ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は冷たい盤面を見る

 

第35話

 

廊下に、杖の音が落ちる。

 

こつん。

 

その音は小さかった。

 

けれど、夕方の校舎には妙によく響いた。

 

坂柳有栖は、影の前に立っている。

 

柔らかい微笑み。

 

整った姿勢。

 

乱れのない声。

 

そのすべてが、静かで美しかった。

 

しかし影は、その美しさの奥に冷たさを感じていた。

 

柊美咲の棘とは違う。

 

南雲雅の流れとも違う。

 

坂柳有栖は、人を刺さない。

 

人を流れに乗せるわけでもない。

 

ただ、置く。

 

盤上の、最も都合のよい場所へ。

 

影はそう感じた。

 

「私のことが苦手、と言いましたね」

 

坂柳は楽しそうに言った。

 

「はい」

 

影は静かに答える。

 

「正確には、嫌いに近いかもしれません」

 

普通なら、空気が凍る言葉だった。

 

だが、坂柳はむしろ嬉しそうに微笑む。

 

「随分とはっきり言うのですね」

 

「嘘をつく必要がありませんので」

 

「ふふ。そういうところは、嫌いではありません」

 

「そうですか」

 

「ええ」

 

坂柳は杖に軽く手を添えたまま、影を見上げる。

 

その目には、明確な興味があった。

 

敵意ではない。

 

警戒でもない。

 

好奇心。

 

珍しいものを見つけたような、透明な関心。

 

「龍園くんのクラスに、あなたのような方がいるとは思いませんでした」

 

「龍園さんのクラスにも、色々な方がいます」

 

「ええ。そのようですね」

 

坂柳は小さく笑う。

 

「龍園くんは敗れても、まだ火が消えていない。石崎くんたちは、その火の周りで右往左往している。そしてあなたは、その火を少し離れた場所から見ている」

 

影は坂柳を見る。

 

「よく見ていらっしゃるのですね」

 

「見るのは得意です」

 

「そうでしょうね」

 

「あなたもでしょう?」

 

坂柳の声は優しい。

 

だが、影にはその優しさがどこか薄く感じられた。

 

温度ではなく、形だけが整っている。

 

「私は、見ることが多いです」

 

「では、一之瀬さんのことも見ているのですか?」

 

坂柳は、自然に話題を戻した。

 

一之瀬帆波。

 

その名前が出た瞬間、影の内側で少しだけ空気が変わる。

 

「はい」

 

「彼女は、よく人から好かれていますね」

 

「はい」

 

「優しく、明るく、誰にでも手を差し伸べる。Bクラスの中心に立つには、申し分のない人物です」

 

坂柳は淡々と言った。

 

褒めている。

 

言葉だけを取れば、そう聞こえる。

 

けれど、影にはそれが評価表を読み上げているように聞こえた。

 

温度のない賞賛。

 

人ではなく、性能を見ているような言葉。

 

「坂柳さんは、一之瀬さんを高く評価しているのですか」

 

「ええ。彼女は優秀です」

 

坂柳はすぐに答えた。

 

「ただし、脆い」

 

影の目が、わずかに細くなる。

 

「脆い」

 

「はい」

 

坂柳は微笑む。

 

「善良な人間は、善良であることそのものが弱点になります。周囲から信頼されている人ほど、その信頼が揺らいだ時に大きく崩れる」

 

「崩れるところを見たいのですか」

 

「先ほども言いましたが、私は彼女がどう動くのかを知りたいだけです」

 

坂柳は穏やかだった。

 

その穏やかさが、影には不快だった。

 

一之瀬が揺れること。

 

噂に傷つくこと。

 

周囲の視線が変わること。

 

そのすべてを、坂柳は盤面の変化として見ている。

 

「同じことのように聞こえます」

 

影が言うと、坂柳は楽しそうに目を細めた。

 

「あなたは、一之瀬さんを守りたいのですか?」

 

影は少しだけ黙った。

 

守りたい。

 

その言葉は、少し違う。

 

一之瀬は守られるだけの人ではない。

 

彼女は、人を安心させる笑顔を持っている。

 

だが、影は混合合宿で見た。

 

優しい人も揺れる。

 

正しい人も傷つく。

 

立つ人も、時には支えが必要になる。

 

「分かりません」

 

影は答えた。

 

「ただ、一之瀬さんを神のように見ることも、噂で罪人のように見ることも、どちらも違うと思います」

 

坂柳の笑みが、少しだけ深くなった。

 

「神と罪人、ですか」

 

「はい」

 

「面白い見方ですね」

 

「面白いでしょうか」

 

「ええ。ですが、人はそういうものです。誰かを持ち上げる時も、引きずり下ろす時も、自分の都合で相手を見る」

 

坂柳は静かに言った。

 

「一之瀬さんも例外ではありません」

 

「だから、揺らすのですか」

 

「揺れるかどうかを確かめるのです」

 

「同じです」

 

影の声が、少しだけ冷えた。

 

坂柳はそれを聞いて、さらに楽しそうに微笑んだ。

 

「あなたは本当に正直ですね」

 

「坂柳さん」

 

「はい」

 

「私は、あなたの戦が嫌いです」

 

廊下の空気が、少しだけ止まった。

 

外から差し込む夕方の光が、床に長く伸びている。

 

坂柳は、ゆっくりと首を傾げた。

 

「戦、ですか」

 

「はい」

 

影は静かに言った。

 

「坂柳さんの戦には、祈りがありません」

 

坂柳の目が、わずかに細くなる。

 

「祈り?」

 

「人が壊れる時、そこには痛みがあります。人が立つ時、そこには迷いがあります。戦とは、その痛みや迷いごと背負うものです」

 

影の声は穏やかだった。

 

けれど、その奥には白い熱がある。

 

静かな、異様な熱。

 

「ですが、坂柳さんはそれを見ていない」

 

「私は見ていますよ」

 

「いいえ」

 

影は首を横に振った。

 

「あなたは、人を見ているのではありません。配置を見ています」

 

坂柳は沈黙した。

 

その沈黙すら、楽しんでいるようだった。

 

「なるほど」

 

坂柳は小さく笑う。

 

「だから、あなたは私が嫌いなのですね」

 

「はい」

 

「ですが、私はあなたに好印象を持っていますよ」

 

影は黙って坂柳を見る。

 

坂柳は続けた。

 

「あなたは、盤上にいながら盤の外から物を見るような目をしている。龍園くんとも、綾小路くんとも違う。もちろん、一之瀬さんとも違う」

 

「私は、盤上で人を並べる方とは合いません」

 

「それでも、あなたも人が壊れるところを見たいと思うのでしょう?」

 

その言葉に、影の瞳がわずかに揺れた。

 

柊美咲の笑顔が割れた瞬間。

 

隠していた本音が剥き出しになった瞬間。

 

その時、自分は確かに美しいと思ってしまった。

 

それは事実だった。

 

坂柳はそこを見逃さない。

 

「あなたと私は、案外似ているのかもしれませんね」

 

影は静かに目を伏せた。

 

似ている。

 

その言葉は、不快だった。

 

だが、不快なのは、完全に外れているからではない。

 

むしろ、少しだけ当たっているからだった。

 

坂柳有栖の冷たさ。

 

人の揺れを盤面の変化として眺める目。

 

誰かが壊れる瞬間に、温度ではなく形を見る姿勢。

 

それは、影がかつて持っていたものに似ていた。

 

まだ、人が立つ瞬間を知らなかった頃。

 

壊れるものだけに目を奪われていた頃。

 

誰かに、人として見られる前の自分。

 

影は、坂柳を見ていた。

 

いや。

 

坂柳の向こうに、昔の自分を見ていた。

 

だから、嫌悪した。

 

坂柳を。

 

そして、かつての自分を。

 

「似ていません」

 

影は顔を上げた。

 

声は柔らかかった。

 

だが、切っ先のように鋭かった。

 

「私は、壊れるものに目を奪われます」

 

坂柳は黙って聞いている。

 

「けれど、立ち上がるものにも同じだけ目を奪われます」

 

影は一歩も動かずに続けた。

 

「坂柳さん。あなたは、立つ者を見ても、ただ次の配置を考えるだけでしょう」

 

坂柳の笑みが、少しだけ静かになる。

 

それは、怒りではなかった。

 

不快でもない。

 

ただ、興味がより深くなったような表情だった。

 

「それは、あなたの推測ですか?」

 

「はい」

 

「なら、外れているかもしれませんね」

 

「そうかもしれません」

 

「随分と素直ですね」

 

「はい」

 

影は坂柳を見る。

 

「ですが、私はそう見ました」

 

坂柳は、しばらく何も言わなかった。

 

廊下の向こうから、生徒たちの声が遠く聞こえる。

 

夕方の校舎は、日常の音を保っていた。

 

けれど、二人の間だけは少し違った。

 

坂柳は、ゆっくりと微笑む。

 

「やはり、あなたは面白い」

 

「私は、あなたを面白いとは思いません」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

「それでも、私はまたあなたとお話ししたいですね」

 

「私は、できれば避けたいです」

 

「ふふ。嫌われるのは嫌いではありません」

 

坂柳は楽しそうに言った。

 

「嫌悪もまた、人の本質を浮き彫りにしますから」

 

影は静かに目を細める。

 

「坂柳さんは、何でも材料にされるのですね」

 

「使えるものは使います」

 

「それが嫌いです」

 

「分かりやすくて助かります」

 

坂柳は少しだけ身体の向きを変えた。

 

「では、今日はこのあたりで」

 

「はい」

 

「上代さん」

 

「何でしょうか」

 

「一之瀬さんのことを、人として見ると言いましたね」

 

「はい」

 

「では、彼女が人として間違えていたら、あなたはどうしますか?」

 

影はすぐには答えなかった。

 

一之瀬が間違えていたら。

 

優しい人が、正しいだけではなかったら。

 

皆が信じている一之瀬帆波の中に、誰にも言えない過去があったら。

 

影は、どう見るのか。

 

神でも、罪人でもなく。

 

人として。

 

「見ます」

 

影は静かに答えた。

 

「一之瀬さんが、どう立つのかを」

 

坂柳は満足そうに微笑んだ。

 

「良い答えです」

 

「評価されたくはありません」

 

「それもまた、良いですね」

 

坂柳は杖を鳴らし、ゆっくりと歩き出した。

 

その背中は小さい。

 

しかし、不思議な存在感があった。

 

美しい。

 

整っている。

 

そして、ひどく冷たい。

 

坂柳有栖の戦には、祈りがない。

 

痛みを悼むことも。

 

立つ者を尊ぶことも。

 

壊れる者に手を伸ばすこともない。

 

ただ、勝敗だけが静かに置かれていく。

 

その冷たさを、影は嫌いだと思った。

 

そしてそれ以上に。

 

その冷たさの中に、昔の自分を見てしまうことが、どうしようもなく不快だった。

 

 

翌日。

 

一之瀬帆波に関する噂は、少しずつ形を持ち始めていた。

 

最初は小さな声だった。

 

「何か聞いた?」

 

「Bクラスの一之瀬さんのこと」

 

「昔、何かあったらしいよ」

 

「でも、一之瀬さんでしょ?」

 

「さすがに嘘じゃない?」

 

否定の声もある。

 

信じない声もある。

 

むしろ最初は、その方が多かった。

 

一之瀬帆波。

 

その名前は、学校内で一定の信頼を持っていた。

 

誰にでも優しい。

 

困っている人を助ける。

 

クラスをまとめる。

 

笑顔で人を安心させる。

 

そういう印象が、すでに多くの生徒の中にある。

 

だから、噂は最初から簡単には受け入れられなかった。

 

けれど、噂とは不思議なものだ。

 

否定されながらも、広がる。

 

信じていないと言いながら、人はその話題を口にする。

 

「嘘だと思うけど」

 

「本当だったらどうする?」

 

「いや、でも一之瀬さんだよ?」

 

「だから逆に気になるっていうか」

 

言葉は、少しずつ温度を変える。

 

信頼の温度に、疑いが混じる。

 

優しさへの尊敬に、好奇心が混じる。

 

影は廊下を歩きながら、その変化を見ていた。

 

噂は、棘よりも広がりやすい。

 

誰が刺したのか分からない。

 

どこから刺さったのかも分からない。

 

それでも、気づけば痛みだけが残る。

 

「上代」

 

背後から声がした。

 

真鍋だった。

 

「はい」

 

「また一人で変な顔して歩いてる」

 

「変な顔でしたか」

 

「うん」

 

真鍋は影の隣に並ぶ。

 

「一之瀬の噂?」

 

「はい」

 

「やっぱ気にしてるんだ」

 

「気になります」

 

「助けるの?」

 

影は少しだけ黙った。

 

「まだ、分かりません」

 

真鍋は小さく息を吐く。

 

「分かんないこと多いね」

 

「はい」

 

「でも、分かんないって言うだけマシか」

 

影は真鍋を見る。

 

真鍋は少しだけ顔を逸らす。

 

「何」

 

「いえ。真鍋さんは、混合合宿以降、私の扱いに慣れてきましたね」

 

「慣れたくない」

 

「ですが、慣れているように見えます」

 

「上代のそういうところ、本当に面倒」

 

そう言いながらも、真鍋は隣を歩いている。

 

距離は近い。

 

だが、完全に踏み込むわけではない。

 

見張り。

 

真鍋自身が言った距離。

 

それが、今は少し心地よかった。

 

「上代」

 

「はい」

 

「一之瀬のこと、噂だけで決めるのは嫌だよね」

 

「はい」

 

「なら、見ればいいんじゃない」

 

影は真鍋を見る。

 

「見る、ですか」

 

「いつも見てるじゃん」

 

「はい」

 

「ただし、壊れるところだけ見るなよ」

 

その言葉に、影は少しだけ目を伏せた。

 

混合合宿の記憶。

 

水瀬の言葉。

 

一之瀬の視線。

 

龍園の声。

 

そして、遠い赤い記憶。

 

「はい」

 

影は静かに頷いた。

 

「立つところも見ます」

 

真鍋は一瞬だけ驚いた顔をした。

 

そして、小さく笑う。

 

「なら、少しマシ」

 

「少し、ですね」

 

「うん。まだ少し」

 

二人は廊下を歩いていく。

 

その先の曲がり角で、Bクラスの生徒たちの声が聞こえた。

 

明るい声。

 

だが、その中に混じる小さな不安。

 

一之瀬帆波の名前が、また聞こえた。

 

影は足を止めない。

 

まだ、直接動く時ではない。

 

今は見る。

 

噂がどこから来て、誰を刺し、どのように広がるのか。

 

そして、一之瀬帆波がその中でどう立つのか。

 

白き影は、静かに歩き続けた。

 

冷たい盤面の上で、噂の温度が少しずつ上がっていくのを感じながら。

 

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