マブラヴ ラグナロク   作:玉葱狂い

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前史(冷戦期)

1958年

任期満了に伴い第二十五回衆議院議員総選挙が実施される。この選挙で翼賛政治協議会は敗北し、非推薦候補が躍進、過半数を割る。非推薦候補の中には、1946年の選挙から政党を名乗る存在があったが、政党と公然と認められることはなかった。

党は六つで、立憲自由党、国民自由党、自由倶楽部、独立倶楽部、日本協同党、社会協和党である。

これらの非推薦候補が提出した内閣不信任決議案が可決し、近衛内閣は退陣した。

 

この選挙で翼賛会が敗北したのには、理由がある。

1947年の内閣発足以来、支持率は高かったが、それは軍がメチャクチャをやったために軍の支持が低下したこと、そして近衛の人気があっての物だった。

アジアの富と資源を利用した経済的自立、1950年に発足した通産省による経済的開発、さらには軍の抑制や経済発展による雇用の確保や農村の状況の改善があって、ずっと高支持率であった。

しかし、1955年以来ずっと投入されてきた巨額の宇宙開発費、そして緩和されながらも依然として続く国家総動員体制の中で近衛内閣の支持は低迷しており、選挙では定数480のうち、200を取ることもできなかった。

 

これにより、9月13日、立憲自由党、国民自由党、自由倶楽部、独立倶楽部、日本協同党による連立政権が発足する。

内閣総理大臣は重光葵、1957年1月の狭心症の発作を生き残り71歳で内閣総理大臣に就任した。

重光内閣の大蔵大臣は賀屋興宣、通産大臣は岸信介、内務大臣は鳩山一郎で、首相は外相を兼任している。

 

重光内閣は、翼賛体制の弱体化や国家総動員体制の解体に踏み切った。

しかし、翼賛体制は地方組織や翼賛会という公事結社と直接的に結びついており、産業報国会や大日本婦人会、隣組などの戦時下に設置された諸組織は順次廃止されたものの、翼賛会そのものの解散は実現しなかったうえ、それらは政党としての「大政翼賛会」に取り込まれた。

それでも、解体された組織はあった。

全国金融統制会、普通銀行統制会、学校報国隊がそれにあたった。

 

1959年11月11日、国家総動員法改正法案が貴族院本会議で可決された。近衛内閣ですでに廃止されていた金属回収令のほか、徴用制度の廃止、ストライキ権の回復など戦時統制の大部分が撤廃された。一方で、食糧管理制度および電力管理制度については、国家安全保障および経済運営上の観点から存続が決定された。

労働組合の活動は久しぶりに合法化された。社会協和党系の日本労働総同盟、翼賛会系の産業報国会が二大勢力で、この二つが様々な業種における労働運動や労使関係についてせめぎ合っていくことになる。

 

そんな日本は、大東亜共栄圏の盟主である。

1958年時点において、大東亜共栄圏には想像以上に組織が存在する。

たとえば、東亜理事会というものがある。常任理事国は日本、中国、インド、インドネシア、満洲、タイの六か国に加え非常任理事国四か国が加わる。

常任理事国には拒否権が与えられている。これは、アジア諸国が自立心を見せ共栄圏で日本に不利になるような決定が行われそうになった時にそれを妨害するという目的があった。

共栄圏総会というものも存在しており、こちらでは大東亜共栄圏の規則や予算を決定することになっている。

大東亜共栄圏の全加盟国の代表が総会に出席し、多数決で物事を決する。

加盟国は、日本、中国、満洲、蒙古、チベット、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、パプア共和国、ヒンドゥスターン共和国、ネパール、ブータンとなっている。

東亜理事会の直下には、共栄圏連合軍を結成することができる。その最高統帥機関が「大東亜共栄圏東亜理事会統合参謀会議」であり、東亜理事会の承認の元軍事作戦を行うことができる。

共栄圏には、軍事部門、経済部門、外交部門、研究部門、宇宙部門について様々な機関が存在し、加盟国に恩恵を与えることで共栄圏に残存する利益を与え共栄圏から脱退する試みを妨げている。

 

ドイツ、欧州の覇者にして第二次世界大戦の勝者、アーリア人至上主義を掲げる国家であり、1933年以来国家社会主義ドイツ労働者党の一党独裁が続いている。

どんなドイツは、混乱の渦中にあった。

 

1958年9月の株価暴落以来、急速に悪化し続けていたドイツ経済と財政は、それ以前にも危機の兆候はあった。

政府赤字は年々膨張し、国債残高は天文学的な規模へ達していた。失業者は増加の一途をたどり、製品の品質は悪化し続け、生産量は減少し、事故は増加し続けた。

結果として、メイド・イン・ジャーマニーの名に汚名を着せたのだ。

 

原因は明白だった。奴隷経済への依存、国家工場やIGファルベンをはじめとする四大軍需企業の独占体制、そして党や軍隊と結びついた既得権益と汚職によるものであった。

そのうえ技術開発は依然として軍事部門に偏重されており、戦時体制から平時経済への転換が進んでいなかった。さらに硬直した官僚機構は改革を阻み、経済と社会の停滞をさらに深刻なものに変えた。

 

民間消費の停滞も深刻であった。第三帝国は世界に先駆けてテレビを普及させたが、放送内容の大半はプロパガンダ映画や政府発表で占められていた。冷蔵庫や洗濯機、自家用車といった消費財の生産は後回しにされ、国民が自由に購入できる家電製品は極めて限られていた。

自家用車は1950年代から急激に成長し、世界を席巻できるほど優秀で、そして世界一と言える品質の物となった。

しかし、先述した奴隷労働への依存と市場競争の欠如により品質管理は形骸化し、車両の信頼性は低下し、ただただ値段が安く信頼性の低い製品へと落ちぶれた。

 

1960年の時点において、ドイツ製の家電製品や自動車は依然として安価ではあったものの、品質やエネルギー効率の面ではアメリカや日本製品に大きく後れを取っていた。かつて世界をリードした工業国家は、軍事的栄光の陰で静かに競争力を失いつつあった。

 

そんなドイツは、ゲルマニア合意を率いている。

ゲルマニア合意は、1947年に発足した国際的な組織である。

原加盟国は、ドイツ、スペイン、イギリス、フランス、トルコ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、アイルランド、ドイツの保護国であるデンマークとスロバキア、そしてイタリアの保護国であるギリシャ、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア、アルバニア、エジプト、スーダン、オマーン、イエメン、さらにはスペイン保護国であるモロッコ、アルジェリアからなる加盟国数で見れば大きな同盟である。

だが、この同盟は1949年にポン=サン=マルタン条約とその後の問題の結果として、イタリアとその保護国、トルコ、ブルガリア、さらにスペイン、ブルガリアが1950年にゲルマニア合意を離脱してからは、ドイツ、アイルランド、ハンガリー、ルーマニアと傀儡政権が支配する英仏、さらにドイツ保護国のスロバキアとデンマークが残る比較的小さな同盟となった。

 

ゲルマニア合意の特徴は、なんといってもドイツの強い権限である。

ゲルマニア合意の盟主たる大ゲルマン帝国には、加盟国を指導し、時には加盟国の領内で軍を無断で演習させることもあった。

ヒトラーの傀儡と化していたムッソリーニは発足当初は抵抗しなかったが、やがて中東の石油で栄えるようになるとムッソリーニは却って不満を持つようになり、スペインはアンゴラとモザンビークを巡る紛争で危機感を高まらせ、トルコやブルガリアも離れつつあった。

その一方、ハンガリーやルーマニア、アイルランドにおいてはドイツに対する好感情は依然強く、また、ドイツもこれらの国々に強制的に干渉することはほとんどなかった。

 

また、中央機関は殆どドイツに集中しており、機関の恩恵もほぼドイツが受ける形であったうえ、英仏などは際限なき負担を強いられた。資源の安価での取引や労働力の提供もそうであったが、特にドイツが英仏へ加えた制限は過酷であり、交戦権の否認や本国軍10万以下、海軍新造禁止、空軍や戦車の使用禁止などといった、ヴェルサイユ条約並みの苛烈な戦後が待ち受けていたのである。

その一方で、ドイツはアフリカ植民地維持のための負担を嫌い、殖民地はイギリスやフランスに放任した。

植民地軍の本国への送還は禁止、その一方でアフリカには国家弁務官が派遣されていたため、現地の統治は英仏とドイツの高官でゴチャゴチャしており、よりによってドイツ高官が英仏の統治に対して介入する権利も持っていた。

さらに、莫大な負担とドイツへの賠償金のために植民地軍や警察は満足な装備も持たず、人員も足りず、傭兵を雇ったり地方を放置し都市だけを管理したうえで鉱山や農場で過酷な労働環境を強制し、さらにはドイツ本国で使うため奴隷を連行したりもしたのである。

 

競争力を失いつつある中、不幸なことに1958年11月にはゲルマニア合意全てを巻き込む巨大な恐慌が起きた。

工業力はほぼドイツに結集しており、ルーマニアもハンガリーも十分な生産能力を持たなかった。

加えて、イギリスやフランスなどの敗戦国は残存産業設備をドイツによって全て「賠償」として搬出されていたため、代替で生産できる地域など存在していなかった。

 

この大恐慌の中、軍も党も官僚機構もすべてが混乱する中、1959年2月3日、遂に事件が起きた。

西アフリカ大反乱である。

 

西アフリカには、イギリスやフランスが統治する植民地がある。

そして、西アフリカは東アフリカや中央アフリカの統治と比べてはるかに不安定だった。

その理由は、イタリアやアメリカがひそかに地下組織を援助していたことに加え、遠隔地であること、ドイツ軍の駐留もこの地域には限定的であったためである。

さらに、ドイツ本国は銅やゴムのとれる中央アフリカなどを優先しており、西アフリカは等閑視されているといってよかった。

 

西アフリカの民族主義者たちは長年地下活動を続けていたが、1958年秋のドイツ経済危機と本国の混乱を見て、ついに武装蜂起を決断した。

武装蜂起は、セネガルからカメルーンに至るまでの西アフリカのほぼ全域にわたる。

武装蜂起を行った勢力の中には、民族主義者だけでなく、汎アフリカ主義者、部族連合、共産主義者も多数含まれていたが、中には自由フランスの残党やアメリカのエージェントも含まれており、西アフリカは混乱に包まれた。

ドイツやイギリス、フランスは鎮圧を試みるも、現地の英仏殖民地軍は装備も人員も慢性的に足りておらず、補給も滞っており士気は低く、さらに欧州での政治混乱と経済危機の中で十分な増援も送ることができないまま反乱鎮圧を試みることとなった。

 

実は、この反乱には、外国も大きく関わっていた。

アメリカは潜水艦でドイツの輸送隊を監視し、諜報員や工作員を忍ばせていた。自由フランスもこの地域に潜伏し、地下組織を支援していた。

それだけではない。

イタリアやスペインもサハラ砂漠を経由して武器や諜報員を送って工作を行い、さらに日本さえもイタリア経由で武器を送っていた。

ブラジルと植民地政府は西アフリカ周辺でたびたび衝突を繰り返しており、西アフリカは常に緊張に包まれた不安定な地域だったのだ。

 

その結果、1960年10月に総督府のあったヤムスクロを喪失し、1961年1月にフランスは最後の拠点であったアビジャンを失陥する。同月中にイギリスは沿岸部最後の拠点であったラゴスを失い、西アフリカから完全に撤収した。

これで事態は解決したかに思えたが、現地での蜂起は想像以上に混沌としており、その血みどろの戦争は十年以上にわたって続く酷い物となった。

 

一連の西アフリカでの武力紛争でのドイツの敗北は、ドイツ国防軍の無敗神話を大きく傷つけ、第三帝国がもはや巨大な帝国を保持する能力を失ったことを世界に示した最初の事件だった。

 

この危機の中、1960年5月1日にはドイツは世界で初めての月面着陸を果たし、大きな宣伝効果を上げた。また、西アフリカでの敗北は政府は発表しておらず、ドイツ国民は知る由もなかった。

 

アメリカ合衆国、敗戦国でありながら、世界最大の経済大国であり軍事大国の国である。

そんなアメリカ合衆国は、The United Nationsを発足させた国であり、原加盟国のうちの一国である。

史実ならば日本では「国際連合」と称され、世界様々な国が加盟したのであるが、この世界では超大国の単なる一ブロックに過ぎず、「連合国」と呼称される。

 

アメリカ合衆国は、敗戦しても経済成長と技術革新はずっと続いていた。

当然のことだ。賠償金も課せられていなし、殖民地が奪われたわけでもない。しいて言えば、イギリスとフランス、オランダなどの国が植民地を喪失し、その亡命政府の経済が苦しい程度だ。

イギリスはカナダへ逃れ、フランスはギニアとニューカレドニア、ケルゲレンだけでギリギリ生き残った。オランダに至ってはアンティル諸島とスリナムで生き残っているだけの状態だ。

そして、その三国いずれも連合国の原加盟国であり、アメリカの援助を受け立場を維持し、当然その会合にも参加する。

連合国には、安全保障理事会と総会がある。そして、安保理の下には連合国軍を設置することができるようになっている。これは史実と変わらないことだ。

連合国は、1947年12月に発足した。

原加盟国はアメリカやカナダ、亡命政府を含めて14ヶ国ある。

1948年から加盟国が徐々に増え、1958年時点では、キューバ、ドミニカ、ハイチ、ジャマイカ、パナマ、コロンビア、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ニカラグア、コスタリカ、ホンジュラス、グアテマラも加盟している。

メキシコについては、日米間での外交関係の調整などの点から加盟していない。

 

イタリア王国、第二次世界大戦の勝者、ローマの後継者、国家ファシスト党の支配する独裁国家である。

そんなイタリアの指導者ムッソリーニは、1943年、エジプト南部で敗北しつつありドイツが東部戦線で勝利し続けていた時からヒトラーの傀儡に成り下がりつつあった。

1947年のゲルマニア合意発足の時も、疑問には思いつつも抵抗しなかった。

しかし、1947年12月から中東の石油やリビアの石油を背景にイタリア経済が爆発的な成長を開始すると、ドゥーチェの威厳は最盛期を迎えた。

そんな1949年にヒトラーの野心がスイスへ向いたのだ。ムッソリーニは国防とスイスの中立性を背景にドイツへ抗議、更には1949年2月24日、ドイツに無断でポン=サン=マルタン条約を結び、スイスの永世中立性を保証し、ゲルマニア合意がそれを侵さないことを確約させた。これを機に独伊関係は仲違いし、ムッソリーニの暗殺事件が発生した。

暗殺事件は民主派が起こしたのだったのだが、当時の国民はこれをドイツが起こさせたものと信じて疑わず、独伊関係は決定的に悪化し、1950年2月にイタリアはスペインやトルコ、ブルガリアと共にゲルマニア合意を脱退した。

 

イタリア、スペイン、トルコ、ブルガリアは、マルタ共同宣言を発し、地中海協約が発足した。

反ドイツという一点で結実した同盟であったため、内ゲバは絶えなかったが、ひとまずドイツ勢力圏からの離脱には成功していた。

1950年7月にはスペインとポルトガルの間でイベリア連合が発足し、地中海協約はイタリア、イベリア、トルコ、ブルガリアの四つの主要国から構成されるようになった。

 

イタリアの経済は1947年に設立された炭化水素公社に支えられている。

炭化水素公社は、リビア、エジプト、スーダン、イラク、オマーン、イエメン、バルカン、湾岸にそれぞれ支社を持つ。

エジプト、スーダン、イラク、オマーン、イエメンの支社は、株式を炭化水素公社が80%、現地政府が20%を有する契約になっており、一応は現地に還元されたが、その利益のほとんどはイタリアへ向くようにできていた。

石油取引通貨はリラ、これ以降、イタリアは日米を対象とした石油貿易で隆盛し、そのオイルマネーを先端産業や金融、保険、土木工事などへ費やしていくことになる。

 

 

 

時は1958年、世界は冷たい空気に覆われていた。

大日本帝国、アメリカ合衆国、ドイツ第三帝国による三つ巴の冷戦の時代である。

三つの超大国はすべて核保有国、もし全面戦争が起きれば世界が滅ぶような状況の中、各国は代理戦争や謀略、技術開発を通じ、冷たくも熱い戦争を続けていた。

第二次世界大戦はたった13年前に終わった。だが、それは単なる新しい対立の始まりに過ぎなかったのだ。

世界に平和など来ない。対立に終わりなど来ない。

そう信じて、各国は冷たい戦争(Cold War)の時代を生き、そして各々技術を磨き、終わりの無い軍拡に勤しむのであった。

 

1960年5月1日

ドイツ、世界初の月面着陸に成功する

 

1960年9月2日

重光葵内閣総理大臣が戦勝観艦式の最中に倒れ、東京都内の病院へ搬送される。

数週間医師が手を尽くすも9月21日、重光首相は死去した。72歳だった。

 

1960年10月4日

新しく岸信介内閣が組閣される。

岸を首班に、大蔵大臣を賀屋が、通産大臣を池田勇人が担当するという形だ。

与党は大政翼賛会、日本協同党、社会協和党の三党で、新総理は経済成長と帝国の威信を高めることを宣言した。

また、翼賛会、協同党、社会党は併せても過半数を得られておらず、衆議院が解散された。

同時期、ローマで五輪が閉幕

 

1960年12月1日

ドイツ、大恐慌の対応を一応完了、公共事業の拡大と軍備縮小、緊縮財政、ゲルマニア計画の大幅な縮小が行われたが、緊縮財政の為に経済は却って失速する。

しかし、失業者の為の安アパートの建設や失業者の雇用政策の結果社会不安は縮小し、ドイツは辛うじて危機を乗り切る。

 

1961年1月

リチャード・ニクソンが前年の大統領選挙の結果に基づき大統領に就任する。

 

1961年3月

抵抗勢力が多数あったため統治に苦戦し、資金不足でもあった第37軍と第29軍を本国に復員し、マラヤ連邦とブルネイ王国、サラワク共和国、北ボルネオ国を独立させることを決定する。翌年二月に独立

 

1961年12月

日本空軍偵察機が秘密裏にアリューシャン列島上空を飛行し、撃墜される。

非武装地帯であるはずのアリューシャン列島のアッツ島にミサイルサイロ、海軍基地、レーダーサイト、航空基地が存在することを確認し、帝国政府はアメリカに抗議し、日米両国が艦隊を派遣し、太平洋冷戦は一触即発の状態に陥り、これ以降緊張が絶えない。

 

1962年1月

メキシコが仲介を申し出る。

アメリカは搭乗員を日本に帰し、アッツ島のミサイルサイロの撤去を行う、その一方で日本はアリューシャン列島の飛行を二度と行わないことを確約し、日米両国ともに同地域へ海軍を派遣しないことを確約するメキシコシティ協約によりアリューシャン危機は終結し、世界は核戦争の危機から救われる。

同時に東京とワシントンDCを結ぶホットラインが設置された。

 

1963年3月

1962年4月から御剣財閥幹部による殺人事件を発端として行われた調査の結果が、思わぬ形で発表された。

それは、御剣財閥と峯坂商会の不正取引の証拠であり、通産省の一部と大蔵省の一部、内務省から国会議員、政府閣僚の一部に至るまで政財界のほとんどを巻き込んだ巨大汚職事件だった。

その報告書はあまりにも大きく、全ての国民が関わっているのではないかというほど大きかった。

報告書は3月19日に公開され、その翌日には数百にも及ぶ逮捕状が発行され、何人もの政財界から軍の重役が逮捕された。

腐敗の根源だった峯坂商会の経営陣はすべて逮捕され、峯坂は完全に崩壊した。

峯坂商会と御剣財閥の癒着が明らかになった今、御剣財閥の株価は落ち、それどころか御剣やその子会社との取引のあった企業の全ての株価が暴落している。

日本経済どころか大東亜共栄圏の経済は危機に直面し、政治も軍も信頼は地の底へと落ちた。

岸首相をはじめいくつもの閣僚は関わっていなかったが、閣僚の一部や省庁が関わっていたことが知られたため責任問題となって岸内閣は総辞職とともに天皇の裁可を得て衆議院を解散した。

その次の内閣総理大臣は、現職の大蔵大臣、賀屋興宣に決まった。賀屋内閣は、日本の更なる改革と経済政策に全力を注ぐことになるのである。

 

この世界では、五摂家の成立がマブラヴ正史とかなり異なっている。

時は幕末の頃、公家や摂関家の中には、まだ「公家の時代は終わりだ」と考えるものが少なからずいた。

さらに、南紀派、つまり紀伊藩や譜代武家の者達の致命的なやらかしがあった。それは、公家と武家の婚姻であった。

例を挙げれば、ある皇族の内親王が出奔して紀伊藩の当主の長男と婚姻、間もなく紀伊藩主に勘当となったが、このとき煌武院家が生まれた。

ほかにも、斎御司は西園寺家の三男と尾張徳川の次女の婚姻、宰司は鷹司の三女と紀伊徳川の三男との婚姻、斑鳩は久我の次男と紀伊徳川の長女との婚姻で発生した。

九條に至っては、摂関家の九條当主が出奔し、三卿のうち清水家と次女と接触し婚姻した。九條家のご隠居様は激怒してその当主を勘当し、次男を党首に据えた。

これら五摂家(煌武院・斎御司・宰司・斑鳩・九條)と公家および武家との関係は極めて悪く、出奔した者はすべて勘当され、追放された。

九條に至っては、出奔した元当主を「十三條家」と罵り、非難している。

 

これらの事態を巡って幕府は非常に厳しい処分を下した。

紀伊藩および尾張藩の藩主を蟄居処分とし、さらに親族を江戸で軟禁してしまった。

そして、田安徳川家と水戸徳川家の一部を分離して派遣して一時的に藩主とした。

さらに、この事態を引き起こした譜代武家を改易とまではいかなかったが藩主を切腹させ、関与していたとされる武家の当主が大量に切腹した。

加えて、南紀派の大量処分を実行し、役人から知識人まで南紀派はまとめて消された。

五摂家は偶然にも幕府役人に発見されることはなかったが、日本中がから目の敵にされていた。

この一連の事件は、文久二年に起きたため、文久の大獄と呼ばれている。

その後は、戊辰戦争、西南戦争を経ても生き残っていたが、これら五摂家は生活的にもかなり苦しかった。

そこで、煌武院家の分家として御剣家を創設し、企業経営をさせることとした。

経営には五摂家などが大いにかかわっており、さらに御剣家の家臣として月詠家を創設した。

しかし、御剣商会は政府からの支援を受けられるわけでもなく、むしろ冷遇され続けた。就職しに来る者などおらず、しばらくの間はイメージの改善に大いに時間を割かれる羽目になった。

 

しかし、それでも御剣財閥や五摂家はくじけることなく企業を育て続けた。

他の企業や財閥が手を付けない産業に参入していき、苦難ではあったが次第に成長し、国民からのイメージは徐々に改善されつつあった。

これらの五摂家とそれに付属する家々は、「新将軍家」というあからさまに怪しい秘密結社を立ち上げた。

この設立は、1919年のことである。

当初はバレることはなかったが、1921年に事が露呈すると結社禁止となり、イメージは再び悪化、当事者たちは「これは一部の者の独断であり我々の総意ではない」と説明したが、元が出奔の家である以上国民からの視線は非常に冷たく、苦しい立場にあった。

それでもめげずにこれらの「自称武家」は成長し、優秀な官僚や軍人を輩出するまでになった。1931年のことだ。

 

また、「新将軍家」という組織は、1921年に結社禁止となっていたが、1924年には解除された。

政府の意図はわからなかったが、ともかくこれで合法的に活動できる、そう思っていた矢先だった。

1925年、治安維持法が制定された。

間もなく、「新将軍家」構成員は全員が治安維持法で逮捕された。「新将軍家」の構成員はわずか30名ほどだったが、そのほぼ全員が「自称武家」、あるいは幕藩体制のシンパであった。

 

五摂家や御剣などは摘発を免れたが、初の治安維持法容疑者を出したというイメージが付き纏った。

 

政府の意図はこれだったのだ。新将軍家を合法化しておいておびき出し、治安維持法を制定して一網打尽にする。

少なくとも自称武家たちはそう思っていた。しかし、実際は普通選挙法の制定に伴い治安維持法が同時に制定されただけだった。

 

これ以降、日中戦争や太平洋戦争でこれらの「自称武家」は優秀な軍人や官僚を輩出し、御剣財閥は戦時の中でこれまで急成長を遂げていくのだった。

 

戦後にかけて、御剣財閥は再び成長する。戦時に手を付けたレーダーをはじめとする軍需事業、さらにはどこも手を付けない珍妙な産業に手を付け、御剣は成長した。

しかし、それと同時に大きな腐敗もあった。

御剣財閥のある一部門が、峯坂商会を創設した。これは経営陣も知る所であったが、黙認された。

そこからだった。御剣が腐り始めたのは。

 

御剣財閥は、内部に持つ軍人や官僚のコネを利用して売り上げを伸ばそうと試みた。

通産省や大蔵省は革新官僚の下であったため手が堅く、簡単には折れなかった。

しかし、内務省や国防省、運輸省に潜む事には成功した。

国防省に手を回して峯坂を経由して軍用円で取引を行い、レーダーや溶接技術、通信機などを安く納入し、その見返りに国防省や内務省からたんまりと金を貰っていた。

さらに、その金を大蔵省や通産省の一部に賄賂として贈与し、事業を貰おうとした。

しかし、革新官僚の根城であったため中央にまでは手が回らず、買収に成功したのは省内の小さい組織だけだった。

 

御剣による一連の不正の隠蔽は完璧なはずだった。そう、完璧なはずだったのだ。

しかし、御剣財閥の幹部が殺人事件を起こした。それによりすべてが瓦解したのだ。

 

通産省や大蔵省が御剣に寝返らなかったのには理由がある。

それは、その官庁が革新官僚の牙城であった事以上に、当時の経済成長計画が影響した。

利益誘導と相互作用で業界を発展させ、国全体での産業の底上げを狙うものである。

当然通産省は目標や利益誘導先、目的とする産業を決め、生産計画を発表し投資を割り振り技術を共有させる。大蔵省はそのための金を出し、予算を決める。

御剣のことなど眼中になく、来たるべき国家総力戦と未曽有の冷戦に勝ち、国民を富ませ、世界最大の超大国になるための計画を実行していたのだ。

 

御剣は、五摂家は、「武家」は、再び振出しに戻った。

努力ではなく、不正に頼った結果だ。

彼らは公家ではない。武家ではない。華族でもなく、士族でもなかった。

彼らが、彼ら自身が、自らがどうやって大きくなったかを振り返らない限り、彼らは永遠に復活することはできないだろう。

もう、戻れない。峯坂は、御剣は、この事件の前の信頼を回復することはできない。

残ったのは、大量の赤字と、「残ってはいる」大量の部門と建物、さらには資産と社員であった。

 

1963年10月

ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーが死亡、ドイツは再び大混乱に見舞われる。

事前に次の総統はシュペーアにせよとの指名があったが、総統の死と共に親衛隊も国防軍も官僚も東方もゲルマニア合意も大混乱に陥り、英仏殖民地(コンゴやアンゴラ、モザンビークはドイツが英仏に丸投げした)で大規模反乱が発生、英仏殖民地軍も、現地に派遣されていた少数のドイツ国防軍も反乱を鎮圧することができず、間もなく崩壊、ゲルマニア合意は全てのアフリカ植民地を失った。

このアフリカ大反乱のあった地域も例に漏れず様々な勢力が乱立しており、内戦は地獄の様相を呈していた。

 

イギリスでは「女王陛下の最も忠実なレジスタンス」による大反乱が発生し、混乱のままに全土が掌握、4月にシュペーアが総統に就任してからも継続していたが、軍を動かしても鎮圧できる見込みはなく、イギリスはレジスタンスが完全に掌握し、エリザベス女王が帰還し、イギリスが復古される。

亡命政府は完全に終了し、イギリスは国家として復帰する。

ドイツ政府は当初これを認めず、イギリス再占領を視野に入れてドーバー海峡へ大艦隊を派遣した。

これに対しアメリカ合衆国、カナダ、亡命政府時代からイギリスを支援していた連合国加盟諸国は軍艦を派遣し対抗し、1964年6月11日、「海峡危機」が始まった。

 

海峡危機は、アリューシャン危機に次ぐレベルの重大な危機であった。

この危機では、米海軍の軍艦やカナダ軍の軍艦とドイツ軍の艦隊が衝突を繰り返し、戦争が始まる一歩手前の状況だった。

 

危機は次第に深刻化し、1964年9月27日、アイルランド政府の仲介により、ドイツ首脳とアメリカ首脳はアイルランドの首都ダブリンで会談を開き、相互に条件について話しだした。

 

ドイツ側は、イギリス独立の不承認、在英ドイツ資産の保護、英国の軍事的中立化を要求し、

 

アメリカ側は、イギリス主権の承認、ドイツ海軍の撤退、武力行使の放棄を要求したため、交渉は難航した。

 

双方とも開戦命令以外のほぼ全ての準備を完了していた。

海峡上空では戦闘機と偵察機が飛び交っており、フランス北部ではドイツ軍が増強し、イギリス南部では連合国軍が防衛体制を構築した。

 

そんな中、1964年10月11日、米海軍空母機動部隊とドイツ海軍主力艦隊が異常接近する事件が起きた。

双方の艦艇が回避行動を取らなければ砲撃戦が発生していた可能性が高いとされており、米独間での緊張は非常に高まり、世界を核戦争への恐怖が覆った。

東京で、南京で、ニューヨークで、パリで、ゲルマニアで、ローマで、市民は恐れおののき、心理は今にも爆発しそうだった。

全世界の株式市場で同時に大規模な売りが発生し、株価は全世界でほぼ同時に下落した。

 

1964年10月25日、ダブリン協定が締結された。

ドイツはイギリスの独立を承認し、ドーバー海峡から撤退

その一方でイギリスへの核ミサイルの搬入は禁止で、イギリスに存在するドイツ資産の補償や、ドーバー海峡での海軍の演習は事前の通告が必要となった。

同時に、ゲルマニアとワシントンDCを繋ぐホットラインが設置されることになった。

 

1963年11月

アメリカにて公民権法制定

 

1964年4月

半年にも渡る大混乱の末、いよいよ議会で総統指名が行われる運びとなった。

結果はシュペーアが信任を獲得し、二代目総統に就任した。

しかし、シュペーアは思わぬ奇行に走る。

就任してわずか三日で突如総統選挙の実施を公示し、ドイツ全土での男女普通選挙による総統選挙が開始された。

これは、公示のわずか二日前に制定された総統命令「国民投票令」によって、総統の選挙は20歳以上の男女の秘密普通選挙により行うこととされていたからである。

総統候補は、ボルマン、シュペーア、ゲーリング、ゲッベルス、ハイドリヒであったが、ゲッベルスはシュペーア派に与し、ボルマンはナチス党に残存、ゲーリングは国防大臣として残っていた。

 

1964年5月

コロンビアで内戦が再開される

 

1964年6月

総統指名選挙が正式に終結、結果はシュペーアの勝利だったが、ゲーリングとの僅差だった。

この結果ドイツ政治はまたしても紛糾し、相互に暗殺を企図する事態となった。

しかしゲーリングは潔く敗北を認めた。政争はしたくなかったのだろう。

ハイドリヒは親衛隊の維持を前提に反乱を停止した。

ボルマンはナチス党の重要なポストを握りつつもシュペーアの就任を渋々認めた。

 

1964年7月

ドイツの政局は一時的に安定した。

安定はしたが、経済や外交、そして東方生存圏は本当に酷い状況だった。

東方ではレジスタンスが蜂起し、国家弁務官区の統治は殆ど機能していない。勢力はバラバラで、対独協力者に民族主義者、ソ連軍残党、共産主義者に民族主義者など諸勢力が存在する。

そこに親衛隊や国防軍、国家弁務官区の軍隊が反乱鎮圧に出向いて乱戦が続いている。

そのため、新総統はまず改革と経済政策に注力することになった。

 

1964年9月

新憲法制定と新経済計画、国家改革大綱が決まった。

これに基づいて新政権は歩みを進める。

新憲法では総統の地位や権限についてなども定められることになる。

新経済政策では、大規模な通貨改革と価格統制緩和、さらには軍需に偏重したリソースの再配分と新興企業の育成を行った後、「カルテル法」を制定し、それに基づいて巨大企業を分割することを最終目的に据えた。

国家改革大綱では、ナチス党の改革や奴隷制の廃止、国防軍や親衛隊、官僚機構の改革などが含まれた。

これらの三大改革のうち、一部は中途半端に終わったが、経済改革については大きな成功を収め、通貨の正常化のほか、国家工場やIGファルベンの分割を成功させた。一時的に大きなインフレーションも起きたが、経済改革は成功を収め、奴隷制も1966年までの廃止が決定された。

だが、ナチス党改革や親衛隊の改革には失敗、ゲーリングの国防軍はある程度の改革には成功するものの、一部は中途半端だった。

 

1964年10月

日本にて汚職対策のための法律や会計の公開、軍の改革が完了する。

東京五輪が閉幕

 

1965年1月

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが合衆国大統領に就任

 

1965年3月

チャーノ統帥が改革の実行を宣言、将来的には国家ファシスト党を解散し久しぶりに多党制に復帰することを表明した。

 

1965年2月

賀屋内閣は御剣危機の完全な終結を宣言し、賀屋内閣はここから独自の政策を進める。

まず運輸大臣に田中角栄を起用し、全国新幹線計画と空路の拡張、高速道路建設と全国の電化を掲げた。

 

1965年8月

ドイツが月面恒久基地「モント・アインス」を建設する。

 

1966年1月

ドイツ、奴隷制を廃止する。

 

1966年

日米間でデタントを実施、ミサイル数の削減や核弾頭の削減を実施、日米間の緊張は多少緩和される。

 

1967年

アポロ11号が月面着陸を成功させる。

同時期、サクロボスコクレーターでドイツの調査隊が壊滅する被害を受ける。

ドイツは新兵器開発計画を始動、翌年までに機械化歩兵装甲を試験型ながら作成

 

1967年10月

ケネディ大統領が白人至上主義者に暗殺される。後任にはリンドン・B・ジョンソンが就任した。

 

1968年

月面調査チームの一部が壊滅する事件が稀に起きるようになる。調べると、謎の宇宙生物が関わっていると判明した。

その生命体は、BETAと名付けられる。アメリカはそのBETAに対抗するための兵器としてNCAF-X計画が開始される。

当初はその存在は国家機密

同時期、アメリカ率いるThe United Nationsはオルタネイティヴ計画を召集し、そのBETAに関する研究を開始する。

 

1969年1月

ジョン・F・ケネディの弟であるロバート・F・ケネディが大統領に当選する。

主要な目的は、太平洋冷戦の終結、そしてハワイの返還だった。

 

1969年10月

ストックホルム条約を以て米独冷戦が終結する。

 

1970年4月11日

アメリカが恒久月面基地「プラトー1」を建設

 

1970年6月

湾岸総督府が「アラブ首長国連邦」としてイタリアの保護下で独立、同時期、サウジアラビア王国がイタリアとの同盟を締結し、リラとの結びつきを強める(リラによる石油取引は1961年からあった)

 

1970年8月

アンカラ条約締結

日独間の緊張緩和と経済封鎖の解除が目的だったが、日独間の冷戦はまだ終わっていない。

 

1971年2月11日

日本が月面着陸に成功

 

1971年のこと

5月11日、イエメンで内戦勃発、5月30日、オマーン暴動に伴い内戦発生、6月14日、イラクで内戦が発生、7月1日、エジプトでも内戦、7月10日、スーダン内戦勃発

7月14日、一連の産油国での内戦に伴い、石油の供給量が低下、炭化水素公社の売り上げは暴落し、株価も暴落、イタリア政府が介入したものの、危機は最早抑えることができず、石油の価格が暴騰、石油危機が発生する。

 

1971年5月12日、イタリア王国はイエメン内戦への介入を決定、ヘリ部隊や戦車を派遣し、7月4日に鎮圧

6月1日にはオマーンへの介入も決定し、7月12日鎮圧

イラク内戦への介入も行われたが、日米の介入を許し、年末までかかる。

エジプトについてはイタリア軍も駐留しており、エジプト内戦は最も速やかに介入され、8月4日鎮圧

スーダン内戦は時間がかかり、またしても日米の介入を許す。1972年5月鎮圧

 

1971年7月1日

日米交渉が開始される。

大日本帝国内閣総理大臣賀屋興宣と合衆国大統領ロバート・F・ケネディがメキシコシティで首脳会談を開催する。議題は最初に核軍縮と経済封鎖の解除についてだった。

核軍縮については太平洋中央部に非核化地帯を設置し、核兵器基地の撤去や核兵器自体の大幅削減を決定

経済封鎖については相互の禁輸解除と日米貿易協定の締結が決定

続いて、重大な話に移った。

それは、ハワイの返還である。

賀屋首相は国内の強硬派を理由に渋ったが、ロバート・ケネディ大統領は「ハワイの返還なしに太平洋冷戦の終結は成し得ない。我々にとっての太平洋戦争はまだ終わっていない」と応じた。

大平正芳外相が仲介に入り、ハワイの返還と非核化を実現、

1971年8月14日、メキシコシティ条約が締結され、日米冷戦は終了し、日本に租借されていたハワイはアメリカへ返還された。

 

1971年10月1日

賀屋興宣は内閣総理大臣を辞任し、間もなく政界を引退、後任の首相は田中角栄となる。

棚かは石油不足が終わったらインフラ開発をさらに大規模に行う「日本列島改造計画」の実施を表明した。

 

1972年4月

炭化水素公社と石油取引に関する改革が実行される。

各国の石油公社(エジプト公社、スーダン公社、イエメン公社、オマーン公社、イラク公社)の株式保有割合が、従来のイタリア8割から現地8割イタリア2割へ変更される。

その一方で、リラ建てによる石油決済は堅持する。

 

1972年9月

イランでパフラヴィー2世が暗殺される。

同時にイラン革命が発生し、イランからのドイツへの石油供給が途絶する。

イランの輸出先はドイツのみだった。

イラン革命で蜂起したのは、共産主義者、イスラム主義者、民主主義者、新君主主義者、社会主義者であり、共産主義者をカザフスタンが、イスラム主義者を日本が、民主主義者をアメリカが、社会主義者をトルクメン・ウズベク連邦が支持し、ドイツはテヘランとその周囲で生き残っているイラン帝国政府を支援した。

しかし、1972年11月、テヘランの戦いでイラン帝国軍とドイツ国防軍はイスラム主義者の軍隊を前に敗北し、ドイツへ亡命した。

そこからイラン革命戦線は崩壊し、五つ巴の内戦に突入していった。

だが、1973年8月にはテヘランでホメイニーがイラン革命の完遂を宣言し、イスラム共和制が樹立された。

社会主義者、共産主義者、民主主義者、君主主義者は、この狂気をきっと誰かが抑え込んでくれると信じて、各々の勢力の臨時首都の陥落と共に皆国外へ逃げてしまった。

イランは9月1日、大東亜共栄圏へ加盟した。

 

だが、1973年4月19日のカシュガルへのBETA落着やその後のカ号作戦があった手前、日本は少し顰蹙を買っていた。

 

1973年1月、田中内閣はちょっとしたスキャンダルで首相を辞任し、3月20日、新しく内閣総理大臣に辻政信が就任、彼は1963年から1971年にかけて国防次官に就任していた時期もあり、1971年に衆議院選挙で初当選し、政局の混乱の中で偶然にも辻が次の首相となった。

4月1日、就任してすぐにカシュガル空軍基地の視察に向かい、4月16日に南京で首脳会談をしてから4月18日に東京へ帰っている。

 

冷戦は、終わってからまだ十年も経ってはいない。

果たして、人類は未知の敵「BETA」にどれだけ対抗できるのだろうか




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