ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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世界を殺す約束
第拾漆話 「極刑台のハッカー」


雨の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。

 

地下区画の空気は乾いているのに、透はときどき、あの六畳一間の湿った壁紙の匂いを思い出した。換気扇の回る音。安いレトルトの湯気。窓を叩く夜の雨。

 

もう、どこにもない。

 

白い尋問室は、病院みたいに静かだった。

壁も床も、全部、光を反射している。蛍光灯の白さが、皮膚の内側まで侵食してくるみたいだった。

 

透は金属椅子に固定されていた。両手首。両足首。首。

拘束具の縁が擦れて、皮膚が赤黒く爛れている。

 

右目は、もうほとんど見えていなかった。視界の右半分には、灰色のノイズが貼り付いている。壊れたテレビみたいに、砂嵐がずっと揺れていた。

 

「被験体コード、BUG_000」

 

ガラス越しに、誰かが言った。

 

「脳神経汚染率、継続上昇中。右眼部ナノマシン反応、依然停止せず」

「解析を続行します」

 

機械音声みたいな会話だった。

透は少し笑った。喉が乾いている。笑うたび、肋骨の奥で鈍い痛みが鳴る。

 

誰かが近づいてきて、右目に端子を接続した。

瞬間、頭の奥で、何かが軋んだ。

 

ぶつ、と。

死んだはずの右目の奥で、青い光が一瞬だけ点滅する。その瞬間、透の視界の奥に、文字列が流れた。高速だった。

 

軍用コード。認証鍵。同期率制御。HUDアクセス階層。

 

(──透)

(──カルボナーラ)

(──プリン)

(──忘れない)

 

その全部の隙間に、ノイズみたいに依里の文字が混ざっていた。

 

「……っ」

 

解析官の声が乱れる。端末の画面が一瞬だけフリッカーした。照明が、微かに瞬く。

 

透はゆっくり目を閉じた。

ほら、食いついた。網に。

 

 

尋問は、毎日続いた。

 

脳波。神経。右目の摘出検討。

左腕には注射痕が増え続けた。薬剤が流れ込むたび、世界の輪郭がぼやけていく。

 

最近は、左目まで霞む。人の顔が、少し遠い。

指先の感覚も薄い。水を飲んでも、冷たいかどうか、よくわからなかった。

 

でも、不思議と怖くなかった。

依里も、こうやって、少しずつ世界から剥がされていったんだろうな、と思った。

 

暗い独房。透は床にもたれて座っていた。

壁際の配管から、水滴の落ちる音がする。一定の間隔。

 

ぽた。

ぽた。

ぽた。

 

その音を聞いていると、昔の雨の日を思い出す。イヤホンを半分こしていた夜。依里の肩の温度。

 

「……透」

 

声がした。

透はゆっくり顔を上げた。

 

暗闇の隅。小宮依里が座っていた。

白いワンピース。少し癖のある髪。膝を抱えて、笑っている。

 

もちろん、本物じゃない。本物は、今も前線で使徒を殺している。

これは、脳に焼き付いた残滓だ。右目の奥に残った、壊れ損ねたバックアップ。幽霊。

 

「カルボナーラ、今度はちゃんと卵固まらなかったよ」

 

依里が笑う。

透は少しだけ目を細めた。

 

「お前、毎回失敗してたな」

「だって透が変なタイミングで混ぜろって言うから」

「人のせいにすんな」

 

依里はくすくす笑った。その笑い方だけで、胸の奥が壊れそうになる。

 

透は膝を抱えたまま、小さく息を吐く。

 

「……待ってろよ」

 

依里が首を傾げる。

 

「何を?」

 

透は暗闇を見る。壁の向こう。白い施設。青いHUD。戦闘素体。使徒。結晶。同期率。

 

全部。

 

「すぐ、世界ごと壊してやるから」

 

静かな声だった。でも、その言葉だけは、異様に熱を持っていた。

依里は少し黙って、それから、泣きそうな顔で笑った。

 

「透って、ほんと、怖いね」

 

 

翌日。尋問室。

透の前に、モニターが置かれていた。

 

戦況報告。白い光。崩れた市街地。空中を飛ぶ純白の影。

小宮依里。

 

彼女は、もう一切迷わなかった。使徒を見つける。殺す。次へ行く。

その動きには感情がない。祈りも、恐怖も、躊躇も。ただ、効率だけ。完璧な兵器。

 

『第九戦闘区域、制圧完了』

『損耗率、許容範囲内』

『白峰隊、帰還します』

 

青い瞳が光る。

透は画面を見つめていた。そのとき、モニターが、一瞬だけ乱れた。

 

ぶつ、とノイズ。

依里のHUD表示が、一瞬だけ赤く染まる。

 

解析官が眉をひそめた。

 

「……またか」

「汚染ログ、再発しています」

「感染源を特定しろ」

 

透は笑いそうになるのを堪えた。

 

始まっている。ゆっくり、確実に。

依里が使徒を殺すたび、システムは、その死体を通じて汚染される。

 

戦闘網。通信網。同期回線。

全部、繋がっている。だから、一箇所腐れば、いずれ全部、死ぬ。

 

「被験体」

 

尋問官が透を見る。

 

「何をした」

 

透はゆっくり顔を上げた。左目だけで、相手を見る。もう焦点も少し怪しい。

でも、笑うことだけはできた。

 

「もっと解析しろよ」

 

喉が潰れた声で、透は言う。

 

「俺の脳、好きなんだろ」

 

尋問官が無言になる。

透は拘束具に軋むほど身体を預けて、静かに笑った。

 

「覗け」

 

照明がまた一瞬、明滅する。白い部屋の奥で、電子音が乱れた。

透の死んだ右目の奥で、青い文字列が、静かに増殖していく。

 

「──お前らの神様ごと、全部焼き切ってやる」

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