ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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ご覧いただきありがとうございます。

本作は、過酷な運命を背負った少女と、彼女の崩壊をただ見つめることしかできない少年の少し歪で、ひどく冷たい聖戦の記録です。

※作中に一部、精神的な摩耗や、鬱展開、キャラクターのエゴ(醜い独占欲)が生々しく描写される箇所がございます。ダークファンタジーの不穏な空気感がお好きな方に、深く刺されば幸いです。

それでは、第壱話をお楽しみください。


英雄はまだ人間だった
第壱話  「コンビニの灯り」


午前二時十三分。

 

液晶の放つ冷たい白が、六畳間の天井を薄汚く染めていた。

布団の重みに固まったまま、親指だけで画面をスクロールし続ける。衣服の擦れる音さえ、この部屋では過剰に響いた。

 

『C-7区画、避難勧告』

『またか』

『もう寝ろよ』

『天使出るたび学校休みになんねーかな』

 

匿名掲示板の並びは、どこか遠い国の祭りの実況に似ていた。

誰も本気で怯えていない。

窓の外を定期的に通り過ぎていく、赤色灯の歪んだ明滅。

遠い区画から這うように届く、歪んだサイレン。

スマホの画面で何度も再生された、ビルの崩壊映像。

それらすべては、冷え切った夜の空気の一部として、すでにこの街へ均一に溶け込んでいた。

 

画面を閉じると、輪郭を失った部屋が急激に迫ってくる。

耳の奥に張り付くのは、古びた冷蔵庫が立てる、低く単調な駆動音だけだった。

 

裏返したスマホの通知ランプが、暗闇の中で一回、二回と、浅い呼吸のような明滅を繰り返している。

未読はない。

 

小宮依里。

彼女からの最後のメッセージは、一時間前で途切れていた。

 

『コンビニ行く』

 

それだけだった。

シーツの皺に、小さく息を吐き出す。

考え事が煮詰まると、彼女はいつも夜食を買いに走る。その爪を噛むような沈黙の時間が、文章の短さから透けて見えた。

既読を付けないまま、天井の薄いシミを眺める。それから、逃げるようにベッドを降りた。

 

ヨレたジャージを頭から被り、鉄製の玄関ドアを開ける。

どろりとした、湿った夜気が肌にまとわりついた。昼間に降った雨が、アスファルトの上で黒く淀んだ鏡のように、街灯の光を鈍く、低く反射している。

 

階段を下りながら、スマホをポケットへ突っ込んだ。

どこか遠くでバイクの排気音が響き、誰かの擦れた声が夜風に千切れる。

世界がどれだけ不穏に傾こうとも、曲がり角の先では、コンビニがいつも通りに白々とした光を撒き散らしていた。

 

 

自動ドアが開く。チャイムの音は、いつからか壊れたまま鳴らない。

 

容赦のない蛍光灯の白。

揚げ物のへたりきった油の匂い。

肉まん機の曇ったガラスの向こうで、数時間前から回っていそうな茶色い塊が、静かに揺れている。

雑誌棚の前には、ネクタイを緩めたスーツ姿の男が、幽霊のように突っ立ってお茶のペットボトルを眺めていた。

 

「いらっしゃいませぇ……」

 

レジの奥、半分眠ったような店員の擦れた声が、広い店内に頼りなく滞留する。

世界のどこにも繋がっていないような、この深夜特有の静けさ。ここにいる間だけは、自分が何者でもないことが許されている気がした。

 

弁当棚の奥、依里が小さくしゃがみ込んでいた。

学校の制服の上に、適当な灰色のパーカーを羽織っている。片方だけ踵のズレた靴下。前髪は、百円ショップのプラスチックのクリップで雑に留められていた。

 

足音に気づくと、彼女は少しだけ視線を泳がせ、丸い目をこちらに向けた。

 

「あれ。来たの」

 

「お前が返信しないから」

 

「え、もしかして監視?」

 

「違う」

 

依里は小さく喉を鳴らして笑った。衣服の擦れる音が、棚の間に静かに響く。

その少し子供っぽい笑い方に、胸の奥のざらついた塊が、ほんの少しだけ形を崩す。

いつもの依里だ。世界に置いていかれそうな俺の前にいる、ただの幼馴染。

 

「ねえ、プリンどっちがいいと思う? こっちのなめらか派と、いつもの硬め派」

 

「知らねえよ」

 

「えー、冷たい」

 

言いながら、彼女は結局、一番値段の安いカスタードプリンをカゴへ落とした。コト、とプラスチックの乾いた音がした。

無言で隣の棚へ視線を移す。

 

「あ、またカルボナーラ。お前そればっかだな」

 

「だっておいしいし」

 

「毎回食ってるだろ、飽きないの?」

 

「透だって、毎回これじゃん」

 

依里の細い指先が、俺の手元にある明太マヨおにぎりを突く。爪の先が小さく触れた。

言い返せなくて、そのままおにぎりをカゴに入れた。依里が、嬉しそうに小さく肩を揺らす。

 

レジへ歩き出す途中、依里は無意識に親指の爪を小さく噛んだ。

昔からの癖だ。何か、俺には触れさせないような重い考え事があるときの。

 

「お弁当、温めますか」

 

「あ、お願いします」

 

店員の手によって、カルボナーラが四角いレンジの中に閉じ込められる。

ぶぅん、と重い駆動音が足元から響き、透明なガラスの向こうで、プラスチックの器がゆっくりと回り始めた。

 

依里はぼんやりと、その規則的な回転を見つめていた。オレンジ色の光に照らされた彼女の横顔はひどく白く、どこか遠い。

眠そうで、少しだけ疲れていて。

でも、このレンジの音を聞いている間だけは、彼女は間違いなくここにいる普通の女子高生だった。

 

チーン、と電子音が鳴り、店員が取り出した瞬間、容器の端が熱でぐにゃりと歪んでいた。

 

「うわ、熱っ……!」

 

袋を受け取った依里が、小さく指先を引く。

 

「お前、また店員に任せきりにしたろ。温めすぎだ」

 

「だって、あのレジの人、ボタン二回押したんだもん……」

 

「ちゃんと言えよ」

 

袋の隙間から、やたらと濃いチーズの匂いと、少しだけ溶けたプラスチックの安っぽい臭いが混ざって漂ってくる。

依里は熱々の容器を手のひらの中で弾ませながら、可笑しそうに笑った。

 

「あつ、待って、本当に熱い。指が溶ける」

 

「馬鹿だろ。少し冷ましてから持てよ」

 

「でもさ、これが冬だったら、すっごく幸せだったかもね」

 

「今、六月だぞ」

 

自動ドアを抜けると、外の夜風が肌にひんやりと触れた。

白い街灯の下、依里は弁当を大事そうに抱えたまま、また「あつっ」と小さく声を漏らす。その少し後ろを、呆れたふりをしながら歩いた。

この歩幅のままでいい、と強く思いながら。

 

けれど、依里はビニール袋の中を覗き込んだまま、突然、その場に足を止めた。

 

「あ」

 

「……何だよ」

 

「スプーン、入ってない」

 

「戻るか」

 

「うーん、あの店員さんもう寝そうだし、めんどくさい」

 

「じゃあどうすんだよ」

 

依里は少しだけ首を傾げてから、コンビニのすぐ脇にあるガードレールの前で、おもむろに弁当のビニールを引き裂いた。

ぷつぷつと不格好な泡を立てるソースから、白い湯気が夜の闇へ立ち上る。

 

「はい」

 

彼女はパーカーの袖で手を覆いながら、容器ごとカルボナーラを俺の口元へ突き出してきた。

 

「熱いから嫌だ」

 

「いいから。ほら、毒見」

 

「使い方が間違ってる」

 

「いいじゃん、はい、あーん」

 

拒絶するよりも、彼女の顔が近づくことのほうが耐えがたくて、諦めて口を開けた。

直後、容赦のない熱量が舌を焼く。

 

「っ、熱っっ!?」

 

「でしょ!? 私の指の痛みが分かった?」

 

依里は声を立てて、本当に楽しそうに笑った。街灯の白い光に照らされて、その瞳の奥が、子供みたいに揺れている。

口の中を必死に冷ましながら、湧き上がる痛みの裏側で、ひっそりと願っていた。

 

こういうので、いい。

世界がどうなろうと、誰が死のうと、この安っぽいプラスチックの臭いと、焦げたソースの熱さだけがあればいい。ずっと、これだけで。

 

 

帰り道、住宅街は死んだように静まり返っていた。

濡れたアスファルトが、等間隔に並ぶ街灯の光を吸い込んで、どこまでも黒い。

どこかの家の二階から、かすかに深夜ラジオの楽しげな音声が漏れて、そのまま湿った夜風に消えていく。

 

依里はプリンを片手に歩いていた。

スプーンがないからと、コンビニでもらった細いストローを突き刺して、器用に吸い上げている。

 

「……絶対、食べづらいだろ、それ」

 

「うん、全然入ってこない」

 

「じゃあなんで続けてんだよ」

 

「なんか、ここで諦めたら負けな気がして」

 

ふっと鼻で息を抜いた。依里はそれを見て、安心したように小さく肩の力を抜く。

 

会話が途切れた。

けれど、二人の間に流れる沈黙は少しも冷たくなかった。昔からそうだった。

同じ街灯の薄暗い帰り道。

同じレジ袋の擦れる乾いた音。

何も言わなくても通じる、少し重たい空気。

 

依里がストローを咥えたまま、ぼんやりと曇った夜空を見上げる。

 

「ねえ、透。進路、どうするの」

 

唐突な問いに、自分の泥で汚れたスニーカーのつま先へ視線を落とした。

 

「……別に。まだ何も」

 

「別に、って。もう三年の夏だよ?」

 

「決まってねえよ。俺には、お前みたいな才能とかないし」

 

「そっか」

 

依里はそれ以上、踏み込んでこなかった。

その優しさに少しだけ安堵し、同時に強烈な劣等感を抱く。自分だけがこの泥濘に取り残されて、世界から置いていかれる感覚。周りの奴らはみんな、何かになっていく。進学して、就職して、あるいは──戦って、誰かに必要されて。

自分だけが何にもなれないまま、ただコンビニの弁当を消費している気がした。

 

「依里は」

 

「んー?」

 

「なんか、決まってんのかよ」

 

依里の歩幅が、ほんの少しだけ遅くなった。ストローが容器の底を擦る、ズズ、という擦れた音が、妙に大きく響く。

 

「……どうだろ。私にも、よく分かんないな」

 

「またそうやって誤魔化す」

 

「本当に分かんないんだってば」

 

彼女はそう言って笑った。けれどその微笑みは、夜の闇に紛れてひどく頼りなく、無理に形を作っているように見えた。

 

「でもね」

 

依里は中身のなくなったプリンの空容器を見つめながら、ぽつりと言った。

 

「もし……私を必要としてくれる人がいるなら、その人のために頑張りたいな、とは思う」

 

心臓が、冷たい針で突かれたように跳ねた。

 

「誰に」

 

「え?」

 

「誰に必要とされるんだよ」

 

声が、自分が思っていたよりも低く、濁っていた。

依里は困ったように、視線を泳がせる。

 

「……えっと、いっぱいの人、かな?」

 

「雑だな」

 

「もう、透はひどいね」

 

依里はまた冗談めかして笑う。だが、その声は夜風の冷たさに吸い込まれて二度と戻らない。

指先が、ポケットの中で小さく震えていた。

 

いっぱいの人。世界。俺の知らない、どこかの誰か。

依里がその「いっぱい」の中へ行ってしまったら、俺をここに繋ぎ止めてくれる証明は、一体誰がしてくれるのだろう。彼女が世界のものになっていく恐怖が、黒いシミのように内面を浸食していく。

 

横断歩道の前で、依里が足を止めた。

信号は鮮やかな赤。

午前二時の住宅街。車なんて一台も通りかかるはずがない。それでも二人は、示し合わせたようにその場から動かなかった。この赤信号が、ずっと変わらなければいいのにと、足元の薄い影を見つめる。

 

依里が小さく息を吐いた。

 

「……じゃあ、帰ろっか」

 

カチリ、と硬い音がして、信号が青に変わる。

二人は並んで、再び暗闇の中へと歩き出した。

 

 

その時だった。

 

空を裂くようなサイレンが、街の静寂を暴力的にぶち破った。

長く。

低く。

内臓を直接揺さぶるような、不吉な重低音。

顔を上げるより早く、ポケットの中でスマホが狂ったように震え出す。

 

『緊急避難警報』

『第七種警戒区域指定——使徒、接近』

 

「……また、きた」

 

依里が呟いた。その声には、恐怖よりも先に、酷く乾いた諦めが混ざっていた。

頭上の街灯が、ジジ……と不快なノイズを立てて、一瞬だけ激しく明滅する。

 

遠くの空が、夜の闇を焼き殺すような、不気味な赤色に染まっていく。

地鳴り。

足の裏から伝わる微弱な振動が、アスファルトの上の水たまりを細かく揺らした。

どこかのスピーカーから、割れた避難放送が流れる。

 

『繰り返します。市民の皆様は、直ちに——』

 

ノイズの海に溺れて、言葉の続きは聞こえない。

 

依里はまだ、胸元に熱の残ったカルボナーラの容器を抱えていた。そこから立ち上る白い湯気が、赤い空へと弱々しく溶けていく。

ふと、依里の足が止まった。

つられて、私も足を止める。

 

遠くの空。

重苦しく渦巻く黒い雲の奥から、巨大な何かの輪郭が、光を吸い込みながら落ちてくる。

神の審判が始まる。

 

次の瞬間、街の光がドミノ倒しのように一斉に消え去った。

自動販売機の明かりも、遠くの街灯も、世界のすべてが漆黒に塗り潰される。

 

完全な闇。

息が詰まるほどの静寂。

その暗闇の中で、依里がゆっくりと俺のほうを振り向いた。

遮断された世界の中で、彼女の瞳だけが、かすかに光を宿しているように見えた。

 

「……透」

 

その声を最後に、世界は決定的に途切れた。




第壱話「コンビニの灯り」を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

日常が足元から削れ、世界が壊れ始めた瞬間、戦う力を持たない透と、他人のためにしか動けない依里の運命が、ここから大きく狂い始めます。
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