ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第参話 「誰かを、本当に救えたり、するんですか」

軍の管理施設はひどく清潔で、どこか精神病院に似ていた。

 

網膜を微かに刺す白すぎる壁。歩くたびにゴム底が小さな悲鳴を上げる、冷たく磨かれた床。

静かすぎる空調の風が、人間の体温を容赦なく奪い去っていく。

重厚なガラスの自動ドアが背後で閉まった瞬間、外の世界の湿った泥の匂いは完全に遮断された。

 

受付番号、A-122。

手汗で少しふやけた薄い紙の番号札を、親指の腹で弄びながら、プラスチック製の長椅子に深く腰を沈めていた。

向かい側の壁に埋め込まれた巨大なモニターが、無音のまま淡々と避難区域のグラフィックを更新し続けている。

 

『C-7区画 一部閉鎖継続』

『第四防衛線再編──使徒浸食度4.2%』

『周辺住民の感情波形に異常値、注意を──』

 

途中で冷淡な警告文が、別の無機質なグラフへと切り替わった。

白衣姿の女性職員が、マイクを通した歪んだ声で番号を読み上げる。

 

「A-123番の、小宮さん。どうぞ」

 

隣で制服の袖を指先で小さく摘んでいた依里が、びくりと肩を跳ね上げた。彼女は周囲をきょろきょろと見回しながら、声を潜めて小さく笑う。

 

「……なんか、本当にただの健康診断みたいだね。もっとこう、トゲトゲした怖い場所かと思ってた」

 

「十分怖いだろ」

 

「そうかな?」

 

「ここにいると、人間が全員、ただの書類の束にされてるみたいで胸クソ悪い」

 

依里は少しだけ困ったように眉を八の字にして微笑んだ。

 

「透って、たまに詩人みたいなこと言うよね」

 

廊下の隅で、自動販売機の大きなコンプレッサーが、ぶぅん、と重い低音を唸らせている。どこか遠くの診察室から、電子的なビープ音が規則的に届いていた。

 

待合スペースに並ぶのは、ほとんどが自分たちと同年代の学生だった。

顔を真っ青に強張らせている奴。逆に、高揚した目で拳を握りしめている奴。

 

「なあ、俺さ、もし適性ランクが高かったら前線志望なんだよね」

「マジで? 怖くねえの?」

「だって、あいつらを倒して『救世主』になれたら、人生一発逆転じゃん。進路とか悩むの馬鹿らしいっしょ」

 

後ろの席から、乾いた声が聞こえてくる。

 

「それにさ、うち、まだ小学生の妹がいるから。あれを守れるだけの力がもらえるなら、俺はなんだっていいわ」

「……分かる。それな」

 

そっと瞼を閉じた。

誰も彼もが、自分よりずっとちゃんとした「人間」に見えた。

命を懸けて守りたいものが明確にあって。目指したい光がそこにあって。自分が世界に必要とされるべき理由を、自分の言葉でハッキリと証明できる。

 

依里は、後ろの席の会話をじっと黙って聞き届けていた。

その横顔がほんの少しだけ。本当に、硝子細工が指先をかすめるほどの微かな熱量で、彼らを羨ましそうに見つめていたのを、俺は見逃さなかった。

 

 

「──感情燃焼機関について、基礎的な説明を行います」

 

案内された講義室は、大学の視聴覚室を狭くしたような、傾斜のある部屋だった。

照明が落とされ、白いスクリーンに淡々とスライドが映し出される。女性職員の抑揚のない解説が、鼓膜を滑っていった。

 

「現在、我が軍が運用する対使徒兵装の主要エネルギーは、搭乗者の『感情出力』によって全量が賄われています」

 

スクリーンに、いくつかの波形が色彩豊かに映し出された。

怒り。恐怖。愛情。──そして, 執着。

それらが細かく細分化され、おぞましいほど冷徹にグラフ化されていく。

 

「情動が強ければ強いほど、それは高熱量のエネルギーへと変換され、兵器の出力を跳ね上げます。つまり、適性の高い個体ほど、戦術兵装との同期率が飛躍的に向上するのです」

 

依里が膝の上で手を組みながら、小さく首を傾げた。

 

「……感情って、燃やせるんだ」

 

「らしいな」

 

「なんか、変なの。変な世界」

 

心の底から同意した。

腹が立って殴りたくなるとか、誰かのことが狂おしいほど好きだとか、あいつを絶対に失いたくないとか。

そういう、個人の中にだけ秘められているはずの生々しい内臓の震えを、冷たい機械に突っ込んでガソリンのように消費する世界。

 

それなのに、周囲の候補者たちは喰い入るような目でスクリーンを見つめていた。自分がその「燃料」になれるかもしれないという希望を、その目に宿して。

依里もまた、いつの間にか爪を噛むのをやめ、吸い込まれるように光る画面を見つめていた。

 

 

検査室の内部は、さらに白の純度が上がっていた。

部屋の中央に鎮座する半透明の医療用カプセル。脈拍を刻む液晶モニター。

 

「では、水瀬透さん。こちらへ」

 

名前を呼ばれ、促されるまま硬い金属製の椅子に腰を下ろした。

冷たい端子群が、容赦なく首筋の皮膚へ押し付けられる。ぞくりと背筋に不快な鳥肌が立った。

 

「リラックスしてください。機械の指示に従って、呼吸を深く」

 

「……はい」

 

カチ、と電子音がして、淡い青色のモニターが起動する。

 

「それでは、あなたの記憶の中で、最も強く『感情が動いた瞬間の光景』を、鮮明に思い浮かべてください。怒りでも、悲しみでも、執着でも構いません」

 

息を止め、目を閉じた。

真っ暗な網膜の裏側に、嫌というほど瞬時に浮かび上がったのは、小宮依里の姿だった。

 

コンビニの、あの白すぎる照明。熱すぎて器が歪んだカルボナーラ。早く食べろとプリンを突き出してくる、細い手。

そして、あの光が死んだ夜。

『……透』

 

胸の奥が、どろりと熱くなる。心臓の鼓動が一際大きく跳ねる。

けれど。

首筋のセンサーは、その熱を全く感知しなかった。モニターの波形は凪いだ水面のように、わずかなさざ波を立てるだけでほとんど動かない。

 

「……はい、結構です。ありがとうございました」

 

職員の声は、完全にマニュアル通りだった。

数秒後、カタカタと乾いた音を立てて、一枚の薄い感熱紙が出力される。

 

『総合適性:E(不適合)』

『感情熱量変換率:極低』

『集団同期性:低』

『対救世適合:なし』

 

手渡されたその紙切れの文字を、ぼんやりと見つめた。

驚きはしなかった。ああ、やっぱりなと妙に納得している自分がいた。

昔からそうだった。学校の行事でも、誰かの葬式でも、世界がどれだけ大騒ぎしていても、自分の感情だけがいつも冷え切っていて、集団の温度に馴染めなかった。どれだけ誰かを特別に思っていても、それを世界を救うための「綺麗な燃料」としては出力できないのだ。

 

「一般支援枠、または後方事務の案内をご希望であれば、あちらの窓口で──」

 

「いや、大丈夫です。結構です」

 

職員の言葉を遮り、椅子から立ち上がった。紙切れをポケットの奥へ押し込む。

入れ替わりで、依里が呼ばれた。

 

「あはは、私、絶対向いてないと思うんだよね。運動神経ゼロだし」

 

彼女は照れ隠しに笑いながら、俺が体温を残したばかりの椅子へ座る。

職員の表情が、少しだけ柔らかくなった。

 

「皆さん、最初はそう仰いますよ。お気軽にしていてくださいね」

 

依里は首筋に端子を貼られながら、部屋の隅へ退こうとする私に向けて、小さくひらひらと手を振った。

 

「すぐ終わるから、ロビーで待ってて」

 

声を出さずに、ただ顎を引いた。

 

 

最初は本当に、何の変哲もない、退屈な時間のはずだった。

静かな機械音。規則正しい脈拍の緑のライン。キーボードを叩く、職員の退屈そうな指先。

 

だが、依里が目を閉じて、三分が経過した頃だった。

 

「……あれ?」

 

端末を操作していた一人が、怪訝そうに呟いた。

緑色の波形が、一瞬、ディスプレイの枠を突き抜けるほど垂直に跳ね上がったのだ。

 

「おい、再測定だ。エラーじゃないか? ノイズを拾っている」

 

「いえ、パルスは安定しています。これは、ノイズじゃ……待って、出力が──」

 

部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。

カプセルの中で目を閉じたままの依里が、異変を察知して不安そうに睫毛を震わせる。

 

「え……あの、何かおかしいですか?」

 

「少々お待ちください、小宮さん。そのまま、動かないで」

 

職員の口調から、明確に余裕が消え去った。

警告音。部屋の照明が自動的に切り替わり、モニター全体が、昨夜の空のような禍々しい赤色に点滅を始める。

数値が、狂ったように上昇していく。

 

『感情熱量変換率:測定上限接触(カンスト)』

『共鳴適性:算出不能(異常値)』

『対救世同期因子──確認』

 

エラーコードを吐き出して、画面の数字が完全にフリーズした。

 

「おい、すぐに特務の上層部を呼べ!」

「ログの自動消去をロックしろ! データを隔離急げ!」

「第二、いや、最奥の特別測定室を今すぐ開放しろ!」

 

ドタバタと激しい足音が響き、大人たちが顔色を変えて走り回る。

その狂騒の中心で、依里だけが、冷たい椅子に取り残されていた。

 

「え……?」

 

彼女の口から漏れたのは、ひどく小さく、迷子のような声だった。

怯えている。向けられる大人の目が、急速に熱を帯びていくことに恐怖している。

 

でも。

その恐怖に引き攣った表情の、ほんの、ほんの僅かな隙間に。

世界に自分の存在を肯定されたような、救われたような光が、一瞬だけ混ざり込むのを私は見逃さなかった。

 

胸の奥が、バケツの氷水をぶちまけられたように、一気に冷えていく。

 

「小宮さん」

 

廊下から駆け込んってきた、肩に金色の階級章をつけた白衣の男が、荒い呼吸を整えながら依里の前に膝をついた。

 

「あなたは……極めて、極めて高い適合率を持っています。これは、我が機関の歴史でも数例しかないレベルだ」

 

「……適合って……何ですか、それ」

 

「救世の才能です。あなたの感情の質は、非常に特殊で、純度が高い。特に──『他者を、世界を保護したい』という祈りの情動が、異常なまでの熱量を生み出している」

 

男の口から、おぞましい専門用語の羅列が溢れ出す。

けれど、依里はその言葉の意味なんて、ほとんど理解していないようだった。ただ、「お前には、世界を救う価値がある」と言われた事実の重みだけが、彼女の大きな瞳を見たこともない色に揺らしていた。

 

「……私」

 

依里の声が、熱を帯びて震える。

 

「私みたいな、何もない人間でも……誰かを、本当に救えたり、するんですか」

 

それは、俺へ向けられた言葉ではなかった。誰のためでもない、彼女の内面から溢れ出た独り言のような祈り。

けれど、白衣の大人たちは、まるで暗闇の中に突如として現れた本物の神を見るかのような、狂信的な目で彼女を崇め始めていた。

 

 

「──一般適性D以下、不適合判定の方々は、こちらの一時解散口へ移動をお願いします」

 

スピーカーからの呼びかけに、手のひらの中でE判定の紙切れを限界まで握りつぶしたまま、這うようにして立ち上がった。

 

「水瀬さん? 聞こえていますか、移動を」

 

「あ……、はい」

 

振り返り、依里の方を見る。

彼女の周りには、いつの間にか十人以上の大人たちが壁のように群がっていた。

 

「小宮さん、追加の精密測定を行います」

「特務上層部との面談のセッティングを」

「緊急保護プログラムの適用を申請しろ。彼女の安全を最優先に」

 

聞いたこともない単語の濁流が、彼女を包み込んでいく。

 

不適合のゴミとして、外へと押し流されていく自分。

救世主の苗床として、施設の最奥へと恭しく連れていかれる依里。

 

二人の距離が、物理的に、そして決定的に離れていく光景を、ただ網膜に焼き付けるしかなかった。

昨日まで。つい数時間前まで、同じコンビニの棚の前でどっちのプリンが美味いかなんてくだらない話をして笑っていたのに。同じ、アスファルトの匂いがする帰り道を歩いていたのに。

 

もう、二人の生きる世界の軸が、音を立ててズレ始めていた。

 

 

施設の外に出る頃には、空はもう濃い群青色の闇に包まれていた。

数時間遅れて自動ドアから出てきた依里は、ひどく疲れ切った様子で肩を落としていた。

 

「ごめん、透……すっごい待たせちゃったよね」

 

「別に。スマホいじってただけだし」

 

「なんか……大変なことになっちゃった。私、どうしたらいいか分かんなくて」

 

彼女は、いつものように困ったように笑ってみせた。

でも、その表情はどこか、現実から数センチだけ浮いているように見えた。自分の足がもう地面についていないことにすら気づいていない、そんな顔。

 

二人は並んで歩き出す。いつもの、等間隔に街灯が並ぶ住宅街の帰り道。

なのに、二人の間に流れる空気の密度が、昨日までとはまるで違っていた。

依里が、曲がり角の先にあるコンビニの白い灯りを見つめ、ぽつりと言った。

 

「……ねえ、寄ってく?」

 

「お前、本当に好きだな、コンビニ」

 

「だって、今日、本当に頭いっぱい使って、信じられないくらい疲れたんだもん」

 

少しだけ、昔のように甘えるような響きが彼女の声に混ざる。

小さく頷いた。その、いつものルーティンにほんの一瞬だけ救われた気がした。

 

店に入ろうと自動ドアに近づいた、その時だった。

依里の制服のポケットの中で、電子音がけたたましく鳴り響いた。

液晶に表示されたのは、見たこともない無機質な数字の羅列。知らない番号。

依里は戸惑いながら通話ボタンを押した。

 

「……もしもし。はい、小宮です」

 

数秒の沈黙。

彼女の顔から、完全に「いつもの幼馴染」の笑みが削ぎ落とされるように消え去った。

 

「はい……。はい、分かりました。指示通りにします」

 

通話が切れる。

 

「……軍からか」

 

依里は幽霊のように曖昧に頷いた。

 

「うん。また明日、放課後に迎えが来るって。専用の制服と、端末を渡すからって」

 

「ふーん……」

 

それだけを返した。それ以上の言葉は、喉の奥の粘膜に張り付いてどうしても出てこなかった。

 

チーン、と軽い音を立ててコンビニの自動ドアが開く。

容赦のない白々とした光が、二人の境界線を残酷に照らし出した。

依里は少し迷うように視線を泳がせてから、無理に笑顔を作って言った。

 

「プリン、新しいの、まだ残ってるといいな」

 

その声の震え方は、昨日までと同じ、ただの女の子のものだった。

 

でも、コンビニのゴミ箱の脇に直立していた、真っ黒な軍服を着た二人の男が、依里の姿を認めた瞬間。

直立不動の姿勢のまま、彼女に向けて、信じられないほど深く直角に頭を下げた。

 

その、非日常の重々しいお辞儀を見た瞬間。

ポケットの中で、自分の爪が手のひらに深く突き刺さるのを感じていた。

 

ああ、もう。

俺たちは二度と、あの安っぽいプラスチックの臭いがする同じ夜には戻れない。

世界が、彼女を俺の手の届かない場所へ連れ去っていく。

その決定的な終わりを、白い光の中で、ただ冷徹に理解させられていた。

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