夕暮れではなかった。
もう、この世界に、夕暮れみたいな優しい色は残っていなかった。
透には何も見えていない。
耳も、もうほとんど死んでいた。遠くで何か巨大なものが崩れている気配だけが、頭蓋の奥を鈍く震わせている。使徒の咆哮なのか、都市が裂ける音なのか、それすら分からない。
ただ、腕の中の温度だけが、まだ残っていた。
冷たい。
でも、確かに、ここにいる。
依里の身体は、もう半分以上が結晶になっていた。肩に触れた指先が、硬い。ガラスみたいに滑らかで、少しだけ湿っていて、それなのに、生き物の熱がどこにもない。
透は、崩れかけた呼吸で、小さく笑った。
「……お前、ほんとに冷え性だったな」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「……ん」
声が掠れている。それでも、ちゃんと依里の声だった。
透は、壊れた床に背を預けたまま、彼女を抱き直す。そのたびに、キチ、と、結晶同士が擦れる音がした。骨が軋むみたいな音だった。
でも、どこか綺麗だった。
六畳一間の夜、スプーン同士がぶつかった音に、少しだけ似ていた。
「透」
「ん」
「……まだ、いる?」
「いるよ」
「よかった」
依里が、小さく息を吐く。
その吐息さえ、もう人間のものじゃなかった。細かい結晶の粒が、透の首筋に触れて、ぱらぱらと落ちていく。
透は目を閉じた。閉じても、最初から真っ暗だった。
だから代わりに、触る。依里の髪を。細い肩を。壊れていく指先を。確かめるみたいに、失くさないように。
「……ねえ、透」
「ん」
「世界、静かだね」
透は少しだけ笑う。
「壊れたからな」
「そっか」
依里も笑った気がした。腕の中で、微かに身体が揺れたから。
遠くで、警告音みたいなものが鳴っていた。きっと管理AIだ。世界を維持するための最後の声。
『基幹プラグ接続を推奨』
『戦闘素体No.13を再接続してください』
『再起動シークエンスを開始します』
『世界存続確率を──』
透は吐き捨てるみたいに笑った。
「うるせえよ」
依里も、くすっと笑う。
「ね。しつこい」
『小宮依里を接続してください』
『まだ間に合います』
『世界を救えます』
透は、結晶化した依里の指を握る。硬い。もう、人間の柔らかさじゃない。
でも、これがいいと思った。
兵器のまま空で死ぬより。誰かの神様として壊され続けるより。泥の底で、自分の腕の中で、ただの女の子として終われるなら、そのほうがずっと綺麗だった。
「なあ、依里」
「……うん」
「プリン、また食いたかったな」
少しだけ沈黙。それから。
「……透、最初の一口、絶対くれるから」
「そりゃやるよ」
「ふふ……」
笑い声が、途中で崩れる。
キチ、と。依里の頬が少し砕けた。
透は慌てて抱き寄せる。その瞬間、自分の腕も割れた。乾いた音。痛みは、もう無かった。
「……透」
「ん」
「ごめんね」
「何が」
「世界」
透は首を振る。
「別に」
「……でも」
「どうせろくな世界じゃなかったろ」
依里は少し黙ってから、本当に小さな声で言った。
「……うん」
透は、ゆっくり息を吐いた。肺の感覚も、もう曖昧だった。
身体の境界が分からない。自分がどこまで人間で、どこから結晶なのか。
でも、腕の中の依里だけは、まだ分かった。それで十分だった。
「依里」
「ん」
「帰ろう」
その瞬間、透の脳裏に、音がした。
ガチャ、と。
古いアパートのドアが開く音。夕飯の匂い。安い蛍光灯。コンビニ袋。濡れた制服。
「ただいまー」
『おかえり、透』
幻聴だった。脳の最後のノイズだ。
でも、透は少しだけ笑った。
「……ただいま」
依里の身体が、微かに震える。
「おかえり」
その声は、あの日のままだった。
キチ、キチ、と、二人の身体が崩れていく。結晶が擦れ合う、静かな音。
透は最後まで、依里を離さなかった。腕の感覚が消えても、呼吸が止まっても、暗闇しかなくても。
ずっと、抱き締めていた。
そして、青い光が、静かに砕けた。
◇
雨が降っていた。
都市は、もう死んでいる。崩れた高層ビル。沈黙した防衛砲台。空には使徒の残骸が浮かび、海みたいに灰色の雲が流れていた。
白峰澄花は、一人で歩いていた。軍服はまだ白い。けれど、その瞳にはもうHUDの青い光がない。ただの、人間の目だった。
彼女は古いアパートの階段を上る。
二階。突き当たり。錆びた扉。
誰もいない部屋。
六畳一間。
静かだった。
机。古いノート。干からびたペン。毛布。
そして、机の端に、二つ並んだ空のプリンカップ。
澄花は、それを見つめる。ただ、それだけを。長い間。
風が吹いた。カーテンが揺れる。
もう誰も帰ってこない部屋で、澄花はゆっくりとカップに触れた。
冷たい。
その瞬間、頬を何かが伝った。彼女は少しだけ眉を寄せる。理解できないものを見るみたいに。
「……エラー」
掠れた声。透明な雫が、プリンカップの横に落ちる。
ぽつ、と、小さな音がした。
部屋は静かだった。まるで、ずっと前から、誰もいなかったみたいに。