依里のスマホが、授業中に三回震えた。
一回目は、一限目の数学。チョークが黒板を執拗に削る、退屈な音の裏側で。
二回目は、三限目の英語。長文読解のインクの匂いに紛れて。
三回目は、四限目の終わり、昼休みが始まる直前。
小宮依里はそのたびに、びくりと小さく肩を揺らし、机の下で液晶の白い光を隠すように画面を伏せた。
けれど、教室の誰もそんな彼女を気にしてなどいない。
窓際の男子はバカげた動画を回して声を殺して笑っているし、後ろの席の連中は次の使徒の出現予測と、それに伴う避難区域の賭けで盛り上がっていた。
「今回、D区寄りらしいぞ。マジで避難指示出ねえかな」
「また電車止まる? だったら明日カラオケ直行だな」
「いっそ定期テストごと延期になんねーかな、あの天使」
世界がどれほど歪に終わりかけていても、六限目の授業は等しく眠い。
人類はそういうふうに都合よくできている生き物だった。
机に頬杖をついたまま、ぼんやりと依里の横顔を視界の端に置いていた。
シャーペンを握る彼女の指先が、ノートの途中で止まっている。紙の上には、半分崩れた中途半端な数式の羅列。
けれど、彼女の焦点はノートの上のどこにも合っていなかった。ただ、はるか遠くの、何もない空間を凝視している。
「──小宮」
教師が乾いた声で名前を呼ぶと、依里の肩が跳ね上がった。
「えっ、あ、はい」
「聞いていたか? 次の公式、言ってみろ」
「あ、えっと……」
一拍。
彼女は少しだけ遅れて、いつも通りに困ったように笑ってみせた。
「すみません、ちょっとぼーっとしてました」
教室に、緊張感のない小さな笑いが起きる。
依里もつられて、いつものように自分の頭を軽く小突くような仕草をして笑った。
けれど、その笑顔が消えた直後。
彼女の右手の親指が、磁石に吸い寄せられるように口元へ上がる。
前歯が、親指の爪を小さく、カリ、と噛んだ。
耐えきれなくなって、すぐに視線を窓の外へ逸らした。
またやっている。
最近、その頻度が異常なまでに増えていた。
軍の話がのぼる時。適性検査の話題が教室を流れる時。あるいは、あの無機質なスマホの通知が届くたびに。
本人はきっと、指先に血が滲むまで気づかない。
世界で俺だけが、その小さな摩耗の始まりを知っていた。
机の下で、依里のスマホがもう一度、短く震えた。
一瞬だけ網膜に焼き付いた通知画面。
《同期訓練開始時刻 17:30》
《感情波形データ提出命令》
《白峰班 仮配属候補選出》
目に刺さる白い文字。冷徹な黒い背景。
それは人間を呼ぶための言葉ではなく、工場のラインで規格品を管理するための、ただの部品名だった。
「……」
喉の奥まで出かかった不快な舌打ちを、奥歯をきつく噛み締めることで押し殺した。
なぜそんなに腹が立つのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、彼女が俺の絶対に手の届かない、冷たいベルトコンベアに乗せられてどこか遠い場所へ運ばれていく感覚だけが、皮膚をチリチリと焦がしていた。
◇
放課後。
西日の差し込む校門前で、依里は鞄を抱えたまま大きく背伸びをした。
「はぁー……疲れた。今日、なんかずっと頭痛い気がする」
「授業中ずっと意識飛ばしてただろ」
「飛ばしてないよ。ちょっと意識の密度が薄くなってただけ」
「それを世間じゃ寝てたって言うんだよ」
ぶっきらぼうに言うと、依里は「そっか」と小さく笑った。
その笑い方の、少し間の抜けた空気はまだ、俺の知っているいつもの依里だった。
制服の袖を少し余らせて、前髪はクリップで雑に留めたまま。鞄のチャックも半分開いていて、中から教科書の端が覗いている。
なのに。彼女の細い首から下げられた、プラスチック製の臨時認証カードだけが、その凡庸な日常から醜く浮き上がって見えた。
白すぎるカード。軍施設の鋭利なロゴマーク。そこに刻まれた“特別候補者”という四文字。
「……今日も、行くのか」
「うん。今日もまだ見学だけだって言われてるし」
「毎日見学してんな。向こうも暇なのかよ」
「しょうがないじゃん。なんかね……」
依里は苦笑いを作ったまま、自分のスニーカーのつま先へ視線を落とした。
「前線、すっごく人が足りないんだって」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に泥水のような重い感情がどろりと沈殿した。
人類のため。誰かを守るため。お前が必要とされているから。
並べられる理由はすべて、反論の余地がないほどに正しい。
だからこそ、余計に反吐が出るほど気持ち悪かった。
◇
地下訓練施設へと続く重い気密扉をくぐると、そこは昨日と同じ病院の匂いがした。
ツンと鼻を突く消毒液。人工的な薬品。乾燥しすぎて喉の粘膜が張り付くような冷たい空気。
二人の足音が硬い白い床に、カツ、カツと無機質に反響する。
天井に等間隔で埋め込まれた蛍光灯は、人間の肌を死人のように白く照らし出し、長く見つめているだけで頭痛がしてくる。
壁面の巨大モニターには、避難区域の情報が無音のまま点滅していた。
《東部第四区域 完全封鎖》
《個別感情波形 安定率低下》
《新規候補者 同期ログ解析中》
画面の向こう側で扱われているのは、間違いなく人間の命や心のはずなのに。そこに映し出されているのは、ただの冷淡な数字の羅列だけでしかなかった。
「……本当に、健康診断みたいだね」
依里が引き攣った笑顔のまま、小さな声で呟いた。
返事はしなかった。答えてしまえば、この異常な空間を日常として受け入れてしまう気がしたからだ。
分厚い強化ガラスの向こう側──訓練場では、数人の同年代の候補生たちが、巨大な人型兵装の剥き出しのフレームへ「接続」されていた。
背骨のあたりから伸びる、何本もの太い黒色コード。
肉体を固定する金属製の頑丈な拘束具。
不快な電子音を刻み続ける、脈拍モニター。
それは兵器のコックピットというよりも、生体解剖を行うための手術台そのものだった。
『──感情出力、開始します』
スピーカーから、合成された機械音声が流れる。
カプセルの中の一人の少年が全身の筋肉を強張らせ、歯が砕けんばかりに奥歯を食いしばった。
『怒りを維持してください』
『対象となる使徒を想像』
『純粋な憎悪を一点に集中』
少年が獣のような悲鳴を上げた。
ガラスが微かに震える。彼の背後の兵装フレームが、どろりとした赤色に熱を帯びて発光する。
同時に、モニターの数値が狂ったように跳ね上がった。
《熱量出力 急上昇》
《同期率92%──稼働限界突破》
次の瞬間、電子音が鳴り訓練が終了した。
固定具が外れ、少年は荒い呼吸を繰り返しながら、がくりと膝をついた。
……なのに。
その少年の顔を見て、背筋に氷を突き立てられたような錯覚を覚えた。
さっきまで彼の顔を醜く歪めていたはずの、烈しい「怒り」の感情が、まるで消しゴムで拭い去られたかのように綺麗に消えていたのだ。
彼の顔は完璧な真顔だった。
中身をすべて吸い出されて、殻だけになったプラスチックの人形みたいに、ただ空っぽな目で床を見つめている。
「次、A-124番、準備」
職員たちはその少年の変貌を誰も気に留めない。誰もその異常を止めようとしない。
私だけが、胃の底からせり上がってくる悍ましい寒気を、必死に堪えていた。
◇
「──小宮依里さん」
名前を呼ばれ、依里の肩が大きく揺れた。
「はい」
「中央シートへ。接続準備を開始します」
「え、あ、はい……よろしくお願いします」
依里はぎこちない足取りで、まだ前の人間の体温が残っているであろうシートへ腰を下ろした。
白衣の職員たちの手によって、彼女の細い手首にセンサーが巻き付けられる。
耳元へ、冷たい金属端子。首筋へ、蛇のような細いコードが何本も這わされていく。
その姿はもう、ただの女子高生には見えなかった。世界を救うための、ただの実験動物の構図だった。
「リラックスしてください。脳波を安定に」
「いや、そんなこと言われても……無理ですって、これ」
依里は困ったように眉を下げて笑った。その瞬間だけ、部屋の中の刺々しい空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
『感情誘導を開始。第一フェーズ』
低い電子音が部屋に響く。
『あなたの中の、最も強い「怒り」を想像してください』
「怒り、ですか……」
依里は困惑したように視線を泳がせた。
「私、あんまり人に怒ったりするの、苦手で……」
『憎悪、あるいは他者への強い攻撃性でも構いません』
「うーん……難しい、です」
モニターの数値は、ほとんどピクリとも動かない。
《同期率12%──出力不足》
ガラスの向こうで、教官と呼ばれる男が不快そうに眉を寄せた。
「……では、質問を切り替える。第二フェーズへ移行」
一拍の、重苦しい沈黙。
「あなたが──絶対に失いたくない、命を懸けてでも『守りたい存在』を、鮮明に想像してください」
その瞬間だった。
地下施設全体の空気が、物理的にドスンと震えた。
けたたましい警報音。部屋全体の照明が一斉に赤色へと切り替わる。
《警告:異常出力を感知》
《感情熱量変換率──激増》
《同期率上昇:112……127……149……》
「なっ……何だ、この波形の立ち上がりは!?」
「回路がもたんぞ! リミッターを上げろ!」
職員たちが平手を机に叩きつけて叫ぶ。部屋の蛍光灯が、ジジジ、と音を立てて激しく明滅を繰り返す。
依里自身が何が起きたのか分からず、一番驚いたように自分の両手を見つめていた。彼女の周囲の空気だけが、まるで陽炎のように熱を持って歪んでいる。
ガラスに額を押し付けるようにして、彼女を見つめ続けていた。
依里は怯えている。その尋常ではない出力に、自分の心臓の音に、恐怖している。
でも。
その引き攣った表情の奥底に。
昨日と同じ、あの、おぞましいほどに「救われたような顔」が確かに混ざり込んでいた。
──私にも、できる。私のこの心が、世界の役に立つんだ。
そう思ってしまった、幼い、無垢な、自己破壊の笑顔だった。
◇
訓練場の分厚い防音扉が、プシューと白い蒸気を吐き出しながら左右に開いた。
その瞬間、部屋の中の空気が一変した。
周囲の候補生たちが一斉に息を呑み、ざわめきが波のように広がる。
「白峰さんだ……」
「本物だろ、あれ……マジで綺麗だな……」
白い、一点の汚れもない特務軍服。
背中まで真っ直ぐに伸びた、艶やかな黒髪。
一切の無駄がない、静かな足音。
白峰澄花はまるでスポットライトの当たる舞台へ立つ役者のように、あまりにも自然にそこへ現れた。
息を呑むほどに美しかった。
その凛とした姿勢も、すべてを見透かすような涼やかな視線も、床を踏み締める歩き方も。何から何までが完成されすぎている。
依里が隣で小さく息を呑むのが分かった。彼女の瞳は完全に、その「英雄」の姿に奪われていた。
白峰は色めき立つ候補生たちに向けて、穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「皆さん、お疲れさまです。今日も素晴らしい訓練でしたね」
鈴を転がすような、柔らかい声。
誰もが思い描く、完璧な、理想の英雄の姿。
一人の若い隊員が顔を紅潮させて彼女に駆け寄る。
「白峰先輩! 昨日のC-7区画での救助作戦、本当にありがとうございました! 先輩がいなければ、俺の家族は今頃──」
「……いえ。皆さんが無事で、何よりです」
一瞬。
本当に肉眼では捉えきれないほどの、わずかな一瞬だけ。
白峰澄花の笑顔が、遅れた。
言葉が先に口から出て、そのあとに半拍遅れて「笑顔」という感情が、彼女の顔の筋肉に張り付いた。
俺だけがその底知れない違和感に気づき、胃の腑がねじ切れるような感覚を覚えた。
それは感情の表出ではなかった。
精密に作られた機械が、プログラム通りに「人間の演技」を行っているだけの、ただの記号だった。
◇
直後に行われた、白峰澄花による模擬戦闘訓練。
彼女が兵装フレームを展開した瞬間、訓練場に白い高熱の蒸気が爆発的に吹き荒れた。キィン、と鼓膜を鋭く刺す金属音。
次の瞬間、白峰の姿が視界から完全に消え去った。
凄まじい衝撃波。ガラスの向こうの空気が、目に見えるほどの歪みとなって裂ける。
標的として設置されていた鋼鉄のダミー人形が、爆音と共に一瞬で跡形もなく蒸発した。
「うわ……信じらんねえ……」
「すげぇ……これが, 本物の適合者……」
候補生たちから、割れんばかりの歓声とため息が漏れる。
けれど、白峰澄花はどこまでも静かだった。
叫びもしない。息を荒くすることもない。
ただ淡々と、精密機械のように、目の前にある敵だけを壊していく。
その圧倒的な美しさが、私には逆に、死神の鎌よりも恐ろしかった。
《個別感情出力:安定維持》
《兵装同期率:128%》
《白峰澄花、精神波形正常稼働》
モニターが冷酷な数字を吐き出し続ける。
彼女の心の中にあるはずの、大切な記憶も、誰かを愛する気持ちも、すべてはあの巨大な鉄の塊を動かすための「燃料」として、今も刻一刻と燃やされ、処理されているのだ。
口の中に酸っぱいものが込み上げてくるのを、必死に飲み込んだ。
◇
見学の最後に案内されたのは、施設の隅にある薄暗い医療室だった。
並ぶ白いカーテン。漂う、一層強い消毒液の匂い。
その一つのベッドに、昨日の作戦で前線に出ていたという若い負傷兵が横たわっていた。命に別状はないと、看護師が淡々と説明する。
けれど。
その兵士は、包帯の巻かれた震える指先で、一枚の家族写真をじっと見つめていた。
「……これ」
彼の口から漏れたのは、砂を噛むような、ひどく乾いた声だった。
「この、俺の隣で笑ってる人……これ、誰でしたっけ。……思い出せないんだ」
依里の呼吸が完全に止まるのを、隣で感じた。
看護師の女性は、カルテに淡々とペンを走らせるだけで表情一つ変えなかった。
「軽度の人格摩耗です。前線での過度な感情出力による、一時的な感情野の焼損。よくあるケースですので、経過観察へ回します」
明日の天気予報でも告げるかのような、あまりにも日常的な口調。誰も驚かない。誰も同情しない。
兵士だけが、涙すら流せない空っぽな目で、写真に写る子供と妻の笑顔を、怯えながら指で撫で続けていた。大切なはずの記憶の輪郭が、綺麗に消し去られていることにも気づかないまま。
「……感情を使うって」
依里が蚊の鳴くような、小さな声で呟いた。
「心を燃やすって……こういうこと、なんですか」
誰も、その問いには答えなかった。
いつの間にか背後に立っていた白峰澄花が、静かな足音でベッドへ近づき、兵士の肩へそっと毛布を掛け直した。
「大丈夫です。あなたは世界を救った。何も心配いりません」
優しい声。完璧な、慈愛に満ちた手つき。
けれど。
その兵士の顔を見つめた瞬間だけ、白峰澄花の瞳からすべての光彩が消え失せた。
そこにあるのは、底の抜けた井戸のような、完全な暗黒。空っぽの、死人の眼球だった。
背筋の血液がすべて凍りつくのを感じていた。
世界が怖いんじゃない。使徒が怖いんじゃない。
依里もいつかこうなる。大切な思い出をすべて燃やし尽くして、俺の顔すら忘れて、あの白峰澄花のような「英雄の形をした人形」になっていく。
その最悪な未来の映像だけが、網膜の裏側に張り付いて離れなかった。
◇
施設を出た帰り道。
拒絶するように、あるいはしがみつくように、二人はまた、いつものコンビニの前に立っていた。
白々とした蛍光灯の光。へたりきった揚げ物の匂い。自動ドアが開くたびに鳴る、間延びしたチャイムの音。
いつも通りの、退屈で無価値な夜。
……のはずだった。
依里は店内のプリン棚の前で、幽霊のように立ち尽くしていた。
カゴも持たず、ただじっと、昨日彼女が「企業の思う壺」と言って笑っていた新商品の山を見つめている。
真横から、その顔を覗き込んだ。
「……何ボサッと見てんだよ。買うなら早くしろ」
「え……?」
依里は数秒遅れて、ようやく私の声が鼓膜に届いたかのように、はっとした顔で振り返った。
「あ……ごめん、透」
彼女は無理に笑顔を作ろうとしたが、その口元は小さく震えていた。棚の強い白い光が、彼女の顔の凹凸を、残酷なほど鮮明に白く照らし出す。
「なんかさ……」
依里は自分の頭を軽く手で押さえながら、消え入りそうな声で言った。
「なんか、今日……さっきからずっと、頭の奥が、信じられないくらい熱いんだよね」
その言葉だけが。
冷房の効きすぎた冷たい店内で、ひどく重く、いつまでも、いつまでも耳の奥に、不吉な残響となって残り続けていた。