第37話
一之瀬帆波に関する噂は、もう小さな囁きではなくなっていた。
廊下。
教室。
食堂。
寮へ向かう道。
どこにいても、その名前が聞こえるようになっていた。
「一之瀬さんの噂、聞いた?」
「昔、何かあったらしいよ」
「でも、あの一之瀬さんだろ?」
「だから気になるんじゃん」
「Bクラスの人たち、信じてるのかな」
「いや、信じるでしょ。あの人たち、一之瀬さんのことめっちゃ慕ってるし」
言葉は、少しずつ姿を変えていく。
最初は疑いだった。
次に好奇心になった。
そして今は、どこか期待にも似た温度を持ち始めている。
あの一之瀬帆波が、本当に何かを隠しているのか。
優しい人。
正しい人。
皆を救う人。
そう見られていた彼女に、もし別の顔があるのなら。
人は、それを見たいと思ってしまう。
影は廊下を歩きながら、その空気を静かに見ていた。
噂は、棘よりもたちが悪い。
柊美咲の棘は、刺す相手が見えていた。
誰が言ったのか。
どこから刺されたのか。
痛みの場所も、ある程度は分かる。
だが噂は違う。
どこから来たのか分からない。
誰が最初に刺したのかも分からない。
それなのに、気づけば傷だけが増えている。
人の口を通るたび、形を変えながら広がっていく。
それは、冷たい霧のようだった。
「上代」
横から声がした。
真鍋だった。
「はい」
「また一之瀬のこと考えてるでしょ」
「はい」
「否定しないのは知ってた」
真鍋は小さく息を吐き、影の隣を歩く。
「噂、だいぶ広がってるね」
「はい」
「Bクラスの人たち、大丈夫なのかな」
「心配ですか」
「まあ……」
真鍋は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「合宿で少し話したし。白波とか網倉とかも、普通にいい人だったし」
「はい」
「一之瀬も、上代のこと心配してくれてたし」
「はい」
「だから、嫌な感じする」
その言葉は、真鍋らしく不器用だった。
だが、影にはよく伝わった。
嫌な感じ。
それは正しい。
噂は、正面から殴るわけではない。
柔らかく近づき、相手の周囲から空気を変えていく。
気づいた時には、本人が何を言っても届きにくくなっている。
「真鍋さん」
「何」
「噂は、どうすれば止まるのでしょうか」
真鍋は少し考えた。
「分かんない」
「そうですか」
「でも、たぶん……本人が何か言っても、全部は止まらないんじゃない」
「なぜですか」
「だって、聞きたい人は聞くけど、信じたい人は信じたい方を信じるから」
影は真鍋を見る。
真鍋は、少しだけ苦い顔をしていた。
「経験がありますか」
「……少しだけ」
「そうですか」
影はそれ以上聞かなかった。
真鍋もそれ以上言わなかった。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
だが、それは気まずい沈黙ではなかった。
踏み込まないための沈黙。
相手が話すまで待つための沈黙。
影は、それを少しだけ覚え始めていた。
⸻
Dクラスの教室に戻ると、噂はそこにも入り込んでいた。
石崎が机に座り、眉を寄せながら言う。
「一之瀬の噂、どんどんデカくなってねぇか?」
小宮が頷く。
「なんか、最初より話が具体的になってきてるよな」
近藤も少し声を落とす。
「でも、本当かどうかは分かんないだろ」
時任は頬杖をつきながら、面倒そうに言った。
「本当かどうかなんて、噂してるやつらにとっては二の次だろ」
石崎が顔をしかめる。
「二の次って何だよ」
「面白いかどうかの方が大事ってことだよ」
その言葉に、教室の空気が少しだけ重くなった。
影は自分の席に座りながら、その会話を聞いていた。
石崎が影に気づき、声をかける。
「上代、お前も気にしてんだろ」
「はい」
「やっぱそうか。お前、最近ずっと変な顔してるしな」
「変な顔ですか」
「変な顔だろ。何か見透かしてますみたいな顔」
時任が横から言う。
「それはいつもだろ」
「たしかに」
石崎が納得したように頷く。
真鍋が呆れたように言った。
「納得するな」
影は静かに答えた。
「私は、一之瀬さんがどう立つのかを見ています」
石崎が首を傾げる。
「どう立つって何だよ」
「噂の中で、どのように自分を保つのか、という意味です」
「言い方が難しいんだよ」
時任がため息をつく。
「要するに、一之瀬が潰れるかどうか気にしてるってことだろ」
影は少しだけ目を伏せる。
「潰れるところを見たいわけではありません」
真鍋が影を見る。
確認するような目。
影は続けた。
「私は、立つところを見たいのだと思います」
真鍋は何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情を緩める。
「なら、少しマシ」
「少しですか」
「うん。まだ少し」
石崎が二人を見る。
「お前ら、合宿から何か変わったよな」
真鍋の顔が固まる。
「変わってない」
「いや変わっただろ」
「変わってない」
「いや、普通に喋ってんじゃねぇか」
「前から喋ってたし」
「そんな感じじゃなかっただろ」
石崎の無遠慮な指摘に、小宮と近藤が小さく笑う。
時任は呆れたように机へ肘をついた。
「石崎、そういうの突っ込むと面倒になるぞ」
「何でだよ」
「真鍋が怒るから」
「怒ってない!」
真鍋の声が少し大きくなる。
龍園が教室の奥で喉の奥を鳴らして笑った。
「ククッ。随分にぎやかになったじゃねぇか」
真鍋はすぐに黙った。
石崎も少しだけ姿勢を正す。
龍園は影を見た。
「おい、影」
「はい」
「一之瀬の件、首突っ込むのか」
教室の空気が少しだけ変わる。
影は龍園を見る。
「まだ分かりません」
「まだ、か」
龍園の口元が歪む。
「お前の“まだ”は信用ならねぇな」
「よく言われます」
「だろうな」
龍園は窓の外へ視線を向けた。
「だが、気をつけろよ。噂ってのは殴り合いより面倒だ。敵が見えねぇからな」
その言葉は、龍園らしくないほど静かだった。
いや、龍園だからこそ分かるのかもしれない。
目に見える暴力。
支配。
恐怖。
それらと違い、噂は正面から潰しにくい。
影は静かに頷いた。
「覚えておきます」
龍園は鼻で笑った。
「それも信用ならねぇ」
「よく言われます」
真鍋が横から小さく言う。
「本当に信用されてないね」
「はい」
「そこは少し落ち込んで」
「難しいですね」
「ほんと難しい」
教室に、少しだけ笑いが生まれる。
だが、その笑いの奥に、一之瀬の噂は残り続けていた。
⸻
放課後。
影は校舎の外れにある渡り廊下を歩いていた。
冬の夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
生徒たちの声は遠い。
普段ならそれほど人の多い場所ではない。
だからこそ、そこに一之瀬帆波が一人で立っているのが目に入った。
彼女は窓の外を見ていた。
いつものような笑顔はない。
ただ、静かに立っている。
影は少し距離を置いて足を止めた。
声をかけるべきか。
かけないべきか。
動く前に、自分が何をしたいのか確認する。
水瀬の言葉が、影の中に浮かぶ。
止めたいのか。
助けたいのか。
壊したいのか。
見たいだけなのか。
今の自分は、何をしたいのか。
影は一度、静かに息を吸った。
そして、口を開く。
「一之瀬さん」
一之瀬の肩が、わずかに揺れた。
振り返った彼女は、すぐに笑顔を作る。
「上代さん」
その笑顔は、いつもより少し遅れて現れた。
「どうしたの?」
「一之瀬さんが見えましたので」
「そっか」
一之瀬は小さく笑った。
「私、ぼーっとしてた?」
「はい」
「正直だね」
「よく言われます」
一之瀬は少しだけ笑う。
その笑いは、いつものように人を安心させるものではなかった。
少し疲れている。
そう見えた。
影は一之瀬の隣ではなく、少し斜め後ろに立った。
近すぎず。
離れすぎず。
一之瀬が逃げる場所を残す距離。
「噂のことですか」
影が言うと、一之瀬は少しだけ目を伏せた。
「うん」
声は小さかった。
「やっぱり、みんな知ってるよね」
「はい」
「そうだよね」
一之瀬は笑った。
「でも、大丈夫。私がちゃんとしてれば、そのうち落ち着くと思うから」
大丈夫。
また、その言葉。
だが、今の大丈夫は昼間より弱かった。
薄く、軽く、今にも消えそうな言葉だった。
影は一之瀬を見る。
「一之瀬さん」
「うん?」
「大丈夫と言うのは、疲れませんか」
一之瀬の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
「……どうして?」
「少し、疲れているように見えます」
一之瀬は答えなかった。
窓の外へ視線を戻す。
冬の空は、もう少し暗くなり始めていた。
しばらくして、一之瀬が小さく言った。
「大丈夫って言うの、少し疲れちゃったかも」
その声は、とても静かだった。
周囲に誰かがいたら、聞き逃してしまうほどに。
一之瀬は笑っていた。
けれど、その笑顔はもう、周囲を安心させるためのものではなかった。
自分が崩れないように、かろうじて形を保つための笑顔だった。
影は、何も言わずに待った。
一之瀬は続ける。
「みんなが心配してくれるのは、嬉しいんだ」
「はい」
「でも、私が暗い顔をしたら、みんなもっと不安になるから」
「はい」
「だから、大丈夫って言うんだけど……」
一之瀬の声が少しだけ揺れた。
「大丈夫じゃないかもしれないって思った時、どうすればいいのか分からなくなる」
その言葉は、噂が広がってから初めて聞く、一之瀬の本音に近いものだった。
影は、ゆっくりと言った。
「一之瀬さん」
「うん?」
「無理に神のように立つ必要はありません」
一之瀬の目が、少しだけ揺れた。
「神?」
「はい。傷つかず、迷わず、間違えず、誰かを救い続ける存在です」
影は静かに言った。
「ですが、一之瀬さんは人です」
一之瀬は少しだけ笑った。
「それって、私が弱いってこと?」
「いいえ」
影は首を横に振る。
「傷つき、迷い、それでも立とうとするものを、人と呼ぶのだと思います」
一之瀬は何も言わなかった。
ただ、影を見ていた。
その目は、少しだけ濡れているようにも見えた。
「上代さんは……どうして、そう思うの?」
影は少しだけ黙った。
冬の光の中で、遠い声が蘇る。
赤い記憶。
炎のように笑う、かつての好敵手。
――戦場で神を気取るな。
――神は傷つかねぇ。迷わねぇ。負けもしねぇ。
――だが、お前は違うだろ。
影は目を伏せた。
「昔、私にそう言った方がいました」
一之瀬は静かに聞いていた。
急かさない。
踏み込まない。
ただ、影の言葉を待っている。
その姿は、噂の中で疲れている今でも、一之瀬らしかった。
「その人のこと、聞いてもいい?」
一之瀬の声は、ひどく静かだった。
影は、しばらく答えなかった。
その名を口にするには、少しだけ時間が必要だった。
混合合宿では出さなかった名前。
水瀬にも、真鍋にも、龍園にも、まだ言わなかった名前。
影の奥に残る、赤い記憶の名。
一之瀬は待っていた。
急かさず、踏み込みすぎず、ただそこにいる。
影は、ゆっくりと口を開いた。
「晴」
冬の空気に、その名が落ちた。
一之瀬は、静かにその名前を受け取った。
影は続ける。
「武城晴。私を、神でも化け物でもなく、人として見た方です」
その言葉を口にした瞬間、影の胸の奥で何かが静かに揺れた。
晴。
久しぶりに呼んだその名は、思っていたよりも重く。
そして、少しだけ温かかった。
一之瀬は、何も言わなかった。
ただ、影の横顔を見ていた。
影は窓の外を見る。
冬の夕方が、静かに沈んでいく。
噂の温度は、まだ上がり続けている。
一之瀬帆波は、まだ揺れている。
けれど今、彼女は大丈夫だとは言わなかった。
それだけで、少しだけ十分だった。
白き影は、初めてその名を口にした。
かつて自分を人として見た者の名を。
そしてその言葉は、聖女と呼ばれた少女の前に、静かに置かれた。