1973年第30回衆議院議員総選挙(解散)
解散日:1973年4月30日
公示日:1973年5月3日
投票日:1973年5月29日
定数:512
前回議席
翼賛政治会:241
自由党:211
社会協和党:27
独立協同党:19
日本新党:7
無所属:5
選挙前
翼賛政治会:71
自由党:211
社会協和党:27
独立協同党:19
日本新党:7
諸派:151
無所属:24
昭和四十八年四月三十日、辻内閣の不信任案が可決され、即日解散された。
この解散は、カシュガル解散だとか核解散だとか呼ばれる。
この選挙を巡っては、解散が宣言された翌日に翼賛政治会の所属議員が数十人近くが一気に離党した。
そして、そこから数日以上離党は絶えず、一週間ほど経ったころには、所属議員の約4分の3が離脱してしまった。
それらの議員の中には無所属で立候補する者もいれば、新党を結成して選挙戦に臨まんとする者もいる。
辻内閣は、最後の仕事として選挙の公示日、さらには投票日を決めることになった。
選挙の公示は5月3日に実施された。
選挙の投票日は5月29日と決まり、それが新聞、テレビ、ラジオでも報じられた。
明治23年、つまり1890年の第1回以来、30回目を数える衆議院議員総選挙の戦いの火蓋が切られようとしていた。
各党はそれぞれスローガンを考え選挙を戦い抜くための準備を進めた。
「正しい政治を、我々の手で。翼賛政治会。」
「憲政を取り戻す。自由党。」
「よりよい社会を皆様の手に。社会党。」
「憲法を守る。協同党。」
「根こそぎ変えます。日本新党」
この選挙の公示前、翼賛会を離脱した無所属候補から多くの政党が結党された。
最初に離脱した者ばかりではない。
辻内閣の不信任案に反対した議員たちの一部も、「翼賛会候補で選挙に出れば敗ける可能性がある」と確信して新党を結党した。
結党された政党は右派から左派まで多岐にわたった。
護憲新党、国民同盟、社会民衆党、農民党、日本進歩党、はその一例に過ぎない。
なんといっても、この選挙で全11にも及ぶ新党が結党される事態になり、選挙戦は公示前から早くも波乱の展開を見せ始めていたのである。
そうして、翼賛政治会が分裂した後には小さくバラバラな政党が残された。
これらの政党の結成と大量の離反により翼賛政治会は殆どの候補を失ってしまった。
残ったのは離党の波の中離党しなかった34名と前回選挙で落選した数十名近くの候補である。
しかし、それだけではあまりにも足りない。
定数は512もあるのだ。
一つの選挙区で複数人の候補が当選する以上、候補者は多いに越したことはない。
ギリギリの候補者数で戦うならば第一党を自由党に明け渡す羽目になるだろう。
過半数を確実に狙うには、少なくとも300人前後、できれば350人以上の候補を擁立したいというのが翼賛政治会の中央の率直な思いであった。
だが、二百名以上足りていない現状ではどうにもならない。
他の党から人材を引き抜くこともできず、翼賛政治会は混乱の最中にあった。
だが、翼賛政治会総裁である辻は、各地から候補者をかき集めることにした。
地方組織である隣組を総動員し、翼賛会支持の地主、作家、大学教授、思想家、官僚、あるいは翼賛会を支持する30代の若者まで手広く集め、400人も確保することができた。
辻政信総裁はこの報告を聞き胸をなでおろした。
----1973年5月3日----
ついに選挙の実施が公布された。
公示日である。
衆議院議員選挙法に基づいて、いよいよ第三十回衆議院議員総選挙の戦いの幕は開かれたのである。
立てられたのぼり旗、テレビやラジオ、新聞を通じて政党が支持を訴える。
候補者は、街頭に立ち、マイクを手に握りしめ有権者に訴えかける。
東京や大阪といった大都市から地方の小都市や農山漁村まで、多くの候補者が街頭に立ち、自らの公約を掲げ、自党が政権を担った先にある日本の将来像を有権者へ訴え続けた。
この選挙は、日本政治の天王山になる。
誰もがそう確信していた。
だからこそどの党も全力を挙げて選挙に挑み、候補者はより一層気合を入れて熱弁を振るったのである。
テレビ、ラジオ問わずいくつもの政党が自分たちをアピールするためにCMが作成され放送される。
街頭では支持者が候補者の前に集まり応援をしている。
候補者自身の演説ばかりではなく、応援演説も行われ、国中がまさに選挙で沸き立っている。
朝刊の一面は各党党首の写真で埋まり、昼のラジオは各地の第一声を中継した。夜のテレビニュースもまた、全国の選挙戦をトップニュースとして伝える。日本列島は、まさに選挙一色となっていた。
離党した元翼賛政治会候補や他党の候補者、そして翼賛政治会に残留した候補の多くは、自らの選挙区で支持基盤を固めており、確かな実績と揺るぎ無い信頼を築いていた。
だが、新しくかき集められた400人の候補はそうではなかった。
彼らは翼賛会を支持し、それぞれ政治的信条や日本の将来像を持っていた。
加えて、地元の支持基盤を持つ者は少なく、天下の政治ばかり語り、地元をどう発展させるかについて訴える者はほとんどいなかった。
そのうえ、政治経験のない者も少なくなかった。
しかも、急遽集めた候補は政治信条が一切統一されておらず、翼賛政治会という一つの大看板の下に右派から左派まで多種多様な思想の持ち主が集まり、党内は選挙戦の真っ最中にもかかわらず、まさにカオスと言える状態にまでなってしまった。
その最たる例が東京第7区である。
この選挙区では5人の候補が当選できた。
当然、翼賛政治会はここに五名の候補を立てている。
山田という候補者が街頭演説で自由主義の価値を説き、「自由な経済と個人の力こそが日本をより良くする」と訴えると、それを聞いた斎藤候補はすぐさま反論した。
「国家の指導による計画的な発展こそ、日本の未来を切り開く」
斎藤は国家社会主義的な政策を掲げ、山田の主張を批判した。
すると今度は中山候補が斎藤を批判し、自由主義の重要性を訴えた。そして山田の主張を絶賛し、支持する姿勢を明確にした。
前川候補と山口候補も互いに仲が悪く、前川は「二度目の明治維新」を掲げ、山口は「新しい民本主義」を掲げて選挙戦に臨んだが、両者が協力することはほとんどなかった。
同じ翼賛政治会の候補でありながら、互いを競争相手として見る者が多かったのである。
かつて巨大な政治勢力であった翼賛政治会は、この選挙で急造した候補者を大量に抱え込んだ結果、思想も主張も統一できない政党へと変貌していた。
多くの有権者はその混乱に不信感を抱き、次第に自由党や新しく結成された政党へと支持を移していった。
翼賛政治会の綱領は、本来ならば挙国一致と党内融和を掲げていた。候補同士が公然と互いを批判する事態など、党執行部にとっては到底容認できるものではなかった。
しかし、新党結成による大量離脱によって、党内の人材配置には大きな穴が開いていた。地方の末端組織や支持基盤は残っていたものの、選挙を指揮する中堅幹部や政策を決定する上層部は著しく弱体化していた。
かつて強固な統制を誇った翼賛政治会は、組織としての意思統一能力を失いつつあったのである。
最悪なことに、地方では突如として現れた翼賛政治会公認候補を有権者が信用せず、長年地盤を築いてきた元翼賛政治会系の無所属候補や、新党へ移籍した候補へ支持が流れる例が相次いだ。
急造候補の中で比較的善戦したのは、地域社会との結び付きが強い地主やその地の名家であった。
彼らは政治経験こそ乏しかったものの、日頃から地域との結びつきが強かったために地域の誰からも知られており、一定の支持を集めることができたのである。
隣組や翼賛青少年団からの支持は、必ずしも中央党本部の意向に従って一律に公認候補を支援する組織ではなくなっていた。
多くの地域では、長年の信頼関係や地盤を重視し、元翼賛政治会議員や地元に根差した有力候補を自主的に支援するようになっていた。
この傾向は東北、北陸、山陰、四国、九州などで特に顕著であり、隣組は翼賛政治会の地方組織という性格を急速に失い、地域共同体として独自に行動する自治組織へと変質しつつあった。
しかも、急造候補のほとんどは地方の有権者からの評判があまり良い物とは言えなかった。
長年にわたり村や町が支えてきた候補者を押しのけて議員になろうとする姿勢は、「恩知らず」「おこがましい」と受け止められることも少なくなかった。
そうした候補の中には、地域社会から排斥され、村八分同然の扱いを受ける者も後を絶たなかったのである。
街頭に立てば罵声を浴びせられ、農村で支持を呼びかければ相手にもされず、地方都市でも有権者から避けられる。
そんな三重苦の中でも挫けることなく演説を続ける者もいたが、その一方で、やがて意気消沈し、選挙戦への意欲を失ってしまう者も少なくなかった。
翼賛政治会総裁、辻政信は、選挙情勢の報告を聞いて極めて焦っていた。
翼賛政治会候補同士の内輪揉め、そして無所属や新党に流れる支持、半壊状態にある党組織
こんな状況の中誰が焦らずにいられようか。
それは大政翼賛会初代総裁であり1947年から11年もの間内閣総理大臣として国を支えてきた近衛文麿も同じであった。
彼はこの時局に際して選挙に挑むことは非常に悪手であるという考えを持っていた。
彼が翼賛会中央部からは離れてなお、彼には依然として求心力があった。
翼賛会の重鎮、戦後の大宰相、国民からの人気者、彼を表す言葉はたくさんあった。
彼が新体制運動で作り上げ、そしてその後の違憲論で潰えた翼賛会という一国一党の野望、その後自らの弱さから軍に主導権を握られ大東亜戦争に突入、そしてそのまま辛勝した。
これだけであれば彼は再び政治の表舞台に現れることは殆どあり得なかったろう。
しかし、陸海軍は思わぬミスを犯した。
二度に渡ったサモア沖海戦、その後のフィジー沖、バヌアツ沖海戦をはじめとした南太平洋での陸海軍の連敗があった。
それだけならば軍部もまだ立て直しは効いた。
だが彼らは致命的なミスを犯したのだ。
陸海軍は南太平洋での敗退を互いに押し付け合い、一部の勝利を自分達だけの功績にしようとする醜い泥仕合を始めた。
軍部の醜態はこれに終わらない。
三百万にも及んだ総兵力と百万近くに及んだ戦死者、この問題をどう処理するかという問題が残った。
当然軍人恩給と戦時補償金、遺族への補償をしなければならない。
だが、軍部はここで最悪の手段を選んだ。
恩給を認めない。戦時補償も打ち切る。
それは一見簡単な言葉に見えた。
だが、国民にとってそれは裏切りだった。
「軍も結局自分たちを利用しただけだ」「軍も結局自分たちの利益のために動いている」「国民を切り捨てた」
そういった印象を与えられてしまったのだ。
そうなってしまったが最後、軍部の権威は地の底まで落ちた。
国民の英雄から、ただの閥族にまで落ちぶれたのだ。
それこそが軍部以外のすべての勢力に機会を与えた。
帝国議会、枢密院、宮中、官僚、国民、財閥、彼らはその空白を狙っていたのである。
軍部の権威失墜後でも、なんとか政治だけでも維持しようと軍穏健派の将官を首相に擁立しようとしたが、陸軍を選べば海軍が、海軍から選べば陸軍が反対しすべて失敗に終わった。
そんな中で各勢力は主導権争いを繰り広げた。
その妥協として吉田内閣が発足したのだが、吉田は内閣発足直後にいきなり渡米し、講和で九十九年の租借が認められたハワイを「五十年以内に返還する」とアメリカ大統領に語ったことであらゆる政治勢力から攻撃を受けることになった。
その後また政治が混乱したのだが、その際に担ぎ上げられたのが首相経験もあり、国民からの人気もあった近衛文麿であったのだ。
彼はそれから陸海軍を抑え込み、多くの権限を内閣へ集めた。さらに憲法改正を断行し、軍主導から内閣主導へと政治体制を転換させ、現在の政治体制の礎を築いた。
そんな彼は今でも政界の重鎮としての名を残しているのである。
そんな彼が自分の古巣である翼賛会の危機を見逃すはずがなかった。
5月5日、近衛文麿は、辻との会談に臨んだ。
だが、それは到底会談とは言えぬものであった。
辻は終始、超然内閣を当然とするかのような態度を崩さず、「軍人こそ国家を導くべきだ」という時代錯誤の信念を繰り返すばかりだった。
近衛は、その言葉に深い失望を覚えながらも、辛うじて平静を装い、対話を続けようとしていた。
しかし、次の一言が、その理性を打ち砕いた。
「あなたの憲法改正こそ、日本をこんな国にしてしまったのではないのか。高度国防国家を築こうとした軍中央の考えを破棄し、日本を堕落させた。それを顧みず、軍の責任にするとはどういうつもりだ。だいたい、あなたのような老いぼれが、今さらここへ出てくること自体がおかしいのではないか。」
――近衛は、確かに聞いた。
そこにあったのは反省ではない。
自己正当化と責任転嫁、そして憲政そのものへの侮蔑だった。
長年抑えてきた怒りが、一気に噴き上がる。三十年前は到底言う気力などなかったが、今は言える。
「貴様は翼賛会を壊すつもりか!」
八十二歳とは思えぬ怒号が部屋中に響いた。
「議場の秩序を乱し、議員に暴力を振るい、それでもなお自らを正しいと言い張るのか!」
「軍人である前に、お前も帝国臣民ではないのか!?そのことすら忘れたのか!」
「皇国を守るとは、軍が勝手気ままに振る舞うことではない!法を守り、議会を尊び、国家を支えることだ!」
「お前は何一つ理解しておらん!」
三十年前に自分の責任から逃げ、優柔不断とまで評された男の姿は、そこにはなかった。
眼前に立つのは、十年以上宰相であり続け、昭和が始まって五十年近くの激動の中を生き抜き、昔の自分の弱さに区切りをつけ、自らの過ちも国家の混乱も知る一人の老政治家だった。
その剣幕に、さすがの辻も一瞬言葉を失った。
三十年というのは、人を変えてしまうには十分な月日である。
彼の顔には既に深い皺が刻まれ、そして髪も既に白くなっている。
三十年前なら、何か問題が起きたら責任を投げ出し、軍人が暴走しても弱腰になって黙って軍人の要求を呑んでいただろう。
今の近衛はそこまで弱くはなかった。
目の前にいるのは三十年前は聞きたいことがあっても聞くに聞けない恐ろしい存在であった軍人、それも独断専行の牙城だった陸軍の軍人である。
だが、もう陸軍に昔ほどの政治力もない。
陸軍省も海軍省もとっくの昔に参謀本部ともども国防省へと統合され、軍の独立状態は解消された。
それ以前に、今の近衛は内閣の一員ではない。現職の首相として軍との均衡を考える立場でもなく、一人の政治家として、そして翼賛会の創設者として、辻を叱責することができた。
近衛は昭和から二十年もの間続いてきた陸軍の暴挙を述べに述べた。
張作霖爆殺、満州事変、熱河作戦、北支事変、支那事変、そして仏印進駐
それだけではない。
五・一五、二・二六、政治への過干渉、戦争への根拠なき楽観論
近衛にとって、それらはすべて陸軍の独断専行が招いた結果であった。
近衛はなおも言葉を止めなかった。陸軍の責任を一つひとつ挙げ、その過ちを厳しく糾弾し続けた。
今般の事件をもって陸軍の総決算とし、軍をさらに徹底的に改革する。そして、立憲制を軽んじるような事態を二度と起こさせない――。
八十一歳とは思えぬ迫力で語る近衛の姿には、部屋の空気を圧するほどの威厳があった。
辻政信陸軍大将、あなたは陸軍の人間でしょう。軍人は政治にかかわらず、国を守ることに力を注ぐべきだったのではありませぬか。
ですがあなたはその目的を逸脱し、さらには同盟国の領土内で核兵器を使用するという前代未聞の行動までやったんだ。
その責任を十分に受け止めるべきではないのか。
私は自分の責任を十分に取ったとは思ってはいない。だが、それでもこんなことはしなかった。少なくとも、他国の権利を侵害するようなことは。
あの時陸軍を止められなかった私にも原因はあったとは今でも思う。
だが、それ以上に、政府の方針に従わなかった陸軍にも問題はあったとは思わないか。
辻は怒りを抑えながらも近衛の話を聞いていた。
ここでまた大声を上げればもっと印象が悪くなり、しまいには翼賛会に話が渡った時に総裁から引きずり降ろされるかもしれなかった。
近衛は息を整え、なおも辻を真っ直ぐ見据えた。
「....何か言いたいことがあるなら、言うといい。」
数秒の沈黙が流れた。
辻はゆっくりと口を開いた。
あなたは陸軍を散々に批判されましたが、立憲政治とやらはずいぶんと弱かったではありませんか。
内閣はすぐに交代し、政党は分裂と合併を繰り返し金権政治に陥った。その末に国民からは支持されなくなり、代わって我々が支持されるようになった。
昭和四年、日本が恐慌で苦しむ中政党はその対処に失敗し、国民を生活苦に至らしめた。
さらには農村の窮状を無視して都市の復興や重工業の振興ばかりにかまけた。
その中で国民はますます我々に期待の目を寄せるようになった。
違いますか?
さらに、その中で石原閣下が行った特殊作戦で満洲の利益は日本のためだけのものになり、そのことは国民を大いに熱狂させた。
国際連盟の圧力をものともせずにその場で議場を去り脱退を宣言した松岡さんはたちまち国民の人気者となった。
国民は我々軍部への信頼や期待を更に寄せ、しまいには南京陥落の報に歓喜したではありませんか。
これが立憲政治の目指していた「デモクラシー」の形そのものではないのですか?
我々はその時確かに国民の支持を得たのですよ。
だいたい、あなたは優柔不断だった。
予算を止めれば陸軍は止まったはずだった。
近衛公、なぜあなたは不拡大を掲げながら予算を拡大したのですか?
国民は戦争に歓喜した。連戦連勝の報に国民は熱狂し、軍への支持をますます高めた。
我々が仏印に進駐したときも、アメリカの奴らが我が国に禁輸した後も、国民は戦争を求め、手にした戦果を手放すことを嫌がったではありませんか。
そして開戦阻止が不可能となり、戦線の詔勅が渙発せられた後も国民は歓喜に沸きました。違いますか?
第一、私が二年前の選挙で当選できたのも私が戦果を挙げたことがあったからにほかなりません。
しかし、上層部どもは愚かなことをしたものだ。あのまま財政難を気にせずに軍人恩給や補償をしておけば我々はずっと英雄のままでいられた。
なのにあいつらは恩給の支払いは財政上無理だとして打ち切り、あまつさえ補償を打ち切って心象を悪化させた。
おかげで十二年近くも英雄と見なされてきた陸軍は閥族の汚名を着せられ、挙句貴様のような小物に主導権を握られた上に内閣の犬に成り下がったんだからな。
無様なものだ。
今の陸軍が忠勇無双であることに間違いはないだろう。
だが、今の軍は完全に内閣の手下だ。
昔のように先頭で国民を率い、英雄であったときとは程遠い。
あの時の陸相は本当に愚かだった。
あの判断さえなければ、軍は今なお国民から英雄として仰がれていただろうな。
辻は穏やかにそう言ったが、その奥には何か思う所があるようであった。
辻はもうわかっていた。あの時演壇で怒りに任せて議員を殴った時、いや、カシュガルに核攻撃を叩きこんだ時点で、自分にはもう後などなかったということを。
辻は、このとき選挙後に翼賛政治会を辞める決意をした。
だが、その後任を誰に託すべきか、彼には見当がつかなかった。
今や八十二歳となった近衛文麿か、八十三歳の木戸幸一か、それとも「背広を着た軍人」と渾名された鈴木貞一か――
しかし、三人はいずれも高齢を理由に固辞した。
次に辻は灘尾弘吉の名を思い浮かべた。近衛よりは若いとはいえ、なお自身より年長であり、党再建を託すには不安が残る。
そこで辻が白羽の矢を立てたのが、貴族院議員の鍋島直紹であった。年齢も六十代と若く、旧華族として党内外への求心力も期待できる。
辻は選挙後に翼賛政治会総裁への就任を要請する意向を鍋島へ伝えた。当初、鍋島は難色を示したものの、幾度かの説得の末、ようやく了承した。
後継問題に一応の目途が立ったことで、辻はようやく目前に迫った総選挙へ専念できるようになった。
だが、情勢は非常に悪い。
自由党や独立協同党、新党や無所属が支持を集める一方で、翼賛会急造候補はどこでも劣勢、街頭演説を聞きに来る者は非常に少なく、翼賛政治会の不利は明らかであった。
そんな状況の中、投票の日は一日、また一日と近づいてくる。
全国各地で自由党候補が優勢を伝えられる中、新潟第三区でも同様であった。
「我々が政権を取れば、必ず皆様の生活は豊かになります。」
新潟第三区の自由党候補は街頭演説でそう訴えた。
彼はこれまで新潟に多くの公共事業を呼び込み、さらに新幹線建設まで公約に掲げていた。その地盤は極めて強固で、一位当選は確実視されていた。
徳島選挙区の独立協同党候補は政治改革と協同主義を掲げ支持を集めている。
彼の名は三木武夫。1937年の食い逃げ解散後の総選挙で初当選を果たし、あの翼賛選挙でも無所属で議席を守り抜いた。以来、一位当選を続ける地元屈指の実力者である。
清潔な政治姿勢と地道な地元活動への評価は高く、今回もその優位は揺るがないとみられており、世論調査でも他候補を大きく引き離していた。
大阪第二区では、かつて社会協和党の代表を務めた男が街頭に立ち演説している。
彼は社会福祉の充実と労働者の権利向上を掲げ、長年にわたって選挙を勝ち抜いてきた。
地元では「落選する姿が想像できない」とまで言われていた。
かつて1928年の第一回普選で初当選を果たした古参政治家である。
1938年には近衛に「ヒットラーの如く、ムソリニの如く大胆に日本の進むべき道を進むべきであろう」と激励した発言が誤解を招き、衆議院議員を除名された。さらに1940年には社会大衆党からも除名されている。
それでも翼賛選挙では議席を守り抜き、これまで議席を守り続けてきた彼の当選もまた確実視されていた。
社会協和党党首が出馬する愛知県第1区でも優勢が伝えられており、同党は堅実に議席を維持するものと見られていた。
候補者数は議員定数512に対して1358人もいる。この中には当然急造候補400人も含まれており、今回の倍率は2.6倍、まさに熾烈と言ってよかった。
全国の候補者は最後の訴えを続け、有権者はその一票を誰に託すか静かに決断しようとしていた。日本の進路を決める投票の日は、刻一刻と近づいていた。
5月29日が近づくと、投票所が告示された。
投票所は市町村問わず様々な役場、ほかにも様々な場所に設置された。
投票箱の設置、記入所、その他の投票所開設の準備が全国各地で進められた。
「投票箱持ってこい!」
「わかりました」
「この机を使うぞ」
「じゃあ運びましょう」
「せーのっ」
二人同時に机を運ぶ。
鍵は不正が無いように厳重に管理されている。
また、かつての選挙とは違い、選挙の管理は郡長や市長ではなく「選挙監査院」が行っている。
選挙監査院は、1965年にできたばかりの機関である。
「院」と付く通り、会計検査院と同じ類に属し、内閣から独立している。
これは紛れもなく政治改革の結果であり、あの悪名高き内務省の選挙干渉を防ぐための一手でもあったのだ。
そして、いよいよその日を迎えた。
昭和48年5月29日、投票の日である。
午前七時、衆議院議員選挙法に定められた通り、全国で投票所が一斉に開いた。
若い男や老人まで、多くの者が投票所を訪れ、投票用紙に候補者の氏名を書き入れ投票箱へ入れていく。
投票所を訪れるのは男性だけではない。女性たちも次々と足を運んでいた。
1948年の帝国憲法改正と共に女戸主は当たり前になり、華族当主が女性であることは当然に受け入れられ、そして当然二十五歳以上の婦人の参政権も認められた。
時間が経つにつれ、投票所は多くの男女が集まり、そして投票用紙に候補者の氏名を記入し、投票箱へ入れる。
投票を終えた人々が投票所を後にする一方で、新たな有権者が次々と訪れ、その流れは夕刻まで途切れることがなかった。
見る見るうちに日は登り、暮れていった。
午後六時、ついに投票箱が閉鎖され、すぐさま開票作業に入った。
選挙の開票作業には、恐らく何時間もかかる見込みであった。
選挙の開票の見学は衆議院議員選挙法により許されている。
だが、開票作業に参加することは許されない。
投票箱は警備の下で開票所へ運ばれていく。全国の候補者と支持者、そして国民は、その箱の中に収められた一票一票が示す結果を固唾をのんで待っていた。
開票所や各党本部では、選挙区ごとの候補者名を書いた一覧表が壁一面に貼られた。開票速報が入るたびに得票数が書き込まれ、関係者は固唾をのんで結果を見守っていた。
そして、各地から選挙結果の情報が届くたび、バラの花がどんどん増えていく。
彼らは笑顔を浮かべ腕を大きく振って握手し喜びを分かち合った。
だが、一向にバラが増えない政党もあった。翼賛政治会である。
急ごしらえで擁立した候補たちも、辛うじて党に残った候補たちも各地で接戦を演じる候補はいた。
しかし、当選の報は思うようには届かなかった。
翼賛政治会への逆風は想像以上で、有権者の関心はすっかり新党の方へ向いていた。
ラジオでも開票情報が次々と報告される。
アナウンサーは時折言葉を噛みながらも、候補者名や得票数、当選確実の一報を矢継ぎ早に読み上げていった。
深夜までに全選挙区の開票作業が終了した。
選挙の結果は、翌日国民の知る所となった。
新聞は号外でこれを掲載し、テレビは朝のニュースで報じた。
そして、翼賛政治会の大惨敗と新党の躍進を知り、ある者は歓喜に湧き、ある者は悲嘆に暮れた。
その結果は、日本の戦後政治を一変させるほど衝撃的なものであった。
定数:512
自由党:197
社会協和党:41
護憲新党:39
憲政会:37
社会民衆党:28
翼賛政治会:27
独立協同党:23
日本労働党:22
国民同盟:21
日本新党:19
日本進歩党:17
政友新党:16
日本改進党:13
新自由倶楽部:11
国民党:7
農民党:6
無所属:15
どこも単独過半数を取れなかったばかりか、翼賛政治会は議員を27にまで減らすという大惨敗、新たに結成された十一の政党はいずれも議席を獲得し、その多くが予想を上回る結果を残した。
早速、この政治的混乱の収拾を図ろうと、様々な党が動き出した。
最初に動いたのは自由党である。
この党は他を大きく引き離して第一党であり、単独過半数257まであと60と、最も政権奪取に近しい党である。
自由党が連立相手に選んだのは独立協同党、日本進歩党、日本改進党、日本新党の四党だった。
そうして自由党は269、つまり過半数を獲得し、政権奪取へ一歩前進した。
だが、その総裁である田中は汚職事件のこともあって総理に就任することは難しかったため、何よりこの政治的混乱を乗り切るための総理が必要だった。
白羽の矢が立ったのは三木武夫であった。
三木は独立協同党の党首であり、清廉潔白な政治姿勢で広く国民の支持を集めていた。そのため、連立各党はいずれも三木ならば政権の求心力を保てると判断したのである。
五党は三木を首相に指名することで一致し、帝国議会の開会を待つこととなった。
昭和四十八年六月四日、詔書が発せられた。
朕帝國憲法第七條及第五十七條ニ依リ本年七月十六日ヲ以テ帝國議会ヲ東京ニ召集ス
議院法では、帝国議会の召集は集会の期日から遅くても四十日前に発布しなければならず、一か月もの間空白が開くことになってしまった。
そうして第百八十二回帝国議会は臨時会として召集されたのである。
1973年7月16日、貴族院本会議場において天皇臨席のもと開会式が行われた。
本会議場には貴族院議員、貴族院議長だけではなく衆議院議員や衆貴の書記官長も集まり、天皇は玉座で勅語を読み上げ、開会式は終わった。
----翌日 衆議院本会議場----
午後一時五十二分、予鈴が鳴り、その十分後、本会議はいよいよ開議時刻となった。
だが、議長席には議長も副議長もいなかった。
衆議院書記官長が議長席に就き、静かに口を開いた。
これより会議を開きます。
議院法第三条第二項によりまして、議長及び副議長が勅任されるまで、書記官長の私が議長の職務を行います。
ただいままでに当選証書の対照をいたしました議員は五百十二名であります。
書記官長は口を閉じた。
いよいよ本題に入る。
第一日程たる議長選挙の始まりだ。
書記官長は再び口を開く
日程第一、議長の選挙を行います。
選挙の手続につきましては、議院法第三条及び先例によることといたします。投票は無名投票であります。お手元に配付の投票用紙に被選人の氏名を記載し、白色の木札の名刺とともに持参の上、演壇の最初の参事に木札の名刺を、次の参事に投票用紙を渡されることを望みます。
これより点呼を命じます。
参事が点呼を始めた。
十数分経ち、参事の声は聞こえなくなった。
書記官長は口を開く。
投票漏れはありませんか。
投票漏れなしと認めます。
投票箱閉鎖。開票。
これより名刺及び投票の計算並びに投票の点検を命じます。
参事たちは名刺と投票を計算し、点検している。
書記官長はまた口を開いた。
投票の結果をご報告申し上げます。
投票総数五百十二。名刺の数もこれと符合しております。
得票数を申し上げます。
前尾繁三郎君 三百十一
船田中君 百ニ十八
灘尾弘吉君 七十三
右の結果、前尾繁三郎君、船田中君、灘尾弘吉君が議長候補者として選出されました。
これで議長候補者選挙は終了しました。
書記官長はすぐに次の日程に移った。
日程第二、副議長の選挙を行います。
選挙の手続につきましては、議長の選挙と同様であります。
氏名点呼を命じます。
書記官長が言い終わると、議長選挙の時と同じように氏名が点呼され、投票漏れがないかの確認が行われ、また参事が計算し、書記官長が報告した。
投票総数五百十二。名刺の数もこれと符合しております。
本投票の過半数は二百五十七であります。
得票数を申し上げます。
副議長候補の氏名と票数が読み上げられ、副議長候補三人が決まった。
書記官長は宣言した。
次の会は正副議長の任命後ご通知申し上げることにいたします。本日はこれで散会いたします。
午後三時五十八分、衆議院本会議は散会となったのであった。
その日のうちに衆議院の議長と副議長が任命された。
1973年7月17日、今度は衆議院議長の席に衆議院議長に勅任された前尾繁三郎が就いた。
そして、議長は口を開いた。
これより会議を開きます。
日程第一、議席の指定を行います。
衆議院規則第十四条によりまして、諸君の議席は、議長において、ただいまの仮議席のとおりに指定いたします。
日程第二、内閣総理大臣の指名を行います。
この手続きは、内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律および先例によることといたします。
同法第一条および第二条により、記名投票で指名される者を定めることといたします。お手元に配付の投票用紙に、指名される者の氏名を記載し、かつ、投票者の氏名を記載して持参の上、自ら投票箱へ投入されることを望みます。
氏名点呼を命じます。
参事が指名を読み上げ始め、演壇に登って参事にそれぞれの投票用紙を手渡している。
十五分程経ったころだろうか。
投票漏れはありませんか。投票漏れなしと認めます。
投票箱閉鎖。開票。
これより投票の計算及び点検を命じます。
参事が投票を計算し、点検し始めた。
十数分経つと、投票の計算が終わったようで書記官長に何かを伝えているようだった。
そして、投票結果を議長に渡すと、議長はその紙を目の前に動かし、口を開いた。
投票総数501、名刺の数もこれと符号しております。本投票の過半数は過半数251であります。
投票中、被指名者の氏名を記載していないものが、26票あります。これは当然無効であります。
投票の結果を書記官長から報告させます。
書記官長は席から立ち、軽く一礼をすると投票の結果を述べだした。
二百六十九 三木武夫君
九十一 成田知巳君
八十一 宮澤喜一君
二十三 岸信介君
十一 河野洋平君
他に無効 二十六
右の結果、三木武夫君を内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律第二条により、本院において内閣総理大臣に指名することに決まりました。
その瞬間、拍手が湧いた。
それとほぼ同じくして、三木は議席から立ち上がり、様々な方向に向かってお辞儀をした。
その二日後、貴族院でも指名が行われた。
貴族院議長は宣言する。
これより会議を開きます。
日程第一、内閣総理大臣の指名
この手続きは、内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律第一条および第二条により、内閣総理大臣の指名を記名投票を以て行います。議席に配布してあります。記名投票用紙に議会議員のうち一人の氏名を記入して、ご登壇の上投票願います。氏名点呼を行います。
衆議院と同じように参事が氏名を点呼している。
貴族院の定数は409、衆議院より100人も少ないが、皇族議員が欠席しているため空席が目立っている。
1948年の帝国憲法改正により、貴族院議員の半数は民選議員へと改められた。
しかし、それでもなお華族議員や勅選議員は大きな勢力を占めており、旧来から続く非政党的な気風も根強く残っていた。
衆議院のように政党が多数を占め、党議によって投票が決まるという性格ではない。各議員が自らの政治的信念や国家観に基づいて投票することが多く、内閣総理大臣の指名においても、その結果を予測することは困難であった。
そうしているうちに点呼が終わった。
投票漏れはございませんか。投票漏れなしと認めます。投票箱閉鎖。開票。
これより投票の計算及び点検を命じます。
議長がそう言った。
すると、衆議院と同じく、参事が投票の計算を始めた。
十数分経つと計算が終わったようで、議長に結果を告げた。
議長が口を開いた。
投票の結果を報告いたします。
投票総数371票、本投票の過半数は186票でございます。
木戸幸一君 107票、三木武夫君 105票、近衛文麿君 91票、鍋島直紹君68票
只今報告しました通り、得票者の投票数は、いずれも投票の過半数に達しておりません。
よって、投票の最多数を得られた二人について、決選投票を行わなければなりません。
これより内閣総理大臣の指名について決選投票を行います。
投票の際、多数を得られた方は、木戸幸一君と三木武夫君であります。
両君のうち、一人の氏名を記名投票用紙に記入して、ご登壇の上、投票を願います。
氏名点呼を命じます。
また参事が名前を点呼している。
議員は演壇へと登り、投票している。
また十数分経つと、点呼が終わり、全ての議員が議席へと戻った。
例のように投票漏れの確認をすると、議長は投票の点検と計算を命じた。
すると、また投票の計算が始まった。十七分ほど経ち、ようやく計算が終わったようだった。
議長は口を開いた。
決選投票の結果を報告いたします。
投票総数371票、三木武夫君171票、木戸幸一君123票、無効63票、白票14票
よって、本院は三木武夫君を内閣総理大臣に指名することに決しました。
本日はこれにて散会いたします。
これで、衆議院でも貴族院でも三木武夫が指名された。
帝国議会として彼を内閣総理大臣に指名することに決したのである。
上奏がすぐに行われた。
帝国議会ハ衆議院議員三木武夫君ヲ内閣総理大臣ニ指名セリ
仍テ茲ニ奏上致シマス
年月日と共に両院の議長と書記官長の署名とともに天皇の元へ送付されたのだった。。
帝国憲法第五条第一項ニ依リ三木武夫君ヲ内閣総理大臣ニ任命スルノ件ニ就テ右謹ミ裁可ヲ仰キ奉ル
こちらは年月日と共に前総理の名前が添えられた。
その日のうちに、総理大臣の任命が行われた。帝国憲法第五条によれば、内閣総理大臣は天皇が指名することになっていたのだ。
天皇から任命の辞令が下ったのだ。
三木武夫
内閣総理大臣ニ任命ス
御名御璽
昭和四十八年七月十九日
内閣総理大臣 辻政信
前総理の署名とともに彼は総理大臣に任じられた。
次の日組閣が行われ、三木内閣が発足したのであった。
帝国憲法第五条と第七十一条
第五條
天皇ハ内閣總理大臣ヲ任命ス
天皇ハ大審院ノ裁判長ヲ任命ス
第七十一條
内閣總理大臣ハ帝國議會之ヲ指名ス
衆議院貴族院各〻違フ指名ノ議決アルトキハ法律ノ定メタル所ニ依ル
内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律の全文
法律第二十三號
内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律
第一條
内閣總理大臣ノ指名ハ記名投票ヲ以テ之ヲ行フ
投票ノ過半數ヲ得タル者ヲ以テ指名セラレタル者トシ其ノ者ニ付指名ノ議決アリタルモノトス
第二條
投票ノ過半數ヲ得タル者ナキトキハ投票ノ最多數ヲ得タル者二人ニ付決選投票ヲ行ヒ多數ヲ得タル者ヲ以テ指名セラレタル者トス但シ決選投票ヲ行フヘキ二人及当選人ヲ定ムルニ當リテ得票同數ナルトキハ籤ヲ以テ之ヲ行フ
第三條
内閣總理大臣ノ指名ハ前ニ衆議院ニ於テ之ヲ行フ
第四條
帝國憲法第七十一條ニ定メタル衆議院貴族院異ナル者ヲ指名スルトキハ両院協議會ヲ開催ス
前項ノ塲合ニ於テ二週間經過セルト雖モ未タ決セサルトキハ衆議院ノ指名ヲ以テ帝國議會ノ指名ト看做ス
附則
本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス