最初に覚えたのは、脳を直撃する電子の悲鳴だった。
キィィィィィン、と、鼓膜の裏側で高周波のノイズが爆ぜる。
俺は反射的に右目を押さえた。指の隙間から、壊れた蛍光灯のような、歪で不規則な青い光が漏れ出す。
戦場の臭い──焦げた脂肪と硝煙の匂いが、右目の奥の熱と混ざり合って、喉の奥に鉄の味を押し上げてくる。口に含んだままの、味のしないプリンの冷たさが、まだ内臓のどこかに残っている気がした。
「おい新人……! 何してんだ、早く袋を──」
先輩の回収兵の声は、途中で掠れた。
死体処理の作業を遮るように、上空の闇が白く裂けたからだ。
凄まじい推進音。遅れて衝撃波。
純白の軍服を纏った小宮依里が、血の雨が降る戦場跡地へ、一閃の光となって降り立つ。
使徒の残滓が咆哮を上げる暇すらなかった。依里が腕を微かに振るった瞬間、青白い粒子光が闇を薙ぎ払い、黒い影は一瞬で蒸発した。
戦闘ではない。ただの、効率的な排除。
処理を終えた依里は、表情一つ変えないまま、その青い瞳(HUD)をゆっくりと動かした。網膜の走査線が、泥の中に突っ立っている俺の顔を素通りする。
《味方識別:戦後処理兵A》
「脅威の排除を完了しました。これより帰還──」
完璧に美しい、人形の敬語。彼女の背の推進器が、再び天へと舞い上がるために白煙を噴き上げる。
「行かせるかよ」
俺の掠れた声は、推進音に掻き消された。
だが、身体はもう動いていた。
俺は背中に背負っていた、違法改造済みの回収スコップを、泥の地面へと力任せに突き立てた。金属の柄に埋め込んだ「青い結晶の欠片」が、俺の右手の神経を通じて、右目の歪なノイズと完全に同調する。
「──適合率、強制接続(ハック)」
俺の右目が、爆発したかと思うほどの激痛に襲われる。視界の右半分が真っ黒に染まり、代わりに冷たい電子の奔流が、俺の肉体からスコップを伝って、戦場の地面へ、そして大気へと、目に見えない触手となって広がっていった。
バチ、バチチチッ! と、大気が不気味な紫電を帯びて爆ぜる。
その瞬間、上空へ跳ね上がろうとしていた依里の身体が、不自然に静止した。
「……え?」
初めて、依里の口から「システムに用意されていない声」が漏れた。
彼女の純白の兵装から、青白い綺麗な光が消える。代わりに、禍々しい赤い発光──『CRITICAL ERROR』の文字が、彼女の全身の装甲を覆うように明滅し始めた。
キィィィィィ──!
推進器が異常出力を起こし、耳を裂く金属音が響く。バランスを完全に失った「兵器」は、空へ昇る翼をへし折られ、重力に引かれるまま、地面へと真っ逆さまに墜落した。
ドガァァン! と、激しい破壊音を立てて、依里の身体がアスファルトを砕き、泥水の中へと激しく転がった。
あの、指先一つまで完璧に統制されていた純白の軍服が、戦場の黒い泥と、死兵たちの血の混ざった汚水に、ぐしゃぐしゃに塗れていく。
「あ……が、っ……う,あ……!」
泥の中に四肢を投げ出した依里が、身体を弓なりに反らせて、激しく痙攣し始めた。
彼女の網膜のHUDが、俺の仕込んだバグコードによって完全にクラッシュしているのだ。脳殻に直接埋め込まれた戦闘チップがショートを起こし、強制再起動の電気ショックが、彼女の繊細な神経を内側から焼き流していく。
「依里」
俺は泥を蹴って、彼女へ歩み寄った。
右目からは、熱い血がボタボタと地面に落ちている。視界はもう、左目の半分しか残っていない。指先の感覚は完全に死んでいて、スコップを握っているのかどうかも分からない。
それでも、俺は泥の中に倒れる彼女を見下ろした。
最高に綺麗で、最高に醜かった。
神様の座から引きずり落とし、俺と同じ泥水の中で、苦痛に顔を歪めている少女。
俺はスコップを放り出すと、泥まみれの手を伸ばし、彼女の細い、剥き出しの「綺麗な足首」を、物理的にガシリと掴んだ。
「──あ」
掴んだ瞬間、依里の身体が大きく跳ねた。
彼女の瞳の奥で、クラッシュしたHUDの走査線が激しく乱高下する。
『認証……エラー……個人的記憶領域……混、線……』
『水……瀬……ト、オル……?』
カチ、と、彼女の脳の中で、何かのスイッチが無理やり切り替わる音が聞こえた気がした。
依里の瞳から、冷徹な兵器の光が消える。涙と、そして鼻と耳の隙間から、ナノマシンの混ざった青黒い血がぬるりと流れ出した。
彼女は、泥まみれの顔を必死に上げて、俺の顔を、まっすぐに見つめた。
「とお、る……? 痛い、よ……頭が、壊れちゃう……助けて、透……!」
敬語ではなかった。
アパートの六畳一間で、雷の音に怯えて俺の袖を掴んでいた、あの頃の、ただの小宮依里の声だった。
俺の胸の奥が、狂おしいほどの歓喜と、抉られるような絶望で同時に満たされる。
ハッキングは成功した。俺のノイズが、彼女に「水瀬透」を思い出させた。
だけど、その代償は、彼女の脳殻を物理的に破壊し尽くすという、最悪の等価交換だ。
依里は壊れたレコードのように、青黒い血を吐きながら言葉を繰り返す。
「プリン……カルボナーラ……透……忘れないって、言ったのに……痛い、痛いよ……!」
ウゥゥゥゥゥゥン──!
その時、廃棄区域の全域に、鼓膜を圧殺するような非常警報のサイレンが鳴り響いた。
ドックの追跡システムが、白峰隊の「致命的なバグ」を検知したのだ。
遠くから、白峰澄花を筆頭とする本隊の、圧倒的な圧力を伴った接近音が聞こえてくる。システムが強制修復されるか、あるいは俺が「排除すべき害獣」として駆除されるまで、もう数分もない。
俺は、青黒い血を流して泣き叫ぶ依里の身体を、泥まみれの腕で強く抱きしめた。
指先の感覚はない。でも、彼女の骨の細さだけは、嫌になるほど分かった。
「ああ、やっぱり」
俺は、壊れた右目で、泥に汚れた依里の顔を見つめながら、歪んだ笑みを浮かべた。
「お前は、この泥の中が一番似合ってるよ、依里」
もう日常には戻れない。二人とも、完全に壊れてしまった。
だけど、俺たちはようやく、同じ地獄の底で、お互いの名前を呼び合えたんだ。
迫り来る白峰隊の白い光を背に受けながら、俺は依里の身体を抱えたまま、さらに深い暗闇へと、その足を一歩踏み出した。