特高の話を早く思いつきたい
1976年6月22日、つまりミンスクへのBETA降下から約六週間後のことである。
ロシア連邦共和国が、大ゲルマン帝国のモスコーヴィエン国家弁務官区への侵攻作戦「エカチェリーナ作戦」が決行された。
本作戦に投入された戦力は、兵力400万人、戦車4万両(予備後方配置が9万両)、ヘリコプター数千機、航空戦力合計数千機など、途轍もない量であった。
そもそも、この作戦を決行できたのは、1968年からのアメリカからロシアへの援助、さらには1970年からの日本からの経済的援助があった。
その内容は、石油資源開発や鉱山開発、天然ガス開発、非鉄金属の量産や製鉄所の建設、建築資材の大量生産を始めとした二次産業の育成、特に石油化学を中心とした重化学工業であり、そのために日米両国が産業機材を大量に供与し、巨額の融資も与えている。
日米両国ともに、ロシアに援助を加えることで経済的な恩恵と莫大な生産物を得ることを目的としており、さらに、その裏には大ゲルマン帝国に対する対抗馬を育てるという戦略とロシア地域からの難民の抑止という現実的な問題が存在していたためでもあった。
それ以前にも、各地の軍閥が独自に工業化を促進したり、産業基盤を育成したりしていた。それらの軍閥が統一に動いたのが1963年のドイツの政治的混乱、そして翌年新総統が就任演説の時に金を吸い取るブラックホールであるロシア地域への爆撃の停止、そして東部に駐屯する軍の大幅な削減を約束したからでもある。
その過程で基盤が破壊されることも多々あったが、それらは占領した軍閥により復旧され、1969年ロシアは連邦共和国として統一を果たし、元々軍閥が育てた経済基盤(農業、鉱工業、林業、建築業、軍需産業など)を活かして自国産業の育成を行ってきた。
そして、これらの経済的地力と日米の援助の結果、ロシア経済はメキメキと成長していった。
シベリア鉄道沿線やウラル山脈付近、北極海沿岸部などの発展は目覚ましく、クラスノヤルスク、マガダン、ズラトウースト、マグニトゴルスク、チュメニ、イルクーツク、ノヴォシビルスク、エカテリンブルグ、オムスク、カザン、アルハンゲリスク、ウファ、ペルミ、ムルマンスクなどの都市は大きく発展していった。
自動車工業や石油化学工業、金属工業や鉱業、機械工業、電気工業などをはじめとした工業が、日米の企業の進出により、それまで二次大戦と同レベルであったロシアの産業基盤が最新式となっていった。
これに伴い、兵器の生産も拡大、日米から戦車や航空機を購入し、さらにはウランを利用した原子力発電所の建設や核開発の実行、さらにはそれらの兵器を解体分析して国産化し、さらには教育が復興され、ロシアの識字率や高等教育率は急速に改善していった。
これらのロシアの近代化によって、ロシアの経済は大きく発展したばかりか、兵器製造力や輸送力も増強された。
1971年のカザフスタン侵攻や1972年のトルキスタン侵攻で中央アジアも完全に確保し、ここで大規模な農業が実施されることになった。綿花や小麦をはじめ、新大陸式で大規模農業が実施され、食料生産能力も大きく増強された。
これをもってロシアは単独での継戦能力を入手し、総力戦に耐えられる国家となっていた。
1971年6月10日、ロシア連邦共和国はある作戦を立案した。
エカチェリーナ作戦である。
エカチェリーナ作戦は、この三つから構成される。
聖ワシリイ作戦(モスコーヴィエン解放作戦)
オクチャブリスカヤ作戦(コーカサス解放作戦)
バグラチオン作戦(ウクライナおよびベラルーシ・バルト解放作戦)
この作戦において、最初に実施される予定の作戦は「聖ワシリイ作戦」であった。
しかし、これは飽くまで旧ロシア領奪還の構想に過ぎず、装備も兵力も足りない状態のロシアにとってこれは空想のようなものであった。
しかし、この度ドイツの混乱という千載一遇の機会が到来した。この機会を逃すはずもなく、ロシア軍は早速準備に入った。
時は1976年6月14日のこと
----ロシア連邦共和国臨時首都ノヴォシビルスク国防省第三作戦指令室----
クラーヴジエヴナ・クプツォフ元帥がそこにいる。
指令室の机には、モスコーヴィエン国家弁務官区全域の地図が貼られていた。
赤い矢印が西へ向けて何本も伸びている。
将官たちは誰一人として口を開かなかった。
それは作戦会議ではない。
三十五年間待ち続けた復讐の瞬間だった。
「諸君」
クプツォフ元帥は静かに口を開いた。
「我々は35年間近く、敗北者として生きてきた」
彼は机に視線を落とす。地図には、いくつもの都市があった。
モスクワ、ヴォロネジ、スモレンスク、ニジニ、クルスクなど、かつて祖国の大地にあった都市が描かれていた。
指令室は沈黙に包まれていた。
「我々の祖国を取り戻す時間が、遂に来たのだ」
元帥は、息を吸い、再び口を開く。ついに、遂にこの日が来たのだ。彼が父を失ってからもう37年経った。彼はもう61歳になっていた。
過去を思い返す。
父は独ソ戦で従軍し、帰ってくることはなかった。
「今作戦は、三十五年前に奪われた祖国の大地を奪還するための作戦である。」
元帥は作戦室に響き渡る程の声で言った。
元帥は起立したまま、口を開いた。
部屋に数秒の沈黙が流れ、緊張が走った。
指令室にいる誰もが、自分たちが歴史の転換点に立っていることを理解していた。
「では、作戦概要を説明する」
クプツォフ元帥は隣に立つ将官へ視線を向けた。
「ロマン・ナザレンコ大将」
「はっ!」
大将は応じた。
「作戦名はエカチェリーナ作戦であり、祖国を解放し、そしてスラヴ民族の復興を成すための偉大な解放作戦なのだ。今回の作戦の説明は、ロマン・ナザレンコ大将より説明がある。説明を頼むぞ。」
ナザレンコ大将が口を開く。
「承知しました。」
それでは作戦を説明いたします。今回のエカチェリーナ作戦は、大きく分けて三つの作戦に分けられます。
聖ワシリイ作戦を最初に、この作戦は開始となります。第一段階m国家弁務官区内に潜伏中の保安庁工作員が一斉蜂起。送電網、通信局、鉄道中継施設を破壊し、敵全域を停電状態へ移行させます。
その後、航空部隊が行政機関、空軍基地、防空司令部を攻撃。敵指揮系統を麻痺させます。
これを以て第一段階は終了し、第二段階に移行する。
第二段階として、まずニジニノヴゴロドの橋を先行して確保、そこから兵力をロシア平原内に突入させる。また、これに関わらず、ヘリボーン部隊はヴォルガ川を渡河し、森林を超えて電撃的に侵攻する。また、ヘリボーン部隊は空輸軽戦車も動かすこと。
ニジニノヴゴロドへ渡河し橋頭堡を確保したら、各方面で橋を突破する。
ある程度兵力が渡河したら、工兵隊がヴォルガ川に架橋を行い、兵站線を確保する。
兵站は、主にトラックが主力となる。兵員の補充も、主にトラックだ。ただし、サロフを確保したら鉄道の改軌を速やかに実行し、兵站の主力は鉄道に置換される。
この段階に入ったら、モスクワ、サンクトペテルブルク、サラトフを最優先目標として確保し、これらを結ぶ鉄道を建設あるいは改軌、補給線を整え、第三段階に移行する。
ここまでの侵攻にかける時間は、三ヶ月以内とします。
懸念点のドイツ国防軍ですが、現在モスコーヴィエン国家弁務官区の駐留軍の約七割、オストラント国家弁務官区、ウクライーネ国家弁務官区の駐留軍の九割は全て西方へ転換されています。
また、この方面へのドイツ軍の補給は、BETA侵攻による輸送混乱で著しく低下しています。
よって、ドイツ軍がロシア軍の脅威になるとは考えられません。
続いて、第三段階の説明に移ります。
第三段階では、タリン、スモレンスク、クルスク、ハリコフ、ドネツク、ロストフ、アストラハンの都市を線で結んだ地域へ向けて進撃する。補給方法は第二段階と同様に行うこと。
この際、必要ならばバンカーバスターやクラスター爆弾の使用が許可される。また、ドイツ軍が一か月以上抵抗する場合、戦術核の使用も許可されている。可能な限り核兵器は使うべきではないが、どうしても必要な場合は作戦総司令官の許可を得ること。
この作戦の終了目安は、1977年3月1日までである。
ここまで来たら、二つの作戦が同時に発動される。
オクチャブリスカヤ作戦、バグラチオン作戦である。
オクチャブリスカヤ作戦は、コーカサス方面への侵攻を目的とする。
一次侵攻ラインは、ノヴォシロスクからハサヴユルトである。この一時侵攻は開始から三週間以内に終える事。
二次侵攻は、グルジアおよびアゼルバイジャンの完全制圧を目指す。
最後にアルメニアを制圧し、オクチャブリスカヤ作戦は終了する。
この作戦の終了目安は、二ヶ月とします。
バグラチオン作戦は、バルト・ベラルーシ・ウクライナ方面への侵攻を目指す。ここからはドイツ軍が戦闘機を多く飛ばしていることが予期されるため、地対空ミサイル及び対空砲を多く配備する。航空戦力は、この方面に多く差し向けること。
第一次段階として、ウクライナ方面へ戦力を集中する。侵攻ラインは、ヘルソン、アレクサンドロフスク、ドニプロ、キエフ、チェルニーヒウ、ビデフスクである。
また、クリミア半島へ侵攻が可能なら侵攻する事。
この際、オクチャブリスカヤ作戦でケルチを確保しているなら、ケルチ橋を通過しセヴァストポリを確保する事。クリミアについては二作戦の共同制圧目標である。
同時並行で、北部への侵攻を進める。侵攻ラインは、リガからビデフスクとし、北部方面の部隊は一斉侵攻する。
これにてエカチェリーナ作戦は終了し、ドイツ軍はなすすべなく祖国の大地を明け渡すでしょう。
以上で作戦説明を終了いたします。
ナザレンコ大将は口を閉じ、クプツォフ元帥は静かに口を開いた。
以上で、作戦説明を終了する。
作戦開始は、1976年6月22日0400とする。
参謀たちや将官たちが作戦室を出て行った。若い参謀たちは興奮しながら出ていき、老いた参謀や将官たちは沈黙し、しかし握りこぶしを震わせながら出て行った。彼らの内心は複雑だろう。
残されたのはクプツォフ元帥のみ、かれは静かにこうつぶやいた。「父は、どうなってしまったのだろうか。」
この作戦は、ドイツにとっても、ロシアにとっても悪夢となることは、この時の彼らにはまだ知る由もなかった。
ドイツには、まだ油断があった。
「ロシアが今侵攻してくるはずはない」「奴らがこの土地を取り戻しに武力攻撃を仕掛けるなど絶対にない」「最近流れてくるウラル以東の工業地帯は我々を欺くための嘘である」と。
その油断が、まさかあの
そして、ロシアが35年前にバルバロッサで打ち破られ、1943年にソ連の組織的抵抗が消え失せたのをいいことにドイツが一方的に線を引いて三十年も過ぎた。そのことをドイツはすでに忘れ去り、この地を「ドイツ人の土地」としてきた。
しかし、ロシア人がその恥辱を未だ覚えていたということを、身をもって知ることになるのである。