第拾壱話 「名前の葬列」
軍施設の受付ロビーは、昼なのか夜なのか分からない光で満ちていた。
白い。ただ、それだけだった。
壁も、床も、天井も、置かれた椅子も。
人間の生活から削ぎ落とされた色だけで構成された箱の中に、自分だけが場違いな泥の塊みたいに立っている。
受付カウンターの向こうで、女が無表情に端末を操作していた。
「面会許可コードを確認しました。特別適合者・小宮依里との接触時間は十分間です」
キーボードを叩く音だけが、硬質に響く。
その音を聞いていると、ふと、依里が赤色を見失った日のことを思い出した。
濁った緑色のペンを握って、「綺麗な赤だね」と笑っていた横顔。
……あの頃は、まだ。まだ、“戻れるかもしれない”と思っていた。
喉の奥が焼ける。
「こちらへ」
無機質な声に促され、白い廊下を歩く。蛍光灯が眩しすぎて、頭痛がした。
左右の壁には等間隔でモニターが埋め込まれていて、戦況データと数値だけが淡々と流れている。
《白峰隊 第七防衛ライン維持》
《小宮依里 同期率149.8%》
《人格摩耗率:測定安定》
人格摩耗率。人間の心を、ガソリン残量みたいに表示するな。
奥歯を噛み締めた瞬間、遠くの自動ドアが静かに開いた。
白。最初に見えたのは、軍服だった。
一点の皺もない純白の布地。胸元の認証プレート。綺麗に揃えられた黒髪。爪の先まで磨き上げられた、滑らかな指先。
依里だった。
……なのに。
胸の奥が、氷水を流し込まれたみたいに冷えた。
「――こんにちは、水瀬くん」
ぺこり、と。教科書通りみたいに綺麗なお辞儀。
角度まで正確だった。俺は、言葉を返せなかった。
依里が顔を上げる。その瞳の奥で、青い光が一瞬だけ明滅した。まるでスマホの認証画面みたいに。
「ミナセ、トオル……くん」
一拍。ほんのわずかな沈黙。
「データにあります。私の、大切な……」
言葉が止まる。依里の視線が、宙を滑った。何かを探している。けれど、見つからない。
“幼馴染”。“好きな人”。“居場所”。
そういう、人間だった頃なら自然に繋がっていたはずの意味が、彼女の中で綺麗に欠落している。
だから依里は、困ったみたいに少しだけ笑った。
「……えっと」
青い光が、また瞬いた。
「私を支援してくれる、重要協力者です」
機械みたいな発音だった。
その瞬間、地下施設で見た白峰澄花の目を思い出した。あの、空っぽの英雄。完璧な笑顔のまま、人間だけが抜け落ちていた女。
依里の瞳は、もう完全にそこへ辿り着きかけていた。
「透」
反射的に名前を呼ぶ。依里は小さく首を傾げた。
「あ……はい」
返事が、一瞬遅れる。名前を“認識”してから、“対応する反応”を検索しているみたいな間。
心臓が嫌な音を立てた。
依里は近づいてくる。軍服の袖が、擦れる。
微かに焦げた鉄の匂い。高熱蒸気の匂い。薬品。もう、アパートの柔軟剤の匂いはほとんど残っていない。
「本日は、お見舞いに来てくださってありがとうございます」
敬語だった。完璧な。他人への。
私は何か言わなきゃいけなかった。でも、喉がうまく動かない。
「現在、私は安定稼働中です。前回戦闘における損傷も、ナノマシン修復で問題なく――」
「依里」
遮る。彼女がぴたりと止まった。
「……何だよ、その喋り方」
言った瞬間、依里の瞳がわずかに揺れる。ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、人間の顔に戻りかける。
けれど、次の瞬間には、また青い光が走った。
「申し訳ありません。現在、対人コミュニケーション最適化プロトコルを――」
「やめろ」
声が掠れた。
依里が黙る。静かだった。空調の風の音だけが響く。
昔なら。たぶん今頃、依里は困ったみたいに笑って、「ごめんごめん、なんか変だった?」って、自分の頭を小突いていた。
でも、目の前の依里は、もうその“間違え方”すら忘れている。
人間の崩れ方じゃない。修正されている。最適化されている。削られている。世界を守るために。
「……透?」
依里が小さく俺の名前を呼ぶ。
違う。それはもう、私の名前じゃない。システムが表示しているラベルだ。QRコードみたいに読み取られた記号。それだけだった。
◇
施設を出たあと、しばらく何も考えられなかった。
空が暗い。雨が降りそうだった。
軍施設の裏手にある喫煙所で、数人の兵士が缶コーヒーを飲みながら笑っている。
「白峰型、マジで当たり個体だな」
「小宮の方だろ? あれ。同期率おかしい」
「人格摩耗ほぼ無しで150近いぞ」
「使えるうちに使い倒さねえとな」
笑い声。ガチャ、と缶が鳴る音。それだけで、胃がひっくり返りそうだった。
使えるうちに。まるで工具の話みたいに。
依里はまだ生きてる。まだ、笑う。まだ、俺の名前を呼ぶ。
なのにこいつらは、もう“壊れる前提”で話している。
拳が震えた。でも殴れなかった。
E判定。役立たず。ただの一般人。そんな言葉が、頭の奥で何度も反響する。
……違う。違うだろ。
待ってるだけじゃ、何も変わらなかった。
嘘を吐いて。誤魔化して。日常のフリをして。その結果がこれだ。
依里の中から、俺が消えた。
だったら。もう。普通の人間でいる意味なんか、どこにもない。
◇
戦後処理部門の受付は、施設の地下にあった。
壁の色だけが少し違う。白じゃない。灰色だ。乾いた血みたいな色。
カウンターに座っていた男が、俺のE判定通知を見て鼻で笑った。
「前線適性ゼロ。まぁ、回収屋なら問題ない」
紙の束を放られる。
《戦闘区域遺品回収・死体処理補助契約書》
インクの匂い。安っぽいボールペン。
私は黙ったまま、ペンを握る。指先が軋む。
依里の指は、もうあんなに綺麗だった。ナノマシンで修復されて、傷ひとつなくて。
でも俺の指は違う。プリンの容器を拾った日から、ずっと傷だらけだ。
ボールペンのプラスチックが、ミシ、と嫌な音を立てた。
契約者氏名。その欄を見つめる。
水瀬透。
依里の中から消えた名前。無意味な記号。ノイズ。
だったら、そのノイズごと、地獄へ持っていく。
俺は、紙が破れそうな筆圧で、自分の名前を書き殴った。
水瀬透。
インクが滲む。ペン先で紙が抉れる。それでも止めなかった。
男が呆れたようにこちらを見る。
「……そんな力入れなくても逃げねえよ」
知らない。そんなこと。
契約書を叩き返す。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに壊れる音がした。
戻れない。もう、二度と。
六畳一間で、プリンを食って笑ってた頃には。