ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第拾捌話 「約束の底」

夜だった。

正確には、夜ですらなかったのかもしれない。

 

空は燃えていた。

崩れた高層ビルの隙間を、赤黒い光が脈打つみたいに染めている。警報音が、遠くでずっと鳴っていた。耳鳴りみたいに、途切れず。

 

透には、もうほとんど何も見えていなかった。

右目は、とっくに死んでいる。左目も、さっきから白いノイズしか映らない。世界の輪郭が溶けていた。

 

その代わり、頭の奥で、ずっと青い音が鳴っている。

 

ざ、ざ、と。

壊れた無線みたいなノイズ。

 

その奥に、依里がいる。

 

透は瓦礫に手をつきながら、ゆっくり立ち上がった。

指先の感覚はない。血が流れているのかも、もう分からなかった。

 

ただ、進む。あの青いノイズを追いかけて。

 

 

軍中央管制区画。

 

白いモニター群が、一斉に赤へ変色していた。

警告音。

 

ERROR。WARNING。SYSTEM FAILURE。

 

文字列が滝みたいに流れていく。

 

「感染経路を遮断しろ!」

「無理です、同期回線全域に侵食されています!」

「白峰隊とのリンクが切断──」

 

その瞬間、すべての画面が、ぶつりとノイズを走らせた。

 

白。青。赤。激しく点滅して。

次の瞬間、全モニターが、同じ文字列で埋め尽くされた。

 

BUG_000

BUG_000

BUG_000

BUG_000:水瀬透

 

「……っ」

 

誰かが息を呑む。

画面の奥。白峰澄花のHUDも、激しく明滅していた。

 

彼女は微動だにしない。だが、その青い瞳の奥で、初めて、処理不能のノイズが揺れていた。

 

 

依里は、膝をついていた。

戦場の中央。崩れた高速道路の下。

 

使徒の黒い残骸が、周囲でまだ脈打っている。

頭が痛かった。脳の奥を、焼けた針で掻き回されているみたいだった。

 

HUDが壊れている。視界に赤いエラーが何重にも重なって、何も読めない。

 

『SYSTEM ERROR』

『MEMORY CONFLICT』

『人格領域、破損』

『再同期を──』

 

ノイズ。ノイズ。ノイズ。

 

依里は耳を塞いだ。嫌だった。何かが、戻ってくる。

 

冷たいアパート。雨。半分このイヤホン。プリン。カルボナーラ。黒いパーカー。笑い声。名前。

 

「──ぁ」

 

呼吸が詰まる。頭の奥で、鍵が壊れる音がした。

その瞬間、一気に記憶が逆流した。

 

透。透。透。

 

「──とお、る……っ」

 

依里は泣きながら喉を押さえた。

思い出してしまった。全部。

 

忘れたくなかった夜も。忘れさせられた温度も。全部。

 

 

透は、転びながら歩いていた。

もう、本当に見えていない。世界は真っ黒だった。

 

(──ざ、ざ──)

 

でも、依里だけが分かる。右目の奥のノイズが、彼女の場所を教えてくれる。まるで、壊れた神様が、最後に残した呪いみたいに。

 

警報音。爆発。誰かの悲鳴。全部遠い。

透は瓦礫を踏み越えた。

 

そして、ようやく、触れた。

 

細い肩。震えている身体。

依里だった。

 

依里は顔を上げた。青いHUDは、もう消えている。

ただの、人間の目だった。涙でぐしゃぐしゃの、弱くて、怯えている、昔のままの。

 

「……透?」

 

その声だけで、透は、少し笑った。

 

「遅くなった」

 

依里が泣き出す。子どもみたいに、息を詰まらせて、透の胸にしがみついた。

 

「怖かった……っ、ずっと……っ」

 

透は、泥だらけの腕で抱き締める。

感覚はない。でも、腕の中に依里がいることだけは分かった。

 

世界が壊れていく音がする。遠くで、防衛線が崩れていた。

警報が鳴り止まない。英雄たちの通信は全部沈黙している。システムが死んだ。透が壊した。

 

でも、それで終わりじゃない。

 

依里の指先が、冷たかった。ひび割れている。

青い結晶が、皮膚の内側から浮き出ていた。指先、爪、手首。少しずつ、人間じゃないものに変わっていく。

 

依里も、それに気づいていた。

 

「……あ、」

 

小さく笑う。泣きながら。

 

「私、もう駄目みたい」

 

透は何も言わなかった。言えることなんてなかった。

システムを壊しても、依里は助からない。もう、戻れない。英雄としても、普通の女の子としても。

 

遅すぎた。

 

でも、透は依里の手を握った。強く。壊れそうなくらい。

依里が少し目を細める。

 

「あったかい」

 

透は目を閉じた。見えない世界の中で、その言葉だけを聞いていた。

 

 

白峰澄花は、崩壊する管制表示を見つめていた。

 

ERROR。ERROR。ERROR。

 

同期率、崩壊。白峰隊、接続不能。

そして、一番下に表示されている文字列。

 

『小宮依里:損失』

 

澄花は、しばらく動かなかった。青い瞳が、微かに揺れる。

 

理解できない。なぜ、胸が痛むのか。

なぜ、そのログを見ていると、呼吸が乱れるのか。

 

システムは答えない。世界も答えない。

ただ、警報音だけが、終わりみたいに鳴り続けていた。

 

 

「ねえ、透」

 

依里が小さく言う。透は頷いた。

 

「プリン、また食べたかったな」

 

透は少し笑った。

 

「……お前、あれ好きだったもんな」

「カルボナーラも」

「あれはお前が下手だった」

 

依里がくしゃっと笑う。昔みたいに。ほんの少しだけ、アパートの夜みたいに。

 

でも、その指先はもう半分、青い結晶になっていた。

 

世界が崩れていく。空が裂ける。遠くで、誰かが死ぬ。

それでも、透は依里を抱き締めていた。

 

英雄なんかじゃなく。神様なんかじゃなく。ただの、脆くて、弱くて、泣いてしまう、一人の女の子として。

 

「もう、戦わなくていい」

 

透が言う。依里は静かに頷いた。

 

警報音が、世界の終わりみたいに鳴っていた。

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