高校三年生、最後の体育祭。

教室の隅で静かに過ごしてきた「私」は、その日だけは少しだけ勇気を出そうと決めていた。

――自分から誰かに話しかけて、写真を撮ること。

夏の熱気に包まれたグラウンド。
歓声、汗、夕焼け。

そんな騒がしい一日の中で、私は体調を崩した同級生の女の子と出会う。

ただ心配で声をかけただけだった。

けれど、棒引き、写真撮影、閉会式――。

何気ない出来事を重ねるたび、私の日常は少しずつ色を変えていく。

幸福すぎて怖い。

これは、ほんの数日だけ続いた、夢みたいな青春の物語。

1 / 1
高校生活というものは、振り返ってみると案外曖昧だ。

どんな授業を受けて、どんな問題を解いたのかはほとんど覚えていない。

けれど、不思議なことに。

夏の匂いや、夕方のグラウンドの色。誰かにかけられた何気ない一言。胸が少しだけ高鳴った瞬間だけは、いつまでも記憶に残り続ける。

これは、そんな夏の話だ。

人生最後の体育祭。

ただそれだけの、ありふれた一日。

けれど私にとっては、世界が少しだけ変わった日だった。


数日の夢物語

私はここ数日、毎日が楽しい。

 

楽しくて仕方がない。

 

胸の奥が、夏に溺れる蝉のように、幸福でいっぱいだった。

 

けれど、幸福すぎると人は少し怖くなる。

 

このまま幸せが続いたら、自分の中の何かが壊れてしまうんじゃないか。

 

ある日の通学路、信号無視の車に轢かれて死ぬかもしれない――そんな馬鹿げた想像までしてしまう。

 

人間は、予想もしていなかった幸せを手にすると、不安になる生き物なのだろうか。

 

きっと今の私は、宝くじで数億円を当てた人間と同じ感覚なのだと思う。

 

恋愛をお金に例えるなんて変かもしれない。でも、それ以外に言い表しようがなかった。

 

それくらい、今の私は幸福だった。

 

 

 

七月九日。

 

私は毎年恒例の学校行事――体育祭一日目を楽しんでいた。

 

高校三年生。おそらく人生最後になる体育祭。

 

だから私は、小さな決意をしていた。

 

自分から、いろんな人に声をかけて写真を撮ること。

 

七月の太陽は容赦がなかった。

 

焼けたグラウンドから立ち上る熱気が、足元からじわじわと身体を炙ってくる。

 

生ぬるい風が吹くたび、土埃と汗の匂いが混ざって鼻を掠めた。

 

スピーカー越しの割れた放送音。遠くで鳴り続ける歓声。水筒の氷が揺れる音。

 

体育祭独特の騒がしさが、学校全体を包み込んでいる。

 

その決意の通り、私は友人たちに片っ端から話しかけ、一緒に写真を撮った。

 

三年間で、一番楽しい体育祭だった。

 

そんな時だった。

 

同じクラスの女の子が、ひどくしんどそうにしているのが目に入った。

 

口元をタオルで押さえ、今にも倒れてしまいそうなほど顔色が悪い。

 

額に張り付いた前髪は汗で濡れている。

 

肩が小さく上下するたび、タオルの端がかすかに揺れた。

 

近づくと、熱を持った空気が伝わってくる気がした。

 

気づけば私は、彼女に声をかけていた。

 

「……大丈夫?」

 

「うん……」

 

「無理せんときや」

 

「ありがとう……」

 

短いやり取りだった。けれど、彼女がかなり弱っていることだけは分かった。

 

 

 

それから二種目ほど終わり、昼休みの放送が流れる。

 

『昼食の時間です。各自教室へ戻って休憩してください』

 

私は友人二人と一緒に教室へ戻った。

 

いつものように弁当を持って友人の席へ向かい、近くの椅子を借りて食べ始める。

 

昼休みの教室には、弁当の匂いが広がっていた。

 

からあげの油の香り。焼きそばソースの匂い。汗をかいた体操服の湿った空気。

 

窓際では、熱を含んだ風がカーテンをゆらゆら揺らしている。

 

ふと、何気なく教室を見回した。

 

すると、例の女の子が机に突っ伏していた。

 

机の上にはタオルが敷かれている。

 

周囲の笑い声から切り離されたみたいに、彼女だけが静かだった。

 

私は彼女のことが気になって仕方なかった。

 

もし熱中症だったら。もし脱水症状を起こしていたら。

 

最悪の場合、命に関わる。

 

そう思うと、弁当の味なんて分からなくなった。

 

私は箸を置き、彼女の席へ向かう。

 

席が前後なので、自分の席に腰掛けたまま声をかけた。

 

「ほんまに大丈夫?」

 

「……疲れた」

 

「全然大丈夫そうに見えへんで。保健室行った方がええって」

 

「大丈夫……」

 

「ほんまにヤバかったら行きや」

 

「ありがとう……」

 

やっぱり、無理をしている。

 

自分のしんどさを隠している。

 

もし私が同じ立場でも、きっと同じように答えると思う。

 

でも、それでも私は、本音を言ってほしかった。

 

命に関わるかもしれないのだから。

 

 

 

夕方、太陽が沈み始める頃、私は帰宅した。

 

結局、一日中どこか落ち着かないまま終わってしまった。

 

家に帰るとすぐベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまう。

 

 

 

翌朝。

 

部屋の大きな窓から朝日が差し込み、スマホのアラームが鳴り響く。

 

「ふぁぁ……」

 

いつものように起き上がり、スマホを見る。

 

その瞬間、完全に目が覚めた。

 

「やばっ!!」

 

寝坊した。

 

今日は体育祭二日目。いつもより登校時間が早かったのを、完全に忘れていたのだ。

 

私は慌てて朝食をかき込み、髪を整える。

 

こんな時に『どこでもドア』でもあればいいのに――なんて、ありがちな妄想をしながら、数分で準備を終わらせた。

 

「よし、まだ間に合う!」

 

家を飛び出し、自転車を全力で漕ぐ。

 

湿った朝の風が顔にぶつかる。

 

ペダルを踏むたび、チェーンが軋む音が耳に響いた。

 

すると前方に、同じように急いでいる生徒たちの姿が見えた。

 

少し安心する。

 

自分だけじゃない。

 

「おはよう!」

 

「お、おう!」

 

その中にいた友人へ声をかけながら、私は西門へ飛び込んだ。

 

急いで自転車を止め、校舎の時計を見る。

 

まだ三分ある。

 

私は全力で廊下を走った。

 

上履きが床を叩く音が、静かな校舎に響く。

 

肺が焼けるように熱い。

 

喉の奥が乾いて、呼吸するたび鉄っぽい味がした。

 

汗が首筋を伝い、体操服の背中に張り付く。

 

それでも私は走った。

 

まだ間に合うと信じていたからだ。

 

汗だくになりながら教室へ飛び込む。

 

――だが。

 

「え?」

 

教室には、誰もいなかった。

 

黒板を見ると、一枚の紙が貼られている。

 

《今日は運動場点呼です》

 

「…………」

 

読み終えた瞬間。

 

キーンコーンカーンコーン――

 

無情にもチャイムが鳴り響いた。

 

遅刻確定。

 

「……まじか」

 

昨日のホームルームで先生が言っていた気もする。

 

完全に油断していた。

 

私は肩を落としながら運動場へ向かった。

 

 

 

その日の私の出番は、体育祭最大の目玉競技――棒引きだった。

 

七本の棒を奪い合い、自陣へ多く持ち込んだ方が勝ち。

 

単純なルールなのに、毎年異常なほど盛り上がる。

 

「棒引きに出るやつはすごい」

 

そんな空気が学校にはあった。

 

だから私は自分から立候補した。

 

決勝戦。

 

私たちの団は圧倒的に強かった。

 

開始の笛が鳴った瞬間、グラウンドの空気が爆発する。

 

「うおおお!!」

 

怒号みたいな歓声が飛び交う。

 

砂埃が舞い上がり、視界が白く霞む。

 

棒を握る手が痛い。

 

腕が軋む。

 

靴底が土を削る感覚が伝わってくる。

 

それでも誰も離さない。

 

熱狂の中心に、自分がいる。

 

その感覚だけで、胸が高鳴った。

 

結果は四対〇。

 

完勝だった。

 

競技を終え、私はテントへ戻ってお茶を飲む。

 

冷たいお茶が、火照った喉をゆっくり通っていく。

 

その時だった。

 

「なぁ、写真撮らへん?」

 

「……え?」

 

突然、女の子に声をかけられた。

 

周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。

 

心臓が跳ねる。

 

耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。

 

夏の湿った風が頬を撫でた。

 

夕日に照らされた彼女の笑顔が、少し眩しかった。

 

「いいよ?」

 

「やった!」

 

『はい、チーズ』

 

カシャッ――

 

写真を撮り終えたあとも、私はしばらく状況を理解できなかった。

 

え。

 

今、女の子から誘われた?

 

そんな経験、人生で一度もない。

 

高校三年間、教室の隅で静かに過ごしてきた私には、あまりにも衝撃的だった。

 

棒引きに出たからだろうか。

 

そういえば彼女も棒引きに出ていた気がする。

 

ここまで影響力があるなんて。

 

なぜ私なんかと。

 

理由は分からない。

 

でも、とにかく嬉しかった。

 

胸の奥が熱くなる。

 

世界が少しだけ輝いて見えた。

 

 

 

閉会式。

 

私は列に並びながら、ぼんやり夕焼けを見ていた。

 

沈みかけた夕日が、生徒たちの顔を茜色に染めている。

 

夕方の風は昼より少しだけ冷たくて、汗ばんだ肌を静かに撫でていった。

 

その時、前の女子の友人が突然話しかけてきた。

 

「場所、変わったろか?」

 

「え? なんで?」

 

「話したいやろ?」

 

そこで私は察した。

 

どうやら彼女は、私が前にいる女の子と付き合っていると思っているらしい。

 

そんなわけがない。

 

写真を撮っただけで舞い上がっているような人間なのに。

 

「いや、大丈夫やって」

 

「いいからいいから」

 

半ば強引に順番を変えられ、私は彼女の後ろに立つことになった。

 

「なんで前来たん?」

 

「いや、なんか……よく分からへん」

 

「?」

 

「なんでなんやろな(笑)」

 

早く終わってくれ。

 

私は心の底からそう願っていた。

 

けれど同時に、妙な期待をしている自分もいた。

 

もしかしたら。

 

ほんの少しくらい、相手も私を意識してくれているんじゃないか――と。

 

そんな都合のいい考えが頭をよぎるたび、私は自分で自分が恥ずかしくなる。

 

クラスの視線が気になった。

 

後ろで誰かが笑っているだけで、自分のことを話している気がした。

 

幸福は、時々、人を臆病にする。

 

 

 

『これで第九十五回体育祭を閉会します』

 

ようやく閉会式が終わる。

 

その頃には、クラスの一部で「私に彼女がいる」という噂まで流れ始めていた。

 

意味が分からない。

 

どうしてそうなった。

 

そんなことを考えながら帰る準備をしていた時だった。

 

「バイバイ!」

 

「お、おう! バイバイ!」

 

写真を撮ってくれたあの子だった。

 

その一言だけで、全身がふわりと軽くなる。

 

まるで温かい湯に溶けていくみたいに、幸福感が身体中を満たしていった。

 

さっきまで気にしていた噂のことなんて、どうでもよくなってしまうくらいに。

 

私はそのまま、上機嫌で家へ帰った。

 

駅から家までの夜道を、月が静かに照らしている。

 

アスファルトには昼間の熱がまだ残っていて、夜風だけがやさしく涼しかった。

 

遠くで電車の走る音が聞こえる。

 

そんな静かな夏の夜だった。

 

幸福すぎて怖い。

 

でも今は、この幸福が少しでも長く続けばいいと思った。

 

疲れていたのだろう。

 

その夜も、私はすぐ眠りに落ちた。

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

この作品では、「青春の幸福感」をできるだけ丁寧に描きたいと思いながら書きました。

特別な事件が起こるわけではありません。

誰かが世界を救うわけでもなければ、劇的な恋愛が始まるわけでもない。

ただ、体育祭で写真を撮った。少し話した。それだけです。

でも、高校生の頃というのは、その“それだけ”で世界が変わる瞬間が確かにあった気がします。

帰り道の月が綺麗に見えたり、翌日の学校が楽しみになったり。

きっと青春とは、そういう小さな幸福の積み重ねなのだと思います。

この物語のどこかに、皆さん自身の記憶と重なる瞬間があれば嬉しいです。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。