第36話
一之瀬帆波に関する噂は、日に日に温度を上げていった。
最初は、ただの小さな囁きだった。
誰かが廊下で口にする。
誰かが教室の端で耳にする。
誰かが「嘘だろ」と笑いながらも、次の誰かへ伝える。
それだけだった。
だが噂は、一度形を持ち始めると止まりにくい。
人の口を通るたび、言葉は少しずつ変わる。
確かな情報ではない。
誰も本当のことを知らない。
それでも、知らないからこそ語られる。
「一之瀬さんって、昔何かあったらしいよ」
「何かって?」
「詳しくは知らないけど、よくないこと」
「いや、でも一之瀬さんやで?」
「だから逆に気になるんじゃん」
そうして、噂は少しずつ校内に染み込んでいった。
影は、それを見ていた。
Dクラスの教室でも、その話題は聞こえるようになっていた。
石崎が机に肘をつきながら言う。
「一之瀬の噂って、マジなのかよ」
小宮が首を傾げる。
「さあな。Bクラスの中心みたいなやつだろ?」
近藤も眉を寄せる。
「普通にいい人そうだけどな」
時任は眠そうに頬杖をついたまま、淡々と言った。
「噂なんて大体そんなもんだろ。いい人そうだから広がるんだよ」
石崎が顔をしかめる。
「どういう意味だよ?」
「悪そうなやつの悪い噂より、良さそうなやつの悪い噂の方が面白がられるってこと」
その言葉に、教室の空気が少しだけ重くなった。
影は、時任を見た。
「時任さんは、噂に詳しいのですね」
「詳しくねぇよ」
時任は面倒そうに返す。
「人がそういう話を好きなのは、見てりゃ分かるだろ」
「はい」
「お前は見すぎだけどな」
「よく言われます」
「でしょうね」
真鍋が横から口を挟む。
「上代、最近また一之瀬のこと見てるよね」
「はい」
「否定しないんだ」
「気になっていますので」
「噂を?」
「噂もです。ですが、それ以上に、一之瀬さんがどう立つのかが気になります」
真鍋は少しだけ黙った。
混合合宿の時なら、その言葉に引いていたかもしれない。
だが今の真鍋は、少しだけ違った。
「壊れるところじゃなくて?」
「はい」
影は静かに答えた。
「今は、立つところを見たいと思っています」
真鍋は一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく息を吐く。
「なら、少しマシ」
「少し、ですね」
「うん。まだ少し」
時任が二人を見て、呆れたように言う。
「お前ら、何の話してんだよ」
真鍋が少し赤くなって言い返す。
「別に」
「いや、別にじゃねぇだろ。前より会話の内容が重いんだよ」
「上代が変なだけ」
「それは否定しない」
影は静かに頷く。
「私も否定できません」
「自覚あるなら直せ」
「努力します」
「信用できねぇ返事だな」
真鍋と時任の声が重なった。
石崎が笑い、小宮と近藤も少しだけ空気を緩める。
教室は一瞬だけ普段の騒がしさを取り戻した。
だが、影の中には噂の温度が残っていた。
一之瀬帆波。
優しい人。
正しい人。
皆を救う人。
そう見られていた彼女の名前が、少しずつ違う響きを持ち始めている。
人は、誰かを簡単に高い場所へ置く。
そして、その高さから落ちる瞬間を見たがる。
それは、影にとって見覚えのある光景だった。
神のように見る者。
化け物のように見る者。
どちらも、人を人として見ていない。
影は、静かに目を伏せた。
⸻
昼休み。
影は校舎の廊下を歩いていた。
購買へ向かう生徒。
教室へ戻る生徒。
階段の踊り場で話す生徒。
その中で、何度も一之瀬の名前が聞こえた。
「Bクラスの雰囲気、ちょっと変じゃない?」
「一之瀬さんは普通にしてたよ」
「普通にしてるから余計怖くない?」
「いや、怖いって何」
「だって、何か隠してるんでしょ?」
言葉は、簡単に人を作り変える。
昨日まで優しいと言われていた笑顔が、今日は「何かを隠している笑顔」として語られる。
昨日まで皆を安心させていた声が、今日は「無理をしている声」として語られる。
事実は変わっていない。
けれど、見方が変わる。
見方が変われば、人は同じものを違うものとして受け取る。
影は、窓の外を見た。
冬の空は白い。
どこか、混合合宿の朝を思い出させた。
その時、廊下の向こうから一之瀬帆波が歩いてきた。
数人のBクラス生徒と一緒にいる。
彼女はいつものように笑っていた。
明るく、柔らかく、人を安心させる笑顔。
「大丈夫だよ」
一之瀬が、隣の生徒にそう言った。
「私は気にしてないから」
その言葉は、自然だった。
少なくとも、周囲にはそう見えたはずだ。
一之瀬は笑っている。
いつも通り、皆に気を配っている。
心配する相手を、逆に安心させている。
その姿は、まさに多くの生徒が知っている一之瀬帆波だった。
だが、影には違って見えた。
笑顔が、少しだけ遠い。
声が、少しだけ軽い。
本来なら相手を包むはずの温度が、今は自分自身を守るための膜のように見える。
一之瀬は、壊れてはいない。
だが、立っているというより、立っているように見せている。
影はそう感じた。
一之瀬が影に気づく。
「あ、上代さん」
「一之瀬さん」
影は軽く頭を下げた。
一之瀬は周囲のBクラス生徒に軽く声をかけてから、影の方へ歩いてきた。
「合宿以来だね。ちゃんと話すのは」
「はい」
「腕はもう大丈夫?」
「大丈夫です」
「よかった」
一之瀬は本当に安心したように笑った。
その笑顔は優しい。
しかし、どこか薄い。
影はそれを見ていた。
「一之瀬さん」
「うん?」
「噂のことですか」
一之瀬の表情が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに笑顔へ戻る。
「うん。聞いてるよ」
声は明るい。
「でも、大丈夫。みんなにも迷惑かけたくないし、私が気にしすぎてもよくないから」
「大丈夫、ですか」
「うん」
一之瀬は頷いた。
「私は大丈夫」
その言葉は、二度目だった。
大丈夫。
その言葉は便利だ。
相手を安心させる。
会話を終わらせる。
踏み込まれたくない場所に、柔らかく蓋をする。
影は、その言葉の奥を見る。
見ようとしてしまう。
だが、今はまだ踏み込まない。
混合合宿で、水瀬に言われた言葉が残っている。
動く前に、自分が何をしたいのか確認すること。
止めたいのか。
助けたいのか。
壊したいのか。
見たいだけなのか。
影は、今の自分の中を見る。
一之瀬が本当に大丈夫なのか知りたい。
噂がどこまで彼女を揺らすのか見たい。
そして、もし彼女が立とうとするなら、その姿を見たい。
そこには、まだ危うさが混じっている。
だから、今は踏み込まない。
「そうですか」
影は静かに言った。
一之瀬は少しだけ首を傾げる。
「上代さんは、あまり聞かないんだね」
「聞いてほしいのですか」
一之瀬は少し困ったように笑った。
「ううん。そういうわけじゃないけど」
「では、今は聞きません」
「今は?」
「はい」
影は一之瀬を見る。
「一之瀬さんが話したくなった時に、聞きます」
一之瀬は、少しだけ目を見開いた。
そして、柔らかく笑う。
「ありがとう」
その笑顔は、先ほどより少しだけ本物に近かった。
「上代さんって、やっぱり不思議だね」
「よく言われます」
「うん。知ってる」
一之瀬は小さく笑った。
だが、その笑いの後、わずかに視線が落ちた。
「でも」
「はい」
「いつか、聞いてもらうかもしれない」
その声は小さかった。
周囲の生徒たちには届かないほどの声。
影は静かに頷く。
「はい」
「その時は、お願いしてもいい?」
「もちろんです」
一之瀬はもう一度笑った。
「ありがとう、上代さん」
彼女はそう言って、Bクラスの生徒たちの方へ戻っていった。
影はその背中を見送る。
一之瀬帆波は、大丈夫と言った。
だが、その背中は少しだけ重かった。
⸻
放課後。
Dクラスの教室は、いつもより早く人が少なくなっていた。
合宿明けの疲れもあり、多くの生徒が早々に寮へ戻っていく。
影は自分の席で、静かにノートを閉じた。
「上代」
真鍋が近づいてくる。
「はい」
「一之瀬と話した?」
「はい」
「どうだった?」
影は少し考える。
「大丈夫、と言っていました」
真鍋は眉を寄せる。
「それ、大丈夫じゃなさそう」
「はい」
「やっぱり」
真鍋は椅子に腰かける。
「噂って、ほんと嫌だよね」
「はい」
「自分で何も言ってないのに、勝手に形が作られる」
影は真鍋を見る。
その言葉には、やはり実感があった。
真鍋は少しだけ視線を落とす。
「私も、言われたら嫌だし」
「はい」
「軽井沢のこととか、もし変に広がったら……」
そこで真鍋は言葉を止めた。
影は何も言わなかった。
真鍋の過去。
軽井沢とのこと。
それは、まだ簡単に触れる場所ではない。
真鍋はしばらく黙った後、息を吐く。
「ごめん、何でもない」
「はい」
「聞かないんだ」
「聞いてほしいのですか」
真鍋は一之瀬と同じように、少し困った顔をした。
「上代、そういうとこあるよね」
「よく言われます」
「でも、まあ……今はいい」
「はい」
真鍋は窓の外を見る。
「一之瀬は、上代に話すのかな」
「分かりません」
「話したら、聞くの?」
「はい」
「壊れるところを見るためじゃなく?」
影は静かに目を伏せる。
その問いは、真鍋なりの確認だった。
見張り。
彼女が自分で言った距離。
影はそれを受け取る。
「立つところを見るために」
真鍋は黙った。
そして、小さく笑った。
「なら、少しマシ」
「少し、ですね」
「うん。まだ少し」
その時、教室の後方から声がした。
「ずいぶん仲良くなったじゃねぇか」
龍園だった。
椅子に深く座りながら、口元を歪めている。
石崎が横で慌てたように言う。
「龍園さん、そういう言い方すると真鍋が怒るっすよ」
「怒るのか?」
真鍋がすぐに顔を赤くする。
「怒らないし」
「怒ってんじゃねぇか」
龍園は喉の奥で笑った。
影は静かに頷く。
「真鍋さんとは、混合合宿を通じて少し距離が変わりました」
「説明すんな!」
真鍋が机を叩きそうな勢いで言う。
石崎が笑い、小宮と近藤もつられる。
時任が呆れたように言った。
「上代、わざとやってんのか天然なのか分かんねぇな」
「私は真面目に答えています」
「それが一番タチ悪い」
教室に少しだけ笑いが起きた。
Dクラス。
落ちたクラス。
敗北を抱えたクラス。
それでも、こうして笑いは生まれる。
壊れた後にも、人は立つ。
影はその空気を見た。
そして、少しだけ思った。
このクラスもまた、終わってはいない。
⸻
その日の夕方。
影は一人で校舎を出ようとしていた。
玄関へ向かう途中、窓の外にBクラスの生徒たちが見えた。
一之瀬が中心にいる。
周囲の生徒たちは、彼女を心配そうに見ている。
一之瀬は笑っている。
大丈夫だよ。
そんな声が、遠くから聞こえた気がした。
影は足を止める。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ冷える。
聖女のように見られる人。
皆を安心させる人。
けれど、その人自身の痛みは、誰が見るのか。
「一之瀬を見ているのか」
背後から、静かな声がした。
影は振り返る。
そこにいたのは、綾小路清隆だった。
相変わらず、気配が薄い。
近づいていたことに、直前まで気づかなかった。
「綾小路さん」
「少し前から立ち止まっていたからな」
綾小路は窓の外へ視線を向ける。
一之瀬は、まだBクラスの生徒たちと話している。
笑顔は崩れていない。
けれど、影にはその笑顔が少しだけ重く見えた。
「一之瀬さんは、大丈夫だと言っていました」
影が言うと、綾小路は短く答えた。
「そうか」
「綾小路さんは、そう見えますか」
「大丈夫かどうかは、本人にしか分からない」
「正しい答えですね」
「そうでもない。ただ、外から見えるものには限界がある」
その言葉は、淡々としていた。
慰めるわけでもない。
突き放すわけでもない。
ただ事実だけを置くような声だった。
影は綾小路を見る。
「綾小路さんは、一之瀬さんの噂をどう見ていますか」
「噂は噂だ」
「ですが、広がっています」
「広がるだろうな」
綾小路は表情を変えない。
「一之瀬は目立つ。良い意味でも、悪い意味でもな」
「人は、目立つ方が揺れるところを見たがるのでしょうか」
「そういう人間もいる」
「綾小路さんは?」
綾小路は一瞬だけ影を見た。
「俺は、必要なら見る」
必要なら。
その言葉は妙に引っかかった。
見たいからではない。
面白いからでもない。
必要だから見る。
綾小路清隆という人物は、やはり影とは違う場所に立っている。
「では、必要なら動くのですか」
「さあな」
綾小路は視線を窓の外へ戻した。
「今は、まだ何もしていない」
その言葉は、何もしていない人間の言葉に聞こえた。
だが、影には少しだけ違って聞こえた。
何もしないことも、時に選択になる。
動かないことで、誰かがどう動くかを見る。
それは坂柳の冷たい盤面とは違う。
南雲の流れとも違う。
もっと静かで、輪郭のないもの。
「綾小路さん」
「何だ」
「あなたは、何を見ているのですか」
綾小路は少しだけ黙った。
そして、いつもの調子で答えた。
「さあな。大したものは見ていない」
影はその横顔を見る。
その言葉を、そのまま受け取ることはできなかった。
けれど、それ以上踏み込むこともしなかった。
綾小路という人物は、見ようとすればするほど、輪郭が遠のく。
だから今は、ただそこにいるという事実だけを確認する。
それで十分だった。
「上代」
綾小路が言った。
「はい」
「一之瀬のことを気にしているなら、本人を見るしかないんじゃないか」
「本人を、ですか」
「噂を見ても、一之瀬は分からない」
淡々とした声だった。
助言というより、ただ事実を置いただけのように聞こえた。
影は窓の外を見る。
一之瀬は笑っている。
大丈夫だと、周囲へ伝えている。
けれど、その笑顔の奥までは、まだ見えない。
「綾小路さんは、本人を見ているのですか」
影が聞くと、綾小路は少しだけ間を置いた。
「さあな」
いつものように、曖昧な返事だった。
影はその横顔を見る。
掴めない。
だが、掴めないこと自体を誇示しているわけでもない。
ただ、そこにいる。
音もなく、影のように。
「私は、一之瀬さんを人として見ます」
影は静かに言った。
「神でも、罪人でもなく」
綾小路は一瞬だけ影を見る。
「そうか」
それだけだった。
否定も肯定もしない。
影は、それで十分だと思った。
綾小路清隆は、静かすぎる。
坂柳のように盤面を美しく並べるわけでもない。
南雲のように人の流れを作るわけでもない。
ただ、そこにいる。
そして、必要な時だけ、何かを動かす。
影にはまだ、その輪郭は見えない。
だが、今追うべきものは綾小路ではなかった。
一之瀬帆波。
神のように見られ、噂で罪人のように語られ始めた少女。
影が見るべきなのは、彼女が壊れる瞬間ではない。
その先で、彼女がどう立つのか。
白き影は、そう決めた。
窓の外で、一之瀬が笑っていた。
大丈夫だと、周囲へ伝えている。
だが、噂の温度は上がり続けている。
聖女の笑顔に、少しずつ罅が入ろうとしていた。
白き影は、その罅を見た。
壊れる瞬間ではなく。
その先で、彼女がどう立つのかを見るために。