教室の隅で静かに過ごしてきた「私」は、その日だけは少しだけ勇気を出そうと決めていた。
――自分から誰かに話しかけて、写真を撮ること。
夏の熱気に包まれたグラウンド。
歓声、汗、夕焼け。
そんな騒がしい一日の中で、私は体調を崩した同級生の女の子と出会う。
ただ心配で声をかけただけだった。
けれど、棒引き、写真撮影、閉会式――。
何気ない出来事を重ねるたび、私の日常は少しずつ色を変えていく。
幸福すぎて怖い。
これは、ほんの数日だけ続いた、夢みたいな青春の物語。
どんな授業を受けて、どんな問題を解いたのかはほとんど覚えていない。
けれど、不思議なことに。
夏の匂いや、夕方のグラウンドの色。誰かにかけられた何気ない一言。胸が少しだけ高鳴った瞬間だけは、いつまでも記憶に残り続ける。
これは、そんな夏の話だ。
人生最後の体育祭。
ただそれだけの、ありふれた一日。
けれど私にとっては、世界が少しだけ変わった日だった。
私はここ数日、毎日が楽しい。
楽しくて仕方がない。
胸の奥が、夏に溺れる蝉のように、幸福でいっぱいだった。
けれど、幸福すぎると人は少し怖くなる。
このまま幸せが続いたら、自分の中の何かが壊れてしまうんじゃないか。
ある日の通学路、信号無視の車に轢かれて死ぬかもしれない――そんな馬鹿げた想像までしてしまう。
人間は、予想もしていなかった幸せを手にすると、不安になる生き物なのだろうか。
きっと今の私は、宝くじで数億円を当てた人間と同じ感覚なのだと思う。
恋愛をお金に例えるなんて変かもしれない。でも、それ以外に言い表しようがなかった。
それくらい、今の私は幸福だった。
七月九日。
私は毎年恒例の学校行事――体育祭一日目を楽しんでいた。
高校三年生。おそらく人生最後になる体育祭。
だから私は、小さな決意をしていた。
自分から、いろんな人に声をかけて写真を撮ること。
七月の太陽は容赦がなかった。
焼けたグラウンドから立ち上る熱気が、足元からじわじわと身体を炙ってくる。
生ぬるい風が吹くたび、土埃と汗の匂いが混ざって鼻を掠めた。
スピーカー越しの割れた放送音。遠くで鳴り続ける歓声。水筒の氷が揺れる音。
体育祭独特の騒がしさが、学校全体を包み込んでいる。
その決意の通り、私は友人たちに片っ端から話しかけ、一緒に写真を撮った。
三年間で、一番楽しい体育祭だった。
そんな時だった。
同じクラスの女の子が、ひどくしんどそうにしているのが目に入った。
口元をタオルで押さえ、今にも倒れてしまいそうなほど顔色が悪い。
額に張り付いた前髪は汗で濡れている。
肩が小さく上下するたび、タオルの端がかすかに揺れた。
近づくと、熱を持った空気が伝わってくる気がした。
気づけば私は、彼女に声をかけていた。
「……大丈夫?」
「うん……」
「無理せんときや」
「ありがとう……」
短いやり取りだった。けれど、彼女がかなり弱っていることだけは分かった。
それから二種目ほど終わり、昼休みの放送が流れる。
『昼食の時間です。各自教室へ戻って休憩してください』
私は友人二人と一緒に教室へ戻った。
いつものように弁当を持って友人の席へ向かい、近くの椅子を借りて食べ始める。
昼休みの教室には、弁当の匂いが広がっていた。
からあげの油の香り。焼きそばソースの匂い。汗をかいた体操服の湿った空気。
窓際では、熱を含んだ風がカーテンをゆらゆら揺らしている。
ふと、何気なく教室を見回した。
すると、例の女の子が机に突っ伏していた。
机の上にはタオルが敷かれている。
周囲の笑い声から切り離されたみたいに、彼女だけが静かだった。
私は彼女のことが気になって仕方なかった。
もし熱中症だったら。もし脱水症状を起こしていたら。
最悪の場合、命に関わる。
そう思うと、弁当の味なんて分からなくなった。
私は箸を置き、彼女の席へ向かう。
席が前後なので、自分の席に腰掛けたまま声をかけた。
「ほんまに大丈夫?」
「……疲れた」
「全然大丈夫そうに見えへんで。保健室行った方がええって」
「大丈夫……」
「ほんまにヤバかったら行きや」
「ありがとう……」
やっぱり、無理をしている。
自分のしんどさを隠している。
もし私が同じ立場でも、きっと同じように答えると思う。
でも、それでも私は、本音を言ってほしかった。
命に関わるかもしれないのだから。
夕方、太陽が沈み始める頃、私は帰宅した。
結局、一日中どこか落ち着かないまま終わってしまった。
家に帰るとすぐベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまう。
翌朝。
部屋の大きな窓から朝日が差し込み、スマホのアラームが鳴り響く。
「ふぁぁ……」
いつものように起き上がり、スマホを見る。
その瞬間、完全に目が覚めた。
「やばっ!!」
寝坊した。
今日は体育祭二日目。いつもより登校時間が早かったのを、完全に忘れていたのだ。
私は慌てて朝食をかき込み、髪を整える。
こんな時に『どこでもドア』でもあればいいのに――なんて、ありがちな妄想をしながら、数分で準備を終わらせた。
「よし、まだ間に合う!」
家を飛び出し、自転車を全力で漕ぐ。
湿った朝の風が顔にぶつかる。
ペダルを踏むたび、チェーンが軋む音が耳に響いた。
すると前方に、同じように急いでいる生徒たちの姿が見えた。
少し安心する。
自分だけじゃない。
「おはよう!」
「お、おう!」
その中にいた友人へ声をかけながら、私は西門へ飛び込んだ。
急いで自転車を止め、校舎の時計を見る。
まだ三分ある。
私は全力で廊下を走った。
上履きが床を叩く音が、静かな校舎に響く。
肺が焼けるように熱い。
喉の奥が乾いて、呼吸するたび鉄っぽい味がした。
汗が首筋を伝い、体操服の背中に張り付く。
それでも私は走った。
まだ間に合うと信じていたからだ。
汗だくになりながら教室へ飛び込む。
――だが。
「え?」
教室には、誰もいなかった。
黒板を見ると、一枚の紙が貼られている。
《今日は運動場点呼です》
「…………」
読み終えた瞬間。
キーンコーンカーンコーン――
無情にもチャイムが鳴り響いた。
遅刻確定。
「……まじか」
昨日のホームルームで先生が言っていた気もする。
完全に油断していた。
私は肩を落としながら運動場へ向かった。
その日の私の出番は、体育祭最大の目玉競技――棒引きだった。
七本の棒を奪い合い、自陣へ多く持ち込んだ方が勝ち。
単純なルールなのに、毎年異常なほど盛り上がる。
「棒引きに出るやつはすごい」
そんな空気が学校にはあった。
だから私は自分から立候補した。
決勝戦。
私たちの団は圧倒的に強かった。
開始の笛が鳴った瞬間、グラウンドの空気が爆発する。
「うおおお!!」
怒号みたいな歓声が飛び交う。
砂埃が舞い上がり、視界が白く霞む。
棒を握る手が痛い。
腕が軋む。
靴底が土を削る感覚が伝わってくる。
それでも誰も離さない。
熱狂の中心に、自分がいる。
その感覚だけで、胸が高鳴った。
結果は四対〇。
完勝だった。
競技を終え、私はテントへ戻ってお茶を飲む。
冷たいお茶が、火照った喉をゆっくり通っていく。
その時だった。
「なぁ、写真撮らへん?」
「……え?」
突然、女の子に声をかけられた。
周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。
心臓が跳ねる。
耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
夏の湿った風が頬を撫でた。
夕日に照らされた彼女の笑顔が、少し眩しかった。
「いいよ?」
「やった!」
『はい、チーズ』
カシャッ――
写真を撮り終えたあとも、私はしばらく状況を理解できなかった。
え。
今、女の子から誘われた?
そんな経験、人生で一度もない。
高校三年間、教室の隅で静かに過ごしてきた私には、あまりにも衝撃的だった。
棒引きに出たからだろうか。
そういえば彼女も棒引きに出ていた気がする。
ここまで影響力があるなんて。
なぜ私なんかと。
理由は分からない。
でも、とにかく嬉しかった。
胸の奥が熱くなる。
世界が少しだけ輝いて見えた。
閉会式。
私は列に並びながら、ぼんやり夕焼けを見ていた。
沈みかけた夕日が、生徒たちの顔を茜色に染めている。
夕方の風は昼より少しだけ冷たくて、汗ばんだ肌を静かに撫でていった。
その時、前の女子の友人が突然話しかけてきた。
「場所、変わったろか?」
「え? なんで?」
「話したいやろ?」
そこで私は察した。
どうやら彼女は、私が前にいる女の子と付き合っていると思っているらしい。
そんなわけがない。
写真を撮っただけで舞い上がっているような人間なのに。
「いや、大丈夫やって」
「いいからいいから」
半ば強引に順番を変えられ、私は彼女の後ろに立つことになった。
「なんで前来たん?」
「いや、なんか……よく分からへん」
「?」
「なんでなんやろな(笑)」
早く終わってくれ。
私は心の底からそう願っていた。
けれど同時に、妙な期待をしている自分もいた。
もしかしたら。
ほんの少しくらい、相手も私を意識してくれているんじゃないか――と。
そんな都合のいい考えが頭をよぎるたび、私は自分で自分が恥ずかしくなる。
クラスの視線が気になった。
後ろで誰かが笑っているだけで、自分のことを話している気がした。
幸福は、時々、人を臆病にする。
『これで第九十五回体育祭を閉会します』
ようやく閉会式が終わる。
その頃には、クラスの一部で「私に彼女がいる」という噂まで流れ始めていた。
意味が分からない。
どうしてそうなった。
そんなことを考えながら帰る準備をしていた時だった。
「バイバイ!」
「お、おう! バイバイ!」
写真を撮ってくれたあの子だった。
その一言だけで、全身がふわりと軽くなる。
まるで温かい湯に溶けていくみたいに、幸福感が身体中を満たしていった。
さっきまで気にしていた噂のことなんて、どうでもよくなってしまうくらいに。
私はそのまま、上機嫌で家へ帰った。
駅から家までの夜道を、月が静かに照らしている。
アスファルトには昼間の熱がまだ残っていて、夜風だけがやさしく涼しかった。
遠くで電車の走る音が聞こえる。
そんな静かな夏の夜だった。
幸福すぎて怖い。
でも今は、この幸福が少しでも長く続けばいいと思った。
疲れていたのだろう。
その夜も、私はすぐ眠りに落ちた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品では、「青春の幸福感」をできるだけ丁寧に描きたいと思いながら書きました。
特別な事件が起こるわけではありません。
誰かが世界を救うわけでもなければ、劇的な恋愛が始まるわけでもない。
ただ、体育祭で写真を撮った。少し話した。それだけです。
でも、高校生の頃というのは、その“それだけ”で世界が変わる瞬間が確かにあった気がします。
帰り道の月が綺麗に見えたり、翌日の学校が楽しみになったり。
きっと青春とは、そういう小さな幸福の積み重ねなのだと思います。
この物語のどこかに、皆さん自身の記憶と重なる瞬間があれば嬉しいです。