ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

33 / 33
白き影は混ざる戦場を後にする

 

第33話

 

混合合宿、最終日。

 

朝の空気は、初日とは違っていた。

 

施設へ来たばかりの頃にあった硬さは、完全には消えていない。

 

けれど、同じ硬さではない。

 

知らない者同士が集められた緊張。

 

上級生と下級生の距離。

 

他クラスへの警戒。

 

そういったものは、数日間の共同生活の中で少しずつ形を変えていた。

 

近づいた者もいる。

 

余計に距離ができた者もいる。

 

見たくなかったものを見た者もいる。

 

見えなかったものに気づいた者もいる。

 

そして、壊れたものもある。

 

影は、最後の点呼の列に並びながら、静かに周囲を見ていた。

 

「また見てる」

 

隣の真鍋が言った。

 

「はい」

 

「最終日くらい普通にしなよ」

 

「普通とは難しいですね」

 

「上代に聞いた私が悪かった」

 

真鍋は呆れたように言った。

 

だが、その声はもう、最初の頃のように尖ってはいない。

 

白波は少し前で、代表として人数確認をしていた。

 

最初の頃より、声ははっきりしている。

 

まだ完璧ではない。

 

けれど、周囲に届く声だった。

 

「一年生側、全員います」

 

白波の報告を受け、水瀬が頷く。

 

「確認しました」

 

その横で山村が資料を持っている。

 

声はまだ小さい。

 

だが、白波が必要な時に視線を向けると、山村は小さく頷いて補足を伝える。

 

真鍋はその近くに立っていた。

 

何かあれば拾える距離。

 

庇うためだけではなく、支えるための距離。

 

網倉は白波の緊張をほぐすように笑っている。

 

佐藤と森も、最初より自然に話している。

 

神室は面倒そうに腕を組みながらも、列を乱すことはない。

 

柊美咲は、二年生側に静かに立っていた。

 

笑顔は戻っていない。

 

少なくとも、以前のような笑顔ではない。

 

必要な言葉だけを言い、必要な役割だけをこなす。

 

誰かを下に置く言葉は、もう出なかった。

 

それが反省なのか。

 

恐怖なのか。

 

あるいは、まだ自分の立ち位置を見つけられていないだけなのか。

 

影には分からない。

 

けれど、以前の柊ではないことだけは確かだった。

 

水瀬朋花は、そんな柊も含めて全体を見ていた。

 

壊れたものを、そのまま捨てるのではなく。

 

またどこかに立てるよう、静かに場を整えている。

 

影は水瀬の横顔を見た。

 

壊すより整える方を選ぶ人。

 

その強さを、影はまだ完全には分からない。

 

だが、以前より少しだけ理解できる気がした。

 

「上代」

 

真鍋が小さく言う。

 

「今日は変な顔してない」

 

「そうですか」

 

「たぶん」

 

「たぶん、なのですね」

 

「断言はできない」

 

「それは残念です」

 

「残念がるところじゃない」

 

真鍋はそう言って、少しだけ笑った。

 

 

午前の最終確認が終わると、生徒たちは大広間へ集められた。

 

合宿の結果発表と、今後の説明を受けるためだった。

 

大広間には、男女別の大グループが整列している。

 

一年生、二年生、三年生。

 

それぞれの列が、初日より少しだけ乱れなく並んでいた。

 

教師が前に立ち、淡々と説明を始める。

 

今回の混合合宿における評価。

 

生活態度。

 

課題活動。

 

集団行動。

 

点呼や報告の精度。

 

各グループの平均点。

 

大きなペナルティの有無。

 

生徒たちは息を潜めるように聞いていた。

 

退学。

 

その言葉が実際に出るかどうかは、生徒たちにとって重要だった。

 

重い空気が、大広間に広がる。

 

影たちの大グループは、上位ではない。

 

しかし、下位でもなかった。

 

大きなペナルティもなく、最低限以上の結果を残していた。

 

白波は結果を聞いた瞬間、目に見えて肩の力を抜いた。

 

「よかった……」

 

網倉が笑って、白波の背中を軽く叩く。

 

「千尋、お疲れ」

 

佐藤も頷く。

 

「うん、ほんと頑張ってた」

 

森も小さく笑う。

 

「代表、大変だったね」

 

白波は少し照れたように笑った。

 

「みんなが助けてくれたから」

 

その言葉に、山村が少しだけ顔を上げた。

 

白波は山村を見る。

 

「山村さんも、ありがとう」

 

山村は小さく首を振る。

 

「私は……少ししか」

 

「その少しが助かったよ」

 

白波の声は柔らかかった。

 

山村は黙ったまま、しかし以前より少しだけ穏やかな顔をした。

 

真鍋が小さく言う。

 

「まあ、山村はちゃんと見てたし」

 

山村が驚いて真鍋を見る。

 

真鍋はすぐに顔を逸らした。

 

「事実だから」

 

神室が横からぼそりと言う。

 

「素直じゃない」

 

「うるさい」

 

「でも間違ってない」

 

「だからうるさい」

 

二人のやり取りに、網倉が笑う。

 

佐藤と森もつられて笑った。

 

完全に仲が良いわけではない。

 

けれど、最初よりは確かに混ざっている。

 

柊は少し離れた場所で、その様子を見ていた。

 

そして、小さく息を吐く。

 

悔しさか。

 

安堵か。

 

それとも、ただの疲労か。

 

影には分からない。

 

ただ、柊はもう、あの輪を支配しようとはしていなかった。

 

水瀬が柊に声をかける。

 

「柊さんも、お疲れさま」

 

柊は少しだけ目を伏せた。

 

「……はい」

 

「最後まで動いてくれて助かったよ」

 

柊は驚いたように水瀬を見る。

 

水瀬はいつものように穏やかだった。

 

責めない。

 

けれど、なかったことにもしていない。

 

柊は少しだけ唇を結ぶ。

 

「……ありがとうございます」

 

その声は小さかった。

 

以前のような余裕はない。

 

だが、棘もなかった。

 

影はそのやり取りを見ていた。

 

壊した後。

 

そこに残るものは、ただの終わりではないのかもしれない。

 

水瀬は、壊れた場を戻そうとしている。

 

完全に元通りにするのではなく。

 

壊れた跡も含めて、次に進めるように。

 

それは、影にはまだ難しい戦い方だった。

 

 

しかし、この合宿で揺れていたのは、影たちの小さな輪だけではなかった。

 

教師の説明が終わった後も、三年生側の一角だけは重い空気をまとっていた。

 

橘茜。

 

その名を、誰かが小さく口にする。

 

彼女は、退学という言葉のすぐそばに立たされていた。

 

だが、それは彼女一人の失敗ではない。

 

グループの結果。

 

平均点。

 

責任者という立場。

 

そして、それを利用する者の意図。

 

それらが重なり、一人の生徒を追い詰めている。

 

影は、その空気を見て静かに目を細めた。

 

これは、柊の小さな棘とは違う。

 

もっと大きな制度の刃。

 

誰か一人が悪いわけではない。

 

けれど、責任は一人へ向く。

 

その仕組み自体が、人を切る。

 

少し離れた場所で、堀北学が静かに立っていた。

 

その表情は大きく変わらない。

 

しかし、その周囲の空気は明らかに張りつめている。

 

さらに離れた場所で、南雲雅が笑っていた。

 

軽く。

 

人懐っこく。

 

けれど、影にはその笑顔が昨日よりも冷たく見えた。

 

盤上の王。

 

彼は、自分の駒を動かした後のような顔をしていた。

 

南雲はふと、影の視線に気づいたのか、こちらを見る。

 

そして、軽く笑った。

 

昨日と同じ、人懐っこい笑顔。

 

しかし影には、その奥の視線が見えていた。

 

面白いものを見つけた目。

 

盤の外にいると思っている者を、いつか盤上へ引きずり出そうとする目。

 

南雲は軽く手を上げた。

 

誰にも不自然に見えない程度の仕草。

 

影は静かに頭を下げる。

 

その一瞬だけで、会話は成立したように思えた。

 

また話そうぜ。

 

昨日の南雲の声が、影の中で響く。

 

お前が本当に見てるだけのやつなのか、少し興味出た。

 

影は視線を外す。

 

南雲雅。

 

あの人は、柊とは違う。

 

柊は小さな輪の中で棘を刺した。

 

南雲はもっと大きな流れを作る。

 

人が自分から近づいてくるように。

 

近づいた者が、いつの間にか盤上に立っているように。

 

そして今回は、その盤の上で、橘茜という一人の未来が揺れていた。

 

刃はまだ振り下ろされていない。

 

けれど、確かに首筋へ当てられている。

 

影は、そう感じた。

 

南雲の少し離れた場所に、堀北学が立っている。

 

静かに。

 

ただそこにいるだけで、空気が締まる。

 

南雲の周囲には流れがある。

 

堀北学の周囲には静止がある。

 

動かす者。

 

動かされない者。

 

二つの中心が、同じ大広間に存在している。

 

影は、その差を見ていた。

 

この合宿で壊れたものは、柊の笑顔だけではない。

 

もっと大きな盤の上で、誰かの未来が揺れている。

 

影は、そう感じた。

 

「上代」

 

真鍋が小声で言った。

 

「また南雲先輩見てる?」

 

「はい」

 

「変なこと考えてない?」

 

「考えています」

 

「正直すぎる」

 

「ですが、まだ何もしません」

 

「まだ、ね」

 

真鍋は嫌そうに言った。

 

影は小さく微笑む。

 

「今は、見るだけです」

 

「南雲先輩みたいな人にそれ言うと、また絡まれそう」

 

「気をつけます」

 

「信用できない」

 

「努力します」

 

「もっと信用できない」

 

その会話は小さかった。

 

だが、影にとっては不思議と心地よかった。

 

 

影は、男子側の列へも視線を向けた。

 

そこには龍園翔の姿があった。

 

退屈そうな顔。

 

けれど、その目は眠っていない。

 

彼の周囲には、石崎、小宮、近藤の姿もある。

 

石崎は少し緊張した顔で前を見ている。

 

小宮と近藤は、時々小さく言葉を交わしていた。

 

時任も近くにいた。

 

彼は面倒そうにしながらも、周囲をよく見ている。

 

龍園はふと、影の視線に気づいたようにこちらを見た。

 

目が合う。

 

龍園の口元がわずかに歪む。

 

笑った。

 

それは、敗北を引きずる者の笑みではなかった。

 

敗北を持ったまま、次の戦を見ている者の笑み。

 

影は軽く目礼した。

 

龍園はそれに応じることなく、視線を前へ戻した。

 

それで十分だった。

 

あの人もまた、立っている。

 

壊れても、敗れても、前を見る。

 

その姿に、影は少しだけ赤い記憶を重ねた。

 

次に、綾小路清隆の姿が目に入った。

 

彼は男子側の列の中で、相変わらず目立たない位置にいた。

 

誰かと強く話すわけでもない。

 

前に出るわけでもない。

 

ただ、周囲の流れに紛れるように立っている。

 

綾小路も一瞬だけ、影の方を見た。

 

表情は変わらない。

 

軽く目が合い、すぐに逸れる。

 

それだけだった。

 

影はそれ以上、深くは見なかった。

 

綾小路という人物は、見ようとすればするほど、輪郭が遠のくようなところがある。

 

だから今は、ただそこにいるという事実だけを確認する。

 

それで十分だった。

 

 

閉会の説明が終わると、生徒たちは帰る準備に入った。

 

荷物をまとめる。

 

忘れ物を確認する。

 

施設の職員へ挨拶をする。

 

バスへ移動する。

 

慌ただしいが、どこか解放感のある時間だった。

 

混合合宿の間だけできていた輪は、帰りのバスを前に少しずつほどけていく。

 

白波と網倉は、一之瀬のいるBクラスの列へ戻った。

 

神室と山村は、Aクラスの列へ。

 

佐藤と森は、少し名残惜しそうに手を振ってから、堀北や綾小路たちのいるCクラス側へ戻っていく。

 

そして影、真鍋、藪は、龍園や石崎たちのいるDクラスの列へ合流した。

 

混ざっていたものが、元の場所へ戻っていく。

 

けれど、完全に元通りになったわけではない。

 

数日間だけ同じ輪にいた時間は、それぞれの中に小さな跡を残していた。

 

「また学校でね」

 

白波が少し寂しそうに言った。

 

「はい。また学校で」

 

影が答えると、網倉が明るく手を振った。

 

「上代さん、真鍋さんもお疲れ!」

 

「お疲れさまです」

 

「……お疲れ」

 

真鍋は少しぶっきらぼうに返した。

 

佐藤と森も、軽く手を振る。

 

「上代さん、真鍋さん、またね」

 

「うん。またね」

 

神室はAクラスの列へ戻る前に、影を見た。

 

「上代」

 

「はい」

 

「次はもう少し普通にしなよ」

 

「努力します」

 

「それ、信用できないやつ」

 

神室は呆れたように言い、山村と一緒にAクラス側へ歩いていった。

 

山村は途中で一度だけ振り返り、小さく頭を下げた。

 

影も静かに頭を下げ返す。

 

それだけで十分だった。

 

 

バスへ向かう途中、影は一之瀬帆波とすれ違った。

 

一之瀬は荷物を持ち、Bクラスの生徒たちと一緒に歩いていた。

 

白波がすぐに声をかける。

 

「帆波ちゃん」

 

「千尋ちゃん、お疲れさま」

 

一之瀬は柔らかく笑う。

 

「代表、大変だったでしょ」

 

「うん。でも、みんなが助けてくれたから」

 

「そっか」

 

一之瀬は嬉しそうに頷いた。

 

そして、影を見る。

 

「上代さんも、お疲れさま」

 

「はい。一之瀬さんも」

 

一之瀬は少しだけ影の腕を見る。

 

「もう大丈夫?」

 

「はい」

 

「よかった」

 

それだけ言って、一之瀬は少し間を置いた。

 

「上代さん」

 

「はい」

 

「合宿で、何か分かった?」

 

影は少しだけ考えた。

 

「壊れるものだけでなく、立つものを見ることも大事だと、少し分かりました」

 

一之瀬は静かに笑った。

 

「うん。よかった」

 

「まだ、少しだけですが」

 

「少しでいいんじゃないかな」

 

一之瀬の声は柔らかい。

 

「人は、少しずつ変わるものだと思うから」

 

影はその言葉を聞いた。

 

少しずつ変わる。

 

白波も。

 

山村も。

 

真鍋も。

 

柊も。

 

そして、おそらく自分も。

 

「一之瀬さん」

 

「うん?」

 

「いつか、その意味をもう少し分かる時が来るのでしょうか」

 

一之瀬は少しだけ目を細めた。

 

「来ると思うよ」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。上代さんは、ちゃんと考えてるから」

 

「危ういとも、よく言われます」

 

「それも含めて、だよ」

 

一之瀬は優しく笑った。

 

「無理に急がなくていいと思う。上代さんが話したくなった時に、また話そう」

 

影は静かに頭を下げた。

 

「はい。ありがとうございます」

 

一之瀬は小さく手を振り、Bクラスの輪へ戻っていった。

 

影はその背中を見送る。

 

いつか。

 

その言葉は、今はまだ遠い。

 

けれど、確かにどこかへ繋がっている気がした。

 

 

バスへ乗る直前、影は龍園とすれ違った。

 

石崎が先に気づき、声を上げそうになる。

 

だが教師の目を気にして、小声に変えた。

 

「上代、お疲れっす」

 

「お疲れさまです、石崎さん」

 

小宮と近藤も軽く手を上げる。

 

時任は少し離れて、面倒そうに荷物を持っている。

 

「そっちも大変だったみたいだな」

 

時任が言う。

 

「はい。良い戦場でした」

 

「それを良いって言うな」

 

時任は呆れた顔をした。

 

龍園は影の腕をちらりと見た。

 

跡はもう薄い。

 

けれど、何かを察したように口元を歪める。

 

「面白ぇことがあったみてぇだな」

 

「はい」

 

影は静かに答えた。

 

「少し、壊しました」

 

石崎が目を見開く。

 

「え、何をっすか」

 

時任が額を押さえる。

 

「聞くな、石崎」

 

龍園は喉の奥で笑った。

 

「ククッ。お前らしいじゃねぇか」

 

「そうでしょうか」

 

「だが、影」

 

龍園の目が少しだけ鋭くなる。

 

「壊すだけなら誰でもできる」

 

影は龍園を見る。

 

その言葉は、少し意外だった。

 

龍園は続ける。

 

「壊した後に何を立てるかだ。そこを間違えると、ただの雑魚狩りになる」

 

影は静かに目を伏せた。

 

水瀬。

 

一之瀬。

 

真鍋。

 

そして、遠い赤い記憶。

 

皆が似た場所を指している。

 

壊した後。

 

立つもの。

 

「覚えておきます」

 

影が言うと、龍園は鼻で笑った。

 

「お前の“覚えておく”は信用できねぇな」

 

「よく言われます」

 

「だろうな」

 

龍園はそう言って、バスへ向かう。

 

その背中には、まだ火があった。

 

敗れても、折れていない火。

 

影はその背中を見送り、小さく思った。

 

龍園翔もまた、壊れた後に立つ者なのだと。

 

真鍋が隣に並ぶ。

 

「上代」

 

「はい」

 

「席、隣でいい?」

 

影は少しだけ瞬きをした。

 

「構いません」

 

「変な意味じゃないから」

 

「はい」

 

「今、絶対変なこと考えたでしょ」

 

「いえ」

 

「嘘っぽい」

 

真鍋はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。

 

「合宿、終わるね」

 

「はい」

 

「……ほんと、色々あった」

 

その言葉には、柊のことも、白波のことも、山村のことも、自分自身のことも含まれているように聞こえた。

 

影は静かに頷く。

 

「はい」

 

「まあ、続きはバスでいいか」

 

「承知しました」

 

「その返事、何か腹立つ」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るなって」

 

そのやり取りに、影は小さく笑った。

 

真鍋も、ほんの少しだけ笑った。

 

教師の声が響き、Dクラスの生徒がバスへ向かい始める。

 

影と真鍋も、その列に続いた。

 

 

帰りのバスの中。

 

影はDクラスの席に座った。

 

隣には真鍋がいる。

 

少し前には藪。

 

近くには石崎、小宮、近藤、時任の姿もあった。

 

少し離れた席に、龍園翔が座っている。

 

佐藤と森の姿はない。

 

彼女たちは、堀北や綾小路たちのいるCクラスのバスへ戻っていった。

 

数日前まで同じ大グループにいた者たちが、それぞれのクラスへほどけていく。

 

だが、その数日間は消えない。

 

白波の声。

 

山村の小さな頷き。

 

神室の棘のある一言。

 

佐藤と森の柔らかな笑い。

 

真鍋の「席、隣でいい?」という声。

 

それらは、元のクラスに戻っても、影の中に残っていた。

 

バスが動き出す。

 

合宿所がゆっくりと遠ざかっていく。

 

長い廊下。

 

食堂。

 

大広間。

 

窓際の会話。

 

柊の掴んだ腕。

 

水瀬の言葉。

 

南雲の笑顔。

 

一之瀬の優しい目。

 

龍園の火。

 

綾小路の沈黙。

 

そして、三年生側にあった重い空気。

 

それらが、窓の外の景色と一緒に流れていく。

 

「上代」

 

隣で真鍋が言った。

 

「はい」

 

「少し変わったよね」

 

「私が、ですか」

 

「うん」

 

影は窓の外を見た。

 

「そうでしょうか」

 

「前より、壊した後も見るようになった」

 

その言葉は、思ったより深く入ってきた。

 

壊した後も見る。

 

水瀬の言葉。

 

一之瀬の視線。

 

真鍋の声。

 

それらが重なる。

 

「そうかもしれません」

 

影は静かに言った。

 

真鍋は少しだけ笑う。

 

「なら、少しマシ」

 

「少し、ですか」

 

「まだまだ怖いから」

 

「努力します」

 

「それもう聞き飽きた」

 

真鍋はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。

 

「でも」

 

「はい」

 

「もしまた変な方に行きそうになったら、止めるから」

 

影は真鍋を見る。

 

「真鍋さんが、ですか」

 

「悪い?」

 

「いいえ」

 

影は少しだけ微笑んだ。

 

「助かります」

 

真鍋は顔を逸らす。

 

「まだ助けるとは言ってない」

 

「では、見張りでしょうか」

 

「そう」

 

「分かりました」

 

「分かるな」

 

そのやり取りに、影は小さく笑った。

 

真鍋も、ほんの少しだけ笑った。

 

少し離れた席から、龍園の声がした。

 

「影」

 

「はい」

 

「お前、今回の合宿で何を見た」

 

石崎たちが少しだけ静かになる。

 

影はしばらく考えた。

 

「混ざる戦場を見ました」

 

龍園は喉の奥で笑った。

 

「ククッ。相変わらず意味分かんねぇな」

 

「人は、混ざると形が見えやすくなるのだと思いました」

 

「形?」

 

「はい。誰が刺すのか。誰が抜くのか。誰が立つのか。誰が壊れるのか。誰が、壊した後を見るのか」

 

龍園はしばらく黙った。

 

そして、窓の外へ視線を向ける。

 

「壊した後、か」

 

その声には、どこか自分自身を笑うような響きがあった。

 

影は龍園を見る。

 

龍園翔もまた、壊れた後に立つ者だった。

 

敗北を抱えたまま、次の戦場を見ている者だった。

 

「龍園さん」

 

「あ?」

 

「壊した後に何を立てるか」

 

影は静かに言った。

 

「その言葉、覚えておきます」

 

龍園は鼻で笑う。

 

「お前の“覚えておく”は信用できねぇ」

 

「よく言われます」

 

「だろうな」

 

バスは山道を抜け、学校へ向かって進んでいく。

 

混合合宿は終わった。

 

だが、終わったのは合宿だけだ。

 

この学校の戦場は続く。

 

南雲の盤面。

 

堀北学の静止。

 

綾小路の沈黙。

 

龍園の火。

 

一之瀬の揺れ。

 

まだ見えていないものが、いくつもある。

 

そして、影自身の中にも。

 

壊れるものを美しいと思う自分。

 

立つものに目を奪われる自分。

 

神でも、化け物でもない。

 

ただ、危うさを抱えた一人の人間。

 

それを、いつか誰かが言っていた。

 

影は窓の外に流れる冬の空を見た。

 

その名前は、まだ口にしない。

 

けれど、その声だけは、確かに残っている。

 

――戦場で神を気取るな。

 

遠い記憶の声が、微かに響いた気がした。

 

――神は傷つかねぇ。迷わねぇ。負けもしねぇ。

 

影は静かに目を伏せる。

 

――だが、お前は違うだろ。

 

迷い、傷つき、それでも立つ。

 

ならば。

 

自分はまだ、人なのだろう。

 

白き影は、終わった合宿の余韻を胸に、学校へ戻っていく。

 

次の戦場が、すぐそこにあることを知りながら。

 

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