ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は盤上の王を見る

 

第29話

 

午後の活動を終えた頃には、合宿所の空気にも少しだけ疲労が混じっていた。

 

一日中、決められた時間に動き、決められた場所へ移動し、決められた相手と話す。

 

ただそれだけのことが、思っていた以上に神経を削る。

 

教室なら、席に座っていればよかった。

 

寮なら、自分の部屋に戻ればよかった。

 

だが、この合宿では違う。

 

食事も、移動も、点呼も、休憩も、すべてが誰かの視線の中にある。

 

一人になれる時間は少ない。

 

だからこそ、人の形は隠しにくくなる。

 

夕食の時間。

 

食堂には、全学年の生徒たちが集まっていた。

 

同じ食事を取っていても、テーブルごとの空気は違う。

 

一年生の緊張。

 

二年生の余裕。

 

三年生の静けさ。

 

そして、その中心を自然に渡り歩く者たち。

 

影は、箸を持ったまま周囲を見ていた。

 

向かいには真鍋が座っている。

 

隣には藪。

 

少し離れて、白波、網倉、佐藤、森が同じテーブルにいる。

 

神室はやや離れた席で、面倒そうに食事を進めていた。

 

山村は静かに周囲の会話を聞いている。

 

柊美咲は二年生の席で、相変わらず笑顔で誰かと話している。

 

水瀬朋花は三年生の席で、落ち着いた表情をしていた。

 

「また見てる」

 

向かいの真鍋が言った。

 

「はい」

 

「ご飯くらい普通に食べなよ」

 

「食べています」

 

「目が食べてない」

 

「難しい表現ですね」

 

「上代に言われたくない」

 

真鍋は呆れたように息を吐いた。

 

だが、その表情は以前より少し柔らかい。

 

今日、真鍋は白波の隣に立った。

 

山村の小さな声を拾った。

 

それは、まだ大きな変化ではない。

 

けれど、確かに何かが動き始めている。

 

影はそれを見ていた。

 

「何」

 

真鍋が眉をひそめる。

 

「また私のこと見てたでしょ」

 

「はい」

 

「否定しないの、本当どうかと思う」

 

「真鍋さんは、今日よく立っていました」

 

「……またその言い方」

 

「不快でしたか」

 

「不快っていうか、恥ずかしいからやめて」

 

「承知しました」

 

「それも恥ずかしい」

 

真鍋は小さく顔を逸らした。

 

その横で藪が少しだけ笑った。

 

「真鍋、上代さんと話す時、前より普通になったね」

 

「は?」

 

真鍋が藪を見る。

 

「なってないし」

 

「なってると思う」

 

「藪まで何言ってるの」

 

藪は少しだけ困ったように笑った。

 

影はそのやり取りを見ながら、静かに食事を進めた。

 

その時、少し離れた席から一之瀬帆波が歩いてきた。

 

柔らかい笑顔。

 

Bクラスの中心にいる少女。

 

彼女は影に気づくと、軽く手を上げた。

 

「上代さん、隣いいかな?」

 

「はい。一之瀬さん」

 

影が頷くと、一之瀬は空いている席に腰を下ろした。

 

真鍋が少しだけ背筋を伸ばす。

 

一之瀬の持つ空気は、やはり独特だった。

 

彼女がいるだけで、周囲の緊張が少し緩む。

 

白波が気づいて、嬉しそうに声をかけた。

 

「帆波ちゃん」

 

「千尋ちゃん、今日の発表お疲れさま。よかったよ」

 

白波の表情が明るくなる。

 

「ありがとう、帆波ちゃん」

 

網倉が笑う。

 

「ほら、千尋。ちゃんと帆波に褒められてるじゃん」

 

「もう、麻子ちゃん」

 

佐藤と森も少し笑う。

 

その空気を見て、影は一之瀬を静かに見た。

 

柊の笑顔とは違う。

 

一之瀬の笑顔は、人を下に置かない。

 

相手を試すためでも、従わせるためでもない。

 

ただ、そこにいていいと告げるような温度がある。

 

「今日、少し大変だったみたいだね」

 

一之瀬が影を見る。

 

「聞こえていましたか」

 

「少しだけ。千尋ちゃんたちのグループ、雰囲気が固かったから」

 

「柊先輩の棘が、少し見えました」

 

「棘……」

 

一之瀬は苦笑する。

 

「上代さんらしい言い方だね」

 

「一之瀬さんの笑顔には、棘がありません」

 

「えっと……それは褒めてる?」

 

「はい。たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

一之瀬は困ったように笑った。

 

真鍋が横から言う。

 

「上代の褒め言葉、だいたい分かりにくいから」

 

「そうなの?」

 

一之瀬が笑う。

 

真鍋は頷いた。

 

「分かりにくいし、たまに怖い」

 

「怖い、ですか」

 

影が首を傾げる。

 

真鍋は影を見る。

 

「自覚して」

 

一之瀬は少しだけ影の目を見る。

 

「でも、昨日も言ったけど……上代さんは時々、危ない目をするよ」

 

「一之瀬さんにも、そう見えますか」

 

「うん」

 

「真鍋さんにも、よく言われます」

 

真鍋が小さくため息をつく。

 

「言わせてるんでしょ」

 

一之瀬は柔らかく言った。

 

「今日も、柊先輩と何かあった?」

 

影は少しだけ箸を置いた。

 

「少し、刺し返しました」

 

真鍋が即座に言う。

 

「少しじゃない」

 

「そうでしょうか」

 

「そう」

 

一之瀬は苦笑する。

 

「刺し返す、か。上代さんらしいね」

 

「ですが、一之瀬さんの言葉も残っていました」

 

「私の?」

 

「はい。壊す方ではなく、立てる方を選ぶこと」

 

一之瀬は少しだけ目を細めた。

 

「覚えていてくれたんだ」

 

「はい」

 

影は白波の方を見る。

 

白波は網倉と話しながら、少しだけ笑っている。

 

山村も、以前より少しだけ顔を上げていた。

 

「今日は、少し分かった気がしました」

 

「何が?」

 

「壊れる瞬間だけでなく、立つ瞬間にも形があるということです」

 

一之瀬は静かに笑った。

 

「うん。私は、そっちの方が好きかな」

 

「そうでしょうね」

 

「上代さんは?」

 

影は少しだけ黙った。

 

「まだ、どちらも見たいです」

 

真鍋が顔をしかめる。

 

「そこで正直に言うな」

 

一之瀬は少し困ったように笑う。

 

「でも、正直に言えるならいいと思うよ」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。分からないまま、分からないって言えるのは大事だから」

 

その言葉は、やはり刺さらない。

 

押しつけないのに、残る。

 

一之瀬帆波という人は、不思議な立ち方をしている。

 

影がそう思った時だった。

 

「帆波、こんなところにいたのか」

 

軽い声がした。

 

一之瀬が振り返る。

 

「南雲先輩」

 

食堂のざわめきの中を、南雲雅が歩いてきた。

 

人懐っこい笑顔。

 

軽い足取り。

 

まるで最初からその席へ来ることが決まっていたかのように、自然に距離を詰めてくる。

 

周囲の二年生が、声をかけられたわけでもないのに南雲を見る。

 

視線が集まる。

 

空気の流れが、少しだけ変わる。

 

影はそれを見ていた。

 

南雲は一之瀬の横で足を止め、影へ視線を向ける。

 

「帆波の知り合いか?」

 

「はい。上代影さんです」

 

「へぇ」

 

南雲は楽しそうに目を細めた。

 

「お前が上代か。龍園のところにいる変わった一年って聞いてる」

 

影は軽く頭を下げる。

 

「上代影です」

 

「知ってるよ。だから声かけたんだ」

 

南雲は笑った。

 

声は軽い。

 

だが、その視線は笑顔ほど軽くない。

 

「大人しそうに飯食ってるけど、噂ほど静かなやつでもなさそうだな」

 

「そうでしょうか」

 

「上級生相手に遠慮なく刺し返したって聞いたぞ」

 

真鍋が横で小さくむせた。

 

「情報早……」

 

南雲はそれを見て、軽く笑う。

 

「この合宿で目立つことをすれば、すぐ広まる。なあ、帆波」

 

一之瀬は少し困ったように笑った。

 

「南雲先輩、あまりからかわないでください」

 

「からかってないって。面白そうだから声かけただけだ」

 

南雲の視線が再び影へ戻る。

 

「で、どうなんだ上代。上級生相手にやり合った感想は」

 

「やり合った、というほどではありません」

 

「へぇ。じゃあ何だ?」

 

「棘が見えましたので、触れました」

 

南雲は一瞬だけ目を細めた。

 

そしてすぐに笑う。

 

「変なこと言うな、お前」

 

「よく言われます」

 

「だろうな」

 

南雲は楽しそうだった。

 

相手を見下しているというより、面白い駒を見つけたような目。

 

いや、駒というより、まだ形の分からない何かを試している目だった。

 

影は南雲を見る。

 

「南雲さんは、人の流れを変える方ですね」

 

「人の流れ?」

 

南雲は少し笑った。

 

「また変なことを言うな」

 

「よく言われます」

 

「でも嫌いじゃない」

 

南雲は口元を緩める。

 

「で、それは褒めてるのか? それとも警戒してる?」

 

「どちらもです」

 

「へぇ」

 

南雲の笑みが深くなる。

 

「いいな。そういう答えは嫌いじゃない」

 

真鍋は箸を持ったまま、二人を見ていた。

 

一之瀬は少し不安そうに影を見る。

 

食堂のざわめきは変わらない。

 

だが、このテーブルの周囲だけ、空気が少し薄くなったように感じた。

 

南雲は軽い調子で続けた。

 

「この学校で一番つまらないのはさ」

 

その声は大きくない。

 

けれど、妙に近く聞こえた。

 

「自分は安全なところにいるって勘違いしてるやつなんだよ」

 

笑顔は崩れない。

 

「お前は、そういうタイプじゃなさそうだけどな」

 

影は南雲を見る。

 

「安全な場所など、あるのでしょうか」

 

「ないと思うよ」

 

「では、皆さん盤上ですね」

 

「盤上?」

 

「はい」

 

影の声は静かだった。

 

「動かす側の方も、盤上にいることがあります」

 

南雲の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。

 

本当に一瞬。

 

食堂の誰も気づかないほど短い間。

 

だが、影には見えた。

 

そして、おそらく南雲自身も気づいた。

 

今、自分はこの一年生を、ただの観察者として見てはいけないと。

 

影の瞳に、わずかな熱が宿る。

 

怒りではない。

 

敵意でもない。

 

ただ、戦を見つけた者の目。

 

盤上の王が、どこまで王でいられるのか。

 

どの瞬間に、盤の外から覗く目に気づくのか。

 

それを見たいと願う、澄んだ狂気。

 

南雲は動かなかった。

 

だが、その笑顔だけが一瞬止まった。

 

影には、それで十分だった。

 

「……へぇ」

 

南雲はすぐに笑みを戻した。

 

「面白いな、お前」

 

影は軽く頭を下げる。

 

「よく言われます」

 

「いや、たぶんお前が思ってるより、ずっと面白い」

 

南雲はそう言って、一之瀬を見る。

 

「帆波、面白い知り合いがいるんだな」

 

一之瀬は少し困ったように笑った。

 

「上代さんは少し変わっていますけど、悪い人ではないと思います」

 

「悪い人かどうかなんて、盤が動いてから分かるもんだろ」

 

南雲は軽く笑った。

 

「なあ、上代」

 

「はい」

 

「お前は、見てるだけで終わるタイプか?」

 

影は少しだけ黙った。

 

その問いは、思っていたより深い場所へ届いた。

 

見るだけ。

 

これまで、影は多くのものを見てきた。

 

龍園の敗北。

 

軽井沢の痛み。

 

綾小路の静けさ。

 

柊の棘。

 

白波が立とうとする姿。

 

真鍋が隣に立つ姿。

 

見ているだけで終わるのか。

 

それとも、いつか盤に手を伸ばすのか。

 

「今は、見ています」

 

影は答えた。

 

南雲の笑みが深くなる。

 

「今は、ね」

 

その言い方は、軽かった。

 

だが、意味は軽くない。

 

南雲はすでに、影の言葉の奥を見ている。

 

「いいんじゃないか」

 

南雲は笑う。

 

「見るだけのやつも必要だ。盤の外から見てるつもりのやつほど、案外簡単に盤上へ引きずり出せるからな」

 

「引きずり出すのがお好きなのですか」

 

「嫌いじゃない」

 

南雲はあっさり答えた。

 

「退屈なやつが安全圏にいるのは見ててつまらない。でも面白いやつが出てくるなら、少しくらい揺らした方がいいだろ?」

 

一之瀬が少しだけ眉を寄せる。

 

「南雲先輩……」

 

「冗談だよ、帆波」

 

南雲は軽く手を振る。

 

だが、影には冗談だけではないと分かった。

 

南雲雅は、人の流れを変える。

 

それだけではない。

 

流れの中にいない者を見つければ、そこへ水を向ける。

 

自分から歩いてきたと思わせながら、いつの間にか盤上へ立たせる。

 

そういう人間なのだ。

 

「上代」

 

南雲が言った。

 

「はい」

 

「また話そうぜ。お前が本当に見てるだけのやつなのか、少し興味出た」

 

「光栄です」

 

「そういう丁寧な返しも、逆に怪しいな」

 

「よく言われます」

 

「だろうな」

 

南雲は笑い、踵を返した。

 

周囲の二年生の視線が、自然に彼の動きへ流れる。

 

彼が歩けば、空気が少し動く。

 

誰かが声をかけ、誰かが笑い、誰かが場所を空ける。

 

それは命令ではない。

 

恐怖でもない。

 

だが、確かに流れだった。

 

南雲雅は、その流れの中心にいた。

 

 

南雲が去った後、テーブルにはしばらく沈黙が残った。

 

食堂のざわめきは、何事もなかったように戻っている。

 

だが、影の周囲だけは少し違っていた。

 

真鍋は箸を止めたまま、影を見ていた。

 

「上代」

 

「はい」

 

「今の目……」

 

「はい?」

 

「いや、やっぱいい。飯まずくなる」

 

「それは申し訳ありません」

 

「謝るところ違う」

 

真鍋はそう言いながらも、少し真剣な顔をしていた。

 

一之瀬も、影を見ている。

 

「上代さん」

 

「はい」

 

「今のは、少し怖かったよ」

 

「そうでしたか」

 

「うん。南雲先輩も、一瞬だけ止まった気がした」

 

影は一之瀬を見る。

 

「見えましたか」

 

「少しだけ」

 

一之瀬の目は、影を責めてはいなかった。

 

だが、心配はしている。

 

「上代さん、南雲先輩には気をつけた方がいいと思う」

 

「はい」

 

「南雲先輩はすごい人だけど……簡単な人じゃないから」

 

「そうでしょうね」

 

影は南雲が消えた方向を見る。

 

「南雲さんは、盤上の王のような方ですね」

 

「王?」

 

「はい」

 

影は静かに言った。

 

「ですが、王もまた盤上にいます」

 

一之瀬は少し困ったように笑う。

 

「上代さん、本当に危ないこと考えてそう」

 

「申し訳ありません」

 

「謝らなくていいから、無茶しないでね」

 

真鍋が横から言う。

 

「ほんとそれ。南雲先輩相手に変なことしないでよ」

 

「変なこととは」

 

「さっきみたいな目で見ること」

 

「努力します」

 

「また信用できないやつ」

 

影は小さく微笑んだ。

 

そして、再び食事へ箸を伸ばす。

 

柊の棘は、人の皮膚を刺す。

 

一之瀬の笑顔は、人を安心させる。

 

南雲の笑顔は、人を盤上へ招く。

 

棘ではない。

 

刃でもない。

 

もっと大きな流れ。

 

そこに立つ者は、自分から歩いているつもりで、いつの間にか彼の盤上にいる。

 

影は、南雲の笑顔を思い出した。

 

盤上の王。

 

だが、王もまた盤上にいる。

 

それを口にした瞬間、南雲の笑顔は確かに一度止まった。

 

それは恐怖ではない。

 

警戒。

 

あるいは、興味。

 

白き影は、静かに箸を置く。

 

混ざる戦場には、まだ見ていない王がいる。

 

そしてその王は、こちらを見た。

 

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