昨年四月のカシュガルへの隕石落下、そして日本によるカシュガルへの核攻撃から一年が経過した1974年5月
世界は平和であった。
市井の人々は去年の事件の事などまるで気にも留めることなく、日常生活を送っていた。
稀に話題になることもあった。
「そんなこともあったね」「もう何もないからいいじゃない」
人々の反応はその程度であり、もはや話題の種にすらならない。
あれほど世界を震撼させたカシュガルの事件も、少しずつ人々の記憶から薄れていき、そして一部の者からは忘れ去られた。
新聞の一面を飾っていた記事は、やがて小さな記事となった。
カシュガルへの核攻撃から一年という見出しで掲載された記事が多くの新聞で出回ったが、日本の蛮行を批判しする程度で、宇宙人の話題など一つも出なかった。
宇宙人の死骸が散乱していたという風説は、当初こそ新聞やテレビでも取り上げられたが、その話題が世間を騒がせた一週間後には、テレビも新聞も報じなくなり、表の話題からは消え去った。
だが、その話題は大衆に流布し、一年もしないうちに尾ひれ羽ひれが付いて陰謀論の一部となった。
「宇宙人とのコミュニケーション計画」
「日本は宇宙人を隠している」
「宇宙人を解剖している」
このような陰謀論となり、日本が隠している「宇宙人の真実」を解き明かそうとする団体さえ生まれることになった。
しかし、人々は知らなかった。
その陰謀論の一部には、奇妙なことに真実が含まれていたことを。
そして、そんな日常を暗い影が覆ったのは、夏のある日のことであった。
1974年7月6日、カナダ連邦サスカチュワン州アサバスカに、カシュガルと同様のものとみられる隕石が落ちてきた。
その隕石は直径30kmのクレーターを形成した。
その隕石の衝撃波は広く伝わり、700km近く離れたエドモントンでは窓のガラスにひびを入れ、ウィニペグでも建物を微かに揺らし、モンタナ州ヘレナ市でも窓がわずかに揺れるほどであった。
アメリカは衛星画像から、カシュガルに「あったはずの物体」が消えてなくなっていたことを確認しており、日本又は中華民国、それとも大東亜共栄圏がその物体を回収して研究に回した可能性を考慮し、その物体の確保を急ごうとした。
そこでアメリカが手段として選んだのは、核攻撃であった。
核攻撃によるBETA着陸ユニットの残骸の破壊は、カシュガルですでに実証されており、最も確実な方法であった。
だが、現在試験段階にあるハーディマンを地球環境向けに改良した二種類のプロトタイプを投入することにした。
この時に導入されたプロトタイプの一つが、後に世界初の戦術歩行戦闘機とされるF-4ファントムであった。
さらに、カナダ領内のアルバータ、サスカチュワン州の米軍3万、国内のモンタナ州、ノースダコタ州、アイダホ州から連邦軍の動員を開始した。
だが、アサバスカは米軍基地からは極めて遠い。
その移動に何日もかかることは自明の理であったが、それでも計画は実行された。
全てはアメリカのため、そして世界の覇権のためであった。
1974年7月7日山岳部時間午前8時13分、アサバスカに宇宙からの物体が落ちてきてからわずか13時間後のこと。
アメリカ政府は、カナダ政府に核攻撃を通告した。
その5時間後のこと、ウッド・バッファロー国立公園の東、アサバスカ湖の方向から閃光が発生し、きのこ雲が上がった。
核爆発である。カシュガルで使われてから一年ぶりの核爆発であった。
使用されたのはB-52爆撃機に加え、モンタナ州に存在していたミサイルサイロから発射されたミサイルであった。
アサバスカに投入された核兵器は全部で71発、カシュガルで使用された49発を上回る規模であった。
そのほとんどは、アサバスカ周辺に大量に投下された。
悪いことに、核弾頭の一部は起爆せずに地面に突き刺さり、核汚染地帯となった場合もあった。
そのうえ、確実に破壊するためにほぼ地表での起爆であったため土砂が撒き上げられ、核汚染は広範囲に及んだ。
冷戦期の核兵器だ。その威力は第二次世界大戦後に開発された初期の核兵器の威力よりもはるかに大きい。
ドイツが1946年にノルウェー北部で実施した核実験の推定威力がTNT火薬18キロトン、アメリカが1948年にニューメキシコ州で実施した核実験の威力が25キロトン、日本が1949年に太平洋上で実施した実験が21キロトンであった。
しかし、この作戦で使用された兵器はいずれも500キロトンから25メガトン、果ては38メガトンと、1940年代の核兵器から見ればまさに規格外の規模を誇っていた。
その威力は絶大で、BETAを完全に殲滅することに成功した。
着陸ユニットもかなり損傷してしまったが、BETAの進行を食い止めただけで御の字であった。
――BETA
それはThe United Nations、通称連合国が用いている火星起源種の名称だ。
正式には、Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human raceという。
この未知の存在との邂逅は、1958年、ドイツで経済危機が始まり、日本では11年続いた近衛内閣がいよいよ終わりを迎えた年のことだった。
アメリカが火星に派遣した探査機、ヴァイキング1号から送られてきた最初の画像には、未知の生物が映っていた。
そして、その画像を送った直後にヴァイキング1号は通信不能となった。
ドイツが1952年から準備を進めていた月面着陸計画「デア・モンド計画」がいよいよ結びを見せ始め、日本ではカシュガル基地建設が始まってから3年が経過したころのことであった。
1950年代、日米独三か国は宇宙開発でしのぎを削っていた。
1950年にアメリカと南米諸国、カナダなどと共同で系外惑星探査計画であるダイダロス計画が開始された。
この計画は、まず衛星軌道に到達し、大型軌道ステーションを作った後、月へ人類を送り、月面を開発する計画であった。
だが、月への有人飛行は1967年の3月まで遅延する結果となり、恒久月面基地建設も困難であった。
1949年、大ドイツ国総統、アドルフ・ヒトラーは、「アーリア人の未来は宇宙にある」と題して、ロケットやミサイル、核や宇宙など、広範囲にわたって新技術を開発することでアーリア人種はより発展できるという大演説を敢行した。
1952年1月には10年以内に月に人類を送ると宣言し、ドイツが宇宙開発で頂点に立つと思われた。
そんな矢先に1958年3月のアメリカによる火星探査機の投入、さらに10月の株価暴落に端を発する経済危機の中で、ドイツの揺ぎ無いかに思われた宇宙開発競争での首座の地位は揺るいだ。
それでもドイツは宇宙開発に優先的に資源を投じ、1960年5月1日、ドイツは遂に世界で初めて月へ人類を送ることに成功し、アーリア人種の優位性を大々的に発表した。
日本、この国は宇宙開発では一番遅れていた。
1949年の演説や1952年の演説で、宇宙開発に徐々に傾注しだしていたが、国家の威信をかけた巨大プロジェクトというほどではなかった。
しかし、1954年のドイツによる有人宇宙飛行で衝撃を受け、宇宙開発を国家プロジェクトに据えた。
1955年には巨額の予算を投じてカシュガル空軍基地を中心として新疆省で内陸基地群の建設に着手、1959年にやっと有人宇宙飛行にこぎつけ、1963年の経済危機で大打撃を受けて宇宙計画は停止されるも、1965年から再開した。
だが、日本政府はここでまたしても衝撃を受けた。
8月、ドイツ政府は恒久月面基地「モント・アインス」の竣工を発表し、宇宙開発の遅れを取り戻そうと躍起になった。
1970年4月11日にアメリカが恒久月面基地、「プラトー1」を建設したことを発表すると、日本はいよいよ周回遅れとなった。
超大国の中で、月面基地を持たず、月面着陸をしていないのは日本だけ、この絶望的な遅れの中で、宇宙開発予算を増額し、1971年2月11日、紀元節の日に月面着陸を大々的に報道し、日本は負けていないことを世界にアピールした。
だが、1971年の5月のイエメン内戦から中東情勢が急激に不安定化し、7月14日に石油危機が勃発した。
この影響で三国ともに経済的なダメージを受け、宇宙開発計画は縮小の傾向となった。
1972年9月にはパフレヴィー二世の暗殺を発端にイラン革命が勃発し、ドイツで第二次石油危機となった。
イランの石油はドイツがその利権を掌握しており、大打撃を受けたのはドイツのみであった。
日本はそんな中で1972年10月に仮設基地を建設し、周辺のクレーターの調査を開始した。
だが、1973年1月19日、ボーリング調査の調査チームが全滅し、日本は月面での探査を打ち切り、月面から撤収していった。
この裏では、アメリカがある秘密の計画を動かしていた。
その名を――
オルタネイティヴ計画という。
1967年にNASAが設置したディグニファイド12を発展させたもので、アメリカが主導権を握っていた。
1959年、ヴァイキング1号からの画像や、その後の探査機の投入で発見された火星表面の地層構造物発見から火星の生命体を調査する計画が立ち上がったところからその話は始まった。
規模がここまで大きくなる原因となったのは、1967年ごろからたびたび発生するようになった月の調査員の行方不明事件である。
周辺では、稀に血痕や遺体の一部が見つかるケースもあった。
その原因を異星起源種のものと断定したNASAが、ディグニファイド12を召集させたというのが顛末であった。
1968年The United Nationsの安全保障理事会はオルタネイティヴ計画の召集を決定し、月面と火星の謎の生物の調査を開始した。
同時期、アメリカは現有の宇宙兵器でBETAに対抗できるかどうか極めて大きな不安が存在した。
そこで、当時の大統領は軍産一体となり、陸・海・航空宇宙軍全軍での対BETA兵器の共同開発や、そのための基礎研究計画を始動した。NCAF-X計画もその一部であった。
そして、1969年、全く成果の上がらないオルタネイティヴ計画の継続に疑義を示した安全保障理事会は、その停止を発表、直ちにオルタネイティヴIIを始動した。
今回の研究では、生物学者から言語学者に至るまで、様々な学問のトップ層が集められ、BETAについての研究が始まった。
この計画ではオルタネイティヴIよりもはるかに巨額の予算が投入され、BETAの調査と分析を目的にその捕獲も実施された。
BETAの捕獲に数多の人命を失い、莫大な予算を消費し、貴重な設備を月に送ってまで分かったことは、それはそれは悲惨なものだった。
BETAは炭素生命体であり、各種は生物学的特徴が全く異なる。この二点が、この計画で判明した事実であった。
そして、皮肉なことに、日本や中国を筆頭とした大東亜共栄圏加盟国は、カシュガル付近に転がっていたBETAの残骸を解析して一年も経たないうちにそれらの事実を把握してしまっていた。
1973年4月19日、今から約一年ほど前にカシュガルに落ちてきた隕石は、間違いなくアメリカが発見していた敵性生物「BETA」であった。
1972年ごろ、大日本帝国大本営特務総監部と国防省情報部が確認していた。
当時機密扱いだったBETAの情報をアメリカから回収していたのである。
アメリカの保安体制はまさに鉄壁の要塞で、その文書の保管庫にたどり着くことは絶対に不可能とされていた。
しかし、換気システムの警備が薄く、簡単に侵入され、そして無事に回収できてしまっていた。
BETAという生物の情報は、情報部では「オカルトじみた狂気が生んだ仮想生物」とされていたが、念のため情報部長から国防次官、そして国防大臣を経由して当時の内閣総理大臣、田中角栄に伝達された。
同時に、統帥本部より高度で専門的な統帥を担う最高統帥機関、「大本営」の情報機関「特務総監部」が保管していた月面での事件について、その「BETA」の関与が強く疑われたため、この情報は帝国軍の上層部で共有されていた。
そして、3月20日、辻内閣総理大臣が就任した。
4月1日からカシュガル基地の視察へ赴き、4月16日に中華民国総統高宗武と会談をした後、18日に東京へ帰った翌日の夕方にカシュガル基地壊滅の一報が届けられたのであった。
統帥本部で内閣総理大臣と国防大臣が首席して緊急で会議を開くということになり、実際に会議が開かれた。
その時には「カシュガルはなぜ壊滅したのか」「カシュガルにアメリカの言う敵性生命体がいるのならどうするのか」という二点だけに終始し、実際に何するか、危機対応はどうするのか、生存者はと言った具体的な話にならなかった。
そのうち、首相は統帥本部からでは情報が漏出する可能性を懸念し、会議が始まって7時間が経った20日午前3時48分に解散となり、20日午前11時31分、大本営特務総監部での会議に移行した。
大本営での会議は、内閣総理大臣、国防大臣、統帥本部長、大本営長官、大本営特務総監部長の五名出席であった。
会議は大本営としては異質なもので、天皇の臨席が無かった。
その密室会議で決定されたのが、カシュガルへの大規模な核攻撃である。
1946年に完成した爆撃機、G10N富嶽に核爆弾を詰め込み、新疆省の入り口付近で乗員を脱出、そのままカシュガルへ突っ込ませる。
それで破壊できなければ大型爆撃機を派遣し、何十発も核を叩きこんで破壊するという計画で、4月20日午後11時作戦計画は「カ号作戦」として承認、天皇の裁可を仰ぎ、午後1時に開始された。
その作戦で日本は4月23日までに49発の核兵器を投下し、4月25日にはBETAの活動停止が報告された。
5月7日、タクラマカン砂漠やカシュガル周辺でBETAのものとみられる残骸が多数散乱しており、日本、中国などが共同で調査を実施し、イ号からヘ号まで分けることに成功した。
これらの生物は、その総称として、「A号未確認生物群」が与えられた。
BETAの研究情報やサンプルは日中両国の軍が確保して調査、その後に一部を大東亜共栄圏連合軍の情報室へ送り、機密扱いとなった。
アメリカの資料と照合すると、それぞれ次のように対応すると分かった。
イ号:Manderium:Ungulam crus
ロ号:Rrabidusius:Bracchium acutas
ハ号:Impetusis:Arma duras
ニ号:Agilisis: Naris prolix
ホ号:Pergrandium:tria corpus
これらはすべて学術名であると分かったが、ヘ号の名称だけは分からなかった。
日中両国は、11月7日、これらのBETA研究の結果として、オルタネイティヴIIと全く同じ結論に至った。
A号未確認生物群は炭素生命体であり、各種は生物学的特徴が全く異なる――
これが判明する5か月前、A作戦によりカシュガルの着陸ユニットはバラバラに分解されて蘭州へと搬送された。
日本の仕業であると誰にもバレることなく。
そして、その残骸を分析したところ、人類未発見の元素を発見、時の日本政府はその研究に莫大な額を投じることを決定したのである。
しかし、アメリカは感づいていた。
そこに在ったはずの物体が、消えてなくなっている。
これは、日本か中国のどちらかがBETAの着陸ユニットを回収したことを意味する。
アメリカは、研究で出遅れたくなかった。
その中に含まれているであろう人類が未だ見つけたことのない物質や異星起源種由来の新技術を喉から手が出るほど欲していた。
そこに訪れたのが、7月6日のアサバスカへのBETA着陸ユニットの降下であった。
アメリカは、その技術を何としてでも入手しようと思い、中に潜んでいるであろうBETAを即座に殲滅し、着陸ユニットを回収してロスアラモスへ搬入したかった。
そうして、カナダの承認を得ることなく、その被害を度外視して戦略核を集中運用して着陸ユニットを攻撃した。
これは、「アメリカによる、同盟国を軽視した背信行為」とみなされ、カシュガルの時と同じようにアメリカは世界各国から非難を浴びる結果となった。
しかし、そんなことなどどうでもよい。
連合国にはアメリカ以外の大国などいない。
そもそも、オーストラリアやニュージーランド、イギリスやカナダもアメリカ頼り、同盟国に条約破棄や経済援助停止をちらつかせれば奴らは嫌でも従う。
そのように考えていたアメリカは連合国内の不和を半ば無視し、米軍を堂々派遣してアサバスカの着陸ユニットを回収し、10月6日、着陸ユニットの残骸をロスアラモスへ搬入した。
ロスアラモスでは、ウィリアム・グレイ博士の指揮の下、敵性先進技術研究計画が開始された。
そして、その過程でG元素を発見、これは1973年12月に日本が蘭州で発見していた「M未発見元素群」と同じものであった。
そして、翌年1月31日、HI-MAERF計画が始動し、グレイ11を用いた戦略兵器「XG-70」の研究が開始された。
1974年12月1日、カシュガルとアサバスカへの未確認生物の着陸を受け、非常に強い危機感を覚えた日米両国は、メキシコシティ共同宣言によりBETA着陸ユニットを迎撃する軌道防衛体制の構築を主張し、多国家間協力を大東亜共栄圏加盟国、連合国加盟国全国家の連名により採択した。
日米関係はこれまでになかったほど密接になったが、その実相手を相互に仮想敵国と見ている奇妙な状態であった。
しかし、この構想にドイツが入っていなかったことは、大きな障害となったのである。
だが、ドイツとして見れば当然であった。
「なぜ、劣等人種どもに我々の技術を共有しなければならないのか」
それが、ドイツの本音であった。
そして、ドイツは宇宙開発で間違いなく最も優位に立っている。
自分たちが優位にならない宣言に、彼らが参加するはずはなかったのだ。
ドイツ宣伝省は、国内でこのメキシコシティ宣言を散々に揶揄し、ドイツの技術力は世界一であることを主張するとともに、BETAがドイツを侵すことは絶対にないと主張した。
だが、その主張が、二年後に自分達を苦しめることになるとは、まだ誰も知らない。
アメリカ国内を見れば、世論は紛糾していた。
核を用いてアサバスカを攻撃したことは国益に適うと主張する者
核を用いた結果同盟国との信用が失われ国益を失ったと主張する者
そして、その宇宙人は本当に存在したのか疑う者がいた。
このアサバスカへの核攻撃は、1974年の中間選挙に極めて大きな影響を与えることは、まず確実であった。
当時の政権は、国民進歩党
1968年の大統領当選前に圧倒的な人気を誇り、1972年まで大統領を務めたロバート・F・ケネディは、この時大統領候補にすらなれなかった。
そして、当選したのは民主党のリンドン・B・ジョンソンである。
この時の政権は、少し慌てているところがあった。
貿易赤字と財政赤字、そして大東亜共栄圏加盟国のどこかがBETAの残骸を回収したらしいという報告。
複雑な国内世論に、安全保障の問題、さらには月面に関する巨額の予算とその兵器への巨額の支出
それに国益があることを示す必要があったのだ。
そんな中でのアサバスカへのBETA襲来、そしてその後の未発見元素の発見で世論は沸き立ったが、それは世論の分裂を招く結果ともなったのだ。
さらに、この一件はアメリカの政治を揺るがす大事件に発展した。
今回の核攻撃は職権乱用にあたるとして、下院の決議により弾劾訴追が決定した。この時、民主党からも造反があった。
そして、弾劾裁判を待たずして大統領は1974年12月に辞任を表明、副大統領であったヒューバート・H・ハンフリーが大統領に就任することになった。
1964年5月のウォーターゲート事件以来十年ぶりの、大統領の急な辞任であった。
しかし、この二年後、人類にとっての悪夢が始まることになることは、まだ誰も知らない。
1975年4月、カシュガルの事件から2年経過した。
人々はもう普通の日常を送り、二年前の出来事として受け入れた。
1975年7月、アサバスカにBETAの着陸ユニットが落ちてから1年経った。
カナダ国民の恨みはすさまじい。
国土の約半分が汚染されたのだ。そのような痛みを一朝一夕で忘れられるはずがなかった。
カシュガルの時と同じように人口が極めて少ない地域で起こったものの、決定的な違いがあった。
カシュガルは砂漠地帯、アサバスカはカナダ北部の森林地帯である。
野生動物もいるだろう。
そして、運の悪いことにアメリカが用いた核兵器は日本がカシュガルで使用した核兵器より規模がはるかに大きかった。
日本が使用した核兵器が最大で1Mt、対してアメリカは最大15Mtの核兵器を使用した。
日米両国は、ともに迎撃で巡航ミサイルを用いた。
日本は1Mt程度の格弾頭を「標的を確実に破壊するため」に数発を撃ち込み
アメリカは3Mtの核弾頭を「BETAを確実に殲滅するため」に数十発を撃ち込んだ。
さらに、日本が使用した核兵器は1950年代に製造された旧式で、原子爆弾が主力、一部高出力の核兵器は水爆である。
アメリカは高出力の水爆を大量に使用した。その中には、核融合燃料を覆う外殻がウラン238で作られたものもあった。
アメリカは、1954年、南極で核実験を行った。
その作戦名は「ブラボー実験」、6Mtと見積もられた出力は、2.5倍の15Mtに及んだ。
その原因はウラン238で作られた外殻であった。
そう、あろうことかその爆弾を使ってしまったのだ。
この核爆弾は、アメリカで数百発ほど生産された。本来の設計出力を大きく上回る爆発を起こすことがあり、それを兵器としての利点とみなされていたためである。
その爆弾は1963年に生産が終了したが、すでに製造された分はその後も保管され続けた。
そして、その規格外の核爆弾はアサバスカに投入された。
本来28Mtの出力を想定していたこの核兵器は、実際には35Mtの爆発を引き起こした。
想定を大きく超えた核出力は、周辺地域に放出される放射性物質の量をさらに増大させる結果となった。
その名を「Mark 40」
アサバスカへの攻撃では、少なくとも7発のMark 40が使用されたとみられている。
一方、これとは別に、実戦使用を前提として開発され、設計値を大幅に超える出力を発生させないよう改良された超高出力核兵器も存在した。
「Mark 41核爆弾」。
その設計出力は25Mt
こちらもアサバスカ攻撃に投入され、周辺には少なくとも18発程度が落とされたとみられている。
こうしてアサバスカ周辺では、極めて大規模な核爆発が連続して発生した。
ウッド・バッファロー国立公園を含むカナダ北部の広大な大地が放射性降下物による汚染を被った。
さらに悪いことに、アサバスカ周辺には、起爆しなかった核弾頭が複数残された。
地中に突き刺さった弾頭は、その後も長期間にわたって放射性物質を放出する危険な汚染源となった。
また、投入された兵器には巡航ミサイルに搭載された核弾頭も含まれていた。弾頭を広範囲に散布することを想定した方式の兵器も存在し、それらが地表近くで起爆したことで、大量の土壌や森林が放射性物質とともに大気中へ巻き上げられた。
とりわけ深刻だったのは、アサバスカを中心とした半径約400キロメートルの地域である。
ここでは核爆発そのものによる破壊に加え、強烈な放射性降下物による汚染が発生した。
核爆発によって巻き上げられた大量の土砂や粉塵は、放射性物質を取り込んだまま成層圏にまで達した。
これらは上空を吹く偏西風によって東方へ運ばれ、広範囲にわたって降下した。その結果、アサバスカから遠く離れた地域にまで放射性降下物が拡散し、8万平方キロメートルを超える地域で明確な汚染が確認された。
しかし、汚染はアサバスカ周辺だけにとどまらなかった。
南方ではウィニペグ、エドモントン、カルガリーなどでも、程度の差こそあれ放射性降下物による影響が確認された。
重度の汚染地域から、微量な放射性降下物が検出される程度の地域までをすべて含めれば、カナダ国土の約半分が何らかの形で汚染されたとされる。
アサバスカは、単なるBETA殲滅作戦の成功では終わらなかった。
それは、カナダの国土そのものを巨大な核汚染地域へと変えてしまった、戦後史上最悪級の環境災害となったのである。
それはカシュガルも同じだった。
ただし、その程度は大きく異なっていた。
日本がカシュガルで使用した核兵器は、最大でも1メガトン級。アサバスカでアメリカが使用した最大級の核兵器と比較すれば、およそ30分の1にすぎなかった。
しかも、日本が使用した核兵器の大半は1950年代に製造された旧式の原子爆弾であり、1メガトン級の高出力兵器はごく一部に限られていた。
これには理由があった。
一つは、旧型核兵器を処分したかったからである。
これは日本にとって切実な問題だった。
他国の核戦力に対抗するには、1950年代に製造された旧式兵器では荷が重い。かといって、すべてを廃棄すれば巨額の費用が必要になる。
1メガトンに満たない大量の核兵器の中には、戦術核として運用するには大きすぎ、戦略核として使用するには出力が中途半端なものも少なくなかった。
ならば、この機会に一斉に使って処分してしまえばいい。
それが日本側の判断だった。
もう一つの理由は、高出力核兵器を未知の存在に使用することへの慎重論である。
核開発には莫大な費用がかかっている。それは仮にも国民の血税によって支えられてきたものだ。
その貴重な核弾頭を投入して
「思ったほど強くない相手だった」
「それでも倒せなかった」
となれば、軍にとってこれ以上ない失態となる。
だからこそ、まずは旧式兵器を大量に投入し、必要最低限の核出力でBETAを殲滅する。
それがカシュガル作戦における日本の基本方針だった。
さらに日本軍には、もう一つの事情があった。
1945年、辛うじて戦争に勝利した後も、陸海軍は一部の戦闘で敗北した責任を互いに押し付け合い、主導権争いを繰り広げていた。その混乱の中で陸軍が軍人恩給を打ち切ったことも重なり、軍に対する国民の信頼は大きく失墜していた。
1950年代、日本は国防省を中心とした新たな防衛体制へと再出発した。
そして、ようやく軍が国民からの信頼を取り戻しつつあったのが1971年だった。
ここで再び軍の判断が国民の期待を裏切るような結果になれば、積み上げてきた信頼は一瞬で崩れ去る。
だからこそ、帝国軍はカシュガルで「確実に勝つ」必要があった。
結果として、帝国軍はカシュガルにおけるBETAの殲滅に成功した。
それだけではない。
日本軍はBETAの着陸ユニットそのものの回収にも成功した。
表向きに発表されたのは、カシュガルにおける未知の敵性生命体の殲滅だけだった。
しかし、その成功は日本軍にとって大きな意味を持っていた。
軍の判断は正しかった。
核兵器によって敵を確実に撃破し、なおかつ着陸ユニットまで確保した。
国民からすれば、軍は国家を守ったのである。
それは、失墜していた軍への信頼を取り戻すための大きな追い風となった。
だが、その華々しい成功の裏側には、決して公表されることのない代償が存在した。
カシュガルを中心とした半径約100キロメートルの範囲は、深刻な放射性降下物による汚染に見舞われた。
さらに偏西風などによって放射性物質は広範囲へ運ばれ、軽度の汚染まで含めれば、カシミール地方に加え、新疆省西部の広大な地域にまでその影響が及んだ。
砂漠地帯であったこと、そしてアサバスカほどの超高出力核兵器が大量投入されなかったことから、汚染の規模は後のアサバスカとは比較にならないほど小さかった。
それでも、カシュガルは決して「被害の小さな核攻撃」ではなかった。
日本政府が国民に見せたのは、BETAを撃破した勝利だった。
その裏には、広大な新疆の大地に残された放射性降下物と、誰にも知られることのない核攻撃の痕跡が残されていたのである。
アメリカは、当初日本を非難していたにもかかわらず、北米にBETAが襲来するや否やカナダの承諾も得ずに核兵器を投下し、「日本と同列の国家」になった。
主権の侵害、同盟国への核攻撃、さらには他国の領土に進駐して成果物を運んでいく。
これが日米両国が同盟国の領土内で犯した罪であった。
視点を移せば、ロシア連邦共和国が1969年に発足して以来、急速な経済拡張と中央アジアへの軍事的制圧が行われていた。
1971年にカザフスタン、1972年にトルクメン地域へ侵攻し、1975年には中央アジアをその手に収めた。
ロシアは、この地の一部を核実験場として用いた。
カザフ地域は砂漠地帯、核実験にはもってこいの大地であった。
そうして、1970年にシベリア行っていた極秘核実験をこの地で再度実施した。
しかし、今回は全世界に大々的に発表し、ロシア国家の復活と核保有国たる地位を明らかなものとした。
ロシアは日本とアメリカの支援を受けている。
シベリアには大量の資源が埋まっているほか、日本にとってみれば北からの難民を抑制できるという利点があった。
ロシアの最大の目標は、ドイツを打倒し、失陥した西方領土を奪還する事であった。
軍備拡張もそのためであり、その軍備拡張のために経済拡張があった。
ロシアはドイツに付け入る隙を虎視眈々と狙っている。
もしドイツで、あるいは東方領土で何か大きな事件があれば、行動に及ぶことは確実だ。
1975年は、特に何事もなく終わった。
しかし、1976年、来年がどうなるかは、誰にもわからない。
それでも、これだけは確実だ――
世界は、より一層不安定となり、終末時計の針は午前零時に向けて動いていくだろう。
そして、1976年が、悪夢の始まりとなることを、この時の人類は知る由もなかった。