夜更けのアパートは、ひどく静かだった。
冷蔵庫の駆動音だけが、六畳間の隅で小さく唸っている。
俺は、床に散らばった工具の真ん中に座っていた。
解体用の端末。違法改造された軍用ケーブル。血の跡が残る手袋。
そして、机の中央に置かれた、青い結晶。
蛍光灯の白を吸い込むみたいに、結晶の奥で青い光がゆっくり脈打っていた。依里の目と同じ色だった。
俺はしばらく、それを見ていた。
窓の外では、雨が降っている。あの日と同じだった。プリンを踏み潰した夜と。
俺は小さく息を吐くと、端末を起動した。画面に大量のコードが流れる。
『人格同期領域』
『識別優先度』
『HUD認証階層』
その中に、『戦後処理兵A』という文字列を見つける。
俺の喉の奥が、ゆっくり焼けた。それが今の自分だ。依里の瞳に映る、俺の名前。
水瀬透ではない。ただの処理番号。ノイズ。
俺は無言で、結晶を接続ケーブルへ押し込んだ。
瞬間、耳の奥で、女の声が弾けた。
『──帰ったら、カルボナーラ作るね』
知らない少女の記憶。頭蓋の内側へ、直接流れ込んでくる。
俺は歯を食いしばった。鼻血が一滴、唇へ落ちる。塩の味はしなかった。
端末が悲鳴みたいな警告音を鳴らす。
『非適合者』
『接続拒否』
『神経侵食率上昇』
「……うるせぇな」
俺は自分の右腕へ、接続端子を突き刺した。
肉の裂ける音。遅れて熱が来る。焼けた鉄を神経へ流し込まれるみたいな激痛だった。
視界が白く瞬く。けれど俺は、ケーブルを抜かなかった。
依里は、もっと痛かったはずだ。味覚を失って。色を失って。音を失って。自分を失って。それでも笑っていた。
だったら、これくらいで止まれるわけがなかった。
青い光が、俺の右目の奥で弾けた。
鏡の中の自分の瞳が、一瞬だけ歪に発光する。
依里の青は、澄んでいた。静かな海みたいに。
けれど俺の青は違う。ノイズだった。壊れた蛍光灯みたいに、不規則に点滅している。
結晶のコードが、脳へ無理やり流れ込んでくる。
『認証書き換え』
『識別階層汚染』
『HUDバグコード生成』
俺は震える指で、回収用スコップの柄を掴んだ。内部を無理やり剥がし、配線を押し込む。金属の中へ、青い結晶の欠片を埋め込む。
戦場の泥を掘り返すための道具。死体を拾うための道具。それが今、依里を世界から強奪し返すための刃へ変わっていく。
俺は小さく笑った。笑い方を、少し忘れかけていた。
◇
高熱で目が覚めた時には、外が明るくなりかけていた。
身体が重い。指先の感覚が、薄い。
俺はふらつきながら冷蔵庫を開けた。奥に、プリンが一つ残っていた。コンビニの安いやつ。依里がよく買っていたやつだ。
スプーンを差し込む。柔らかい感触。口へ運ぶ。
冷たい。ただ、それだけだった。
甘さが分からない。カラメルの苦味も、卵の匂いも、何もない。舌の上に、冷えた物質が乗っているだけだった。
俺はゆっくり飲み込む。喉だけが動く。
あの日、依里も、こんな感じだったのだろうか。
「……そっか」
声が掠れた。笑おうとして、失敗する。
机の上では、改造されたスコップの先端が青く明滅していた。
◇
軍施設のドックは、相変わらず白かった。白すぎて、温度が分からなくなる。
格納庫の中央で、依里が静かに立っていた。
純白の軍服。背筋を伸ばした姿勢。髪は綺麗に整えられている。指先まで、完璧だった。
もう、コンビニでプリンを抱えて笑っていた少女には見えない。
俺はモニター越しに、その姿を見つめていた。依里の前へ、白峰澄花が歩み寄る。
白い軍服。青い瞳。感情の抜け落ちた、美しい顔。
「小宮依里」
白峰の声は静かだった。
「あなたから、未処理のノイズを観測しています」
依里が瞬きをする。
「……ノイズ?」
「個人的記憶領域の残滓です。戦闘精度を低下させます」
依里は少し黙った。それから、小さく笑う。
「大丈夫です。ちゃんと、消しますから」
俺の喉が、ゆっくり軋んだ。白峰は依里の瞳を覗き込む。
「次の戦闘後、再調律を実施します」
「了解しました」
綺麗な敬語だった。完璧だった。
その瞬間、俺の右目が、ズキ、と熱を持つ。視界の端で、青いノイズが弾けた。
『対象認識』
『小宮依里』
『識別階層へ侵入開始』
俺はモニターを握り締める。指先の感覚は、もう半分くらい消えていた。
でも、それでよかった。
依里が神様の部品になるなら、自分は、その神様を壊すための、傷になればいい。
警報サイレンが鳴る。格納庫の扉が開く。
依里が振り返る。
一瞬だけ。
彼女のHUDの青と、俺の右目の歪な青が、遠く空中で噛み合った。
バチ、と。小さなノイズが走った。
依里が微かに眉を寄せる。
「……?」
その違和感は、一秒も続かなかった。
白い光。推進音。依里の身体が空へ消える。
俺は暗いモニターの前で、ゆっくり立ち上がった。ポケットの中の青い結晶が、熱を持っている。
もう戻れない。
俺は、自分の右目を押さえた。指先の感覚は曖昧なのに、その奥の熱だけは、妙にはっきり分かった。
「これでようやく」
掠れた声が、白い部屋へ落ちる。
「お前と同じ地獄に行ける」