ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

41 / 41
白き影は投票の刃を見る

 

第41話

 

期末試験が終わった。

 

教室の空気には、少しだけ緩みがあった。

 

試験期間中に張りつめていた緊張がほどけ、生徒たちはそれぞれ答案の出来や今後の予定について話している。

 

「数学、最後の問題やばくなかったか?」

 

「いや、英語の方がきつかったって」

 

「赤点じゃなきゃいいんだけど」

 

そんな声が、Dクラスのあちこちから聞こえていた。

 

石崎は机に突っ伏し、小宮と近藤に向かって文句を言っている。

 

椎名は本を閉じ、周囲のざわめきを静かに眺めていた。

 

真鍋は藪と何かを話している。

 

時任は頬杖をついたまま、いつも通り気だるげに教室を見ている。

 

伊吹は窓際で腕を組み、外を見ていた。

 

龍園は、教室の奥にいる。

 

以前のように強く前へ出るわけではない。

 

だが、その存在感は消えていない。

 

敗北の後も、彼の火はまだ残っている。

 

影はその教室を見ていた。

 

期末試験が終わった。

 

ただ、それだけのはずだった。

 

影は、窓際にいる伊吹へ視線を向けた。

 

そして静かに立ち上がる。

 

「伊吹さん」

 

声をかけると、伊吹は面倒そうにこちらを見た。

 

「何」

 

「こうして話すのは、少し久しぶりですね」

 

「別に話すことないでしょ」

 

「はい。特に用件はありません」

 

「じゃあ何で来たの」

 

伊吹は眉をひそめる。

 

影は少しだけ考えた。

 

「伊吹さんの様子を見に来ました」

 

「は?」

 

伊吹の声が少し低くなる。

 

「何それ。気持ち悪いんだけど」

 

「申し訳ありません」

 

「謝られると余計気持ち悪い」

 

伊吹はそう言いながら、影を睨んだ。

 

「最近、あんた変だよ」

 

「そうでしょうか」

 

「そうでしょ。真鍋とよく話してるし」

 

その名前が出た瞬間、伊吹の表情が少しだけ険しくなった。

 

「正直、あいつのこと好きじゃないんだけど」

 

「はい」

 

「否定しないの」

 

「伊吹さんが真鍋さんに良い印象を持っていないことは、知っています」

 

「なら、何であいつと関わってんの」

 

影は真鍋の方を見る。

 

真鍋は藪と話している。

 

その表情は、合宿前より少しだけ柔らかい。

 

だが、伊吹からすればそんな変化など知ったことではないのだろう。

 

「混合合宿で、少し話す機会が増えました」

 

「それだけ?」

 

「はい。最初はそれだけでした」

 

「今は?」

 

影は少しだけ黙った。

 

今は。

 

その問いは、思ったより難しかった。

 

「分かりません」

 

伊吹は呆れたように目を細める。

 

「あんたさ、分かりませんって言えば何でも済むと思ってない?」

 

「いいえ」

 

「絶対思ってる」

 

「申し訳ありません」

 

「だから謝るな」

 

伊吹はため息をつく。

 

「真鍋なんかと関わって、面倒なことになっても知らないから」

 

「面倒なこと、ですか」

 

「あいつ、そういうやつでしょ」

 

伊吹の声には、隠す気のない嫌悪があった。

 

「群れて、誰かを見下して、自分が安全な場所にいると思ってる。そういうところ、私は嫌い」

 

影は黙って聞いていた。

 

伊吹の言葉は厳しい。

 

だが、完全に外れているわけでもない。

 

真鍋にも、そういう面はあった。

 

かつての行動も、消えるわけではない。

 

「はい」

 

影は静かに言った。

 

「真鍋さんが過去にしたことや、伊吹さんがそう感じることを、否定するつもりはありません」

 

伊吹は少しだけ意外そうに影を見る。

 

「じゃあ何」

 

影はゆっくり答える。

 

「それでも、私は今の真鍋さんも見たいと思っています」

 

「今の?」

 

「はい」

 

「変なの」

 

伊吹は即答した。

 

「昔のことが消えるわけじゃないでしょ」

 

「はい。消えません」

 

「なら」

 

「ですが、消えないからといって、今を見る必要がなくなるわけでもないと思います」

 

伊吹は黙った。

 

影は続ける。

 

「一之瀬さんの時も、そう思いました」

 

「一之瀬?」

 

「はい」

 

「……あんた、最近色んなところに首突っ込んでるね」

 

「そうかもしれません」

 

「褒めてない」

 

「はい」

 

伊吹はしばらく影を見ていた。

 

そして、少しだけ視線を逸らす。

 

「私は、真鍋を許す気はない」

 

「はい」

 

「好きにもならない」

 

「はい」

 

「でも、あんたが何を見ようと勝手」

 

「はい」

 

「ただし」

 

伊吹は影を睨む。

 

「変に巻き込まれて壊れるなら、見ない方がマシだから」

 

その言葉は乱暴だった。

 

けれど、ただ突き放すだけのものではなかった。

 

影は静かに頭を下げる。

 

「気をつけます」

 

「それ信用できないやつ」

 

「よく言われます」

 

「でしょうね」

 

伊吹はそう言って、また窓の外へ視線を戻した。

 

会話はそこで終わった。

 

影は自分の席へ戻る。

 

伊吹は真鍋を嫌っている。

 

その嫌悪は、簡単に消えるものではない。

 

けれど、影は思った。

 

人は、過去だけで決まるわけではない。

 

だが、過去が消えるわけでもない。

 

ならば今を見ることは、時に誰かの過去ごと見ることになる。

 

それは、簡単なことではない。

 

期末試験が終わった。

 

ただ、それだけのはずだった。

 

だが、この学校が生徒を休ませることはほとんどない。

 

次に告げられた特別試験の内容が、教室の空気を一瞬で凍らせた。

 

 

クラス内投票。

 

クラスメイトを評価し、投票する試験。

 

称賛票。

 

批判票。

 

その数字によって、評価が決まる。

 

そして、最も批判票を集めた者は退学対象となる。

 

説明が終わった後も、教室にはしばらく誰の声もなかった。

 

誰かが息を呑む音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

石崎が最初に口を開いた。

 

「……は? 何だよそれ」

 

小宮も顔をしかめる。

 

「クラスメイトに批判票って、趣味悪すぎだろ」

 

近藤は試験要項を握ったまま黙っていた。

 

藪は顔色を悪くしている。

 

真鍋も、いつものように何かを言い返すことはなかった。

 

ただ、机の上の紙を見ていた。

 

伊吹が低く呟く。

 

「くだらない」

 

その声には、はっきりとした苛立ちがあった。

 

「誰かを選んで落とせってことでしょ。ほんと、気分悪い」

 

椎名も静かに試験要項を見つめていた。

 

「人を評価する試験は、これまでもありました」

 

椎名は小さく言った。

 

「でも、これは少し違いますね。誰かを落とすために、同じクラスの人間が票を入れる……」

 

その声には、普段の穏やかさとは違う重さがあった。

 

時任は頬杖をついたまま、低く呟いた。

 

「また面倒な試験出してきたな」

 

その声は、いつも通り気だるげだった。

 

だが、目は笑っていなかった。

 

影は、紙に並ぶ文字を見ていた。

 

称賛票。

 

批判票。

 

名前。

 

数字。

 

人が、人の価値を測る。

 

誰を残すか。

 

誰を切るか。

 

その判断を、同じ教室にいる者同士にさせる。

 

噂は、一之瀬を罪人に変えようとした。

 

そして今度は、投票がクラスメイトを数字に変えようとしている。

 

紙の上に並んだ制度は、ひどく冷たかった。

 

「くだらねぇ」

 

教室の奥から声がした。

 

龍園翔だった。

 

彼は椅子に深く座ったまま、試験要項を片手で揺らしている。

 

口元には笑みがあった。

 

「学校も随分と分かりやすいことをしてくるじゃねぇか」

 

石崎が龍園を見る。

 

「龍園さん……」

 

「誰かを切れってことだろ」

 

その一言で、教室の空気がさらに冷える。

 

真鍋の指が、わずかに動いた。

 

影は、それを見た。

 

伊吹が龍園を睨む。

 

「あんた、簡単に言うね」

 

「あ?」

 

「誰かを切るとか、そういうのを当然みたいに言うところが気に入らないって言ってんの」

 

龍園は喉の奥で笑った。

 

「なら綺麗事で突破してみろよ、伊吹」

 

「そういう話じゃない」

 

「そういう話だろ。この学校がそういう試験を出してきた。なら、勝つために使う。それだけだ」

 

椎名が静かに口を挟む。

 

「でも、龍園くん」

 

龍園の視線が椎名へ向く。

 

椎名は怯まずに続けた。

 

「誰かを切ることを前提に動けば、残った人たちにも傷は残ります」

 

「傷?」

 

龍園は笑う。

 

「傷が怖くてこの学校にいられるかよ」

 

「怖いかどうかではありません」

 

椎名は静かに言った。

 

「人は、切られなかったから無傷というわけではないと思います」

 

教室の空気が少しだけ重くなる。

 

影は、その言葉を聞いていた。

 

人は、切られなかったから無傷というわけではない。

 

一之瀬の噂もそうだった。

 

退学しなかった。

 

壊れきらなかった。

 

それでも、傷は残った。

 

この試験も同じなのかもしれない。

 

誰か一人が切られる。

 

あるいは、切られなかった者も、自分が誰かに切られそうになった事実を抱える。

 

龍園は椎名から視線を外し、教室全体を見渡した。

 

「傷だの何だの、後で考えりゃいい。まずはこの試験をどう抜けるかだ」

 

「誰かを切る前提で?」

 

伊吹が低く言う。

 

龍園は笑う。

 

「必要ならな」

 

その言い方は、あまりにも簡単だった。

 

まるで、机の上の不要な紙を捨てるように。

 

影は、静かに龍園を見た。

 

「龍園さん」

 

「あ?」

 

「本気ですか」

 

龍園は笑った。

 

「本気じゃなきゃ言わねぇよ」

 

「誰かを退学させることを、当然のように言うのですね」

 

「当然だろ」

 

龍園の目が細くなる。

 

「そういう試験だ」

 

影の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

 

龍園の言葉は間違っていない。

 

試験のルールだけを見れば、その通りだった。

 

誰かが批判票を集める。

 

誰かが退学対象になる。

 

それを避けるには、ルールの外側にある何かが必要になる。

 

だが、それでも。

 

人が、票になる。

 

名前が、数字になる。

 

そして、最も低い数字を持つ者が消える。

 

それを当然と言い切ることに、影は違和感を覚えた。

 

いや。

 

違和感だけではない。

 

嫌悪に近いものが、胸の奥にあった。

 

「納得できません」

 

影は静かに言った。

 

教室の視線が、影へ集まる。

 

真鍋も、顔を上げた。

 

龍園は、楽しそうに笑う。

 

「納得できない、ねぇ」

 

「はい」

 

「なら、どうする」

 

影はすぐには答えられなかった。

 

どうする。

 

その問いは、単純で重い。

 

嫌だと思うこと。

 

納得できないと言うこと。

 

それだけなら、誰にでもできる。

 

だが、この学校では、それだけで人は残らない。

 

龍園は、影の沈黙を楽しむように続けた。

 

「お前が嫌だと言ったところで、試験は止まらねぇ。誰かは最下位になる。批判票は数字になる。名前は紙の上で順位になる」

 

影は黙っていた。

 

時任が、横目で影を見る。

 

真鍋は唇を結んでいた。

 

龍園の視線が、ゆっくりと教室をなぞる。

 

藪。

 

真鍋。

 

何人かの生徒。

 

そして、再び影へ戻る。

 

「切るなら、分かりやすいやつからだ」

 

その言葉に、数人が肩を震わせた。

 

龍園は笑う。

 

「クラスに必要かどうか。票が集まりやすいかどうか。今後の邪魔になるかどうか。そういうので決めればいい」

 

石崎が小さく言う。

 

「でも、誰を……」

 

龍園は石崎の方を見ずに答えた。

 

「候補はいくらでもいるだろ」

 

その時、教室の空気が嫌な形で動いた。

 

誰かの視線が、ほんの一瞬だけ真鍋へ向いた。

 

一人ではない。

 

二人。

 

三人。

 

すぐに逸らされた視線。

 

だが、影には見えた。

 

真鍋も気づいたのか、顔をわずかに強張らせる。

 

藪が不安そうに真鍋を見る。

 

真鍋はその視線に気づき、無理に顔を整えた。

 

「何よ」

 

声は少し硬かった。

 

「別に、私のこと見てないでしょ」

 

誰も答えない。

 

その沈黙が、答えのようだった。

 

伊吹は何も言わなかった。

 

ただ、その空気を見て眉をひそめていた。

 

真鍋を好きではない。

 

許す気もない。

 

それでも、この空気を気分のいいものとは思っていないようだった。

 

影の胸の奥で、また何かが軋んだ。

 

真鍋志保。

 

混合合宿で、影の隣にいた人。

 

「変な方に行きそうなら止める」と言った人。

 

「謝るな」と何度も言った人。

 

以前なら、ただのクラスメイトの一人だった。

 

少し棘があり、少し不器用で、少し面倒な人。

 

だが今は違う。

 

その名前が、票の上で消える候補になろうとしている。

 

それを見た時、影は嫌だと思った。

 

なぜかは分からない。

 

一之瀬の時とは違う。

 

一之瀬は、少し離れた場所で「人として見る」相手だった。

 

だが真鍋は、もっと近くにいる。

 

隣で声をかけ、怒り、呆れ、止めようとする人。

 

その名前が数字になる。

 

それが、嫌だった。

 

影自身が、その感情に困惑していた。

 

「影」

 

龍園の声がした。

 

影は顔を上げる。

 

龍園は、影の表情を見て笑っていた。

 

「何だ、その顔は」

 

「顔、ですか」

 

「ああ」

 

龍園は口元を歪める。

 

「真鍋の名前が出そうになっただけで、随分と面白ぇ顔をするじゃねぇか」

 

真鍋が反応する。

 

「ちょっと、何で私の名前が――」

 

「黙ってろ」

 

龍園の一言で、真鍋は言葉を止めた。

 

だが、その目には怒りがあった。

 

影は龍園を見る。

 

「私は」

 

言葉が詰まる。

 

何と言えばいいのか分からない。

 

真鍋を助けたい。

 

そう言い切れるのか。

 

真鍋のためだけではない。

 

それも事実だ。

 

投票で人を数字に変えること自体に、納得できない。

 

それも事実だ。

 

だが。

 

真鍋の名前が出た瞬間、胸が軋んだこともまた、事実だった。

 

「分かりません」

 

影は静かに言った。

 

龍園の笑みが深くなる。

 

「分からねぇ?」

 

「はい」

 

「何が納得できないのかも分からねぇのか」

 

「いいえ」

 

影は首を横に振る。

 

「人を票に変えることは、納得できません」

 

「なら、真鍋じゃなくても同じか?」

 

その問いに、影はすぐには答えられなかった。

 

教室の空気が止まる。

 

真鍋が、影を見る。

 

時任も、静かに影を見ていた。

 

伊吹も、窓際から黙ってこちらを見ていた。

 

影は、自分の胸の奥を見る。

 

同じか。

 

違う。

 

おそらく、違う。

 

誰かが消えることは嫌だ。

 

だが、真鍋が消えることには、別の痛みがある。

 

それを認めるのは、少し怖かった。

 

「同じでは、ないのかもしれません」

 

影は言った。

 

真鍋の表情が、わずかに揺れる。

 

龍園は喉の奥で笑った。

 

「ククッ」

 

その笑いは、獲物を見つけたようだった。

 

「お前、真鍋を人として見ちまったんじゃねぇのか」

 

影は答えられなかった。

 

人として見る。

 

それは、前に一之瀬に向けた言葉だった。

 

神でも、罪人でもなく。

 

ただ、人として見る。

 

その言葉は綺麗だった。

 

だが、人として見てしまえば。

 

その人が消えることが、痛くなる。

 

距離が失われる。

 

見ているだけでは済まなくなる。

 

影は、そのことに今さら気づいた。

 

真鍋が低く言う。

 

「上代」

 

「はい」

 

「変な顔しないでよ」

 

その声は震えてはいなかった。

 

だが、強がりだった。

 

「私の名前が出そうになったくらいで、あんたまで変になる必要ないでしょ」

 

「真鍋さん」

 

「まだ決まったわけじゃないし」

 

真鍋は顔を逸らす。

 

「それに、もしそうなったとしても……」

 

「なりません」

 

影は、気づけばそう言っていた。

 

真鍋が驚いたように影を見る。

 

影自身も、自分の言葉に少し驚いていた。

 

龍園は面白そうに目を細める。

 

「言い切ったな」

 

影は、ゆっくりと龍園を見る。

 

「はい」

 

「なら、どうする」

 

龍園は机に肘をつく。

 

「綺麗事はいらねぇ。人を切りたくありません、なんて言葉に価値はねぇ」

 

教室の空気が、さらに張りつめる。

 

龍園の声は低く、鋭かった。

 

「この学校で人を残すには、理由と代価が要る」

 

「理由と、代価」

 

「ああ」

 

龍園は笑った。

 

「票を変えるのか。金を用意するのか。誰かを脅すのか。別の首を差し出すのか」

 

その言葉に、数人が息を呑む。

 

龍園は影から目を逸らさない。

 

「お前が壊れるところだけじゃなく、立つところを見たいって言うなら」

 

その声が、わずかに低くなる。

 

「どうやって立たせるか、見せてみろ」

 

影は、その言葉で気づいた。

 

龍園は、ただ真鍋を切ろうとしているだけではない。

 

いや、切るつもりは本当にある。

 

それは嘘ではない。

 

だが同時に、影を試している。

 

人を数字にしたくないと言う影が、数字の世界で何を差し出せるのか。

 

それを見ている。

 

影は静かに目を伏せた。

 

票。

 

数字。

 

退学。

 

代価。

 

この試験は、誰かを必ず刃の前に立たせる。

 

そして、その刃を止めるには、ただ祈るだけでは足りない。

 

「分かりました」

 

影は静かに言った。

 

龍園の口元が歪む。

 

「何が分かった」

 

「方法を探します」

 

「探すだけか?」

 

「いいえ」

 

影は顔を上げた。

 

「見つけます」

 

真鍋が小さく息を呑む。

 

時任が、わずかに目を細めた。

 

伊吹は眉をひそめたまま、何も言わなかった。

 

椎名は静かに影を見ていた。

 

龍園はしばらく影を見た後、楽しそうに笑った。

 

「ククッ。いいじゃねぇか」

 

その笑いは、教室の空気をさらに不穏にした。

 

「なら見せてみろ、影」

 

「はい」

 

「真鍋を数字から引き戻す方法をな」

 

その言葉で、影の胸の奥に小さな火が灯った。

 

それは怒りではない。

 

悲しみでもない。

 

まだ名前のつかない感情だった。

 

真鍋が消えることを嫌だと思う。

 

自分でも理由は分からない。

 

けれど、嫌だった。

 

そして、その困惑こそが、影を動かす最初の火だった。

 

 

放課後。

 

教室の空気は、授業が終わっても重いままだった。

 

誰もが試験要項を意識している。

 

誰かが誰かの名前を書く。

 

称賛票。

 

批判票。

 

その一票が、誰かの未来を変える。

 

表面上は普段通りに話している者もいた。

 

だが、笑い声はどこか硬い。

 

視線は、以前よりも少しだけ慎重だった。

 

影は自分の席で、試験要項を見ていた。

 

紙の上に、まだ誰の名前も書かれていない。

 

だが、すでに見えない名前が浮かび上がっているように感じる。

 

真鍋。

 

藪。

 

龍園。

 

伊吹。

 

椎名。

 

時任。

 

石崎。

 

小宮。

 

近藤。

 

そして、自分。

 

誰の名前も、数字になり得る。

 

「上代」

 

声がした。

 

顔を上げると、真鍋が立っていた。

 

「はい」

 

「ちょっと来て」

 

「どこへですか」

 

「いいから」

 

真鍋はそう言って、先に教室を出ていった。

 

影は静かに立ち上がり、その後を追う。

 

廊下の端。

 

人通りの少ない場所で、真鍋は立ち止まった。

 

しばらく何も言わない。

 

影は待った。

 

やがて、真鍋が口を開く。

 

「さっきの」

 

「はい」

 

「何であんなこと言ったの」

 

「どの言葉でしょうか」

 

「なりません、ってやつ」

 

真鍋は影を見る。

 

その目には怒りがあった。

 

だが、それだけではない。

 

困惑。

 

不安。

 

そして、どこかで期待してしまうことへの苛立ち。

 

「私が退学にならないって、何で言い切ったの」

 

影は答えられなかった。

 

正しい根拠は、まだない。

 

方法も見つかっていない。

 

ただ、あの瞬間、言葉が出た。

 

「分かりません」

 

影は正直に答えた。

 

真鍋の眉が寄る。

 

「分からないって何」

 

「私にも、まだ分かりません」

 

「意味分かんない」

 

「はい」

 

「はいじゃない」

 

真鍋は少しだけ声を荒げた。

 

「私のために変なことしなくていいから」

 

影は真鍋を見る。

 

「真鍋さんのためだけではありません」

 

「だけ、ってことは私も入ってるんでしょ」

 

影は黙った。

 

真鍋の目が揺れる。

 

逃げることはできなかった。

 

「はい」

 

影は静かに言った。

 

「真鍋さんが消えることを、嫌だと思いました」

 

真鍋は言葉を失った。

 

影も、自分の言葉を聞いていた。

 

真鍋が消えることを嫌だと思った。

 

それは、初めて形になった感情だった。

 

まだ完全には理解できない。

 

だが、確かにそこにある。

 

真鍋は顔を赤くし、少しだけ視線を逸らした。

 

「そういうこと、普通に言うな」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るなって」

 

いつもの言葉。

 

だが、いつもより少しだけ震えていた。

 

真鍋は拳を握る。

 

「でも、ほんとにやめてよ」

 

「何をでしょうか」

 

「あんたが変な方に行くこと」

 

影は静かに真鍋を見る。

 

真鍋は続けた。

 

「私がどうなるか分かんないからって、あんたが壊れそうな顔するのは違うでしょ」

 

「私は」

 

「上代」

 

真鍋は遮る。

 

「壊れるところだけ見るの、やめたんでしょ」

 

その言葉に、影は息を止めた。

 

混合合宿。

 

真鍋が言った言葉。

 

変な方に行きそうなら止める。

 

その言葉が、今ここで返ってきた。

 

影は静かに頷く。

 

「はい」

 

「なら、ちゃんと立ってよ」

 

真鍋の声は強かった。

 

「私を助けるとか、助けないとかの前に。あんたが変になるな」

 

影は、しばらく真鍋を見ていた。

 

その言葉は、不器用だった。

 

けれど、まっすぐだった。

 

「分かりました」

 

影は言った。

 

「約束はできませんが、努力します」

 

「そこは約束しろ」

 

「では、約束します」

 

「軽い」

 

「難しいですね」

 

真鍋は少しだけ息を吐いた。

 

怒っているようで、どこか安心したようにも見える。

 

「本当に、馬鹿じゃないの」

 

「よく言われます」

 

「今それ言うな」

 

影は小さく頷いた。

 

真鍋は顔を逸らす。

 

「……でも」

 

「はい」

 

「勝手に消えるつもりはないから」

 

その声は、小さかった。

 

「私だって、残れるなら残りたい」

 

影は静かに頷いた。

 

「はい」

 

「だから、もし本当に方法を探すなら」

 

真鍋は影を見る。

 

「私を勝手に置いていかないで」

 

その言葉に、影は少しだけ目を伏せた。

 

人として見る。

 

それは、相手のために勝手に背負うことではない。

 

時任の言葉が蘇る。

 

全部持って帰ろうとすんな。

 

重いに決まってんだろ。

 

影は、真鍋を見る。

 

「分かりました」

 

「ほんとに?」

 

「はい」

 

「信用できない」

 

「よく言われます」

 

「だから今それ言うな」

 

真鍋はそう言って、少しだけ笑った。

 

その笑顔は弱かった。

 

けれど、確かにそこにあった。

 

 

夜。

 

影は寮の部屋で、試験要項を机に置いていた。

 

何度見ても、文字は変わらない。

 

クラス内投票。

 

批判票。

 

退学対象。

 

数字。

 

人の名前を数字へ変える仕組み。

 

影は、静かに紙を見つめる。

 

龍園は言った。

 

人を残すには、理由と代価が要る。

 

真鍋は言った。

 

私を勝手に置いていかないで。

 

時任は言った。

 

全部背負うな。

 

それぞれの言葉が、影の中で重なる。

 

方法は、まだ見えない。

 

だが、探すと決めた。

 

真鍋の名前が、紙の上で数字になろうとしている。

 

それを見た時、影の胸の奥で何かが軋んだ。

 

なぜかは分からない。

 

けれど、嫌だった。

 

噂は、一之瀬を罪人に変えようとした。

 

投票は、真鍋を数字に変えようとしている。

 

ならば。

 

その数字を、もう一度名前へ戻す方法を探す。

 

白き影は、紙の上に並ぶ文字を見た。

 

そこには、戦場よりも冷たい刃があった。

 

そしてその刃の前に、真鍋志保という名前が立たされようとしていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ようこそ財力至上主義の教室へ(作者:ウメSUN)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

金で買えないものはない......少なくとも、この高度育成高等学校では。▼金に強い固執を持つ少女、辰見鱗(たつみ りん)。彼女は龍園率いるCクラスと共に、プライベートポイントを以て、この学校を攻略し、8億ポイントを目指していく。


総合評価:1481/評価:8.3/連載:16話/更新日時:2026年07月12日(日) 18:29 小説情報

よく来たね、ボクだけが勝つ教室に(作者:透明な唐揚げ)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

ホワイトルームのカリキュラムを僅か1年でクリアしたモノホンの怪物を平穏な高校生活を望む綾小路くんにぶつける。▼


総合評価:427/評価:6.87/連載:4話/更新日時:2026年04月22日(水) 18:00 小説情報

よう実世界に超絶天才美少女にTS転生(作者:アークナイツ民1)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

超絶天才美少女にTS転生したけど、そんなに上手くは行かないようで...


総合評価:763/評価:6.74/短編:9話/更新日時:2026年06月06日(土) 12:35 小説情報

【偽】アルケイデス(作者:メガシャキ)(原作:HUNTER×HUNTER)

ある村にいた転生者の少年が、村を滅ぼされたことにより覚醒する物語です▼


総合評価:323/評価:7.46/連載:1話/更新日時:2026年05月04日(月) 10:15 小説情報

ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ(作者:灰色の)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

▼よう実の世界に転生した青年、しかし物語の鍵となる原作主人公がいなかった。▼自分の能力も分からない中、彼は必死に足掻いて行く。


総合評価:2940/評価:8.07/連載:33話/更新日時:2026年07月12日(日) 18:22 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>