かぐや「かぐやがいない間に、彩葉がかぐやと浮気したー!」 あの子ちゃん「蛇足っす」 作:超かぐや姫!に脳を焼かれた人
タワマンのリビングに、甘い匂いがしていた。
いや、甘い匂いがするはずだった。
けれど、目の前の皿に乗っているそれは、砂糖も、卵も、牛乳も、バターも使われていない。
焼き色だけは完璧な、粉と水だけで作られた、かつての彩葉特製パンケーキ。
かぐやはそれをフォークで口へ運んだ。
もぐ。
「ん~!」
盛大に顔をしかめた。
眉間にはしわ。
口元はひくひく。
舌が、これは本当に食べ物なのかと疑っている。
なのに、目だけはきらきらしていた。
あまりのまずさに顔を歪めながら、幸せそうに頬をゆるめる。
「クソまじぃ! でも、帰ってきたって味がする~!」
「なにその顔? 表情筋器用か」
向かいに座っていた彩葉が、心底わからないものを見る目をした。
「あんたらってホントそのパンケーキ好きね」
「あ、いや~」
もう一人のかぐやが、フォークでパンケーキをつんつんしていた手を止め、視線を泳がせる。
「好きというか~」
ヤチヨも、皿の上のパンケーキを見ながら曖昧に笑った。
かぐやがもう一口食べる。
やっぱりクソまじぃ。
でも、胸の奥がぽかぽかする。
「彩葉って感じがする」
もう一人のかぐやとヤチヨが、「わかる」という顔で腕を組み、深く頷いた。
「ほう」
彩葉の声が低くなる。
「つまり、私は粉と水のパンケーキみたいな人間だとおっしゃる?」
「ち、ちがうよー」
「違う違うー」
「それは違うかな~」
三人の声が重なった。
彩葉の目が細められる。
かぐやは慌てて手を振った。
「クソまじぃけど、なんか好きってこと!」
「フォローになってない」
「そ、素朴ってやつだよ~?」
「素朴にも限度があるでしょ」
「彩葉の味!」
「それはもう悪口」
彩葉はそう言いながらも、皿を取り上げたりはしなかった。
むしろ台所からジャムの瓶を持ってきて、テーブルへ置く。
「せめて何か塗りなさい。身体に悪……くはないけど、心に悪いわよ」
「彩葉が優しいー」
「はいはい」
かぐやはジャムを塗った。
それだけで、かなり食べやすくなる。
けれど、端の方は何もつけずに残しておいた。
このクソまじぃところが大事なのだ。
かぐやにとっては。
そして、もう一人のかぐやにとっても。
たぶん、ヤチヨにとっても。
食べ終わった皿を、彩葉がまとめようとした。
「かぐや、その皿取って」
「はーい!」
「はーい!」
二つの返事が同時に響いた。
かぐやは自分の皿を持った。
もう一人のかぐやも、自分の皿を持った。
二人そろって、彩葉の前に差し出す。
彩葉が固まった。
「……うん。ありがとう」
「どういたしましてー」
「どういたしましてー」
「いや、やっぱり不便すぎるでしょ、これ」
彩葉は二枚の皿を受け取りながら、眉間を押さえた。
ヤチヨがソファに沈み込みながら、楽しそうに笑う。
「深刻な問題だね~」
「楽しそうに言わない」
「だって、ちょっと楽しいし~」
「隠す気もないのね」
「ないかな~☆」
ヤチヨは、悪童のような笑みを浮かべた。
かぐやは、ヤチヨのこういう顔がけっこう好きだった。
彩葉は皿を流しへ置いてから、こちらに向き直る。
「やっぱり呼び分け、決めない?」
「呼び分け?」
「そう。今みたいに、かぐやって呼ぶたびに二人同時に返事されたら困るでしょ」
「かぐやは困ってないよ?」
「かぐやも困ってないよー?」
「私が困ってるの」
彩葉はきっぱり言った。
二人は顔を見合わせた。
彩葉は、二人を見比べた。
「じゃあ、月から帰ってきたかぐやと、もう一人のかぐや」
「長いー! かぐや、ウルトラな巨大ヒーローじゃないしー」
「もう一人って言われると、なんか、かぐやじゃない方みたいでやだー」
「そういう意味じゃないけど」
「片方だけが本物みたいに聞こえるー」
もう一人のかぐやは、フォークを置いて彩葉を見た。
拗ねているというより、本当にそこだけは譲れない、という顔だった。
かぐやがすかさず身を乗り出した。
「どっちもちゃんとかぐやだよー!」
「わかってる。二人ともちゃんとかぐやだから」
「ヨシ! 解決!」
「してない」
彩葉は額を押さえた。
「研究所式に、KG型?」
「やだー! それはボディの型式ー!」
「まあ、名前ではないよね~」
もう一人のかぐやが不満そうに言う。
ヤチヨも、それに合わせて頷いた。
彩葉は一度口を開きかけて、結局何も言わなかった。
「じゃあ、一号と二号」
「技のかぐや一号!」
かぐやは、びしっと片手を斜めに構えた。
「力のかぐや二号!」
もう一人のかぐやも、すかさず反対側でポーズを取る。
ヤチヨがぱちぱちと拍手した。
「おお~、ダブルかぐやだね~☆」
「で、解決でいいわけ?」
彩葉が頭を抱えつつ問いかける。
「楽しいけど、名前じゃなーい! ダメですー!」
「ダメー!」
「あんたたちね……」
彩葉は、何かを諦めたように目を伏せた。
かぐやは考える。
彩葉を振り回したいわけではない。
呼び分けが必要だという話も、わからなくはなかった。
けれど、名前だけは別だ。
かぐやは、かぐやだ。
それ以外で呼ばれるのは、違う。
だって、この名前は、彩葉がくれたものだから。
「かぐやはかぐやだし」
かぐやが言った。
もう一人のかぐやが、すぐに頷く。
「かぐやもかぐやなので」
二人は顔を見合わせた。
息を合わせる。
「「かぐや以外で呼ぶの禁止」」
「うそでしょ」
彩葉が、ため息を吐いた。
でも、怒ってはいなかった。
かぐやは知っている。
彩葉は、こういうとき、面倒くさがりながらも考えてくれる。
呆れた顔をしながら、ちゃんと向き合ってくれる。
だから、かぐやはずるい顔で笑った。
「だって、ねー?」
「彩葉がくれた名前だし、ねー?」
もう一人のかぐやも、同じように笑う。
彩葉は何か言いかけて、結局ため息だけを残した。
勝った。
かぐやは心の中で、小さく拳を握った。
「うーん」
そこで、ヤチヨがゆっくり手を上げた。
「ヤッチョ的にも、このまま二人とも『かぐや』って呼んであげてほしいかな〜って☆」
「ヤチヨまで」
彩葉が恨めしそうにヤチヨを見る。
ヤチヨは眉尻を下げて笑った。
でも、その声はいつものふざけた調子より、柔らかかった。
「だってさ。名前って、大事だからね~」
リビングが、しんと静かになる。
かぐやは、ヤチヨを見た。
ヤチヨは笑っていた。
いつものヤチヨみたいに。
でも、いつもの笑顔とは違った。
それを見たかぐやに天啓が降りた。
「じゃあ、ヤチヨのことも『かぐや』って呼ぶべきだと思う!」
「おー! ナイスアイデアー! 賛成ー!」
もう一人のかぐやが即答した。
ヤチヨの笑顔が固まった。
「い、いやいや、ヤッチョのことはヤチヨのままでいいかな〜って……」
「どうして?」
「どうしてー?」
「ど、どうしてって……ほ、ほら、ヤッチョはみーんなのヤチヨだからね~?」
「でも、ヤチヨもかぐやだよ?」
「そうだよー。ヤチヨもかぐやだよー」
「いやー、そこ全力で肯定されるとヤッチョもちょっと困るかな~」
ヤチヨが珍しく目を泳がせた。
その反応を見て、かぐやは逃がすまいと声を弾ませた。
「ね、彩葉、ヤチヨのこともかぐやって呼んであげて!」
「呼んであげてー!」
「いやいやいやいや」
ヤチヨが両手を振る。
「待って待って、ヤッチョはヤチヨで大丈夫! むしろヤチヨがいいかな~。ね、彩葉?」
彩葉は黙り込んでいた。
その顔はとても真剣だった。
「……」
「彩葉!?」
ヤチヨが彩葉に寄って、その肩を揺すった。
「そこ本気で悩まないでね〜?」
彩葉は、はっとしたように瞬きをした。
「いや、悩んではない」
「今の間は悩んでたよね~?」
「悩んではない。ただ、本人が嫌がってないなら、それもありかなって」
「それを悩むって言うんだよ~」
ヤチヨの声が裏返る。
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
「ヤチヨ、照れてるー」
「照れてるー」
「照れてないです~」
「ヤチヨは、かぐやって呼ばれたくないのー?」
「そこはほら、時と場合と……相手によるかな~」
「難しいー」
「ヤチヨって難しいねー」
「かぐやたちにだけは言われたくないかな~!」
彩葉は深く息を吐いた。
「わかった。もういい」
「何が?」
「ヤチヨをかぐやって呼ぶ話ー?」
「そこは保留」
「彩葉!?」
ヤチヨが悲鳴みたいな声を出した。
彩葉は咳払いをした。
「今後、見分けが必要なときは、目を見て呼ぶことにします。それでいいでしょ?」
「目を見て」
かぐやは、その言葉を口の中で転がした。
彩葉が、かぐやの目を見て名前を呼ぶ。
想像しただけで、胸のあたりがふわっと浮いた。
「彩葉が、かぐやの目を見て名前呼んでくれるって!」
「やったー!」
もう一人のかぐやが両手を上げた。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、かぐやが二人いたら?」
「順番に見る」
「ヤチヨの目も?」
「……必要なら」
「必要になる場面を想定しないでほしいかな~」
ヤチヨは苦笑いを浮かべた。
彩葉は疲れたような、呆れたような顔をしていた。
『かぐや』と呼べば、二人が返事をする。
気を抜けば、ヤチヨまで振り向く。
「じゃあ、試しに呼んで!」
かぐやが言った。
「何を」
「かぐやって!」
「……かぐや」
「はーい!」
「はーい!」
二人の声が、ぴったり重なった。
遅れて、ヤチヨの肩がぴくっと動いた。
彩葉はそれを見逃さなかった。
「……」
「……反応してないよ~?」
「まだ何も言ってないけど」
「してたねー」
「してたー」
「してないってば~」
ヤチヨは顔を赤くして、ソファのクッションを抱きしめた。
彩葉はもう一度、大きくため息をついた。
でも、そのため息は、とても満足げだった。
「……本当に、ややこしい」
「でも、楽しいでしょ?」
かぐやが聞く。
彩葉はすぐには答えなかった。
それから、ほんのわずかに目元をゆるめた。
「……そうね」
「いろはー」
かぐやが呼ぶ。
「いろはー」
もう一人のかぐやも呼ぶ。
「彩葉~」
ヤチヨも、いつもの調子で呼んだ。
彩葉は、三人を順番に見た。
「はいはい。今度は何?」
その返事が、あまりにも自然だった。
呼び分け問題は、きっとしばらく解決しない。
でも、かぐやはそれでいいと思った。
不便で、どうしようもなくややこしい。
けれど、簡単に解けないくらいで、ちょうどいい。
今のかぐやたちは、たぶん、そういう形をしている。
◇◇◇◇◇
「ね、彩葉」
「どうしたの、ヤチヨ?」
「わたしのことは、普段はヤチヨでいいんだけど……」
「うん?」
「耳、貸して?」
「……なに、急に」
「いいからいいから~」
「はいはい」
「二人きりの時は、『かぐや』って呼んでほしいなぁ~♡」
「アッ」
「彩葉?」
「……」
「彩葉~?」
「……」
「フッフッフ、天下の酒寄博士の頭脳も、ヤッチョにかかれば処理落ちさせるなど容易いのです!」
「……『かぐや』」
「アッ、エッ、イロハ!?」
「⋯⋯はぁ。かぐやが三人もいると、一生退屈とは無縁そう」