ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第拾弐話 「遺品たちの夜」

最初に覚えたのは、匂いだった。

 

鉄でも、硝煙でもない。もっと生温かくて、湿っていて、喉の奥にぬるりと貼りつくような臭気。焦げた脂肪の匂いだった。

 

「おい新人、止まるな」

 

怒鳴り声が飛ぶ。

俺は反射的に肩を震わせ、泥だらけの長靴を動かした。

 

夜の戦闘区域。

崩れた高架道路。黒く焼けたコンビニ。ひしゃげた車。砕けたガラス。

そこら中に、水溜まりみたいに血が広がっている。赤、というより黒だった。乾きかけた塗料みたいに粘ついている。

 

「回収袋足りねえぞ!」

「そっち腕だけ先に運べ!」

「識別タグ確認しろ、混ざってんぞ!」

 

怒号。金属音。遠くでまだ燃えている炎の爆ぜる音。

俺は黙ったまま、崩れた瓦礫の隙間に手を突っ込んだ。

 

冷たい。何かの指だった。

反射的に息が止まる。軍手越しでも、人間の肉の柔らかさだけは嫌になるほど分かった。

 

「……っ」

 

吐きそうになる。けれど周囲の回収兵たちは誰も気にしない。

年上の男が煙草を咥えたまま、死体袋を蹴飛ばしている。

 

「新人。吐くなら端で吐け。袋の中に入れんなよ」

 

下卑た笑い声。私は何も返せなかった。

 

スコップを握る。前話で契約書に叩きつけた指先は、もう爪の間まで黒く汚れていた。泥。血。煤。

依里の指とは、まるで別の生き物みたいだった。

 

 

「……あ」

 

瓦礫の下から、スマホが出てきた。画面はひび割れていた。けれど、待ち受けだけはまだ映っている。

若い夫婦。小さな子供。海らしい場所だった。女の子が、ピースして笑っている。

 

俺は少しだけ、その画面を見つめた。

たぶん、この兵士にも部屋があった。疲れて帰って、コンビニ飯食って、適当にシャワー浴びて、誰かに「おかえり」って言われる夜があった。

依里とプリンを食っていた、あの六畳一間みたいな。

 

「……」

 

スマホの通知欄には、未送信メッセージが残っていた。

《帰ったらまた今度、水族館――》

 

途中で途切れている。送信できなかった言葉。

私は無意識に、自分のポケットへ触れた。

 

もう、依里との写真は入っていない。軍施設へ通い始めた頃、いつの間にか失くした。

なのに、指先だけが、まだそこに何かがある気がしている。

 

「おい新人!」

 

怒声。俺が顔を上げた瞬間だった。

 

空気が、鳴いた。

キィィィ――――……と。金属を無理やり捻じ曲げたみたいな音。全身の毛穴が総立ちになる。

 

「残滓だ!!」

 

誰かが叫ぶ。次の瞬間、一人の回収兵の上半身が消えた。

爆発じゃなかった。潰れた。

見えない巨大な何かに押し潰されて、肉と骨が一瞬でアスファルトへ広がった。

 

遅れて、血が降る。温かい液体が頬に飛び散った。

 

「う、わ――」

 

誰かが腰を抜かす。逃げる。でも遅い。

黒い影が、瓦礫の向こうで蠢いていた。使徒の残滓。

本体は討伐済み。なのに死にきれなかった感情だけが、泥みたいに残っている。それが、人間を探している。

 

「支援は!?」

「白峰隊は!?」

「まだ来ねえのかよ!!」

 

通信機のノイズ。悲鳴。

俺の手からスコップが滑り落ちた。武器なんかない。回収兵には最初から与えられていない。

戦う必要がないから。

違う。“死ぬ役目”だからだ。本物の英雄が到着するまでの餌。ただそれだけ。

 

目の前で、また一人潰れた。肉の裂ける音。コンクリートに何か柔らかいものが叩きつけられる湿った音。

喉が震える。怖い。当たり前みたいに怖かった。死にたくない。まだ、まだ依里を――

 

その瞬間だった。

 

夜空が、白く裂けた。

轟音。遅れて衝撃波。空気が一瞬で押し飛ばされ、私は泥の上へ叩き伏せられた。

 

白い蒸気。焼けるような熱。

そして、純白。

 

軍服が、血の雨の中へ静かに降り立つ。

 

「――脅威対象を確認」

 

俺は息を止めた。

依里だった。

 

白峰隊の純白兵装。青白い粒子光。長い黒髪。

その姿だけが、この地獄の中で異常なほど綺麗だった。

 

使徒の残滓が咆哮する。次の瞬間、依里の姿が消える。

遅れて爆音。黒い影が、跡形もなく蒸発していた。

 

ただ、それだけだった。戦闘ですらない。処理。

圧倒的すぎて、感情が追いつかない。俺は泥の中で、依里を見上げた。

 

「……依里」

 

声が掠れる。依里がゆっくりこちらを向く。

 

青い光。HUD。その瞳が俺を走査する。

一瞬だけ、目が合った。

 

いや、違う。俺の“向こう側”を見ている。

《味方識別》

《戦後処理兵A》

《生存確認》

 

ただのラベル。ただの記号。依里の瞳には、もう“水瀬透”は映っていない。

 

「脅威の排除を完了しました」

 

綺麗な敬語。感情のない声。

その足元には、さっきまで喋っていた回収兵の肉片が転がっている。依里は、一度もそれを見なかった。

 

「これより帰還します」

 

白い蒸気が噴き上がる。俺は反射的に手を伸ばした。泥だらけの手。黒く汚れた指先。

でも、届かない。

 

依里は空へ上がっていく。純白の光だけを残して。

まるで最初から、人間のいる地面なんか存在していないみたいに。

 

 

静かだった。使徒が消えたあとの戦場は、やけに静かだった。

遠くで炎が燃えている。誰かが泣いている。回収兵たちはまた黙々と死体を袋へ詰め始めていた。仕事に戻る。それだけ。

 

俺は泥の中に座り込んだまま、自分の手を見つめた。

爪の間に血が入り込んでいる。臭い。汚い。重い。

 

でも、脳裏に焼き付いて離れないのは、さっき空から降りてきた依里の白さだった。

 

届かない。もう、絶対に。アパートでスープを飲んでいた頃には戻れない。

同じ軍に入っても、同じ戦場に来ても、俺は泥の側で、依里は空の側だった。

 

ゆっくり、血で濡れたスコップを握り直した。

柄の感触が、掌の傷へ食い込む。痛みだけが、妙に鮮明だった。

 

……だったら。

その綺麗な足首を、泥だらけのこの手で、絶対に掴んでやる。

 

たとえ引きずり落としてでも。

もう一度、あの六畳一間へ。

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