雨は、まだ降っていた。
戦場の熱を冷ますには足りない、ぬるい雨だった。
崩れた高架の下で、俺は依里を抱えていた。白い兵装は、ところどころ黒く焼けている。裂けた装甲の隙間から、青白い配線みたいなナノマシンの束が覗いていた。
呼吸は浅い。けれど、まだ生きている。
「……とおる」
腕の中で、依里が小さく呟く。
熱があった。戦闘用に最適化された肉体なのに、今は壊れかけた子供みたいに震えていた。
遠くで、サイレンが鳴っている。捜索部隊。時間がない。
俺は瓦礫の奥へ身体を滑り込ませた。コンクリートの隙間。光の届かない場所。
鉄と血の匂いが、雨に混ざっている。
依里の頭を胸に引き寄せる。彼女は抵抗しなかった。むしろ、安心したみたいに俺の服を掴んだ。
「……あったかい」
その声だけで、肺の奥が痛かった。
第一部のころみたいだった。
あの六畳一間。安い毛布。コンビニ帰りの夜。冷えた指先。塩辛いスープ。イヤホンの雑音。くだらない会話。
全部、壊したのは俺だ。
依里は俺の胸に額を押しつけたまま、ぼんやり笑った。
「透……ねえ……」
「……なんだ」
「帰ったら、プリン……食べよ……」
声が、幼かった。脳が崩れている。記憶の層が剥がれて、昔の依里と今の依里がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
それでも、今だけは、確かに俺を見ていた。
「……ああ」
喉が焼ける。
「買ってやるよ。前のやつ」
「……濃いやつ……」
笑った。泣きそうなくらい、いつもの笑い方だった。
その瞬間、空気が変わった。
雨音が遠のく。いや、違う。周囲の音が全部、押し潰された。
白。
瓦礫の向こうから、蛍光灯みたいな白が近づいてくる。
軍靴の音。一定の速度。迷いがない。
依里の身体が、小さく震えた。
「……っ」
白峰澄花だった。
純白の軍服。雨粒すら滑り落ちる装甲。長い銀色の髪。瞳の奥で、静かな青が点滅している。人間じゃない。最初からそうだったみたいに。
彼女は瓦礫の前で立ち止まった。視線がこちらを向く。
その瞬間、俺の右目の奥で、バグコードが軋んだ。視界の端にノイズが走る。
澄花のHUDが展開される。青い走査線。識別。解析。
そして、俺の頭上に、赤い文字が浮かんだ気がした。
『BUG_000』
ただの駆除対象。人間ですらない。
澄花は感情のない声で言った。
「戦闘素体No.13に重大な認識障害を確認」
「原因個体を発見」
「処理を開始します」
依里が、怯えた子供みたいに俺の服を掴む。
「や……」
澄花は一歩近づく。泥を踏まない。血溜まりを踏んでも、白い軍靴は汚れない。
「対象を引き渡してください」
「それが最も損耗の少ない選択です」
俺は依里を抱えたまま、後退った。背中が瓦礫に当たる。逃げ場はない。
「……ふざけんな」
喉から出た声は、掠れていた。
「返せよ」
澄花は首を傾げる。本当に、意味が分からないみたいに。
「その素体は軍の所有物です」
「返却、という表現は不適切です」
依里が苦しそうに息をする。鼻から、青黒い血が零れていた。
「透……」
「大丈夫だ」
嘘だった。もう何度目か分からない。
澄花の青い瞳が、依里へ向く。
「ノイズ汚染が深刻です」
「記憶領域の初期化を実施します」
依里が、びくりと震えた。
「やだ……」
初めて、はっきりした拒絶だった。
「や、だ……透……」
「消えちゃ……」
澄花の指先が、依里の額へ触れる。青い光。
瞬間、依里が絶叫した。
「いやぁぁぁっ!!」
頭を掻きむしる。ナノマシンの光が、皮膚の下を走る。
「透っ、透、名前が、わたし、消え、」
俺は澄花へ飛びかかった。
その瞬間、視界が白く弾けた。
衝撃。
気づいた時には、地面に叩きつけられていた。
肋骨が折れる音がした。呼吸できない。
白い軍靴が、俺の胸を踏みつけていた。重い。人間の重さじゃない。
スコップを握る。振り上げる。
澄花はそれを見もしなかった。
鈍い音。次の瞬間、スコップが粉々に砕け散る。金属片が雨の中へ飛んだ。
「BUG_000の抵抗を確認」
「排除を継続」
肋骨が軋む。血が込み上げる。
でも、笑いそうだった。
依里の悲鳴が聞こえる。
「とおるっ……!」
「やだ、忘れたく、ない……!」
「カルボナーラ、プリン、スープ、透、透、透……!」
言葉が崩れていく。泣きながら、壊れたレコードみたいに。
澄花の青い光が強くなる。
「人格領域の切除を開始」
「ノイズ除去率、87%」
依里の瞳から、色が消えていく。
ああ、終わる。人間の小宮依里が、今ここで。
俺は血を吐きながら、笑った。
右目の奥。まだ、核が残っている。
最後のバグ。澄花は気づいていない。システムは、自分の内側から腐るものを想定していない。
俺は壊れた視界の中で、軍の通信塔を見る。遠く、雨の向こう。
右目の神経を、無理やり接続する。激痛。脳が焼ける。でも、止めなかった。
依里を奪った神様。だったら、世界ごと壊してやる。
ノイズが流れ込む。通信網。HUD。識別システム。青い光の海。そこへ、バグコードを流し込む。静かに、血を流しながら。
澄花が、初めて眉を寄せた。
「……異常通信を検知」
遅い。
依里の身体から、力が抜ける。瞳の青が、完全に安定する。涙だけが、頬に残っていた。
彼女はゆっくり立ち上がる。表情が消えている。
そして、泥の中に転がる俺を見下ろした。
HUDの青い光。
「……戦後処理兵A」
静かな声。
「生存を確認しました」
それだけだった。さっきまで、俺の名前を叫んでいたのに。
◇
雨が降っている。冷たい。
兵士たちの死体が並んでいた。白い袋。砕けた装甲。血溜まり。
葬列だった。人間だったものの、終わりの列。
拘束具が腕にはめられる。誰かが何か叫んでいる。
反逆罪。危険因子。処分対象。
どうでもよかった。口の中が血の味でいっぱいだった。
でも、少しだけ、笑えた。
右目の奥で、青いノイズが、静かに脈打っている。
植え付けた。世界の奥に。
依里を奪ったシステムへ、もっと大きな、致命的な傷を。