翌朝、世界は何事もなかったかのように動き出した。
一限目の数学。
黒板を執拗に擦るチョークの、乾いた硬い音。窓際から差し込む、どこか白々とした薄曇りの光。
斜め後ろの席では、男子生徒たちが昨夜の避難警報の実況画面を回し見して、声を殺して笑っていた。
『第七種とかマジで雑魚じゃん。結局誰も死んでねえし』
『でも停電はダルかったわ。スマホ充電できなくて詰んだ』
『駅前のコンビニ閉まってたのアツくね?』
彼らにとって、昨夜の裂傷はただの「少し刺激的なイベント」に過ぎないらしかった。
誰も本気で怯えてなどいない。窓の外をいくら見つめても、昨夜の空をどろどろに焼き尽くしていた不気味な赤色の残骸は、どこにも見当たらなかった。
机に頬杖をついたまま、制服のポケットの中で震えたスマホの画面を眺める。
『今日も行く?』
依里から届いた、それだけの短い文字列。
たったそれだけの光を網膜が拾った瞬間に、胸の奥の四角く強張っていた何かが、少しだけ息を吹き返す。自分でも嫌になるくらい露骨に、肩の力がふっと抜けていくのが分かった。
「──おい、水瀬。聞いてるか」
教師の湿気を含んだ声が、鼓膜を叩く。
「あ、はい」
教室のあちこちから、小さな失笑が漏れた。
曖昧に視線を落とし、教科書の隅の無意味な数式を見つめるふりをした。
昨夜の、あの光が死に絶えた住宅街。
網膜が何も捉えられないほどの完全な暗闇の中で、かすかに震えながら自分の名前を呼んだ、依里のあの声。あれだけが今も耳の奥にこびりついて離れない。
それなのに、教室の最前列にいる依里は、友達と購買のパンフレットを広げながら、いつも通りに声を立てて笑っていた。まるで、昨夜の闇なんて最初から存在しなかったみたいに。
あの暗闇から自分だけがまだ帰ってこられていないような、薄寒い疎外感だけが机の上に積もっていく。
◇
夕方、予報にない雨が降った。
部活帰りの生徒たちが濁流のように駅へと流れていく頃、アスファルトはまだらに濡れそぼり、街灯の光をぼやけた油染みのように反射していた。
コンビニの前に設置された灰色のガードレールにもたれながら、無目的のスマホの画面を親指でスクロールし続ける。自動ドアが左右に開くたび、冷房の冷気と一緒に、へたりきった揚げ物の油の匂いが足元を通り抜けていった。
数分後、プラスチックの擦れる音が近づいてきた。
「おまたせ」
依里が白いレジ袋を小さく揺らしながら、自動ドアから出てきた。
今日は学校の制服のままだった。シャツの袖を乱雑に二回ほど捲り上げていて、片方だけが大きく崩れている。前髪の端が、雨の湿気で額に小さく張り付いていた。
「……またプリン買ってんのかよ」
「いいじゃん、別に」
「昨日も食ってただろ」
「頭使って疲れてる時はね、体がこういうのを呼ぶの」
依里は悪びれる様子もなく、袋の中を覗き込んで、嬉しそうに目を細めた。
「ほら見て、新商品。ちょっと高かったけど」
「『超なめらか濃厚とろける生カスタード』……絶対マズいだろ、その名前」
無駄に長い。企業の商業主義が透けて見えるようなフォントを睨み、眉根を寄せた。依里はそれを見て、声を弾ませて笑う。
「でもさ、こういうのって一回は買っちゃわない? 罠だって分かっててもさ」
「典型的な企業の思う壺だな」
「悔しいけど、その通り。全否定はできない」
コンビニの白々とした蛍光灯が、濡れたアスファルトの上に四角い光の池を作っている。遠くの高架線を、貨物列車が鉄の塊を軋ませるような重い音を立てて通り過ぎていった。
依里はレジ袋を胸元で大事そうに抱え込んだまま、小さく息を吸い込んだ。
「なんかさあ……」
「ん?」
「今日、お店の中に人、多くなかった? レジ、すっごい並んでた」
「……どうせまた避難備蓄だろ。みんなすぐ大騒ぎするから」
「あー……そっか」
そこで言葉がぷつりと切れた。
依里の右手の親指が、吸い寄せられるように彼女の薄い唇へと向かう。
前歯が、親指の爪の端を小さく神経質に噛み始めた。
その指先を、じっと見つめていた。
まただ、と思う。
彼女が何か、自分でも処理しきれない考え事に囚われている時。
あるいは、俺に何かを隠そうとしている時。
依里はいつも無意識に、この自傷に近い癖を繰り返す。幼馴染の、昔からの悪い癖。
「……お前、それやめた方がいいぞ。癖になってる」
「え?」
「爪」
依里はきょとんとしてから、自分の指先の位置に気づき、慌てて手を後ろへ隠した。衣服が小さく擦れる。
「あ……」
「また無意識にやってただろ」
「……ほんとだ。全然気づかなかった」
彼女は少しだけ耳の裏を赤くして、誤魔化すように笑った。
それ以上、何も追求しなかった。指摘したところで治らないことは十年前から知っている。そして、彼女のその防衛反応を世界の誰よりも自分が一番に熟知しているという事十分に、胸の奥の醜い部分が、静かな安堵で満たされていくのを感じていた。
◇
近くの児童公園には、人影が一つもなかった。
雨に濡れたブランコの鎖が、風もないのに錆びついた金属音を小さく響かせて揺れている。
二人は雨漏りする東屋の、冷え切ったコンクリートのベンチに腰を下ろした。
依里がプラスチックの蓋をぺりぺりと剥がす。
「……あ」
「……何だよ」
「スプーン、一個しか入ってない」
「お前、学習能力って言葉知ってるか?」
「だって、レジの人に『二個ください』って言うの、なんか恥ずかしくて。一人で二個食べるデブみたいじゃん」
「意味が分かんねえよ」
依里は可笑しそうに笑いながら、薄いプラスプーンを黄色いカスタードの海へ突き立てた。
一口すくい、口に運ぶ。途端に、彼女の形の良い眉がぴょこっと跳ね上がった。
「……あ、これ、結構アタリかも。おいしい」
「ほんトかよ」
「ほんとほんと。ほら」
なんの衒いもない動作で、そのスプーンが目の前へと突き出される。
「はい、透の分」
「いや、いいよ。お前が食えよ」
「いいから。一口だけ、ほら」
「毎回それやるのやめろ」
「いいじゃん、はい、あーん」
彼女の真っ直ぐな視線から逃げるように、諦めて小さく口を開けた。
冷たいカスタードの塊が、舌の粘膜にべったりと広がる。
思ったよりもずっと、喉が焼けるように甘かった。
「……甘すぎ。虫歯になりそう」
「ふふ、疲れてる時はね、これくらい暴力的なのが必要なの」
依里は満足そうに何度も頷いた。
ふと見ると、彼女の白い口の端に、少しだけ茶色いカラメルソースがこびりついている。
本人は全く気づいていない。
「……ついてるぞ」
「え? どこ?」
「そこ。左」
依里は慌てて手の甲で口元を擦ったが、全く違う場所を白く汚しているだけだった。
小さく溜息をつき、自分の指先で、彼女の唇の端を軽く弾くようにして触れた。
指先に残る、かすかな皮膚の体温。
そして、粘り気のある甘い匂い。
「あ、ほんとだ。ありがと」
彼女は笑いながら、それを小さな舌先で器用に舐め取った。そのあまりにも幼い、世界に対する警戒心のなさに、たまらなくなって視線を濡れた地面へと逸らした。
依里は再び、ちびちびとプリンを掬い始める。
周囲のカラメルだけを最後まで残して、一番濃い部分を最後に楽しむ。その執着の仕方も、昔から何一つ変わっていなかった。
「……お前、それ本当に好きだよな」
「最後に一番甘いので終わりたい派だから。透みたいに最初に美味しいところ食べちゃうのは、人生損してるよ」
「大げさなんだよ」
薄いプラスチックが容器の底を擦る、チチチ、という微小な音が、東屋の中に静かに響いていた。その音だけを、耳の奥で数えていた。
きっと自分は、このどうしようもなく無価値で、何にも生産しない時間が好きだった。
世界の行く末にも、神の審判にも関係のない会話。
雨上がりの湿った夜の匂い。
二百円の安っぽいプリンの味。
依里が隣にいるだけで世界のノイズが綺麗に消えて、静寂だけが残るような気がしていた。
◇
「そういえばさ……」
依里が不意に声を低くした。その温度の急変に、背筋が冷たく強張る。
「今日ね、学校で……ちょっと呼び出しがあったんだ」
「……呼び出し? お前が? 補導でもされたか」
「違うよ、真面目だけが取り柄なんだから」
依里は膝の上の鞄をきつく抱え直し、その隙間から一枚の白い封筒を引っ張り出した。
事務的な、どこにでもある上質な紙の封筒。
けれど、その表面に印字された文字だけが、あまりにも歪に均整が取れていて不気味だった。
『特別災害対策適性検査のお知らせ』
エッジの効いた黒いインクが、白い紙を侵食している。
それを凝視したまま、言葉を失った。
「……適性検査って、何だよ、それ」
「うん、よく分かんないんだけど、最近増えてるらしいよ。後方の事務支援とか、災害時の誘導とか、そういう適性があるかどうかの簡易検査だって」
依里はなるべくそれが「よくある身体測定」と同じであるかのように、声を軽やかに作っていた。
「ふーん……」
「なんか、学校の成績とか健康診断のデータを元に、機関が自動で候補を選出してるんだって。私のクラス、私だけだったからびっくりしちゃった」
「へえ」
興味のないふりをして、ポケットの中で拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込んで痛い。
依里は封筒の角を細い指先で何度も折り曲げながら、力なく笑った。
「私、体育の授業でもいつも足引っ張ってるのにね。何かの間違いだよ、きっと」
「……断ればいいだろ、そんなの」
「え?」
「まだ受けるって決まったわけじゃないんだろ。だったら、だるいからって言って無視しろよ」
自制が効かなかった。思ったよりもずっと、刺々しく、低い声が喉から飛び出していた。
依里は驚いたように、丸い目をさらに大きくして俺の顔を見つめた。
耐えきれなくなって、すぐに視線を横の暗闇へと投げ出す。
「……別に。そういう公的なやつって、一回関わると色々面倒くさそうだから言っただけだ」
「ふふ……透って、本当にそういう時、分かりやすい顔するよね」
「は? どんな顔だよ」
「なんか、捨てられた子猫が、一生懸命毛を逆立てて威嚇してる時みたいな顔」
「うるせえよ」
依里はいつものように、くすくすと笑った。
けれど、その笑い方の奥底に、俺は見つけてしまった。
昨日までは存在しなかった、かすかな、けれど狂おしいほどの「熱」の斑点を。
それは、未知の恐怖に対する不安。
同時に──自分のような人間でも、誰かに必要とされるかもしれないという歪んだ期待。
誰かを救えるかもしれないという、幼い祈りの顔だった。
「でもさ」
依里は封筒を見つめたまま、ぽつりと、夜の空気に言葉を落とした。
「もし……私みたいな何もできない人間でも、世界の役に立てることが、一つでもあるなら。……それは、ちょっと、嬉しいかもしれない」
何も答えなかった。答えを口にした瞬間に、自分の醜悪な中身がすべて露出してしまう気がしたからだ。
危ないからやめろ、と心配しているわけではない。
彼女の身を案じているわけでもない。
ただ、嫌だった。
コンビニの棚の前でどれにするか何分も迷って。
スプーンを忘れて、ストローでプリンを吸って。
そんな、どうしようもなくくだらなくて、俺だけが知っていればいいはずの小宮依里が。
自分の手の届かない、俺を必要としない、巨大な「世界」という化け物へ奪われていく予感が、ただ、たまらなく恐ろしかった。
◇
帰り道、住宅街は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
窓から漏れる、温かいテレビの音。
遠くの幹線道路を走るトラックの、低いタイヤ音。
世界はいつも通りに、退屈に、平和なフリを続けている。
依里は白い封筒を、大切に鞄の奥へとしまい込んだ。
「まあ、簡易検査だしね。受かるわけないよ。そんなに怒った顔しなくても、私はどこにも行かないよ、透」
依里は、俺の顔を覗き込んで笑った。
でも。
彼女の右手の親指は再び、その薄い唇の裏で、小さく爪を噛み始めていた。
等間隔に並ぶ、冷たい街灯の白光の下で。
彼女自身すら気づいていないその小さな摩耗を、私の濁った瞳だけが、暗闇の中でいつまでも、いつまでも、執拗に見つめ続けていた。