1973年4月19日カシュガル時間午後2時ごろ
その日はいつもと変わらぬ日であった。
その時までは。
午後2時23分43秒、人工衛星の画像より、あることが判明した。
隕石と見られる物体が地球に衝突する軌道をとっており、このままでは衝突する恐れがある。
その情報は直ちに東京と南京へ伝達され、辻内閣総理大臣と高宗武中華民国総統の知る所となるはずだった。
だが、その情報は東京と南京へ伝えられることはなかった。
本来この情報は、カシュガル空軍基地から無線によって伝えられるはずだったが、緊急時用の無線装置は、故障していた。
緊急用無線は、これまで一度も使われてきた例がなかった。それゆえ誰も整備をしなくなり、いつしかその存在が忘れられてしまったのだろう。
しかし、非常用の軍事回線が地下に敷設されている。
この地下回線は、わずか六年前に完成したばかりのものであった。
この回線を通じ情報は伝達されることになった。だが、そこに待ったがかかった。
画像にある物体は何かの影である可能性があるため、この情報は伝達しなくてよい。と。
しかし、多数の者が疑問に思っていた。
「この物体が本当に影なのだろうか」と。
同時刻、レーダーでもそれは観測されていた。
基地司令はこれを誤認として一蹴した。1963年には、月の反射波をアメリカからのミサイルと誤認した事態があり、基地司令はこの前例から同観測情報を月の反射波と断定した。
午後2時27分31秒、その物体は、衛星からの画像により、もはや影ではなく確かな物体だと確認できる程度まで接近していた。
基地司令はいよいよ危機感を持ち、緊急情報の伝達を決定した。
情報が基地から東京と南京に伝わるまでは、一秒もかからない。だが、今はその一秒でさえ惜しかった。
あの物体がカシュガル基地を直撃すれば、基地が壊滅するだけでは済まなかったという危機感をこの情報を知る誰もが持っていたからだ。
このような異常事態となれば、噂はガソリンの海に放り込まれたマッチの火よりも早く広がる。
数分も経てば将校から下士官へ、そして下士官から兵へと噂は広がり、瞬く間に基地中の人間の知るところとなった。
「どうやら、隕石が落ちてくるらしい」「ドイツの作った謎の兵器が落ちてくるらしい」「なにか大きな物体が接近しているらしい」
噂の内容はどれも荒唐無稽ではあったが、宇宙から物体が落ちてくるという共通点があった。
午後2時29分49秒、基地司令は非常事態を宣言し、地下シェルターへの避難を命じた。
カシュガル基地は広大である。
司令部はカシュガル市街地の北部に建設され、その付属の基地が南部のアクトや東部の砂漠地帯に存在し、その面積は23万平方キロメートルである。
航空宇宙や兵器の砂漠、高地用実験場として建設された基地、アメリカで言えばグルームレイクとジョン・F・ケネディ宇宙センターを兼ね、それにピーターソン宇宙軍基地を附属させたような基地で、日本にとっても、中国にとっても、そして大東亜共栄圏にとって最も重要な基地であった。
午後2時29分頃から、例の飛行物体が大気圏に突入した影響とみられる強い光が空を覆いつくしていた。
午後2時30分37秒、隕石と見られる物体が本格的にレーダーで観測できるようになってきた。その形や軌道も捕捉できるようになってきてはいたが、時すでに遅く、もう誰の目から見ても隕石が近づいてきていることは明らかになっていた。
午後2時32分27秒、凄まじい轟音と光と共にカシュガル市街地に隕石が衝突した。
だが、その被害は隕石の大きさから予想されるものと比べれば、あまりにも小さかった。
カシュガル市街地には巨大な陥没が発生し、カシュガル基地の司令部も爆発に巻き込まれ消滅、シェルターへの避難も間に合わなかっただけでなく、地下シェルターに避難していた人間もまた、全員死亡した。
カシュガル基地において、その機能を残していたのは、南部のイェンギサール、東部のファイザバード、更に遥か東のタクラマカン砂漠を目の前にするマルキト、北部の山間部にあった辺境基地の博孜薩依だけであった。
だが、イェンギサール基地の北部にあったアクト基地をはじめカシュガル近郊の附属基地は、衝撃波で壊滅した。
もちろん、それらの基地も無事では済まなかった。
大きな揺れを観測し、さらに窓ガラスが全て粉々に砕け散ったほか、基地の主要設備も半壊した。
加えて戦車や航空機も破損し、倒壊などを原因とする多数の死傷者が発生した。
残存基地の人員は、負傷者を含めて38719人、元々の人数が78931人だったことを考えれば、約半分が壊滅したことになった。
マルキト基地は、カシュガル基地司令部から150kmもの距離があった。
それゆえ、被害の程度はほかと比べて小さく、通信機器も残存があった。
それでもガラスは砕け散り、一部の建物は倒壊した。
博孜薩依の基地は、カシュガル北部の山と60kmの距離に阻まれ、マルキト基地と同じく被害は最小限度に抑えられた。
カシュガル附属マルキト基地は、カシュガル時間午後2時37分49秒、東京及び南京にこのように打電した。
「カシュガル基地壊滅ス」
東京はある確信を持っていた。特に、月面に探査に出ていた者達は。
アレは月面で猛威を振るっていた生物である。と。
東京は、カシュガル市街地の中央部に謎の物体を衛星写真によって確認していた。
それをその謎の物体であると確信を持った内閣総理大臣は、すぐに行動に出た。
その謎の物体こそ、BETAであり、落下した巨大隕石こそ、BETAの着陸ユニットそのものであったのだ。
現地時間1973年4月20日午後7時21分ごろ、カシュガル基地の方面から閃光と大きなきのこ雲が上がった。
核爆発だ。
マルキトの基地上空を爆撃機が単独で飛行していたのは確認されたいた。
だが、その爆撃機は片道切符であり、核爆弾を満載していたのは地上からは、そして他の基地からは確認されていなかったうえ、その目的地さえも周辺基地には一切伝えられていなかった。
乗員は新疆省和田地区の上空で脱出し、中華民国空軍によって救助された。
だが、無人となった爆撃機は飛行を続けた。
そして、午後7時21分に物体に直撃し、巨大な核爆発を引き起こした。
これが、後に判明する最初の核攻撃の真相であった。
そこから4月22日にかけて、最初の一機を含め、計35機の爆撃機が発進し、全部で49発の核爆弾をカシュガルに叩き込んでいった。
その結果、4月23日には例の隕石の破壊を確認、内部からは謎の生物が発見された。
カシュガルの地形を観測した結果、カシュガル市街地を中心として、半径4~5kmにも及ぶ巨大なクレーターが形成されていたことが判明した。
衝突時に発生した爆発は極めて大規模なものであり、その衝撃波と地震動は周辺地域のみならず、遠く離れた地域でも観測された。
蘭州では窓ガラスが割れ、地震計が異常な振幅を記録した。
南京では地震観測網が異常を捉え、東京でも同時刻に気圧の急激な変動が記録された。
その数時間から数日後、ワシントンD.C.やゲルマニアにおいても衝撃波を観測し、その威力の大きさをありありと示した。
世界各地の観測記録を照合した結果、それらの発生源は一つの場所を示していた。
「カシュガル」
1973年4月19日、カシュガルで何かが起きたことは明確なこととなったのであった。
その二日後の朝刊で、日本国民は衝撃の事実を知ることになった。
カシュガルへの隕石衝突、基地の壊滅、広範囲に及ぶ衝撃波、多数の死傷者
そのすべてが新聞に載り、テレビ各社もそれを報じていた。
中国も同じく新聞やテレビで報道され、一週間もしないうちにその情報は大東亜共栄圏のみならず全世界に知れ渡った。
アメリカをも震撼させ、ドイツもその情報に大慌てとなった。
だが、核兵器の使用については隠されたままだった。
しかし、その裏で、4月24日、中華民国政府は大日本帝国に対して厳重な抗議を行い、核兵器の使用を糾弾した。
外務大臣が南京へ向かい陳謝、日本政府からの謝罪が伝えられ鎮静化したが、大東亜共栄圏の結束が大きく傷ついたのは誰の目にも明らかであった。
核兵器の情報が伝えられたのはその翌日であった。
日本国内の各社の新聞の大見出しを飾ったのは、大日本帝国空軍による隕石衝突後の核兵器投入が行われたという事実で、1959年の報道規制の緩和、1966年の検閲の大幅緩和前ならば絶対にありえない記事であった。
このあおりを受け、4月30日に辻内閣不信任決議案が可決され、衆議院が解散された。
その結果は惨憺たるもので、翼賛政治会の勢力が選挙前の一割にまで縮小し、日本の政治は混迷を極める事態となった。
だが、事態は一変する。
5月7日、日本空軍がカシュガル付近を偵察していたところ、赤い物体を確認した。
それはカシュガルの周辺に存在しており、その正体は当初不明であった。
しかし、それらは明らかに何者かが存在していたことを示していた。
そして、偵察隊による確認と分析の結果、それが何であるのかが判明する。
それは、紛れもなくBETAの死骸であった。
その死骸は、カシュガル周辺の調査により、複数対発見されたが、どれも損傷や核汚染が著しく、分析は困難を極めた
各地で回収された死骸は、アクス、和田地区、マルキトなど周辺基地へと送られ、直ちに分析に回された。
死骸は、小型のものから大型のものまで、多種多様に渡ったが、余りに大きすぎるものは回収することができなかった。
4月19日にカシュガルへ飛来した「隕石」の正体と、そこから現れた物体の正体が、ついに明らかになろうとしていた。
だが、その結果は惨憺たるものだった。
消化器官、呼吸器官、その他生命維持に必要な諸器官が存在せず、知能も有さないことがわかった。
挙句、分かったのは「炭素生命体である」ということで、他にも生物学的特徴が全く異なる他の種類がいるということだけだった。
そして、帝国軍と共栄圏連合軍は、これらの物体に通称を与えることにした
A号未確認生物群
そして、それぞれの名称が、暫定的に定められた。
イ号
赤い歩行体で、手があり、足らしきものが見られた。その詳細は不明だが、死骸の数としては最も多かった。
硫黄に似た独特の臭気を放ち、体液からは金属臭があった。
ロ号
四本足に、二本の前腕と一つの頭を持つもので、下部に存在する物体は不明である。
イ号に次いで数が多かった。
ハ号
三対の足を持ち、巨大な殻をまとった生物。その殻は1t爆弾や徹甲弾、ミサイルなどを以てしても完全に破壊することはできなかったという。
大型のものではロ号に次いで数が多かった。
ニ号
二本足と頭を持ち、象のような見た目をしているほか、象の鼻に相当する部分が手となっていることが確認されている。
人間の身長のおよそ1.5倍ほどと推定された。
ホ号
最も大きい未確認種
五対の足と巨大な衝角を持つ。遺骸であったとしてもその大きさは雑居ビル程度とされるほど大きく、回収に困難を極めたためその場で分析された。
また、pHでは測りきることができない強力な酸を持つことが確認されている。
衝角を調べる際、帝国空軍のA-3N、通称「明星」が投下したミサイル、加えて地上部隊が放った榴弾砲でも破壊されず、徹甲弾を放ってようやく根元から衝角が落ちたという。
なお、これに加えて着陸ユニット周辺では分類不可能な物体が存在した。
暫定的にそれは「ヘ号」とされた。
核汚染地帯から回収されたその物体には、水晶体と思しき物体が二つ存在しており、高さは人間とほぼ変わらなかった。
総選挙が終わり、総理大臣が交代し日本の政治情勢がやっと落ち着きを取り戻した1973年7月20日、新たに発足した三木内閣は、早速前政権の後始末に追われた。
中華民国への謝罪、アメリカやドイツ、ロシアへの説明、大東亜共栄圏加盟各国からの信頼を取り戻すことなど、数多の問題に追われた。
そんな中、帝国軍は秘密の作戦を実行した。
1973年8月11日夜、その作戦「A作戦」は実行された。
1973年6月18日午後十時
東京都新宿区市ヶ谷台国防省統帥本部第三会議室
複数の軍人が話している。
「例の未確認の物体を回収するべきである」
「いや、共同で回収するべきである」
「そもそも回収しないべきだ」
そのような論が飛び交っている中、一人の将校が口を開いた。
「回収はするべきであろう。それもどこにも悟られないように慎重に、かつ大胆に。」
多くの者がそれに賛同した。
もとより、例の未確認物体を回収するべきでないという意見の者は少数派で、十七人の会議室の中にわずか一人いるだけであった。
これより前にも幾度となく会議は開かれていた。
最初の会議は存在が確認された5月3日、だがその時は汚染がひどいので実行などとても無理であった。
その後も何度も会議は開かれたが、回収するべきか否かの話に終始し、時間を無駄にするばかりだった。
だが、6月7日、内閣総理大臣だった辻政信が陸軍に一喝を入れた「支那や印度の手に渡ったり、アメリカに露見する前にさっさと回収してしまえ」と。
彼は着陸ユニットを回収するべきだと考えていた。
それに、日本が未確認の物質や技術、その対処法を独占したいという意欲もあった故の事だった。
そして、6月18日、回収は実行するものと決まった。
だが、問題なのは回収方法と手順、そして放射能汚染をどう乗り越えるか、いかにして露見しないかであった。
如何に露見を防ぐかについては、その解決策の一つとして特殊部隊を投入することで解決を図ることに決まった。
選定されたのは、第一挺進集団、第三特別陸戦隊の二つで、いずれも精鋭である。
作戦時間帯は深夜とされ、着陸ユニットはカシュガルから運び出して100km圏外に脱出後、バラバラに分解して自動車などに搭載、そのまま蘭州の空軍基地へ輸送するということになった。
輸送を担当するのはヘリであるが、ヘリ部隊は当然挺進集団の所属である。
彼らの仕事は何も空挺降下だけではない。
ヘリコプターを用いた作戦も担当なのである。
この作戦は極秘の作戦とされたものの、手続きはいつも通りだった。
統帥本部部長が国防大臣に渡し、内閣総理大臣が内閣の印を捺し、天皇が裁可する。
問題だったのはここからだ。この作戦はわずか一か月で立案され、7月18日に内閣総理大臣が承認し、天皇の元へ送られた。
しかも、その翌日に三木内閣が発足し、辻は内閣総理大臣から退いた。
新首相のあずかり知らないところで、極秘の軍事作戦が進められようとしていたのである。
1973年8月11日、カシュガル時間午前4時、ヤルカンド基地からヘリが飛び立った。
この日、第一挺進集団がタクラマカン砂漠で演習を行うことになっていた。
いつものように演習を済ませ、午後5時、基地へ帰投した。
だが、午後6時、ヘリは再びヤルカンドを飛び立った。
今度は西へ西へと進んでいく。
やがて、ヘリはイェンギサールの基地跡に到着した。
イェンギサールには事前に輸送機から物資が投下されている。
汚染は三か月前よりもずっと弱まっており、この距離ならば比較的問題は少なかった。
第一挺進集団はここで燃料を補給した。この地で陸戦隊は待機することとなっている。
名目上、陸戦隊はイェンギサール基地に残っている生存者の捜索を目的としてこの地に存在している。
そうして、午後11時ごろ、第一挺進集団はカシュガル基地があった場所に到着した。
その場所は、まるで変わり果てていた。
直径約9kmの巨大なクレーターがあり、その真ん中には大きな塊が存在する。
この場所は核の直撃を受けたために線量も高く、無線は使えないに等しい。
出来るだけ早く回収したいところであった。
だが、それでも線量は南洋の核実験場跡と比べればまだ少ない方なのは救いであった。
夜半を過ぎた。
作業は着々と進んでいる。
そして、8月12日午前2時、作業が完了し遂にカシュガルを離陸した。
着陸ユニットは爆弾で大きな破片に分割され、その一部を組立式コンテナに詰め、他の一部はヘリでそのまま吊り下げられて運ばれた。
内部には特に動く物体は無かったが、およそ地球上のものとは思えない物質が多数存在していた。
午前5時38分、ついにイェンギサールに戻ってくることができた。
ここからは共同作業だ。
大きな破片を解体し、コンテナや自動車の積み荷に収まる程度まで分割するという、軍事作戦とは思えないような地味な作業である。
そんな解体も、イェンギサールでの捜索活動と並行して行われ、20日には無事に完了した。
その間に陸軍の特殊輸送隊が幾度となく到着して残骸を運び出していった。
表上は、「基地の残骸」ということにされたが、その積み荷は着陸ユニットの残骸であった。
そして、何日もかけて輸送隊は蘭州空軍基地へと到着し、日本専用区画の機密倉庫へと保管された。
挺進集団と陸戦隊は内地に帰還し、8月28日、A作戦は正式に終結した。
この作戦では、中華民国軍やほかの日本軍、アメリカなどに露見することなく完了し、辻前首相の目論見通り、着陸ユニットは無事に回収されたのだった。
蘭州基地では、着陸ユニットの残骸の分析調査が進められた。
この分析にあたったのは、東京帝国大学の物理学者で、特別に蘭州に派遣された江崎主任であった。
分析の結果、複数の人類未発見元素が確認された。
負の質量を有する物質や、309Kで超伝導が可能な物質が代表的である。
これらは、「未発見」のMからとって、「M元素群」と命名されたが、偶然にも、「見つからない」「行方不明の」「欠けている」などを意味する「Missing」のMと重なることとなった。
内閣総理大臣は、この報告に驚きを隠せなかったが、機密は機密、これを公開するわけにもいかなかった。
さらに、国防省の特別予算として総額80億円の支出が発生した。
1973年の当初の国家予算が6571億円で、それと比較しても大きいことに変わりはないが、そこまで支出する必要があるのかと疑問の声はあった。
だが、表上は宇宙開発や新型戦車、航空機、衛星などの開発に偽装され、敵性体に関する情報はその一切が秘匿された。
三木首相は、外交的問題の対処を終えた。
中華民国に対して賠償として総額100億円を十年分割で支払い、加えて中華民国への開発援助として年間40億円
加えて鉄道車両から一部の産業設備に至るまでの無償の援助が約束された。
中華民国は大東亜共栄圏から離脱こそしなかったが、日本から取れる分だけ金や設備をタダ同然で貰っていった。
東亜理事会において日本への非難決議は日本の拒否権発動で否決されたものの、中華民国を大東亜共栄圏に引き留めるためには賠償など、何らかの手段により補償をする必要があったのである。
無論、A作戦については一切が秘匿された。
また、中華民国に対する原子力技術への制限(大東亜共栄圏原子力委員会による)が大幅に緩和され、中華民国の核保有が許可された。大東亜共栄圏内で核保有が許された国はこれで三か国目(日本とインドがそれまでの保有国)となった。
三木首相は、外交問題への対処のほか、A作戦の後始末、敵性体に関する研究や分析についての予算を片付けると、3月1日に総辞職した。
----1974年3月1日 衆議院本会議場----
衆議院で会議が行われている。
議長の席にあって議事を取り仕切っているのは前尾繁三郎議長である。
そして、議事進行係である木村武千代が議事進行に関する動議等を提出し、会議の進行を促している。
現在進行しているのは、政治資金法である。政治資金を規制する法律であり、今日の本会議の四つ目の日程である。
衆議院は、1965年から本会議中心主義より委員会中心主義に移行した。
人数が多いため、本会議で終わらせるには時間がかかったからである。
対して、貴族院は未だ本会議を中心とする議院である。
帝国議会は二つの院で中心とするものが違う異質な議会であった。
議長「採決いたします。」
本案の委員長の報告は可決であります。本案を委員長報告のとおり決するに賛成の諸君の起立を求めます。
多くの者が起立した。
議長「起立多数。よって、本案は委員長報告のとおり可決いたしました。」
採決が終わった。本来は次の日程に移るはずだった。
だが、議長が口を開く。
ご報告いたします。本日、三木内閣総理大臣から、内閣は総辞職することに決定した旨の通知書を受領いたしました。これより、内閣総理大臣の指名を行います。
この手続きは、内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律および先例によることといたします。
同法第一条および第二条によりますと、記名投票で指名される者を定めることとなっております。お手元に配付の投票用紙に、指名される者の氏名を記載し、かつ投票者の氏名を記載して持参の上、自ら投票箱へ投入されることを望みます。
これより、点呼を命じます。
8か月ぶりの総理大臣の指名が始まった。
衆議院には512の議席があるが、議長は投票せず、そして議席には一部空白も目立っており、全員が投票する訳ではなかった。
参事が投票箱の前に一人で立っており、投票の様子を監視していた。
三十分したころ、やっと最後の議員が投票を終え降壇した。
議長が再び口を開く。
「投票漏れはありませんか。」
一部の議員が「なし」と発言した。
「投票漏れなしと認めます。投票箱閉鎖、開票、これより投票の計算及び点検を命じます」
投票の計算が始まった。
参事が投票箱を持ち閣僚席へと持って行った。
十人ほどはいるだろう参事が投票箱の中身を机の上にぶちまけ、一つずつ数え始めた。
五分ほどで計算は終わったようで、内閣書記官長の席に投票結果が書かれた紙が渡された。
議長は結果を報告しだした。
投票総数、五百七、本投票の過半数は、二百五十四であります。
投票の結果を、書記官長から報告させます。
書記官長は口を開く。
田中角栄君 二百五十七
宮澤喜一君 八十
成田知巳君 六十九
岸信介君 四十一
武田邦太郎君 十九
西尾末広君 十七
河野洋平君 十一
ほかに無効 十三
議長はその結果を聞いて発言した。
「右の結果、田中角栄君を内閣總理大臣ノ指名ニ關スル法律第二条により、本院において内閣総理大臣に指名することに決まりました。」
指名の決議を受けた田中議員は、周囲に礼をしているようだった。
「この際、暫時休憩いたします」
議長は休憩を宣言した。
次の日、貴族院でも指名決議が行われ、決選投票となった末に田中角栄が総理大臣になることに決まった。
3月3日、田中内閣が組閣された。
これで日本は平時に戻った。
十一か月前の大事件が嘘であったかのように、日本社会は平常時へと戻った。
しかし、その裏には確かな危機感が存在する。
「いつあの隕石が再び落ちてくるか分からない。」「前はカシュガルだったが、次は満洲や内地かもしれない」
そのような恐怖が国民だけでなく政府内部でもうごめいていたのである。
大東亜共栄圏の結束は大きく傷つけられた。
それでも破局に至ったわけでもなかった。ユーラシア中央部での宇宙人騒動は終息した。
この一件で共栄圏は最大の宇宙基地を失った。
外交上の亀裂は残り、カシュガルは共栄圏最大の宇宙基地の一つを失った。しかし、BETAは活動を停止し、着陸ユニットも破壊された。
少なくとも、人類はそう考えていた。
ユーラシア中央部で起きた「宇宙人騒動」は終息した。
「これでもう危機は去った」
そう考える者は少なくなかった。
軍人も、政治家も、そして一般の国民も。
カシュガルから遠く離れた場所に暮らす人々にとって、それは結局のところ、遠い異国で起きた災害だった。
新聞には大きく報じられた。
テレビでも連日のように取り上げられた。
核兵器まで使用されたという事実に、人々は恐怖し、驚愕した。
それでも、日常は続いていた。
学校へ行く者がいた。
工場へ向かう者がいた。
商店を開ける者がいた。
家族と食卓を囲む者がいた。
そして、心のどこかでこう思っていた。
「自分たちには関係ない」
カシュガルに落ちたのだから、次もどこか遠い場所に落ちるだろう。
政府と軍が何とかしてくれるだろう。
そもそも、あれほどの災害が何度も起きるはずがない。
――そう、誰もが思いたかった。
この年、1974年、再び災厄の隕石が落ちてくることを、人類はまだ知らなかった。
そして二度目の落下で、人類はようやく理解することになる。
これは、カシュガルだけの問題ではない。
中国だけの問題でもない。
大東亜共栄圏だけの問題でもない。
アメリカやドイツ、ロシアだけの問題でもない。
全ての人類が、当事者なのであると。
いつどこに振ってくるか分からない「恐怖の大王」
それを迎撃するために、現時点で人類が有効な手段として持っているのは、カシュガルで使われた先例である核攻撃だけだった。
そして、その事実こそが、人類に新たな絶望を与えた。
敵がどこに現れるのか分からない。
そもそもその隕石から本当に敵は出てくるのか。
そして、その敵はいつ現れるのかも分からない。
現れたとしても、確実に倒せる保証はない。
しかも、倒すためには自分たちの都市や国土を犠牲にする覚悟さえ必要になる。
それでもなお、「自分たちは関係ない」と思う者はいた。
彼らは、身をもって知ることになる。
自分たちの考えが、いかに浅慮だったのかを。この世界が、いかに理不尽なものであるのかを。
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