夜だった。
正確には、夜ですらなかったのかもしれない。
空は燃えていた。
崩れた高層ビルの隙間を、赤黒い光が脈打つみたいに染めている。警報音が、遠くでずっと鳴っていた。耳鳴りみたいに、途切れず。
透には、もうほとんど何も見えていなかった。
右目は、とっくに死んでいる。左目も、さっきから白いノイズしか映らない。世界の輪郭が溶けていた。
その代わり、頭の奥で、ずっと青い音が鳴っている。
ざ、ざ、と。
壊れた無線みたいなノイズ。
その奥に、依里がいる。
透は瓦礫に手をつきながら、ゆっくり立ち上がった。
指先の感覚はない。血が流れているのかも、もう分からなかった。
ただ、進む。あの青いノイズを追いかけて。
◇
軍中央管制区画。
白いモニター群が、一斉に赤へ変色していた。
警告音。
ERROR。WARNING。SYSTEM FAILURE。
文字列が滝みたいに流れていく。
「感染経路を遮断しろ!」
「無理です、同期回線全域に侵食されています!」
「白峰隊とのリンクが切断──」
その瞬間、すべての画面が、ぶつりとノイズを走らせた。
白。青。赤。激しく点滅して。
次の瞬間、全モニターが、同じ文字列で埋め尽くされた。
BUG_000
BUG_000
BUG_000
BUG_000:水瀬透
「……っ」
誰かが息を呑む。
画面の奥。白峰澄花のHUDも、激しく明滅していた。
彼女は微動だにしない。だが、その青い瞳の奥で、初めて、処理不能のノイズが揺れていた。
◇
依里は、膝をついていた。
戦場の中央。崩れた高速道路の下。
使徒の黒い残骸が、周囲でまだ脈打っている。
頭が痛かった。脳の奥を、焼けた針で掻き回されているみたいだった。
HUDが壊れている。視界に赤いエラーが何重にも重なって、何も読めない。
『SYSTEM ERROR』
『MEMORY CONFLICT』
『人格領域、破損』
『再同期を──』
ノイズ。ノイズ。ノイズ。
依里は耳を塞いだ。嫌だった。何かが、戻ってくる。
冷たいアパート。雨。半分このイヤホン。プリン。カルボナーラ。黒いパーカー。笑い声。名前。
「──ぁ」
呼吸が詰まる。頭の奥で、鍵が壊れる音がした。
その瞬間、一気に記憶が逆流した。
透。透。透。
「──とお、る……っ」
依里は泣きながら喉を押さえた。
思い出してしまった。全部。
忘れたくなかった夜も。忘れさせられた温度も。全部。
◇
透は、転びながら歩いていた。
もう、本当に見えていない。世界は真っ黒だった。
(──ざ、ざ──)
でも、依里だけが分かる。右目の奥のノイズが、彼女の場所を教えてくれる。まるで、壊れた神様が、最後に残した呪いみたいに。
警報音。爆発。誰かの悲鳴。全部遠い。
透は瓦礫を踏み越えた。
そして、ようやく、触れた。
細い肩。震えている身体。
依里だった。
依里は顔を上げた。青いHUDは、もう消えている。
ただの、人間の目だった。涙でぐしゃぐしゃの、弱くて、怯えている、昔のままの。
「……透?」
その声だけで、透は、少し笑った。
「遅くなった」
依里が泣き出す。子どもみたいに、息を詰まらせて、透の胸にしがみついた。
「怖かった……っ、ずっと……っ」
透は、泥だらけの腕で抱き締める。
感覚はない。でも、腕の中に依里がいることだけは分かった。
世界が壊れていく音がする。遠くで、防衛線が崩れていた。
警報が鳴り止まない。英雄たちの通信は全部沈黙している。システムが死んだ。透が壊した。
でも、それで終わりじゃない。
依里の指先が、冷たかった。ひび割れている。
青い結晶が、皮膚の内側から浮き出ていた。指先、爪、手首。少しずつ、人間じゃないものに変わっていく。
依里も、それに気づいていた。
「……あ、」
小さく笑う。泣きながら。
「私、もう駄目みたい」
透は何も言わなかった。言えることなんてなかった。
システムを壊しても、依里は助からない。もう、戻れない。英雄としても、普通の女の子としても。
遅すぎた。
でも、透は依里の手を握った。強く。壊れそうなくらい。
依里が少し目を細める。
「あったかい」
透は目を閉じた。見えない世界の中で、その言葉だけを聞いていた。
◇
白峰澄花は、崩壊する管制表示を見つめていた。
ERROR。ERROR。ERROR。
同期率、崩壊。白峰隊、接続不能。
そして、一番下に表示されている文字列。
『小宮依里:損失』
澄花は、しばらく動かなかった。青い瞳が、微かに揺れる。
理解できない。なぜ、胸が痛むのか。
なぜ、そのログを見ていると、呼吸が乱れるのか。
システムは答えない。世界も答えない。
ただ、警報音だけが、終わりみたいに鳴り続けていた。
◇
「ねえ、透」
依里が小さく言う。透は頷いた。
「プリン、また食べたかったな」
透は少し笑った。
「……お前、あれ好きだったもんな」
「カルボナーラも」
「あれはお前が下手だった」
依里がくしゃっと笑う。昔みたいに。ほんの少しだけ、アパートの夜みたいに。
でも、その指先はもう半分、青い結晶になっていた。
世界が崩れていく。空が裂ける。遠くで、誰かが死ぬ。
それでも、透は依里を抱き締めていた。
英雄なんかじゃなく。神様なんかじゃなく。ただの、脆くて、弱くて、泣いてしまう、一人の女の子として。
「もう、戦わなくていい」
透が言う。依里は静かに頷いた。
警報音が、世界の終わりみたいに鳴っていた。