1976年1月
その時点では世界には何もなかった。
三年前の四月にはカシュガルが、二年前にはアサバスカが文字通り死の大地と化したニュースが世界を震撼させたのが嘘だったかのように。
だが、一部の者はそれを覚えていた。
それはほかならぬカナダ国民、そして新疆軍閥、名目上は中華民国新疆省となっている地域に住んでいた人々である。
彼らはアメリカが、また日本が自分たちの住む近くで核を投下したことを覚えている。
何も知らされず、理由も説明されず、突然核による被害を受けたことを。
そして、それで故郷から離れなければならなかった憎しみを。
それでも、世界は何もなかったかのように進む。
日本では帝国議会が、中華民国では立法院での予算審議が行われる。
日本、中華民国どちらも予算年度は四月に始まり、三月に終わる。
これは満洲帝国や中華諸軍閥でも同じであった。
そうして、日本では3月9日、中国では2月24日、満洲では3月23日と、東アジア諸国は毎年のように4月までに予算案を議決した。
四月一日、日本では昭和五十一年度が始まった。
この時点でも、まだそこに日常はあった。
1976年4月12日、大ゲルマン帝国では、準備が着々と進められていた。
5月8日第二次世界大戦勝利三十一周年記念の戦勝パレードである。
最新鋭の戦車、装甲車、戦闘機、爆撃機、ヘリコプターが整備され、各地の基地から運ばれていた。
そして、軍楽隊も練習を重ね、行進の練習も進められた。
今年の10月23日で、ヒトラー総統が死去してから13年が経つ。
時の流れとは短いもので、あの時からずっと苦しんでいた不況はすっかり鳴りを潜め、経済もある程度回復した。
二代目総統の改革は前指導部がそのまま残ったこともあって中途半端に終わったが、ドイツが明日も生き残ることができるならばそれでいい。
そう、大ゲルマン帝国二代目総統、アルベルト・シュペーアは思っていた。
月面での戦況は芳しくないと聞いている。
そして、日本は三年も前に月面から撤収し、アメリカも一年前、アサバスカでの事件を受けて月面基地「プラトー1」から撤収した。
月面に建つ国はこの世にただ一人しかない。
大ゲルマン帝国だ。
彼らは所詮劣等人種であり、世界最高のアーリア民族には決して及ばない。
ドイツ国民、そして国の指導部はそう確信を持っていた。
だが、戦況は芳しくなくともドイツは絶対に月面からは撤収しないという自信があった。
始めて月面着陸を果たしたのは今から16年前のこと。
それ以来技術も進歩した。
月面にいる宇宙生物に対処する技術も自分たちで身に着けた。
そして、日本やアメリカは地上でそれに遭遇したのだろう。三年前にカシュガルで、二年前にアサバスカで、そして彼らは怖気づいて月面から逃げた。
なんとも滑稽な話だ。
よくわからない隕石に怖気づいて核兵器まで使い、そしてその後は尻尾を撒いて月面から逃げ出すとは。
しかし、我々は違う。
モント・アインスを守り抜き、月面には新しい基地を建設する計画がある。
竣工予定は5月8日、戦勝記念日に合わせてだ。
これで三つ目の月面基地、世界で初めての快挙だ。
これで世界は我々の優位性は確実となる。そんな国にどこも歯向かうはずがない。
そう信じていた。
その日までは。
1976年5月1日午前1時57分、ノルウェーのレーダー基地が物体を捉えた。
その物体はレーダーの反射がまばらで、恐らくは隕石と見られる。
何ら問題はない。
隕石ならば勝手にそれていくだろう。
しかし、その予想は簡単に裏切られた。
大気圏に突入する軌道をとっていたのだ。
そして、同1時58分7秒、突如、空に光の筋が走った。
彗星だろうか。流れ星だろうかと人々が思ううちに、それはどんどん近づいてくる。
そして、近づくたびに空は明るくなり、遂に真っ赤に染まった。
このままいけば隕石はミンスクの市街地に衝突するだろう。
だが、もう遅い。
隕石の軌道は今更変えられない。
天気を操ることが不可能なのと同じように。
そして、5月1日午前2時0分37秒、それは衝突し、直径8kmに及ぶ巨大なクレーターを形成し、ミンスクの市街地を文字通り消し飛ばした。
この時、凄まじい轟音と衝撃波が生じ、およそ100キロメートル圏内の建物のガラスは例外なく粉砕された。
建物も、鉄筋コンクリートだろうがレンガ造りだろうが木造だろうが被害を受けた。
さらに、ゲルマニアでも音は確認され、ガラスにひびが入ったところもあったという。
5月1日未明、ドイツが持っていた「宇宙生物は地球になどやってこない」という淡い期待は文字通り一瞬にして粉砕されることになった。
午前2時17分、リガに一報が届いた。
「ミンスク付近で謎の地震が発生。ガラスの破砕も確認されたほか、ミンスクに電話も無線も繋がらない。加えて、ミンスクの方角からまばゆい閃光が見え、大きな音も聞こえた」
この報告はオストラント国家弁務官区の弁務官に伝達され、総統や国防軍に報告するかが決定される。
弁務官は、国防軍から移譲された軍隊を独自に動かすことができると定められている。
オストラントがドイツ本国から引き受けた師団は18個師団、およそ20万人であった。
加えてドイツ本国の軍隊が12個師団で30万人、師団の密度としては本国の軍隊の方が高い。
ドイツ軍の統帥は国防軍最高司令官たる総統の命令が必要となる。
なので、本国軍が増援に駆けつけるまでは国家弁務官区で対処しなければならないのだ。
国家弁務官は考えた。
オストラントは比較的マシだが、東方では市街地における急な停電が多いと聞く。ならば今回の事件は停電なのではないのか。
しかし、それでは大きな音と揺れ、ガラスの粉砕と閃光の説明がつかない。
何より、その揺れは私自身さっき経験したではないか。執務室のガラスもひびが入ったうえ、装飾品もいくばくか落ちた。
それが何よりの証拠だ。
国家弁務官は遂に決断した。
執務室にある電話のダイヤルを回す。
その電話器は、緊急連絡用の赤色の電話で、国防軍最高司令部に直結している。
電話口は「こちら国防軍最高司令部」と出た。
どうやら電話線は切れていないようだ。
それにわずかな安堵を覚えながらも、国家弁務官は震える声で話し始めた。
「先ほど国家弁務官区ミンスク支局との連絡ができなくなった。リガでも揺れを確認したほか、周囲では閃光や轟音の情報があった。こちらでいくらか対処するので、国防軍の出撃を願いたい。」
それを聞いて、相手は答えた。
「わかりました。しかし、そちらでも対応や状況の確認を願います。そちらからの情報が無ければこちらとしてもどう動くべきかは分かりません。せっかく18師団もいるのですから。」
国家弁務官は答えた。「はい。分かりました。」
そう言うと、国家弁務官は受話器を叩きつけるようにして置くと、不満をあらわにした。
「何が18師団「も」だ!こっちは反乱の鎮圧と占領地の保安で手いっぱい、しかも装備も足りていないのに....クソが!!!」
そう文句を垂れながらも、すぐに電話を繋いだ。相手は国家弁務官区防衛庁だ。
「私だ。今からどのぐらいミンスクに回せる?」
相手は答える。
「2個師団、4万人です。ほかは反乱防止と電気の復旧で忙しく、8万人は装備も弾薬も不足しています。」
「そうか、なら十分だ。」
国家弁務官は答えた。
そこから、すぐに準備が開始された。
ミンスクに派遣する部隊の選定、補給物資の準備、トラックへの燃料補給をはじめ、弾薬をかき集め、本国には国家弁務官区で師団を動かすことを報告した。
そうして、午前9時37分、リガの国家弁務官区第1師団、ダウガフピルスの第17師団が出撃、ミンスクを目指した。
国家弁務官区の部隊は、歩兵が主体で、戦車や装甲車を持っている。
航空隊やヘリ部隊は持っていない。そんなところに回す余裕は本国には無い。
ドイツ国防軍のそれを充足させるのに手いっぱいなのである。
しかし、幸運にも飛行船とレシプロ式の戦闘機を改造した偵察機はあった。これで少なくとも状態は確認できるだろう。
そうして、カウナス飛行場を飛び立った偵察機は、ミンスクの様子を確認した。
そこには驚くべき光景が広がっていた。
巨大なクレーターと、その中心部に存在する巨大な隕石に。
ほとんどの場合、隕石は大気圏で燃え尽き、地表には届かない。
そのうえ、地表に届いたとしても、その隕石はよほど大きなものでない限りは極めて小さいものであるはずだ。
そして、1908年のツングースカ大爆発では、直径50~60mの隕石が空中で爆発し、結果として数千キロメートルに渡って被害が発生している。その時はクレーターは無かった。
しかし、今回はどうだろう。
その隕石の大きさに反して被害は少ない。
さらに、隕石それ自体がクレーターの中心に残っている。
これはとてもではないが説明がつかない。
カシュガルでも、アサバスカにおいても隕石が落ちる前に極めて明るい光が観測され、衝突時に地震を起こし、窓ガラスを粉砕し、巨大なクレーターが発生したことは確認されている。
しかし、隕石それ自体をクレーターの中央部に、それも高高度や衛星軌道以外から発見した例は世界でも初めてであった。
隕石は直径が80~120mはあるだろうか。
非常に大きかった。
こんなものが世界各地に落ちるとなれば世界は文字通り終わってしまう。
偵察機は隕石を観察するとカウナスに帰投し、隕石やクレーターの大きさを伝えた。
伝えられた方は半信半疑であったが、写真も残っていたためそれを信じ、上に報告した。
国家弁務官も、写真と共にその情報をゲルマニアへと送った。
ゲルマニアも当初半信半疑ながら、周辺の本国の軍を送ることとした。
ミンスクの第107師団は文字通り消滅してしまったため、リガの第39師団を隕石回収のために派遣することと決まった。
しかし、5月2日午後9時ごろ、ミンスク周辺から異常な報告が上がって来た。
赤い歩行体や巨大な殻をまとった生物、四本足で青い腕を持った生物が現れたというのだ。
その物量により第107師団と国家弁務官区の第1師団、第17師団はあっという間に蹂躙され、歩兵は食い殺され、戦車兵は戦車の砲塔を抜き取られた末に中の兵士も戦車諸共食い荒らされた。
そうして、一夜のうちに三個師団が消滅したのだった。
次の日の朝、総統はルフトヴァッフェに出撃を命じ、近接航空支援と絨毯爆撃を実施することに決まった。
ほかにも、ウクライーネ、モスコーヴィエンの国家弁務官区内に駐屯する本国軍、ポーランドとオストプロイセンから抽出された7万を含めた合計31万の兵力で謎の生命体を実力で駆逐し、隕石の回収へ向かった。
しかし、5月3日午前11時の報告で、隕石が確認できなかった。
元々隕石があった場所に向かってみると、そこには大穴があり、その付近にも謎の穴があるではないか。
そして、その下には謎の物体がうごめき、青白く光っていた。
BETAの物量により、5月3日の午前3時時点では、マラジェチナ、ボブルイスク、バラナヴィーチなどを失っていたが、戦車部隊やヘリ部隊、さらに航空支援の効果もあってミンスクへと徐々に進んでいった。
5月8日には例年通り戦勝パレードが実施されたが、数は普段と比べれば少ない。
東で何かが起きていることは明らかであった。
5月17日、回収した謎の生物の死骸から、この生物は月面に存在していた生物で間違いないという判断を下した。
BETAは本当にドイツにやってきてしまったのだ。
そして、5月22日、異常な事態が起きた。
ミンスクのあたりから突如光が現れ、航空機に直撃、すると航空機は爆発してしまったではないか。
それだけではない。ロケット弾やミサイルを撃ち落とした。
一日のうちにドイツ国防軍が誇る航空部隊は失われ、戦況は一気に不利となった。
ドイツは戦術核による焦土作戦へ転換することを決定した。
ドイツの核兵器は、戦略核と戦術核を合わせて少なくとも5万8000発はあった。
この数があれば、戦況を変えるには十分だと考えたのだ。
ミンスクから西へ約60キロ。
コロソヴォ。
1976年5月下旬、ドイツ軍はこの地に一発の戦術核を投入した。
レーザー級による迎撃を恐れ、核弾頭を搭載したミサイルを撃ち込むことはできなかった。
ならば、地上で爆発させる。
それがドイツ軍の判断だった。
午前11時37分に起爆、周囲は閃光に包まれた。
熱戦と爆風が吹き荒れ、BETAを駆逐した。
だが、無尽蔵に湧き出すBETAに対抗するには物足りなかった。
6月1日、BETAはヴィリニュスに突入、民間人の避難は間に合わず、数多くの人々が犠牲になった。
BETAは西進、北進を繰り返し、6月3日にはダウガフピルス、翌日にはマドゥオナ、その来週には必死の抵抗むなしくリガが陥落、オストラントの機能は北部のタリンへと移った。
戦況は悪化する一方である。
6月5日にはブレストリトフスクが陥落し、ドイツ本国の領土に侵入するのは目前だった。
ここまでで何度も戦術核を大胆に使用し、森林を、都市を、農地を焼き払ってBETAを駆逐しながら進んできたが、戦況は一度も好転しない。
ドイツ軍はヴィスワ川沿いに防衛陣地の構築を急がせ、クライペダ、ケーニヒスベルク、ビャウィストク、ルブリンの軍に死守命令を出し、なんとしてでも守らせようとした。
さらに、ドイツはここで狂気の作戦に出る。
オーデル川周辺に核地雷と核爆弾を大量に敷設し、起爆することで時間を稼ごうというのだ。
1976年6月21日、抵抗むなしくクライペダ、ケーニヒスベルク、ビャウィストク、ルブリンの守りは突破されてしまった。
二週間で防衛線が構築できるはずもなく、ヴィスワ川の一部を突破されてしまう。
この時点で、BETAの到達した範囲は、西はヴィスワ川、北はダウガヴァ川、東はドニエプル川、南ではカルパティア山脈、そしてそこからルーマニア領であるスチャバ、ヤシ、キシナウ、オデッサまで広がっていた。
だが、不思議なことに、南進する様子も、東進する様子も、北進する様子もまるで見せない。
BETAはまず西を目指して進撃していたのである。
その中で、実際にBETAの支配下にあるのは、かつてのリトアニアやラトビアのあった場所に加え、オストプロイセン、ウクライナ西部である。
BETAの支配していた地域には、樹木の一本、建物の瓦礫一つさえ残っていなかった。
そして、不運なことに、6月22日、ロシア連邦共和国が突如モスコーヴィエン国家弁務官区へ「宣戦布告なしで」侵攻してきた。
ロシア側の理屈はこうだ。
我々は正当なソ連の後継国である。
ソ連はドイツと交戦状態にあって、その停戦も休戦も結ばれず、講和条約も結んでいない。
したがって、ドイツとロシアは未だ戦争状態にある。
というものであった。
そこからはまさに総崩れで、6月28日にはサンクトペテルブルク、6月30日にモスクワ、同日にヴォルゴグラードが相次いでロシアの手に奪還され、モスコーヴィエン国家弁務官区は文字通り崩壊、7月19日にはナルバからボルゴドンスク、アストラハンまでを結んだ線がおおよその戦線となっていたのである。
そして、不思議なことに、ここでロシア軍の侵攻は一時中止され、ドイツ側から攻撃すればロシアが反撃するという状態になっていた。
これは、補給不足による餓死者や病死者が続出し、その損害を補填したり、兵力再配備のためであったのだが、ドイツは疑心暗鬼に陥った。
挙句、モスコーヴィエン方面のドイツ軍は規律が完全に崩壊し、ただでさえ少なかった補給もほとんど届かなくなった。
辛うじてインフラが生きているウクライナ東部に加え、兵力がほぼ温存し、ドイツ本国がハンガリーとルーマニアを経由して補給を送っているコーカサスでは組織的抵抗が見られたが、他ではドイツ軍はほとんど機能していなかった。
そして、組織的抵抗が失われた地域のドイツ軍所属のほとんどの人間はロシア軍の捕虜にされるか、ロシア軍の兵営を襲いに来て射殺され、或いは市街地に略奪にやってきて返り討ちに遭い、餓死や病死者などが出る悲惨な末路をたどった。
視点をドイツに移せば、6月25日に抵抗むなしくクラクフが陥落した。
この際、ドイツが保有していた20Mtの戦略核兵器が使用され、大量のBETAを殲滅したが、代償として周囲を汚染した。
そして、1976年7月1日、ドイツは渋々ながらもアメリカをはじめとした連合国に助けを求めた。
ドイツ政府は、アメリカの持つ「戦術歩行戦闘機」なる兵器を、当初は「子供のおもちゃだ」と酷評していた。
二足歩行の機体に人間を乗せ、巨大な兵器を持たせて戦わせる。
それは、これまでドイツ軍が築き上げてきた戦争の常識からすれば、あまりにも奇妙な兵器だった。
だが、もはやそんなことを言っている余裕はなかった。
戦車はBETAに蹂躙され、航空戦力はレーザーによって大打撃を受け、戦術核を大量投入しても戦線を安定させることができない。
このままでは、いずれドイツ本土そのものが戦場になる。
戦況を覆す方法が見つからない以上、背に腹は代えられなかった。
ドイツ政府は、残された外貨を投入してアメリカからF-4、初期型の戦術機をおよそ100機購入することを決定した。
同時に、ドイツは一つの重大な決断を下した。
月面からの撤退である。
これまでドイツは、月面における宇宙生物との戦闘を継続してきた。
モント・アインス、モント・ツヴァイ、そして竣工したばかりのモント・ドライ。
これらの月面基地は、ドイツの宇宙開発と月面戦争の象徴でもあった。
しかし、地球上で祖国そのものが滅亡の危機に瀕している以上、月面基地を維持することはもはや不可能だった。
7月初頭、月面拠点に対して撤収命令が下された。
基地に残された人員は可能な限り地球へ帰還させ、設備や資材の大部分は放棄された。
こうして、ドイツによる月面戦争は終わりを迎えた。
人類が月面に築き上げた拠点は、わずか十年も経たずに放棄されることになったのである。
そして、ドイツはさらにもう一つの兵器に目を向けた。
月面で宇宙生物との戦闘を想定して開発されていた、装甲歩兵装備である。
戦術機ほどの機動力もなく、戦車ほどの火力もない。
そもそも、地球上のBETAに対してどこまで有効なのかすら分からない。
それでもドイツ政府は、これを正式採用することを決定した。
役に立つかどうかは今重要ではない。
役に立ったら御の字、役に立たなかったら仕方ないという、半ばヤケクソによる決定であった。
この歩兵装備は、ドイツ国防軍がラインメタルに発注した。
しかも、陸軍の兵器科が多くのリソースを割いて研究することに決まり、月面で使われた間に合わせの装備は、今やドイツ軍の希望となったのである。
ドイツは、勝利がどうだと言っていられなくなった。
生き残るためには手を尽くすしかない。そして、その生き残りをかけて、自分たちが持つ「戦える手段」をすべて戦場に投入せざるを得なくなったのである。
1976年7月ごろ、衛星からの写真により、ミンスク市街地の跡に謎の物体が見え始めた。
それは「
それは、連合国の呼称では「ハイヴ」という。
ミンスクにできたそれには、H01の番号が与えられ、ミンスクハイヴと呼ばれた。
大日本帝国軍による呼称は、「甲一号目標」といい、中華民国軍は「第一楼」と呼んでいる。
1976年8月、戦況の悪化を止められないドイツ軍は、遂にウッチ、ワルシャワ、ポズナニ、カトヴィッツを喪失した。
これまでにドイツは数百発も核を用い、東欧を死の大地に変えてきた。
それでも劣勢は崩せなかった。
しかも、7月25日に納入された戦術歩行戦闘機の訓練に一年はかかるとアメリカ軍は主張する。
ドイツ軍は待っていられない。ゲルマニアまであと200kmしか残っていないのだ。
できればズデーテンラントやオーデル川に防衛線を構築したかった。
しかし、戦況と時間がそれを許さない。
防衛線を構築するのにはまだ時間がかかり、装備も弾薬もすでに消耗しており、生産が追いついていないのである。
そこで、無様にもフランス国に救援を求めた。
しかし、フランス国には1945年のエディンバラ条約により大幅な軍備制限が課されており、そもそも兵器の生産も軍の人員も足りなかった。
ハンガリーやルーマニアも、自国の防衛で手いっぱいである。
状況は、もはや詰んでいるといっていい。
しかし、この戦況を挽回する手段がある。
一つだけ。
今すぐにロシアと講和を結べば、東側からBETAに侵攻を加え、あわよくば武器が買えるかもしれない。
その一縷の望みにかけるしかなかった。
だが、
「長年大量の資源をかけて行ってきた東部総合計画を水の泡に変えるのか」
「資源の宝庫である東欧を手放すのか」
この二つの障害に阻まれた末、ドイツ国防軍最高司令部の反対で却下された。
それでも戦況は悪化しながらも、防衛は安定しつつあった。
生産が足りていなかったはずなのに、なぜ足りたのか。
生産不足なのは、あくまでも平時での話。
戦闘が始まってからはや三ヶ月、既に軍需生産体制は整いだしている。
ライン川沿い、ベルギーやフランス北部、さらにズデーテンラントの工業地帯は稼働している。
東欧からの撤退によってポーランドやウクライナ、コーカサスなどの資源や工場は失われた。
だが、ドイツには潤沢な生産力がある。
さらに、アメリカからは、「対BETA戦争特別支援」という名目で物資が届けられている。
鉄道車両、自動車といった輸送物資、加えて東方生存圏を失った影響で供給が逼迫していた食糧、衣類、燃料が次から次へと運び込まれる。
この根拠となっているのは、「レンドリース法」である。
そもそも、レンドリース法とは1941年に成立した対英支援のための法律であった。
なぜ30年も前の法律が適用されたのか。
それは、BETAが欧州を飲み込めば、次は同盟国であるイギリスが狙われる可能性が十分にあったからだ。
それだけではない。アメリカはこれでも世界の事を考えている。
BETA大戦はもう始まってしまった。
こうなった以上は地球上からBETAをたたき出すまでは終われないのだ。
ドイツの急激な軍需物資増産を許したのは、東欧から移送されてきた大量の「難民」であった。
その「難民」は元々バルトやベラルーシ、ポーランドやウクライナの住民で、東部総合計画の中で同化対象であった住民を中心として着の身着のまま西へ逃げてきた人々だ。
だが、それだけにとどまらない。
強制収容所から貨物列車に詰め込まれて運ばれてきた人間もいた。被収容者はそのほとんどが収容所諸共BETAの餌食となってしまったが、ポーランドなどからは移送することができていたのであった。
東方居住ドイツ人、同化された東欧住民は、比較的マシな待遇を受けた。むろん、ドイツ人を頂点に、同化された住民と続き、収容所からの者は人間扱いされない。
元被収容者は、鉱山や製鉄所などに放り込まれた。
収容所時代に比べれば栄養状態や衛生環境は著しく回復した。
働けなければそもそも生産などなしえないのだ。
総統はそのことをよくわかっていた。
現総統は、1943年に装甲の奇跡によってドイツの軍需生産量を大幅に向上させたことで知られる。
その奇跡をもう一度起こそうというのだ。
産業の合理化をもう一段階先に進め、生産規格を再統一する。
ここで参考になるのは、極東で行われた方法である。
それこそ、通商産業省と経済企画院による国家による経済操作そのものであった。
東アジアの三国、特に日本と満洲は、この点で極めて優れている。
鞍山の昭和製鋼所は、戦時中に日本に供給するべき量を超える生産量を達成した。
戦後になると、日本は造船、鉄鋼、化学などを始めとして大量の物資の生産計画を調整し、国が経済成長を主導した。
満洲でも鉄鋼業や石炭産業、大慶の石油産業でそれは顕著で、昭和製鋼所は長らく東亜最大の製鋼所であった。
これを見習わない手はない。
人手についても、東欧からの難民がある。
それでも労働力は足りないかもしれない。
その時は産業の合理化と自動化をさらに徹底するしかないだろう。
軍需省の再編成が必要である。
生産に関する権限を確認し、その一つ一つを移管していく。
そうして1976年に新しい軍需省が発足した。
根拠となる法令は、「軍需省に関する命令」であった。
これによって、軍需省は生産計画などについての調整や命令が大規模に行えるようになった。
その中には、鉄道や工場の接収、人員の徴用や物資の徴発、物資の生産命令、会社の創設などが含まれる。
価格統制も復活し、食料品は配給制となった。
この決定は、ドイツ民族をBETAという未知の脅威から守るための必要な策であった。
この決定に、一部の者達、ヒトラーが総統だったころから上層にいた者には反対もあった。
しかし、その数は1960年代に比べれば少ない。
それはなぜか。
1970年代はヒトラーの頃から一緒にいた人々が次々に死んでいったのだ。
ゲッベルスは1970年を迎える前の1969年に、ボルマンは1972年に、ゲーリングは1974年に亡くなっていった。
そうして、去年には親衛隊全国指導者であったヒムラーが死に、今年の三月にはハイドリヒが亡くなった。
親衛隊のトップは今や空席である。
影響力は最早ない。
だが、解散することはできなかった。
それには、親衛隊の現体制が関係している。
親衛隊の国家保安本部で実力を見せ急速に出世していた男――
エーリヒ・シュミット局長がそれを許さなかった。
彼はあっという間に親衛隊を掌握し、総統に対する圧力を持った。
本来の歴史ならば1983年に東ドイツで新体制を作るはずであった男が、親衛隊で影響力を持ったのである。
そして、この男、極めて厄介である。
国家保安本部を大幅に改組し、ドイツ国内の情報収集や不穏分子の監視に当たらせた。
そして、その組織の中でも特に狂犬として知られていたのが、――褐色の獣
ハインツ・アクスマンであった。
ゲシュタポは、国家保安本部の傘下にある。
本来ならば総統の手中に収まるはずであった国家の暴力機関が、自立して動こうとしている。
このことは非常に厄介であった。
しかし、親衛隊は総統に危害を加えようとする様子や、権力を掌握しようとする動きも見せない。
不安でいっぱいだった総統だが、危害を加えないならばと放置した。
このことが以後になってドイツを苦しめるとも知らずに。
かくして、1976年――
親衛隊に新体制が訪れ、ドイツは31年ぶりに戦時体制に復帰したのである。