最初に覚えたのは、匂いだった。
鉄でも、硝煙でもない。もっと生温かくて、湿っていて、喉の奥にぬるりと貼りつくような臭気。焦げた脂肪の匂いだった。
「おい新人、止まるな」
怒鳴り声が飛ぶ。
俺は反射的に肩を震わせ、泥だらけの長靴を動かした。
夜の戦闘区域。
崩れた高架道路。黒く焼けたコンビニ。ひしゃげた車。砕けたガラス。
そこら中に、水溜まりみたいに血が広がっている。赤、というより黒だった。乾きかけた塗料みたいに粘ついている。
「回収袋足りねえぞ!」
「そっち腕だけ先に運べ!」
「識別タグ確認しろ、混ざってんぞ!」
怒号。金属音。遠くでまだ燃えている炎の爆ぜる音。
俺は黙ったまま、崩れた瓦礫の隙間に手を突っ込んだ。
冷たい。何かの指だった。
反射的に息が止まる。軍手越しでも、人間の肉の柔らかさだけは嫌になるほど分かった。
「……っ」
吐きそうになる。けれど周囲の回収兵たちは誰も気にしない。
年上の男が煙草を咥えたまま、死体袋を蹴飛ばしている。
「新人。吐くなら端で吐け。袋の中に入れんなよ」
下卑た笑い声。私は何も返せなかった。
スコップを握る。前話で契約書に叩きつけた指先は、もう爪の間まで黒く汚れていた。泥。血。煤。
依里の指とは、まるで別の生き物みたいだった。
◇
「……あ」
瓦礫の下から、スマホが出てきた。画面はひび割れていた。けれど、待ち受けだけはまだ映っている。
若い夫婦。小さな子供。海らしい場所だった。女の子が、ピースして笑っている。
俺は少しだけ、その画面を見つめた。
たぶん、この兵士にも部屋があった。疲れて帰って、コンビニ飯食って、適当にシャワー浴びて、誰かに「おかえり」って言われる夜があった。
依里とプリンを食っていた、あの六畳一間みたいな。
「……」
スマホの通知欄には、未送信メッセージが残っていた。
《帰ったらまた今度、水族館――》
途中で途切れている。送信できなかった言葉。
私は無意識に、自分のポケットへ触れた。
もう、依里との写真は入っていない。軍施設へ通い始めた頃、いつの間にか失くした。
なのに、指先だけが、まだそこに何かがある気がしている。
「おい新人!」
怒声。俺が顔を上げた瞬間だった。
空気が、鳴いた。
キィィィ――――……と。金属を無理やり捻じ曲げたみたいな音。全身の毛穴が総立ちになる。
「残滓だ!!」
誰かが叫ぶ。次の瞬間、一人の回収兵の上半身が消えた。
爆発じゃなかった。潰れた。
見えない巨大な何かに押し潰されて、肉と骨が一瞬でアスファルトへ広がった。
遅れて、血が降る。温かい液体が頬に飛び散った。
「う、わ――」
誰かが腰を抜かす。逃げる。でも遅い。
黒い影が、瓦礫の向こうで蠢いていた。使徒の残滓。
本体は討伐済み。なのに死にきれなかった感情だけが、泥みたいに残っている。それが、人間を探している。
「支援は!?」
「白峰隊は!?」
「まだ来ねえのかよ!!」
通信機のノイズ。悲鳴。
俺の手からスコップが滑り落ちた。武器なんかない。回収兵には最初から与えられていない。
戦う必要がないから。
違う。“死ぬ役目”だからだ。本物の英雄が到着するまでの餌。ただそれだけ。
目の前で、また一人潰れた。肉の裂ける音。コンクリートに何か柔らかいものが叩きつけられる湿った音。
喉が震える。怖い。当たり前みたいに怖かった。死にたくない。まだ、まだ依里を――
その瞬間だった。
夜空が、白く裂けた。
轟音。遅れて衝撃波。空気が一瞬で押し飛ばされ、私は泥の上へ叩き伏せられた。
白い蒸気。焼けるような熱。
そして、純白。
軍服が、血の雨の中へ静かに降り立つ。
「――脅威対象を確認」
俺は息を止めた。
依里だった。
白峰隊の純白兵装。青白い粒子光。長い黒髪。
その姿だけが、この地獄の中で異常なほど綺麗だった。
使徒の残滓が咆哮する。次の瞬間、依里の姿が消える。
遅れて爆音。黒い影が、跡形もなく蒸発していた。
ただ、それだけだった。戦闘ですらない。処理。
圧倒的すぎて、感情が追いつかない。俺は泥の中で、依里を見上げた。
「……依里」
声が掠れる。依里がゆっくりこちらを向く。
青い光。HUD。その瞳が俺を走査する。
一瞬だけ、目が合った。
いや、違う。俺の“向こう側”を見ている。
《味方識別》
《戦後処理兵A》
《生存確認》
ただのラベル。ただの記号。依里の瞳には、もう“水瀬透”は映っていない。
「脅威の排除を完了しました」
綺麗な敬語。感情のない声。
その足元には、さっきまで喋っていた回収兵の肉片が転がっている。依里は、一度もそれを見なかった。
「これより帰還します」
白い蒸気が噴き上がる。俺は反射的に手を伸ばした。泥だらけの手。黒く汚れた指先。
でも、届かない。
依里は空へ上がっていく。純白の光だけを残して。
まるで最初から、人間のいる地面なんか存在していないみたいに。
◇
静かだった。使徒が消えたあとの戦場は、やけに静かだった。
遠くで炎が燃えている。誰かが泣いている。回収兵たちはまた黙々と死体を袋へ詰め始めていた。仕事に戻る。それだけ。
俺は泥の中に座り込んだまま、自分の手を見つめた。
爪の間に血が入り込んでいる。臭い。汚い。重い。
でも、脳裏に焼き付いて離れないのは、さっき空から降りてきた依里の白さだった。
届かない。もう、絶対に。アパートでスープを飲んでいた頃には戻れない。
同じ軍に入っても、同じ戦場に来ても、俺は泥の側で、依里は空の側だった。
ゆっくり、血で濡れたスコップを握り直した。
柄の感触が、掌の傷へ食い込む。痛みだけが、妙に鮮明だった。
……だったら。
その綺麗な足首を、泥だらけのこの手で、絶対に掴んでやる。
たとえ引きずり落としてでも。
もう一度、あの六畳一間へ。