサス山脈を突破し、カウカーズース国家弁務官区の行政府のあるトビリシは目前へと迫った。
ドイツ軍は今や烏合の衆である。
大量の毒ガスを散布し、森林にナパームを放り込んだ。
一つ一つの町を戦車とヘリコプターで蹂躙していった。
ズグディディ、クタイシ、ゼスタポニ、バトゥミなどグルジア西部の都市が次から次へとロシア軍の手へと落ちて行った。
ロシア軍は西からも迫って来る。
アリ・バイラムル、サルヤン、カバラ、マルダ、ミンゲチェビル、ギンジャなど、アゼルバイジャンの諸都市もドイツの手から零れ落ちた。
カウカーズース国家弁務官区は今や風前の灯火である。
そして、ロシア軍はトビリシへ総攻撃を仕掛けた。
市街地に立て籠もるドイツ軍部隊は必死に抵抗を行い、部屋一つ一つまで奪い合ったが、ガス弾を放り込むと司令部はあっという間に混乱状態になり、兵士が離反していく中で司令部は遂に降伏を申し出た。
しかし、ロシア軍はそれを黙殺し、巡航ミサイルで司令部を破壊した。
トビリシのドイツ軍と国家弁務官区の組織も壊滅したことが決め手となり、タタールの軛作戦はロシア軍の完全勝利で幕を閉じた。
1977年6月1日のことであった。
本来ロシアの手にあるべき土地を取り戻したことで、ロシアの復活を世界に宣伝することができるだろう。
----1977年6月8日----
ノヴォシビルスク、国防省
ロシアの国防省が記者会見を開いている。
会場には、日本、中国、アメリカ、イギリス、カナダ、トルコ、イタリアなど、様々な国から記者が集まっている。
その中にはロシア人ジャーナリストも見える。
皆フラッシュを焚き、会場はガヤガヤしている。
その中で、ある一人の記者が質問をする。
「ロシア軍が過激な手段でドイツ軍を殲滅していたことは間違いありません。もちろんロシア軍の規制下での取材でしたが、移動中に見た町や村は全て焼き払われており、道中には民間人の遺体が多数転がっていました。国防大臣、軍が見境なく攻撃を行っていたという認識はありますか?」
国防大臣は答える。
「ご質問ありがとうございます。私自身としては現地の軍に対してドイツ軍ゲリラの完全な殲滅とコーカサスの平定を命じました。ドイツ軍とは我々の大地に根を張る植物のようなものであり、根絶やしにしなければ何十年も広がり、元々そこに住んでいたロシア人やグルジア人を殺害します。そして、ここが最初からドイツの地であったという認識を刷り込んでしまうでしょう。38年前、ドイツ軍がベラルーシとバルトでどのような事を行ったのか、あなたもご存じなのでは?我々はドイツ軍の殲滅を徹底していますが、ドイツ軍は正規戦から外れて村や街などの居住区に潜伏したとされており、私自身は認識しておりませんが、その掃討作戦において、"いくつか"の痛ましい巻き添えが発生した可能性は否定できません。」
別の記者が質問する。
「ガス兵器の使用も赤十字によって確認されているようですが、それについてはどう認識されていますか?」
国防大臣は答えた。
「ドイツ軍ゲリラの鎮圧において、複数のガス兵器を使用したことは事実です。しかし、ガス兵器の使用を禁止するハーグ陸戦条約は、条約を締結している国家間の戦闘において適用されるものであり、条約に署名すらしていない我が国がドイツに対してガスを使用することは、国際法違反となりません。」
更に質問が飛ぶ
「降伏を申し出たドイツ軍に対して攻撃を行ったそうですが、それについてはどう認識されていますか?」
また答えた。
「我が軍はドイツ軍が降伏を申し出たことを認知しておらず、またそのような通知や合図も受け取っていないことが報告されております。トビリシに存在していたドイツ軍司令部はあくまでも戦闘継続をする方針であったと推測されます。そのため、そのような事実はありません。」
タタールの軛作戦により、ロシアはコーカサスを解放した。あと解放すべき土地はバルト、ベラルーシ、ウクライナ、そしてクリミアを残すだけだ。
そうして、我らの偉大なロシアは復活し、欧州の憲兵として、そしてユーラシアの超大国として復権するのだ。
コーカサスのような山岳地帯では彼らはあのような卑劣な抵抗ができた。しかし、ロシアは平野だ。奴らが広大な平原でゲリラ戦ができるとは思えない。
やっと正規戦に戻る。
ドイツ軍に爆撃を加え、航空優勢を確保し、砲撃を加え戦車で蹂躙する。
鉄と血によって祖国を奪還し、三十年間の雪辱を晴らす日は近い。
ロシア軍は再び作戦の立案へと戻った。
残す作戦はバグラチオン作戦である。
ルーシ作戦、即ちクリミア奪還作戦はドイツ黒海艦隊を殲滅してからは非常に急速に進んだ。
1977年2月10日にケルチ橋を渡り、同時にヘリコプター部隊は海上を渡って半島へと上陸し、3月25日のセヴァストポリ奪還を以てルーシ作戦は終わった。
ドイツはタタールの軛作戦が始まるまでもなく既に勝ち筋を失っていたのである。
しかし、ロシア軍は知らなかった。
バグラチオン作戦は、ロシアにとっても、ドイツにとっても、そして世界にとっても不幸の始まりとなることを。