第34話
混合合宿が終わり、学校での日常が戻ってきた。
朝の教室。
机の並び。
窓から差し込む冬の光。
廊下を歩く生徒たちの声。
それらは合宿前と何も変わっていないように見える。
けれど、影には少し違って見えた。
混合合宿という場所で、いくつもの輪が一度混ざった。
白波。
山村。
神室。
佐藤。
森。
一之瀬。
水瀬。
柊。
南雲。
堀北学。
それぞれが、違う形を見せた。
そして合宿が終わると、その輪はまた元のクラスへ戻っていった。
戻った。
けれど、完全に元通りではない。
一度混ざったものは、どこかに小さな跡を残す。
影はDクラスの教室で、自分の席に座っていた。
教室の空気は、相変わらずどこか重い。
このクラスは、少し前までCクラスだった。
しかし今はDクラス。
龍園翔の敗北。
クラス順位の変動。
その影響は、まだ完全には消えていない。
それでも、以前のようなただ沈んだ空気ではなかった。
石崎は朝から大きな声で小宮と話している。
近藤はそれを聞き流しながら、机の中を整理している。
時任は少し離れた席で、頬杖をつきながら退屈そうに教室を眺めていた。
龍園は、教室の奥に座っている。
以前のように全員を圧で支配するわけではない。
だが、その存在感は消えていなかった。
むしろ、静かになった分だけ、火の残り方が見えやすい。
敗北しても、折れてはいない。
影はそれを見ていた。
「また見てる」
横から声がした。
真鍋だった。
影の席の横に立ち、少し呆れたようにこちらを見ている。
「はい」
「朝から龍園見て楽しい?」
「楽しいというより、確認です」
「何の?」
「火が残っているかどうか」
真鍋は一瞬黙った。
そして、深いため息をついた。
「やっぱ聞いた私が悪かった」
「申し訳ありません」
「謝るなって」
その言い方は、混合合宿の時と同じだった。
以前の真鍋なら、影に自分から声をかけることは少なかった。
声をかけても、どこか棘があった。
だが今は違う。
少し乱暴で、少し不器用で、けれど自然だった。
「上代」
「はい」
「昨日の課題、提出今日までだっけ」
「はい。放課後までだったと思います」
「じゃあ今出しとくか」
「その方が安全かと」
「安全って大げさ」
「提出物は遅れると面倒ですので」
「それはそう」
真鍋は納得したように頷く。
そのやり取りを、少し離れた席で聞いていた時任が顔を上げた。
「……お前ら」
真鍋が振り返る。
「何よ」
時任は怪訝そうに二人を見た。
「いつの間に、そんな普通に喋るようになったんだよ」
真鍋の表情が固まる。
「別に普通じゃないし」
「いや、普通だろ。少なくとも合宿前よりは」
真鍋は言い返そうとして、少し詰まった。
影は静かに頷く。
「混合合宿を経て、少し距離が変わったのかもしれません」
「そういう言い方するから普通じゃねぇんだよ」
時任が呆れたように言った。
真鍋は影を睨む。
「上代のせいで変な感じになったじゃん」
「申し訳ありません」
「だから謝るなって何回言えば分かるの」
時任はそのやり取りを見て、小さく笑った。
「まあ、悪くはねぇんじゃねぇの」
真鍋は顔を逸らす。
「別に」
その横顔は、少し赤いようにも見えた。
影はそれを見ていた。
「何」
真鍋がすぐに反応する。
「いえ」
「絶対何か見てた」
「真鍋さんは、以前より分かりやすくなりました」
「ほら見てた!」
時任が笑う。
「上代、そういうの普通に言うから面倒なんだよ」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
真鍋は課題のプリントを掴み、影の机を軽く叩いた。
「出しに行くなら早く」
「はい」
影は立ち上がった。
二人が教室を出ようとした時、龍園の視線が一瞬だけ向いた。
何も言わない。
けれど、口元が少しだけ歪んでいた。
面白いものを見ているような笑み。
影は軽く頭を下げる。
龍園は何も返さず、窓の外へ視線を戻した。
教室の中には、まだ敗北の跡がある。
だが、その跡の上に、少しずつ別のものが置かれ始めている。
影はそう思った。
⸻
廊下に出ると、合宿後の学校はいつもより少し騒がしく感じた。
長い共同生活から戻ってきた生徒たちは、どこか解放されたような表情をしている。
別のクラスの生徒とすれ違うたび、合宿中の話題が耳に入ってくる。
「うちのグループ、最後ギリギリだったらしいよ」
「二年生めっちゃ怖かった」
「南雲先輩、やっぱすごくない?」
「橘先輩の件、どうなったんだろ」
そんな声が、廊下のあちこちから聞こえた。
影は歩きながら、その声を拾う。
人の噂は、熱を持つ。
面白いもの。
怖いもの。
誰かの失敗。
誰かの痛み。
それらは、人の口を通るたびに少しずつ温度を変える。
混合合宿で起きた橘茜の件も、すでに生徒たちの間で語られ始めていた。
退学という言葉の重さ。
南雲雅という存在。
堀北学との関係。
多くの生徒は、詳しい事情を知らない。
それでも語る。
知らないからこそ、語れるのかもしれない。
「何か、合宿終わっても落ち着かないね」
真鍋が言った。
「はい」
「また何か起きそう」
「この学校では、何も起きない日の方が少ないのかもしれません」
「嫌な学校」
「そうですね」
真鍋は影を見る。
「今のは普通の返事だった」
「そうですか」
「たまに普通だと逆に怖い」
「難しいですね」
「ほんと難しい」
二人は職員室前の提出箱へ課題を入れた。
その帰り道だった。
廊下の角で、Bクラスの生徒たちが数人集まって話していた。
明るい声。
けれど、その中に少し違う温度が混じっていた。
「一之瀬さんって、すごいよね」
「うん。合宿でもみんなに声かけてたし」
「でもさ……最近ちょっと変な噂聞かない?」
その言葉に、影の足がわずかに止まった。
真鍋も気づいたように影を見る。
「上代?」
影は答えず、その声の方へ耳を向けた。
「変な噂って?」
「いや、詳しくは知らないけど……何か、昔のこととか」
「一之瀬さんに?」
「うん。まさかって感じだけど」
「でも、一之瀬さんに限ってそんなことないでしょ」
「だよね。あの人だし」
その会話は、すぐに別の話題へ流れていった。
けれど、影の中には残った。
一之瀬帆波。
彼女の名前が、今までとは少し違う温度で語られていた。
まだ小さい。
まだ輪郭もない。
ただの噂の欠片。
けれど、確かにあった。
真鍋が小さく言う。
「今の、一之瀬のこと?」
「はい」
「変な噂って何だろ」
「分かりません」
「でも、気にしてる顔してる」
影は真鍋を見る。
「そう見えますか」
「うん」
真鍋は少しだけ眉を寄せた。
「一之瀬って、合宿でも上代に声かけてた人でしょ」
「はい」
「大丈夫なのかな」
「分かりません」
影は、先ほどの声を思い出す。
あの人だし。
一之瀬さんに限って。
その言葉には信頼がある。
だが、同時に危うさもある。
人は、誰かを簡単に高い場所へ置く。
優しい人。
正しい人。
間違えない人。
皆を救う人。
そう見られた者は、そこから落ちることを許されにくい。
神のように見られた人間は、人間としての揺れを許されにくくなる。
影の奥で、遠い声が微かに揺れた。
――戦場で神を気取るな。
影は目を伏せる。
まだ、名前は呼ばない。
けれど、その言葉は確かに残っている。
真鍋が少し不安そうに言った。
「上代、変なことしないでよ」
「変なこととは」
「噂を追いかけ回すとか」
「今は、まだ見ます」
「またそれ」
真鍋は呆れたように言った。
「でも、今回はちょっと分かるかも」
「分かるのですか」
「変な噂って、嫌じゃん」
真鍋は小さく言った。
「自分の知らないところで、勝手に話が大きくなるのって」
その声には、少しだけ実感が混じっていた。
軽井沢のこと。
自分がしたこと。
誰かに見られること。
知られること。
真鍋もまた、噂の怖さを知っているのかもしれない。
「はい」
影は静かに頷いた。
「噂は、棘よりも広がりやすいのかもしれません」
「また変な言い方」
「ですが、刺される場所が分からない分、厄介です」
真鍋は少し黙った後、頷いた。
「それは、分かる」
⸻
放課後。
影は一人で校舎の廊下を歩いていた。
窓の外には、冬の夕方の光が沈みかけている。
合宿後の疲れが残っているのか、校内はいつもより少し静かだった。
しかし、その静けさの下で、何かが動き始めている気配があった。
一之瀬帆波に関する噂。
まだ形はない。
だが、温度はある。
温かい信頼の中に、冷たい疑いが一滴落ちたような温度。
人は、優しいものが傷つく瞬間に敏感だ。
誰かが完璧だと思っていたものに傷がつくと、その傷を見ようとする。
本当に傷なのか。
ただの影なのか。
それを確かめる前に、口にする。
噂とは、そういうものなのかもしれない。
影は廊下の角を曲がった。
その時、杖の音が聞こえた。
こつん。
静かな音。
廊下に、ゆっくりと響く。
影は足を止めた。
「あなたが上代影さんですね」
柔らかい声がした。
坂柳有栖。
Aクラスの中心にいる少女。
小柄な身体。
白い肌。
整った微笑み。
その手には杖がある。
彼女は穏やかに笑っていた。
美しい笑顔だった。
乱れがなく、静かで、完成されている。
だが、影はその笑顔を見た瞬間、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
柊の棘とは違う。
南雲の流れとも違う。
坂柳有栖の笑顔は、人を置く笑顔だった。
盤上の、最も都合のよい場所へ。
「坂柳有栖さんですね」
影は静かに答えた。
「ええ」
坂柳は微笑む。
「龍園くんのクラスに、少し変わった方がいると聞いていました」
「よく言われます」
「ふふ。噂通りの返しですね」
その笑みは、楽しそうだった。
少なくとも、坂柳は影に悪い印象を持っているようには見えない。
むしろ、興味を持っている。
面白いものを見る目。
珍しい駒を見つけた目。
影は、その目が少し苦手だと思った。
「一之瀬さんのことを気にされているのですか?」
坂柳が言った。
影は少しだけ目を細める。
「なぜ、そう思われたのですか」
「先ほど、Bクラスの生徒たちの会話に反応していたようでしたから」
「見ていたのですね」
「ええ。あなたもよく人を見ていると聞きましたが、私も見るのは嫌いではありません」
坂柳は穏やかに言った。
「一之瀬さんは、興味深い方です」
影は黙っていた。
坂柳は続ける。
「多くの人に信頼され、慕われ、優しい人として扱われている。ですが、そういう人ほど、少しの揺らぎが大きく響くものです」
影の胸の奥が、冷えた。
坂柳の声は優しい。
しかし、その優しさには温度がない。
「坂柳さん」
「はい」
「一之瀬さんが揺れるところを、見たいのですか」
坂柳は小さく笑った。
「いいえ」
「そうですか」
「私は、彼女がどう動くのかを知りたいだけです」
同じことのように聞こえた。
影はそう思った。
けれど、まだ言葉にはしなかった。
坂柳は影を見る。
「あなたなら、彼女をどう見ますか?」
「人として見ます」
「人として」
坂柳はその言葉を繰り返す。
「随分と曖昧な答えですね」
「はい」
「ですが、嫌いではありません」
影は坂柳を見た。
坂柳は本当に楽しそうだった。
影に興味を持っている。
その興味に悪意はないのかもしれない。
だが、影の中には確かな不快感があった。
この人とは、合わない。
理屈より先に、そう感じた。
坂柳有栖の笑顔は、美しい。
整っている。
だが、その奥にあるものは冷たい。
人が壊れる時の痛みも。
人が立つ時の迷いも。
この人は、温度ではなく配置として見る。
それはどこか、昔の自分に似ていた。
まだ、人が立つ瞬間を知らなかった頃。
壊れるものだけに目を奪われていた頃。
その頃の自分を、坂柳の中に見てしまう。
だから、不快なのだ。
坂柳が一歩、ゆっくりと近づいた。
杖の音が、廊下に落ちる。
「上代さん。あなたとは、少しお話ししてみたいと思っていました」
「そうですか」
「ええ。あなたは、盤上にいながら盤の外から物を見るような目をしている」
影は静かに答える。
「私は、坂柳さんのことが苦手です」
坂柳の笑みが、少しだけ深くなった。
「それは残念です」
声は、少しも残念そうではなかった。
「ですが、嫌われるのは嫌いではありません」
「そうですか」
「ええ。好き嫌いは、人の輪郭をはっきりさせますから」
坂柳は楽しそうに影を見る。
「ますます興味が湧きました」
影は、その視線を静かに受け止めた。
そして思った。
一之瀬帆波の噂。
坂柳有栖の笑顔。
冷たい盤面。
何かが、動き始めている。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、二人の間に落ちていた。
白き影は、静かに目を伏せる。
噂はまだ、小さな温度でしかない。
けれど、その奥にいる者の手は、すでに冷たかった。