1977年8月2日、アンカラ条約によってドイツとロシアの間における紛争、いや、大ドイツ国とソビエト社会主義共和国連邦との間の戦争は正式に終わりを迎えた。
この戦争はわずか一年ではあったが、世界の秩序が根底から塗り替わる大戦争であった。
ロシアは旧ソ連領土のほぼすべてを奪還し、ドイツの東方領域は1939年まで後退した。
ヒトラーが生きていたなら、彼はどう思っただろうか。
総統地下壕で四人の軍人だけ残させて国防軍の悪口を言っていただろうか。
それとも、存在しない最強の軍団を使ってロシア軍を押し返そうとでもしただろうか。
彼がもう故人である以上、どうなるのかを知るすべはない。
ドイツは莫大な金を、鉄を、血を投入して作り上げた国際秩序の一角である東方生存圏を一年にして失った。
この規模の損失は、今から十八年も前のアフリカ大蜂起以来である。
あの時は、何もかもが酷かった。
イギリスの軟弱者とフランスの能無しどもはアフリカを十分に統治できず、無能の国家弁務官は現地の統制さえもできなかった――少なくとも現地を知らないドイツ人の役人はそう思っている――のに比べれば、今回はまだマシな方だ。
忘れもしない1958年9月7日、ドイツ経済は突如として行き詰った。
フランクフルトの株式市場は暴落し、市場から商品が消えた。企業の経営は悪化し、賃金は低下の一途を辿った。
この経済崩壊は、何も突然訪れたものではなかった。十年にもわたって蓄積した構造的な問題が、限界を迎えて一気に噴き出たのである。
奴隷経済。その一言ですべては説明できる。
1943年、ドイツの軍需生産が急速に膨張した中で、現代の制度とはとても思えない方法で工業は運営されていた。
従来は占領地のフランス人やオランダ人、そして国内のドイツ人を工場に入れて生産を行っていたところに、完全に金のかからない方法を導入した。
簡単な事だ。東方占領地のポーランド人やベラルーシ人、バルト人やウクライナ人、強制収容所に入っている捕虜や思想犯、同性愛者を工場や鉱山へと放り込む。
そうして、賃金を出さずにわずかな食料を与え、穴をあけただけのトイレで用を足させ、木で作っただけのベッドで寝させ、休む暇もなく働かせる。
朝には黒パンと泥水のようなコーヒー、昼には具のないスープ、夜には黒パンと粗末なチーズだけが与えられた。
それだけではない。奴隷労働者の中でも階級を付けた。
一番上にドイツ人、その下にラテン人を置き、最下層にポーランド人やロシア人を据え、その下にジプシーとユダヤ人を置いた。
こうすることで、被収容者の団結を阻害し、反乱を起こさせないようにした。
奴隷の中でも待遇には大きな差があった。
先に示したような非常に過酷な待遇に置かれたのはスラブ人とジプシー、ユダヤ人であった。
それに対して、ドイツ人を筆頭に、オランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマーク人などゲルマン民族は優遇された。
三食しっかり付き、粗末ながらも清潔で衛生的、何より最低限の医療さえもあった。
これでは、奴隷というよりむしろ囚人である。
1945年以降のドイツの工業は、こういった無賃労働と奴隷労働によって支えられていたのである。
しかし、このような労働体制は、着実にドイツの経済を蝕んでいった。
工場は次第に人件費の支払いを無駄と思うようになり、賃金の上昇は停滞し、新規雇用はストップした。
そのうち、奴隷以外の労働者は解雇されていき、熟練工も数を減らしていった。
こうした労働市場の破壊はわずか三年のうちに起こった。
高等教育を受けた者以外の者は卒業と共に失業し、日雇い労働で食いつないだり、盗みに手を出して生活することになった。
本来なら工場労働者になるはずであった者たちの多くは路上生活者となってドイツ中にあふれた。
ドイツ政府は公共事業を拡充し、失業者向けの安い住宅の建設に勤しむことになった。
住宅は、できるだけ速やかに建設でき、かつ低コストで多くの者を収容できることを基準として設計された。
こうしてできたのが「ヒトラーウォンジドロン」である。
鉄筋コンクリート製、8階建ての集合住宅、家賃は極めて安く、それでいて水道と電気が完備されている。
ヒトラーウォンジドロンは世界の集合住宅の先駆けとなり、日本ではこの住宅を参考に「団地」と呼ばれる住宅が建設されたほか、世界各地でもこれを参考に多くの集合住宅が作られた。
さらに、ヒトラー政権の
鉄道事業である。
ドイツ国営鉄道は、数少ない肉体労働者の受け入れ先であった。
鉄道事業は奴隷の参入を許さなかった。それには主に三つの理由がある。
輸送は国家の根幹であり、奴隷に任せていられない。
鉄道は技能を要求し
そして、定時性の確保と輸送の安定という極めて重要な理由
それだけではない。ドイツ国営鉄道労働者の反対、奴隷ではなく教育を受けたドイツ人に行わせるべきだという意見、そして鉄道への奴隷労働導入を巡って数多くの怪事件が発生したためでもある。
たとえば、ある時は鉄道の線路が外されていてそこに侵入した列車が脱線転覆したり、ドイツ国営鉄道総局長が轢死体で発見されたり、ベルリンで電車が暴走し脱線したという事件が起きた。
これら三つの事件は、いずれも反体制派のせいとされ、数十人が死刑に処された。
しかし、これら三つの事件の真犯人は1977年になって尚分からない。
そうして、ドイツ国鉄は操車作業、車両製造、整備点検、保線、運行、ダイヤ管理を含むほぼすべての事業で、その品質を保護することに成功した一方、求職者のほとんどはここに集中していき、苛烈な就職競争と労働者の膨張の問題に直面したのである。
また、技術上や安全上の理由、または「奴隷には分らない」という優生学的な考えから奴隷が入ることのできなかった産業があった。
電気産業、精密機械、自動車産業はその中でも有名なものである。
だが、自動車産業をはじめ多くの産業は工数削減や部品の規格化などにより次第に奴隷に仕事を奪われ、失業者の増加を招いた。
同時に製品の品質低下と値段の大幅な下落も発生した。
その結果としてドイツ製品の国際競争力は失われていき、失業者の増大に伴って内需も減退していった。
さらに、IGファルベン、クルップ、国家工場、ジーメンスといった四つの超巨大企業による重化学工業の独占は市場経済に深刻な綻びを生み出した。
ドイツ経済は1950年代半ばには外から見れば極めて順調に見えたが、その実奴隷経済と超巨大企業の莫大な黒字と軍需産業からの膨大な需要により下支えされた「戦時体制から抜け出せなかった超大国」であったのだ。
その歪みは、1958年6月11日に発された価格統制の緩和により放出され、その三か月後に「株式市場の暴落」という分かりやすい形で爆発した。
そこからドイツ経済は深刻な不況に陥った。
外貨不足、財政危機、スタグフレーション、大量解雇、中小企業の倒産、問題を挙げればきりがない。
この経済危機は、ゲルマニア合意を大きく揺さぶった。
ドイツだけではなく、イギリスやフランスの経済も大きく揺さぶった。
ポンドとフランの価値は暴落し、両国を深刻な財政危機を襲った。
ドイツから「保有を許された」植民地は、「国の支え」から「重すぎる負担」へと変わっていった。
アフリカ植民地は、元々経営が苦しくはあったが、かろうじて黒字を維持することができていた。
植民地は、軍事的に極めて大きな負担ではあったが、確実に英仏の経済をギリギリで生き残らせるためには不可欠なものであった。
ゴムや石油、銅や鉄、ウラン、ボーキサイトなどといった資源類に加え、サトウキビ、コーヒー、バナナ、カカオなどの産物、魚などをドイツに輸出することで国の経済を維持していた。
その生産を担う国営企業の収入や国内企業からの税収により、毎年イギリスとフランスは経済の崩壊を防いできた。
しかし、頼みの綱だったドイツへの原材料の輸出は、ドイツ経済が危機に陥ったことで大幅に減少した。
植民地は次の通りであった。
イギリス領シエラレオネ
イギリス領ガーナ
イギリス領ナイジェリア
イギリス領東アフリカ
フランス領西アフリカ
フランス領中央アフリカ
マダガスカル国家弁務官区
モザンビーク国家弁務官区
ツェントラルアフリカ国家弁務官区
ドイツの国家弁務官区は、名目上だけの存在であった。
国家弁務官と少数の駐留部隊と官僚が派遣される。
アフリカの国家弁務官区は、どちらかと言えば厄介者の捨て場といっていい。
予算は殆どつかず、正規軍のための装備も人員も足りない。それがアフリカの実態である。
それでもアフリカの統治を維持するため、現地のドイツ人役人は数多くの工夫をしてきた。
現地の傭兵を雇い、彼らに警察活動をやらせる。税金を金銭ではなく物品で納めさせ、その物品を本国や英仏の企業、あるいは海外の密輸業者に売り払う。
密輸先は南アフリカやイタリア領東アフリカ、エジプトなど陸続きの場所に限られるが、この密輸による収益が国家弁務官区収入の約二十八パーセントを担っているというのが実情であった。
アフリカの国家弁務官区はほぼ封建制といってよかったのである。
イギリスとフランスの植民地は、それとは異なる。
植民地を維持するために毎年巨額の予算を出し、行政機構の維持や植民地軍を維持している。
その経営は順風満帆とはいかずとも、黒字ではあった。
ドイツは英仏を生かさず殺さずで徹底的に搾り取ろうとしたのである。
そして、イギリスとフランス、どちらともその経営方針は異なっている。
イギリスは現地のエリートを登用し、彼らを介して統治を行った。
さらに、現地の人間を支配者と被支配者に分断して団結をさせないようにした。
対して、フランスは直接現地を統治する方法を取った。
現地の慣習を排除し、フランスの制度を導入し、同化を強制した。
このような方針の違いはあっても、現地の資源を収奪してその富を本国に送るという方法は同じであった。
植民地の産物は、港で船に積み替えられて本国へ輸送される。
輸送を担当する企業は様々だ。ドイツ資本、イギリス資本、フランス資本、それに加え総督府自体が自ら輸送を担当したりすることもあった。
そして本国へ輸送された原材料は、やがて現地で売られたり、ドイツへ輸送されたりする。
その結果として生じる金額は、毎年植民地を維持するのに精いっぱいの額だけである。
時には赤字でさえあった。
そんなことなど露も知らないドイツ人は、安い金で買いたたく。
支払いは無論ライヒスマルク、英仏にとっては非常にありがたい外貨である。
一ライヒスマルクは、二十七フラン、一ライヒスマルクは二十四ポンド、つまりかなりの割安である。
こうして英仏の製品はドイツに安価で供給され、英仏は多くの商品をドイツに輸出できるのである。
英仏の経済は常に苦しい。
ドイツへの賠償金の支払い、植民地の維持費用、国債の償還に加え、復興の費用が重くのしかかる。
増税、価格統制の維持と配給制、専売制で辛うじて賄われてはいるものの、いつ何を理由に破綻してもおかしくはなかったのだ。
そんな中、1958年9月にドイツを起点に始まった欧州大恐慌はドイツ勢力圏の経済を破壊した。
嗜好品の需要は急落し、コーヒー農業やサトウキビ農業を営む企業は大幅な赤字となった。
そこからはもう最悪である。
ドイツへの一時産品輸出に依存していた両国の貿易赤字は増大し、財政赤字が肥大化した。
その中で緊縮財政を選択し、国はどんどん困窮していった。
財政の悪化と共に軍の維持費も植民地の維持費も不足していく。しかし、植民地を手放すことなどできなかった。それはなぜか。
英仏の植民地は、ドイツから保有を許されたというだけではない。植民地は「維持しなければならないもの」でもあったのだ。
ドイツにとって、アフリカからの資源は重要だ。国内でコーヒー豆やサトウキビを育てることができないし、アフリカでは天然ゴムや銅も取ることができる。
イデオロギー的にはそこまで重要ではなかったとしても、経済的には極めて重要なのだ。
加えて、ドイツはアフリカを管理したくなかったという側面もある。
イギリスやフランスは、アフリカ経営を長年行ってきた。
面倒なところはすべてイギリスとフランスに任せ、ドイツはその利益を全て享受する、それがドイツにとっての理想であった。
このようにして、ドイツはアフリカからの利益を得ていたのである。
恐慌が始まって一年ほど経つと、植民地の行政は機能不全に陥り、軍隊も維持がままならなくなった。
警察は機能不全となり、現地の傭兵や協力者も従わなくなっていく。
そこに各国からの工作が加わりアフリカの情勢は次第に混乱していく。
最初は小さな出来事だった。
小競り合い、失踪、少なくなる警官と傭兵、徐々に亀裂は大きくなり、鉱山が操業を停止し、盗みや殺人が頻繁に起きるようになる。
やがて事件は大きくなり、傭兵が警官を殺し、総督府に人が押しかける。
そして、1959年2月3日、ジンバブエで起きたハラレ蜂起をきっかけに、植民地は遂に統制を失った。
事件はアフリカ中に飛び火し、元々機能不全だった植民地行政は完全に停止した。
イギリスは本国軍二十万のうち七万、フランスは本国軍二十三万のうち十一万を送ったが、装備と金を無駄にするだけで終わった。
1962年3月にはドイツの中央アフリカ軍最後の部隊がレオポルドヴィルを脱出し、ドイツは、その勢力圏からアフリカを完全に喪失したのである。
アフリカは地獄と化した。
無数の勢力が入り乱れ、どこがどこと戦っているかさえ分からない。
行政は機能せず、その地にはただ混沌が広がっているのみである。
この状態は、1977年になっても未だ解決はされていない。
それに比べれば、今回はまだマシな方だ。
ドイツ軍が占領していた場所は、ただロシアの手に渡っただけ。
少なくともドイツ以外の国から見ればそうである。
日本も、アメリカも、イタリアも、そしてイギリスやフランスもそう思っている。
しかし、ドイツだけは違う。
劣等人種に敗北した。――しかもロシア軍を
アーリア人としての優越感は、たった一年のうちに粉砕され、空っぽの「ドイツ」が残った。
国土の東を謎の生物に蹂躙され、国家としての威信も経済も国土もボロボロの中、ドイツはひとり抵抗を余儀なくされたのである。
しかし、ドイツの状況など各国は知らない。
東方生存圏を失ったことはドイツにとって資源以上の問題があった。
経済の根幹が根こそぎ失われたのだ。
ドイツ経済は、東欧の資源と労働力に依存していた。
1958年の経済崩壊、そして1963年のヒトラーの死に由来するドイツを襲った反乱と恐慌の二つの危機を乗り越えたドイツは、大規模な改革を実行した。
それは、歪みの根源たる奴隷制の廃止だ。
価格統制を大幅に緩和し、通貨改革を断行、軍需に偏っていた産業を再配分し、国家工場とIGファルベンを分割し、中小企業も育成した。
その結果生まれたのが、1950年代とは異なる搾取構造であった。
現地の資源をドイツ企業が開発し、現地労働者を使役して採掘し、それをドイツ企業の工場で現地労働者を酷使して加工し、その結果完成した安価な製品をそのままドイツ本国へと送って売る。
ドイツ本国は金融業をはじめとする第三次産業にかまけ、超大国の一角としてその富を軍需産業に注ぎ、ドイツ人への社会福祉を行う。
ドイツ人は優遇され、労働環境の保護や高い賃金、年金や健康保険までも得ることができた。
これはすべて東欧における搾取の結果である。
国内に産業が残っていないわけではない。
しかし、ドイツ国内の生産品は東欧のものと比べて高価であるだけでなく、企業からしてみれば金のかかる安全設備と保安基準が存在し、最低賃金も高い。
これは政府がアーリア人保護を目的として定めた方策で、東欧の搾取を前提にドイツ人には豊かさを与えるというものであった。
そして、何より重大なのは、
これにより、ドイツは国内での自給を余儀なくされた。
凶作や非常時の時はウクライナから食料を挑発していたのだ。
しかし、1960年代の農業改良政策や新農村運動によってドイツ国内の農業生産は飛躍的に向上し、自作農も増加していた。
同時に、麦類の生産をほぼすべてウクライナに、芋類の生産をほとんどオストラントに依存する体制は徐々に変わっていった。
それらの地域で生産される食料は、主に東欧の低賃金労働者のための食料となっていき、ドイツへの供給は先細りとなった。
だが、豊かになるドイツ国内は飽食を極め、必要以上に食料を消費するようになっていった。
やがて食料自給率は1975年に七十パーセントを下回るようになった。
1976年5月1日に突如襲来してきた謎の宇宙生物――BETAに国土を侵食され、オーデル川以東を失いかけたところで、飽食を抑え込むために配給制を実施した。
ドイツは数十年ぶりに配給制に復帰し、当分の間は食料を確保できるようにはなったはずである。
ウクライナを失うという苦難に見舞われたにもかかわらず食糧不足に陥らなかったのは、不幸中の幸いと言ってよかった。
ドイツは、危機的状況下にある。それでもなおドイツ政府はアーリア人至上主義を辞めなかった。――いや、辞められなかった。総統や改革派だけではどうにもならない。
親衛隊、ナチ党、官僚機構、国防軍の複雑な相互作用と利権が原因だけではない。それに反対するのは、間違いなくドイツに住む純血ドイツ人だったろう。彼らは政府のアーリア人至上主義の恩寵を受けてきた。
年金などの社会福祉だけではない。高い賃金と労働の安全、公共高等教育がドイツ人の為だけに整備され、彼らはこれを手放したくなくなっていたのだ。
1977年の今、ドイツはどうやって生きていくのか。
輸出産業は育っていた。1950年代にその信頼を損なった「メイド・イン・ジャーマニー」はその汚名を挽回し、東欧の労働者を酷使して安価で高品質な製品をフランスやルーマニア、ハンガリーなどのゲルマニア条約加盟国だけでなく、日本やアメリカ、イタリアなどへ輸出もしていた。
しかし、その生産地はすべて失われ、ドイツの輸出産業は今や窮地に陥っている。唯一残ったのは、ドイツ本国、特に南部と西部、中部の工業地帯である。海外生産拠点として残ったのは、ニーダーランデとベルギエンという二つの「ゲルマン系」国家弁務官区の先進地域のみであった。
それ以上の問題がある。金銭は最悪戦時国債を発行すればよいが、資源はどうするのかという問題があった。
これも解決策はあった。スウェーデンやノルウェーから高品質の鉄鉱石やアルミニウムを輸入することができる。燃料についてはラインラントもある。
しかし、何より重要な問題があった。石油である。
バクー油田は既にドイツの手から零れ落ちた。イランの油田は、ドイツとイランのアーリア人の手からホメイニーの狂信者とそれを支援した東の劣等人種によって非アーリア人の手に落ちた。
北海の油田は、イギリスと対立関係にある。10年前、グレートブリテン島はイギリスで起きた反乱によってアメリカ人どもの手に落ちて行った。そのイギリスはアメリカと共に北海の油田を開発し、ドイツの野望を何度も妨害してきた。
とはいえ、ノルウェーゲン国家弁務官区の沿岸部で石油を大規模に採掘することに成功し、ドイツが一年間に消費する石油の三割を供給できていた。
しかし、かつてのイランの石油に比べると高く、石油の調達はドイツにとって避けることのできない