ロシア軍は、遂にここまで来た。
夢にまで見たロシアの復活とドイツへの復讐は、遂に目前まで迫ったのだ。
ここまでわずか一年、ドイツよりも早く、そしてかつて我々を征服したモンゴル人どもよりずっと早く、我々は西へ西へと進んでいるのだ。
目指す先はベルリン、奴らが世界首都と呼び、ゲルマニアと称する都市だ。
ロシアの西方領土奪還はあくまで前座に過ぎない。
ドイツ軍が本国軍をベラルーシへ差し向けてはや一年が経過した。
ベラルーシでの蜂起を一年かけても鎮圧できないほどドイツ軍は弱っていたのだろうか。
ドイツの犬野郎どもはベラルーシでの蜂起の鎮圧を、苦し紛れに「宇宙人の侵攻を阻止するための軍事行動」としているが、そんなのは嘘っぱちで、本当は我々の侵攻を予期し、防衛線を張るためにミンスクへ軍を集め東方に一気に展開する予定だったのだろう。
そして、ドニエプル川とダウガヴァ川で防衛線を構築し我々の攻撃を阻止せんとする。
そんなものに惑わされはしない。奴らが行動に出るなら、こちらも対策を取られる前に動かねばならない。
1976年5月にドイツがベラルーシへ軍を派遣し、東方に駐屯していた軍も下げてから急いで侵攻を行ったが、まさかここまでうまくいくとは思ってもみなかった。
ならばもっと早くに始めておけばよかった。
そうすれば祖国の奪還ももっと早く済んだだろうに。
ロシア連邦共和国大統領、アレクサンドル・ポクルイシュキンは思っていた。
――アレクサンドル・ポクルイシュキン、彼は元々軍人であった。
1913年にトムスク県ノヴォニコラエフスクで工場労働者の子供として生を受け、紆余曲折を経て1932年に赤軍に参加した。
1939年にはセヴァストポリの軍事航空学校を卒業し、ソ連空軍の第55戦闘機航空連隊に配属され、現役生活が始まった。
1941年6月22日、それはすべてが崩れ去った日であった。
この日、彼の祖国、ソ連はドイツからの奇襲攻撃を受けた。
1942年にザカフカースへ、1943年に北カフカースへ移動するなど、配属場所は後ろへ後ろへと下がるばかりであった。
それもそのはず。ソ連は連戦連敗、1941年末にはモスクワが陥落し、1942年12月にはスターリングラードが落ちたのだ。
戦況の悪化は止まることがなく、1943年2月には第55戦闘機航空連隊はコーカサスから撤収し、カザフスタン方面へと移動した。
ソ連軍はもはや死に体であり、かのドイツ国総統ヒトラーが述べたように「ソ連は腐った納屋であり、扉を一蹴り下だけで崩壊」したのだ。
ソ連は、それでも国家の体制だけはアルハンゲリスクでかろうじて維持していた。
しかし、7月にソ連政府は完全に崩壊し、各地の軍管区や方面軍、警察組織や共和国が独立を宣言し、ソ連は散り散りになった。
その後、母体であったソ連軍を失った連隊は消滅し、隊員や各地の軍人は故郷へ、あるいは近くの町へと向かっていった。ポクルイシュキン自身は東を目指す旅を始めた。
1944年1月での場所は、オレンブルクだ。
故郷へ帰るならば、ここからいくつもの都市や村、山々を超えなくてはならない。
1948年1月19日、苦難の末、彼はノヴォシビルスク、かつてのノヴォニコラエフスクへと帰って来た。
ノヴォシビルスクには、ノヴォシビルスク・アルタイ連邦の首都があった。
彼は連邦政府からソ連空軍軍人であったことを買われ、連邦空軍総司令官となった。
しかし、空軍とは何たるか、そしてその運用方法を知っていたのは、彼以外には指で数えるほどしかいない。
そして、その中でも最も優秀だった彼が空軍の最高責任者に任じられたのは、自然な事であった。
現状、連邦には空軍を作る余裕などなかった。
それでも空を守り、あるいは敵の位置を把握するという任務がある。
これならば、古い複葉機や木製の翼でもできる。
ノヴォシビルスク・アルタイ連邦空軍が、ここに発足したのである。
軍用機の命名規則など、作る暇も、そのためのコストもなかった。
それ故、空軍とは名ばかりの組織だった。
しかし、それでもノヴォシビルスク・アルタイ連邦の中で政治家として頭角を現していった。
その中でロシアもだんだん統一されていく中、彼は西シベリア連邦共和国の国防大臣に任じられた。
1969年には、最終的には「ロシア連邦共和国」として晴れてロシアの統一者となった。
1970年、アレクサンドルは第3回大統領選挙に立候補した。
選挙は、ノヴォシビルスク・アルタイ連邦の発足のときは行われていなかった。
もとより国にはそんな余裕などなかったからだ。
しかし、連邦の発足から14年ほど経った1960年には遂に第一回大統領選が可能となり、1959年に発布された「ノヴォシビルスク憲法」を根拠に選挙を施行、連邦議会選挙も同時に実行した。
1970年5月10日の投開票日、ロシア国民が次の大統領に選んだのはアレクサンドル・ポクルイシュキンであった。
1975年の第四回大統領選で彼は再選を果たし、ロシアは彼の指導の下、再びユーラシアの超大国に返り咲こうとしていた。
その一環が、1976年6月22日を発端に始まったロシアの国家的軍事計画、すなわち――エカチェリーナ作戦であった。
この作戦はこの一年の内にロシアの広大な領地を取り戻し、ナチの卑劣な侵略者どもを追放させた。
その作戦もいよいよ最終段階、旧ソ連領の全てを奪回すれば、我々は再び偉大になれる。
ナポレオン戦争が終わった時のように、ロシアは世界の超大国の一つとして肩を並べるのだ。
過去のことと、ロシアの未来像を描きながら、彼は大統領執務室でバグラチオン作戦開始の命令を出した。
ロシア連邦軍の統帥権は大統領にある。
彼がこの作戦の実施を命令すれば、軍は動かなくてはいけない。
軍隊とはそういうものだ。
大統領から国防大臣、参謀長、そして作戦に参加する軍など下へ下へ伝達されていく。
かつては中央の命令を前線へ伝えるのに何時間、あるいは何日、もっと昔には何週間とかけたものだが、今は通信技術の進歩で一時間もかからずに伝えられるようになった。
ロシアにとっても、そして世界にとっても「ロシアの復活」を象徴づける偉大な瞬間が、間もなく訪れようとしていたのである。
再びこの一年のことを思い返す。
去年の六月にモスコーヴィエンの軍事境界線を突破し、一か月で400km近く前進した。さらに、今年二月にドイツからクリミアを奪い返し、同じ年の六月にはドイツの魔の手からコーカサスを救い出した。
これを偉業と言わずして何というだろうか。
その偉業は間もなく伝説の域に入る。
ロシアの名は世界の歴史に永遠に刻まれ、1977年はナチスの崩壊とドイツの凋落の年として世界を轟かせる。絶対にだ。
作戦に失敗は許されない。
ドイツ軍の反転攻勢を許したり、ドイツに核攻撃を受けて黙ってなどいられない。
反転攻勢を許せばドイツ軍の頭上に核を突き落とし、ドイツから核攻撃を受ければ我が軍の全ての核兵器をあの憎きゲルマン人どもの土地に突き落としてやる。
ナチのクズどもには瓦礫の山がお似合いだ。
そんなことを思いながら、彼は作戦が始まり、ノヴォシビルスクに吉報が届くのを待つのだった...
執務室の机の上には一冊の書類が置かれている。
その表紙にはこう書かれていた。
Совершенно секретно
Операция Багратион
Приказ к выполнению
その下には、大統領の署名がしっかりと残されている。
Александр Иванович Покрышкин
10 июня 1977 года
----ロシア連邦軍、とある前線----
そこには、いつも通りの物資が補給されるはずだった。
しかし、量がおかしい。
現状の防衛戦闘ならば優に一か月は持つはずの量はある。
師団長や方面軍司令官も同じ気持ちだった。
5月だ。まだタタールの軛の最中ではなかったのか。
おかしい。
弾薬、戦車、食糧、医薬品、包帯、燃料
前線にはひっきりなしに物資が押し寄せてくる。
それだけではない。
人員、火砲、ヘリ、その他さまざまな兵器も運ばれてきた。
これはなんなのだろう?
それは前線の兵士の多くが抱いた疑問であった。
クリミア、ブリャンスク、スモレンスク、プスコフ、ナルバ、様々な場所で同じことは起きていた。
大規模な作戦を実施するのは確実だ。
しかし、一か月なにも起きなかった。
時に野盗と化したドイツ軍の残党が野営地を襲いに来ては捕虜にされるか射殺され、何もない日々が続く、そんな状況がしばらく続いた。
そんな日々に転機が訪れたのは、6月20日のことであった。
突如、部隊は説明を受けた。
2日後に大規模作戦が開始されると。
その命令は一週間以上前には既に出されていたと。
そして、ついに36年前にナチスに奪われた祖国の大地を完全に取り戻す日が来たのだと。
兵士の感情は様々だった。
歓喜する者、驚く者、不安がる者、涙を流す者、平然とする者がいた。
しかし、師団長や軍司令官はそうではない。
「ついにこの日が来た」という面持ちだ。
表情からは何も分からないが、恐らくは遂にドイツに復讐できるということをしかと噛みしめているのだろう。
そうしているうちに、その日はやって来た。
----1977年6月22日 モスクワ----
モスクワ、35年もの間侵略者に「モスカウ」と呼ばれた地、この地に作戦司令部は置かれている。
国家弁務官ビルの廃墟を修繕し、旧モスクワ地下鉄を活かして急遽整備されたこの地に、物資集積所もある。
かつての赤の広場も、クレムリンも、すべてここにある。
ソ連の首都であり、これからはロシア連邦共和国の首都になる場所だ。
全てはこの地から始まり、この地で終わる。
そうすることで復讐は達成され、今度こそロシアの時代が始まるのだ。
----
1977年6月22日、去年のエカチェリーナ作戦開始から一周年、ドイツがソ連に侵攻を行った日から36年が経ったこの日、遂にロシア軍の電撃的侵攻が始まった。
戦車の履帯が草花を踏みつけながら前進し、ヘリコプターは東欧の森林を這うように進む。
歩兵は平野を、森を、市街地を、畑を進んでいく。
ロシア軍は、ドイツ軍との激戦を期待していた。
しかし、現実にはそうはならなかった。
ドイツ軍はもうそこにはほとんどいなかった。
野盗と化し、略奪を繰り返すドイツ兵、ロシア兵を見るや否や両手を上げ、あるいは白旗を掲げて駆け寄ってくるドイツ兵、あるいは既に死んだドイツ兵、すっかりやせ細り、栄養失調と見られるドイツ兵、そこはとても戦場とは言えなかった。
ドイツ軍には、戦車も、燃料も、弾薬も、銃火器も足りないか、あるいはなかった。
もう一年近く補給は途絶している。
本国からの補給も増援もない。
辛うじて生きているのは、エストニア方面のドイツ軍だけ、そのエストニア方面ドイツ軍も恐慌状態かつ慢性的な補給不足のため有効な抵抗はできなかった。
ドイツ軍はエストニアの森林に籠ったが、ロシア軍はその森林を焼き払い、あるいは市街地を戦車で蹂躙し、ヘリコプターで森林を探し回った。
1977年7月9日、タリンでオストラント国家弁務官区とドイツ国防軍第17軍がタリンで降伏した。
ここで17万の捕虜を得たロシア軍は、鉄道でサンクトペテルブルクやノヴゴロドなどへ列車で捕虜を送った。
ここにオストラント国家弁務官区は消滅し、ドイツは東方の統治組織を一つ失った。
さらに、南ではどうだっただろうか。
ウクライナの平野をロシア軍の戦車とヘリコプターが駆け抜けていく。
6月25日。すでに崩壊していたモスコーヴィエン国家弁務官区の最後の拠点、ベルゴルドは陥落し、モスコーヴィエン国家弁務官区はこの世から消滅した。
作戦開始から一週間経ち、マリウポリとドネツクが陥落、二週間もしないうちにサポリージャ、ドニプロがロシアの手へと渡った。
7月4日、ロシアはルーシの都市の一つ、キエフを奪還した。
しかし、そこには見慣れぬ光景が広がっていた。
建物の瓦礫や草木が残ってはいるが、そこはまるで何者かに荒らされたかのように荒廃していた。
それはここだけのものではなかった。
ミコライウ、チェルニーヒウ、リガ、ダウガフピルスでも同様であった。
さらに、最近空に光の筋が見えては飛行機に命中している様子が目撃され、未帰還の戦闘機や爆撃機が顕著に増加した。
それでもロシア軍は進んでいく。
ドニエプル川を渡って無人の荒野を進んでいく。
途中に見えた謎の赤い物体を戦車や自走砲でミンチに変え、巨大な殻を持ち凄まじい勢いで突進してくる謎の生物に踏みつぶされながらも、ロシア軍は勇敢に前進していった。
そうしているうちに、オデッサ、キシナウ、ヤシを攻略、そのいずれも都市らしい光景はほとんど見られず、瓦礫の山が散見されるばかりであった。
ウクライナ方面では攻略は比較的順調であった。
しかし、ベラルーシ方面はそうもいかなかった。
ミンスクへ近づくと、全ての航空機は光に当てられて爆発四散した。
ミサイルも、ロケットもまた全て撃ち落とされた。
ロシア軍はそれらに対して戦車と装甲車、大量の銃火器で対抗したが、丸で歯が立たない。
倒しては倒しては増援が押し寄せる。
歩兵は食い殺され、或いは踏みつぶされ、戦車も同様であった。
ミンスクは何かがおかしい。
それだけは違いなかった。
結局、ロシア軍はミンスクへの攻勢を中断し、この地については防衛に注力した。
一方、リガから西へ西へ進んでいく。
リエパーヤ、クライペダ、シャウレイと進むが、ビリニュスにはどうしてもたどり着くことができない。
また例の謎の生物が押し寄せているのだ。
ロシア軍は混乱状態となった。
当然だ。抵抗勢力もなく、ドイツ軍はほぼ崩壊している。
にもかかわらず、西へ向かうにつれて謎の生物が現れ、自国の軍を蹂躙していくのだ。
混乱しない方が無理がある。
この事態が大統領の耳に入った時、大統領はそのことを報告してきた軍の長官に叫んだ。
「ふざけるな!ドイツ軍がそんなものを作ったとでもいうのか!?核でも何でも使ってそれらを消し飛ばしてしまえ!」
と。
この日から、核が前線へ運ばれ始めた。
もとより、ドイツ軍の抵抗が苛烈であった場合は戦術核を運用する予定はあったが、ほぼ全戦域で使うことは想定していない。
シベリアにある核爆弾を鉄道や車両で搬送していく。
あるいは、旧モスコーヴィエン国家弁務官区付近に一時保管している戦術核を最前線へと送っていった。
ここからロシア軍は苛烈な抵抗作戦を開始する。
BETAをおびき寄せては戦術核で吹き飛ばし、戦車で前進、歩兵はそのずっと後方にやってきたBETAを殲滅するというものだ。
これは、主にコロステン、ホメリ、ポラツクなどで多く用いられたが、その物量を前に効果はないに等しかった。
ロシアは、遂に頃合いと見てドイツに和平を申し出た。
同時に日米に和平の仲介を依頼し、アンカラでの交渉が始まった。
ドイツとロシアは、双方意見が全くかみ合わなかった。
ドイツは東方生存圏を維持するといい、ロシアは祖国を奪還すると言った。
交渉は針の穴に糸を通すように慎重に進められた一方、ドイツにも余裕はなかった。
ゲルマニアがすでに危機にさらされているのだ。
今はオーデル川やカルパティア山脈で耐えているといっても、いつBETAが大規模な侵攻を実施してドイツが陥落するか分からない。
首都機能をボンへと移す計画をまさに実行中であるが、その最中に何が起きるかもわからない。
そもそも、この忙しい時期にロシアと戦争をする暇などなかったのだ。
しかし、内部の対立が許さなかった。
ドイツ国防軍やナチ党の反発もあった。
その結果として去年ドイツ側から申し出るはずだった和平は頓挫となった。
今度こそ和平を結ばなければドイツが危ない。
そして、もはやドイツは東方を奪還できないと国防軍やナチ党を納得させ、交渉ではロシアに対して大幅な譲歩を行った。
1977年8月2日、アンカラにて両国は一つの合意に達した。
条件は次のようなものであった。
ドイツは、オストラント国家弁務官区、ウクライーネ国家弁務官区、モスコーヴィエン国家弁務官区、カウカーズース国家弁務官区の全領域、クリミア半島を返還する。
ルーマニアが1941年から1945年までにソビエト連邦から獲得したすべての領土(ベッサラビア含む)の割譲
ロシアは、ドイツに対して今後十年間の不可侵条約を締結する。
ドイツは、ロシア連邦共和国を国家として承認する。
この合意は、正式に条約となった、
1977年8月7日、アンカラ条約はドイツ、ロシア双方の批准により発効し、ドイツとロシアの戦争は終わった。
しかし、実際には東欧には地獄が広がっている。
BETAはドニエプル川西岸やダウガヴァ川周辺においてロシア軍に大量の物量で襲い掛かった。
ロシア軍は後退を余儀なくされ、ドニエプル川とダウガヴァ川の後ろまで撤退、BETAはそこから追いかけてくることはしなかった。
恐らくはBETAもここより東はまだ侵攻の予定がないのだろう。
ロシアは大河川沿いに防衛線を準備しつつ、アメリカが開発したという対BETA用の兵器、戦術歩行戦闘機の導入を決定した。
同時期、ロシアも日米のメキシコシティ共同宣言に参加、世界の主要四大国が宣言に参加することになった。
ドイツは今年の三月に渋々ながら参加している。
1976年と1977年は、ドイツにとって、ロシアにとって、そして世界の国々にとって最悪な二年間となったのである。